神次元ゲイムネプテューヌV 白き災厄の翼   作:草原銀子

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  第四話 ゲオルギウス (1)

 ゲオルギウスは走っていた。

 彼にとって、ここは敵地の真っ只中。

 市街地の只中を走り抜け、驚いて悲鳴を上げる市民の横をすり抜け、前に立ちはだかる邪魔者があれば力任せに跳ね除け、脇目も振り返ることなくただひたすら前だけを進んだ。

 幾人かの――残り僅かとなった部下を引き連れて。

 人数がかなり減っている。もう片手で数えられるくらいしかいない。

 ここまで来る道中で捕まってしまったのだろう。途中で力尽きたか、もしくは敵を足止めするために、自分たちが拠点として勝手に拝借していた廃墟に未だ留まってくれているのかもしれない。

 ちくり、と胸の奥からわずかなれど、灼熱の痛みが湧き上がった。全身に刻まれた古傷がありもしない痛覚を訴えてくるようにすら思えてくる。

(我輩のような矮小な男なぞのために忠誠を誓ってくれた、忠実なる部下たちだ。けれども、我輩はそんな彼らの忠義に背き、囚われの部下を見捨てて逃げ出そうとしている。我輩は途方もなく恥ずべき男だ)

 残された同胞のことを思うと、足取りが重くなっていくのを感じた。

 いや、違う。何かの例えでも比喩でもなく。

 どうしようもなく身体が重い。

 覚束ない視界。何処かへと遠のきかける意識。急速に近づいてくる地表。

 ぐらりと前のめりになる身体――

「ボス! あ、危ねぇっ!!」

 誰かの声で意識が呼び戻される。

 気づけば、両肩を部下に支えられていた。

 どうやら自分は一瞬、気を失いかけていたらしい。

「やはり力を無理してお使いになったから……」

「大丈夫だ。我輩のことは気にするな」

 強いて、部下の手を払いのける。

 こんなところで立ち止まっていては、追っ手に捕まってしまう。

 一刻も早くここから脱出しなければならない。

(未だに……ヴァジュラは我輩に馴染む素振りを見せぬ、か)

 内心でゲオルギウスは舌打ちをした。

”遺失物”(ロストメモリー)――

 強大な力を操る対価として、使用者の肉体に深刻な負担をもたらしている。

 いわば諸刃の剣。

 武器の力を引き出せば引き出すほど、それは彼の身体を戒め、内臓をひどく傷つけている。

 加えて、自分は手負いの身。それが彼の負担を加速させていた。

(少し……血を流しすぎたようだな)

 何処かに潜伏していた狙撃主に右手を撃ち抜かれた傷が響いている。致命傷にこそ至らなかったものの、貧血で意識の糸が今にも切れてしまいそうだ。

 敵の前で羞恥を晒すような事態だけは、気合だけでなんとかなったようだが……それもここまでのようだ。

 むしろここまで持ち堪えていたことすら奇跡に等しい。

 だが、ここで立ち止まるわけには行かない。

 

”プラネテューヌが軍事力を有している。表面上では平和を謳っているが、その穏やかな仮面の裏で密かに軍備を増強している。

 今でこそ風が吹けば吹き飛んでしまうような弱小国であるが、いずれは北の大国ルウィーと並ぶ国家に成り上がる可能性も十分に考えられる。第二のルウィーが出来上がってからではもう手遅れだ。出る杭は早めに打たなければならない”

 

 自分の口からそう促すだけで、静観を決め込む女神規制団体や、穏健派を決め込もうとする団体を説得出来る材料になるはずだ。ゲオルギウスの発言にはそのくらいの影響力がある。彼自身がそれをよく理解していたし、自分の名前と立ち位置が同業者に広く浸透していることも分かっていた。あわよくば”紅の十字架”と手を結んでくれる可能性だってある。

 そう考えてみれば、その情報を持ち帰っただけでも、自分たちが身体を張った甲斐が報われるというものだ。

 さすれば、プラネテューヌに捕らえられた同胞たちの無念も少しは浮かばれるであろう。いずれ時がくれば、プラネテューヌから彼らを助け出せるだけの力が手に入るかもしれない。

