それは英雄の力だと、老人は言った。
「君にはたくさんの人を惹きつけるだけの魅力がある。それは街灯に蛾が引き寄せられるように、君という高貴な街灯に惹かれ、様々な人間が集うだろう。そんな君だからこそ、この力は相応しい。この力を操るにたる資格がある」
そう言って、老人が差し出したのは白銀の鎧だった。
ゲオルギウスは恐る恐るそれを受け取った――そのときだった。またしてもあの得体の知れない感覚が訪れたのは。
それは始めてこの武器を目にしたときの奇妙な違和感である。背筋を冷たい手で撫でられたような不快感。見つめれば見つめる程、こちらの心の奥深くを覗き込まれているような感覚を身近に感じる。
さっき感じたアレは、やはり気のせいなどではなかったのだ。
「そいつの名は――ヴァジュラ。仙人の骨を切り出して造られたという伝説の宝具を象っている。帝釈天が悪しき竜を鎮めるために使ったと言われている由緒正しき武器さ。これが何を意味するか、分かるかな? 正義が悪を滅する。まさに徴悪観念を体現しているのさ。この武器は君にこそふさわしい」
「何故だ……何故なのだ?」
ゲオルギウスは分からなかった。何が分からないのか、自分でも分からなかった。
だが、その問いに答える声があった。
「時代はいつも英雄を必要としている。そう――君のような者がね」
老人が言った。これから起こりうる未来を見透かしているかのように淀みなかった。
「……英雄?」
誰が、とはあえて聞かなかった。
「君は弱い。だが、それは特段恥じるべきことではない。己の弱さを理解しているということは素晴らしいことだ。何故なら、君は虐げられる者の苦痛を知っている。汚泥に顔を擦りつけながら、強者の前で屈辱と恥辱を噛みしめてきた君ならば分かっているだろう。そんな君が弱者の代表として立ち上がればこそ、群衆の心を衝き動かすことが出来るだろう。民衆は君の掲げる理想や大志に感化され、やがては大勢の人間が君を賞賛の喝采を贈るだろう。これはそのための力だ。これはそのための遺失物だ。これはそのためのヴァジュラなのだ」
夢のような話であった。
老人の口から紡ぎだされる口上の数々は、どれも現実から遠くかけ離れた絵空事ばかり。
果たして、そんなことが本当に有り得るのだろうか。この自分がそんな資格を持ち合わせているのだろうか。
とても想像できない。
けれど、夢想せずにはいられなかった。もしそれが可能になるのだとすれば、そのときはこの身を粉にしてでも這い上がってみせるだろう。
ただし、と老人は言った。
「絶大な力を得るには代償がいる。今の内に試しておくことだ」
そうして老人は、ゲオルギウスの背後を指差した。
ハっとなった。
振り返るまでもなくそこに何があるか分かった。老人が指差した方向には自分の家がある。
おそらく父親がいる。仕事にも行かず、呑気に酒を飲んでいるのだろう。母親が死んだことすら忘れてアルコールに入り浸っているはずだ。
「何を迷う必要がある? 君の進むべき道はすぐそこにあるじゃないか」
老人のしわだらけの唇が意味深に歪められた。まったく得体の知れない笑みであった。そこから覗く歯が、闇の奥でひっそりと息を殺している獣を連想させた。
それは老人が始めて見せた、およそ表情と呼べるものであったことに気づいた。
「……」
そこで、自分の体が震えていることに初めて気づいた。怖いと思った。今すぐここから逃げ出したいと思うほどの恐怖を感じていた。
試す――
自分がこれから何を試すのか。その言葉が意味するものを理解した。そしてその言葉通りにした結果、残されるものを想像すると背筋が震え上がった。
しかし、ゲオルギウスは強いて拳を握りしめた。
手に入れたばかりのこの力を試す必要がある。
ここで逃げるのは簡単だ。だけど、逃げては何も変えることは出来ない。
ゆっくりと家がある場所を振り返る。