 そんな可能性を少しでも多く実現するためにも、自分たちは急ぎ足でこの忌まわしき女神の国から脱出しなければならない。

 その為ならばどんな(そし)りや恥辱を背負おうとも、目的の成就の前にはたいした障害足りえない。

 この身体が傷だらけになろうとも、その果てに朽ちようとも、ただ力尽きるまで走り続けるだけである。

 そうして自分は、幾度目の傷を肉体に刻み続けてきたのだろうか。

 分からない。

 己の身体につけられた傷が何個あるのか、その数さえ本人には定かではない。

 何故なら、自分の身体に99個目の傷がつけられてからというものの、男は数えることをとうに諦めてしまったからだ。

 以降は、幾つ傷つけられたかは、もう分からなかった。

 けれども、最初に傷ついた日のことはよく覚えている。

 全身の古傷が悲鳴を上げるたびに、男の脳裏に過去の情景が思い浮かんでいくからだ。

 それは昨日のことのように、鮮明に思い出せた。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 それはゲオルギウスという男が物心ついたときのこと。ひとりの男が始まろうとしたその瞬間。

 彼は突如として傷つけられた。

 自分の父親に頬を殴られたのだ。

 ゲオルギウス少年は、大粒の涙を流しながら泣き喚いた。

 だけど、不思議なことに、痛い――とは思わなかった。

 その感情を理解できなかった、というのが正しいのかもしれない。それがどういう意味を持つのかを分からなかったのだ。初めての暴力に、ただただ混乱ばかりが深まるだけだった。

 何故、父に殴られたのか。

 その理由はよく覚えていない。

 特に意味のない、ただの八つ当たりだったのかもしれない。日ごろのストレスを発散するために、たまたま近くにいた自分が選ばれただけのことかもしれない。

 もしかしたら理由なんてものは、最初からなかったように思える。

 そんなものは、まだ自我が芽生え始めたばかりの彼にとっては皆目見当のつかないことであった。

 

 それがゲオルギウスの始まりであった。

 

 彼の両親は共働きだった。

 母親は製糸工場で働いており、自宅に帰ってきてからも、疲労が溜まっているだろうに文句一つ言わずにせっせと家事もこなしていた。

 父親は清掃工場で働く、ごく普通の労働者だった。どこにでもいるような平社員で、どこにでもいるようなみすぼらしい身なりをした男で――どこにでもいるような手のつけられない飲んだくれであった。

 毎日のように酒場に入り浸り、貴重なお金を湯水のように浪費していた。有り体に言うならばアルコール中毒者であった。酔い癖が悪く、ただでさえ貧窮していた家庭の経済状況を顧みることなく、父親は好き放題に暴れまわった。

 まるで暴君であった。

 身を粉にして必死に家庭を支えようとしていた母親を殴り飛ばし――当然、実の息子であるゲオルギウスもその対象だった。

 殴る。

 殴りつける。

 容赦なく殴り飛ばす。

 意味不明な戯言をぶつぶつとつぶやきながら、彼らに対してそのような暴力を振舞い続ける。

 

”お前は豚だ! 豚なんだ! 一人じゃ何も出来ない豚だ! 誰がてめえらの食い扶持を稼いできたと思ってやがる!”

 

 父親の言葉は今でもゲオルギウスの中で響き続けていた。

 それは呪いのように、身体の奥底へと刻み付けられている。

 憂さ晴らしとばかりに、仕事で溜まったストレスや、嫌な上司の顔を頭に思い浮かべてひたすら殴る。

 鬱憤や解消できない不満を拳に乗せて、ただただ本能が命ずるままに殴りつけた。

 母親は抵抗しなかった。曖昧な笑みを浮かべながら暴君からお許しが戴けるのを成す術もなく待ち続けている。

 ――こんなのは断じて間違っている。

 ゲオルギウスは思った。

 許せなかった。納得できなかった。不甲斐なかった。

 だけど子供の自分には父親に逆らえるだけの力もなくて、より強い暴力の前にあっさりとねじ伏せられて、家畜のように飼い主の言いなりになるしかなかった。

 誰も父親を止めることが出来るものなどいなかった。

 あるとき、母親が高熱を出して倒れてしまった。病気に罹ってしまったのだ。

 流行り病だそうである。

 すぐに医者に診てもらったが、町に三人しかいない医者はみな匙を投げてしまった。その内二人は闇医者だった。

 本物の医者は苦しげな顔で告げた。自分の力不足を気に病んでいるような顔だった。

”歩いて半日ほどの場所に大国ルウィーがある。そこへ行けば薬をもらえるかもしれない”