決意を込めた眼差しで、じっと睨み据えた。
「そうだ。試さなければ。……吾輩は試さなければならない」
そう呟きながら、ゲオルギウスは歩き出した。
◆ ◆ ◆
「おい」
未だに酒を頭からかっ食らう父親に、ゲオルギウスが声をかけた。
反応はなかった。酒を飲むことに夢中になるあまり、息子の声に気づいていない。
(こいつは自分さえよければ他人はどうでもいいのか。我輩はおろか、母が死んだ日でさえ、こいつの頭の中には酒を呑むことしか頭にないのか)
そう思ったとき、全身の傷が身を焦がすような灼熱の疼きを上げた。
それは傷の記憶――星の数に劣るとも勝らない虐待の数々。屈辱に膝を折り続けていた日常。暴君のように悪逆非道の限りを尽くす父親の顔。
怒りが湧いた。胸の奥底からドロドロのマグマが噴火寸前までこみ上げてきそうになる。
「酒を飲むのをやめんか!」
怒鳴りながら、ゲオルギウスが酒瓶を蹴り倒した。
瓶の割れる音で、父親は酒を飲む手を止め、ようやく顔を上げた。
「あ?」
今初めてゲオルギウスがそこにいると気づいたようだった。極度の酔いのせいか、だらしなくたるんだ三白眼は小魚のようにあちらこちらへ泳ぎ回って焦点が合いそうにない。
「おまえ、父親に向かってその口の聞き方はなんだ。えぇ?」
案の定、上手く呂律が回っていない。
おそらくまともな会話を交わせられないだろう。
だけど聞く機会は今しかない。
もう時間は残されていないのだから。
「親父……母の葬儀終わったぞ」
「そうかよ。ご苦労だったな」
父親はそっぽを向くと、床に転がっている新たな酒瓶をつまみ、貪るように口をつけた。ついさっきまで共に過ごしていた人間のことよりも、お酒の方が大事だとでもいうふうに。
「なぁ、親父は何とも思わないのか?」
「あぁん? 急に何を言いやがる」
「母が死んで、親父は何とも思わなかったのかと訊いているのだ」
「つまらねぇ事を聞きやがるクソガキだな、お前は」
「いいから答えろ」
ゲオルギウスの刺々しい声に、父親はふっと息を吐いた。口の中の固形物を吐き出すかのように。
「いい女だったよ」
そう言ってから、父親はげらげらと汚い笑い声を上げた。
瞬間、ゲオルギウスは凍りついた。父親の浮かべた表情に言葉を失った。
「胸の大きさ以外にはクソほどの価値もないゴミだったがな」
衝撃のあまり、立ち尽くした。次に語るべき言葉を無くしてしまった。彼の生涯において、これほど醜いモノを見た覚えはなかった。
知りたくなかった。聞かなければよかった。こんな醜悪なモノが真実だというのなら。
たとえ年月と共に風化していくのだとしても、結婚したからにはそれまでに何かお互い惹か合うものがあったのだとばかり思っていた。今の父と母を見る限り、そんなものはとても想像は出来なかったが。
「……っ」
ゲオルギウスは俯いた。
母はこんなろくでなしの男と知り合ったばかりに、その人生を台無しにされた。こいつにとって家族とは使い捨ての道具に過ぎない。もし病に倒れたのがは母でなく自分だったとしてもこいつにとっては同じことだっただろう。先に壊れたのが母か息子か。その程度の違いでしかない。
使い回されて用済みになったらそれでもう終わりなのだ。
そこに愛は存在しなかったのだ。
「そんなどうでもいいことを聞くヒマがあるなら酒だ! いいから酒を買ってこい!」
「……」
「おいっ、黙ってないでさっさと動かねぇか!」
そのとき、父親はゲオルギウスの服の袖から覗く、銀色に光る何かに気づいた。
「何だぁ、それは?」
怪訝そうに眉をひそめながら顔を近づけてくる。
まったく無用心であった。自分が愚かにも無防備に急所を近づけていることすら気づかずに――太い首ねっこをがっちりと掴み上げられていた。
「ぐぇっ、な、何を……っ!?」
とんでもない腕力でひっつかまれているせいか、まともに身動きすら出来ないようだ。おそらく何が起こったのかすら理解が追いついていないだろう。