 その話にゲオルギウスは希望を持った。母親を治せるかもしれない。そんな期待に目を輝かせながら家を飛び出していった。

 だが、そんな少年の哀れな希望はルウィーの門前で打ち砕かれることになった。

 非国民――

 その一言で入国を拒否された。ほとんど門前払いのようなひどい扱いを受けた。

 ルウィーを統治する女神ホワイトハートの信仰者でなければ中に入ることは許されないと。

 そして、その頃から、ルウィーは長期に渡る鎖国状態が続いていた。門を堅く閉ざして、外部との関わりを絶っていたのである。

 国の存続を図るために外部の介入を断ち切り、内政だけで大国の意地を見せつけようとしていたのだ。

 もちろんそんなものをゲオルギウスは知らない。そういった政治的事情を彼が知ったのは後になってからだった。

 つまり、ルウィーの外側に暮らしている自分たちはホワイトハートの信者ではないということ。ルウィーに入国する権利と資格を持たない非国民だということ。女神の加護を受けられぬということ。

 無宗教者には人権などない。ルウィーが誇る門番はそう言っていた。

 当然、ゲオルギウスは引き下がらなかった。ここで追い返されてしまっては、ここまでの苦労が水の泡となる。こうしている間にも、母の身体を蝕まんとする病魔の手がじわじわと迫りつつある。

 あまり時間は残されていなかった。

「お願いです! 母が危篤なんです! その為に薬が必要なんです! どうかっ、どうか御慈悲を!」

 みっともなく地に顔をこすりつけ、汚泥をすすってみせた。必死だった。薬をもらえれば自分がどうなろうと構わなかった。

 しばらくして、騒ぎを聞きつけた高官がやってきた。そいつはルウィーの大臣が抱え込む側近の一人――柳生十人衆の一人であった。当時の彼にはそんなもの知る由もなかったのだが。

 そいつは力のある者が浮かべる特有の笑みを貼り付けていた。

 自分よりも下にいる者を見下すことで快感を得るタイプ。権力を振りかざすことで己の存在を誇示せしめんとする卑しい男。自己顕示欲を満たすことで、自分の力に酔い痴れる人間のクズ。

 ゲオルギウスは見ただけでこの男がそれに当てはまるタイプだと見抜いた。

 自分の父親と同じ雰囲気が漂っていたからだ。

”穢らわしい非国民め! お前のような身分の人間が女神ホワイトハート様からの寵愛を受けようなどと片腹痛いわ! ルウィーの大地を踏むことすらおこがましい! 罰を受けよ、異教徒!”

 そうして全身をムチで打ちのめされて、男の気が済むまで散々笑いものにされたあげく、郊外に捨てられた。

 鉛のように重くなった身体を引きずりながら、やっとのことで家に帰りついたとき。

 そこにはすっかり冷たくなった母親と、酒樽をかっくらう父親の姿があった。

”今までどこに行ってやがったんだ! いいからこいつを外に埋めにいけ!”

 母の葬儀はゲオルギウスが一人で行った。父親は酒を飲むことに夢中で手伝いもしなかった。

 赤錆びたスコップで土を掘りながら、ゲオルギウスは人生の不条理さを呪った。

 ――こんなのは断じて間違っている。

 どうしてこの世の中はこうも不平等なのだろう。この世は弱肉強食。強いものが弱いものを食らう。善人だろうと悪人だろうと関係ない。ただ、力がある者だけが世を征する。小ずるい者ほど豊かに生きることが出来る。

 やがて人一人分が入れる穴が出来上がった。ゲオルギウスはそこに母親を入れてやった。

 母親の冷たくなった手を握ったとき、自分の無力さを痛感した。

 自分は弱い。この世界で途方もなく弱者だ。何の力もない。父親に刃向かうだけの力すらない。

 母親のために立派な墓石を建ててやれるだけのお金もない。これほど報われない思いはあるだろうか。

 己の不甲斐なさに涙がこぼれてきた。母親の身体にすがりつきながら声を押し殺した。

 否――断じて否! あってはならないのだ! こんな思いをしてはならないのだ!

 そのときだった。

 ゲオルギウスというちっぽけな少年に人生の転機が訪れたのは。

 

「――そうだ。この世の中は間違っている」

 

 ふいに背中から渋みのある声がかけられた。

 振り返ると、そこには黒いローブのようなモノを羽織った老人がいた。

 立派にたくわえられた顎髭と、未だに衰えを感じさせない頭髪がローブの隙間から覗いている。

 その表情はフードの陰に隠れていて、よく分からなかった。

 ゲオルギウスはおおいに驚いた。

 いつの間に後ろに立たれていたのだろう。まるでいきなり背後から沸き上がって来たかのようにその存在を感じ取ることが出来なかった。

「お前は誰だ?」

 ゲオルギウスの問いに、老紳士は答えなかった。

 代わりに、こんなことを言った。

「君のことはよく知っているよ。ミスター・ゲオルギウス」

「なんだと?」

 ゲオルギウスは面食らった。まだ名乗ってすらいないというのに。この得体の知れない男は、自分の名前を当ててみせた。

 自然、警戒の色も深まっていく。

 この老人は明らかに怪しい。

「老人……お前は何者だ?」

 二度目の問いかけにも、ゲオルギウスは答えなかった。

「君はこの世の中をどう思う?」 

 またしても――唐突に切り出してきた。

「どう……?」

「腐敗し、堕落しきった世の中に、疑問を抱いたことはないのかね?」

「……」

 疑問――

 そんなものは言うまでもない。

 この世界はおかしな異常を抱えている。

 ゲオルギウスは何度もそれを目の当たりにしてきた。

 今まで強大な力の前に、膝を折って屈するしかなかった日常に疑問を抱かないはずがない。

 どうしてそんな横暴が許されるのかと。どうしてそんな好き放題に他人を食い散らかしているのかと。

(何故、母さんが死ななくてはならない? 母さんは死ななければならない程、悪いことをしたとでもいうのか? 母さんは悪くない。何も悪くない。むしろ、悪いことばかりしていたあの父親(クズ)が何故今でものうのうと生きていられる?)

 明らかな異変。明らかな異常。

 誰の目にも明らかな矛盾した世界。

 悪が我が物顔で堂々と幅を利かせている現状を黙って見過ごせるだろうか。

 なのに、何故誰もそれを咎めないのか。何故誰もそれを裁かないのか。何故悪は存在を許されているのか。

(この世界に……神はいないのか?)

 否――そんなものなどいやしない。

 この世のどこを探しても見つかりはしない。

 そんな都合の良い存在など最初からいる訳がないのだ。

 それは人々が生み出した偶像。弱い心が創り上げた妄想の産物に過ぎない。

 もしそんなものがいるとすれば、そいつはどうあっても弱者(じぶん)を滅ぼしたいらしい。

(神は誰も救いやしない)

 生死の瀬戸際に立たされていた母親を、女神の国(ルウィー)は助けようともしなかった。鼻で笑いながらあっさりと放り投げた。

(認めない。認めないぞ。そんなものを神などと認めやしない)

 ギリ――とゲオルギウスは唇を噛みしめていた。血が出ていることすら気づかない。

 困っている人間を助けずして何が女神か。

 何が神か。

 何のための国家か。

 ふざけてる。もうたくさんだ。絶望はとうに見飽きた。そんなもの、もうこりごりだ。

 こんな世界、消えてなくなってしまえばいい!

「それが君の願いか」

 そのとき、沈黙を保っていた老人が、不意をつくように口を開いたのは。

「ならば救世主になればいい。君の手でこの世界を作り直せ。望むままの世界を造り上げるといい」

 耳を疑った。

 老人の発した、魔的な響きに。

「今、なんと言った?」

 思わず聞き返していた。自分でも自覚しない内に、老人の言葉に引き込まれていたからかもしれない。

 その反応に満足したのか、老人がくつくつと笑った。口元に刻まれた皺をたっぷりと歪めながら。

「この世界を導けと言ったのだ。君が正しいと思う世界に」

「……どうやって?」

「君が望むならば、私が力を授けよう」

「……なに?」

 そんなもの出来っこない。およそ現実的な要素が何一つとしてない。

 だが、ゲオルギウスには老人の言葉がただの妄言だと切り捨てることが出来なかった。他愛のない夢幻(ゆめまぼろし)だと一蹴(いっしゅう)できなかった。

 特に確証が合ったわけではない。

 この不審人物を信用したわけでもない。

 けれどもこの老人ならば、ソレを現実のモノとして実現させてしまうような何かを、言葉の随所から感じられたのだ。

「これが君を変える力だ」

 老人がローブの懐から何かを取り出した。

 あまりの異様に、思わず眼を疑った。どこからそんなモノを取り出したのだろう。

 そいつは鎧のような形をしていた。

 白銀に輝く鎧武者――その甲冑が現れた。

 一見、どこからどう見ても何の変哲もない鎧に見える。だが、ゲオルギウスは釘付けとなっていた。

 強大な力がそこに脈打っているのを感じたのだ。

 この世のモノとは思えない、何かの息づかいのような――生温かい吐息を身近で聞いた気がした。

 素人目にもはっきりと分かる。これがタダの鎧なんかではないということを。

 老人が言った。

”遺失物”(ロストメモリー)……。君もその話を小耳に挟んだことはあるだろう?」

「……」

 噂程度には聞いたことがあった。

 それは女神メモリーとは対をなす力。

 再生とは対極にある破滅の力。

 なんでも、気が遠くなるような昔に世界を滅ぼしたことがあるのだとか。

 いずれも真偽の程は定かでない。単なる与太話である。

 それでも最早、認めざるを得なかった。

 こいつは本物だ。

 世界を丸ごと変えてしまうような力だということを。

 だが、それでも彼は用心深かった。

 確認するように、おそるおそる口を開いていた。

「……条件は何だ?」

 そんな怪しげな代物を、何故自分なんかにほいほいと渡すのか。

 何か必ず裏があるはずだ。これを自分に渡すことで、何らかの利益を得ようとしている。

 しかし、そんな彼の葛藤や思惑とは裏腹に、

「そんなものはない」

 老人は躊躇いも逡巡も見せることなく答えた。

 その言葉で、ゲオルギウスは確信した。

 間違いない。

 

(こいつは悪魔だ――)

 

 彼はそこで、とあるおとぎ話を思い出していた。

 悪魔に魂を売り渡すことで、願いを叶えた男の話を。

 それは昔、母親に寝枕で聞かされた物語。

 上手い話には、必ずといってもいいほど裏がある。

 そこに何らかの見返りがなければ、そいつは決まっている。

 悪魔に魂を売り渡すことに他ならない。

 だけど、そんなモノはどうでもよかった。

 ――力が欲しい。

 心からそれを欲していた。

 自分に力を与えてくれるならば、そいつが何者であろうと関係なかった。

 この残酷で醜い世界に復讐出来るだけの力が手に入るのならば、何でもよかった。

 たとえこの老人が神か悪魔の類であろうとも。

(お前は豚だ! 豚なんだ! 一人じゃ何も出来ない豚だ!)

 脳裏に響き渡るのは父親の汚い罵り文句。

 ゲオルギウスという少年を縛り続けた呪いの言葉。

 だけど、もうそんなモノで怯える彼ではない。

(否――断じて否だ! 我々は豚ではない! 豚でもなければ飼いならされた羊でもない!)

 何処からするりと滑り落ちるようにその思いが湧きあがった。何か憑き物が落ちたように身体が軽くなるのを感じた。

「……人間だ。人間なのだ」

 そうだ。

 自分はこれが言いたかったのだ。声高に叫びたかった。

 あの飲んだくれで、すぐ暴力を振るう父親にこう言い返してやりたかった。母親を殴ろうとするその心ない手を止めてやりたかった。

 ただ、それだけなのだ。

 今まではそれが言えなかった。そんな簡単なことすら言葉に出来なかった。口を開いて発言するだけのことがひどく億劫だった。

 みっともなく、暴力に身を委ね、無抵抗に甘んじるしかなかった。

 だけど、今の彼にはそれが出来る。

 それを成し遂げるだけの「力」がこの手中にある。

「自分は……いや――我輩は人間だ! 我輩は人間なのだ!」

 気づけば、ぼろぼろと熱いものが頬を伝っていた。

 自分の意図を超えた先に流れ出たモノ。 

 そう。彼は涙を流していた。生まれたての赤子のように泣き喚いた。

 無力でちっぽけだった自分はもうどこにもいない。力ない少年はもう死んだ。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 ひとしきり泣いて、泣き喚いて、心を落ち着けてから。

 彼は最後に一つだけ問うた。

「お前は何者だ?」

 老人は答えた。

「ミカエル――世界を混沌に導く者だ」

 老人の嗤い声が、寂れた墓地に響き渡る。

 どこか病的で、聞く者を陰鬱にさせるような響き。

 フードの向こうに隠れた表情がどんなものであるか――ゲオルギウスには(よう)として知れなかった。




長くなりましたが、あと一話くらいで片付きます。
今週までには終わらせたいなあ。

・・・・・・ところで話は90度変わりますが、私個人としましては、汗臭いおっさんの話よりも、そろそろ可愛い女の子の百合を書きたいところ!
ノワールとネプ子でレズ書きたい!
そのためにも早く更新しなきゃ!(切実
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