「お前は試されていた。吾輩がお前を試したのだ」
冷然とした声音でゲオルギウスは告げた。
ひどく滑稽な眺めだった。あれだけゲオルギウスに一方的な暴力を振るっていた父親が自分の手で踊っている。奇妙な死の踊りを。
カエルのようにやかましく痙攣しながら、必死で宙に手足をばたつかせ、酸素を求めて息苦しさのあまり青白くなっている。
ゲオルギウスの暴君として君臨し続けていた父親の有様ときたら、その面影はもう見る影もない。
容易い。実に容易い。
父親の不意を衝いたとはいえ、自分一人の腕力だけで、大の大人ひとりを腕一本で篭絡せしめることができただろうか。
まるで赤子をひねり潰すかのように、予想された抵抗がまるでない。
否――あの奇妙な老人から渡された『
ゲオルギウスは身体の奥底から力が流れ込んでくるのを感じていた。全てはこの白銀の鎧のおかげであった。
(吾輩はこんなものに怯えていたのか。こんなちっぽけな男に屈していたのか)
自分たちこそ滑稽だと思った。
強大な力を前に立ち上がることすらせず、なんの力もない弱者として甘んじていたせいで、こんな下らない男ひとりをどうすることもできなかったのか。そう思うと実に腹立たしかった。
そして、こいつの命はこの手に握られている。
もう迷いはなかった。
ゲオルギウスはありったけの力を腕に込めて、
「さらばだ、豚野郎!」
思い切り握りつぶした。
◆ ◆ ◆
「素晴らしい。実に素晴らしい」
ぱちぱちと小気味のいい拍手の音が背中から響いてくる。
ゲオルギウスが振り返ると、そこには先ほどの老人が立っていた。
「……あんたか」
「いやいや、実に良い見世物を見せてもらったよ。良い意味で裏切られた気分だよ。まさか君がここまで踏み切るとは思ってもいなかったからね」
老人の好奇に満ちた視線がついっと下に向いた。そこには首を潰された父親が変わり果てた姿で転がっていた。無様にも、自らが流した赤い河で溺れ死んでいる。
「これは見世物でもなければ、貴様を喜ばせようとした訳でもない。吾輩が自分で選択したことだ。飼い慣らされた家畜ではなく、人間であると証明するためのな」
「ほう。さしずめ君は父親を試しながら、同時に自分自身さえも試していていたというわけだな。弱者が強者に打ち勝てるのだと証明するために。そして君は試練の果てに、真の強者となることが出来たというわけだ」
「ああ、たしかにその通りだ。肩の荷が驚く程軽い。生まれたときから、我輩を縛り続けていた戒めから解き放たれた気分だ。こんな晴れ晴れとした気分は生まれて初めてかもしれない」
「それは僥倖。やはり私の目に狂いはなかったようだ」
滔々と語る老人に、ゲオルギウスは違和感を覚えずにはいられない。
相変わらず気配を感じられない老人だった。ずっと凝視していてもその姿がぼやけて見えるというか――どうにも焦点が合わない気がする。
この老人が本当にそこに実在するか疑わしく、こうして会話を交わしていても幻覚か何かに惑わされているような錯覚さえ感じていた。
そもそもこの老人との出会い自体が、夢の中のようであった。
ゲオルギウスは身構えた。
「まさかと思うが……今更、これを返せとでも言いにきたのか?」
「おっと。そんな無粋な事をしに来たわけではないよ。君に貸し与えた以上、それの所有権は君にある」
「では、何の用だ」
「私は、見届けにきたのだ」
老人の意味深な響きに、ゲオルギウスは目を細めた。
「何をだ?」
見届けるというのなら、それはつい今しがた終わりを告げたばかりであろう。子が親を殺すというこの世で最大の不孝を垣間見たはずである。この期に及んで、何を見届けるというのか。
「誰が終わりだと言った。試練はまだまだ続いているのだよ」
そのときだった。老人の言葉が引き金となったかのように、ゲオルギウスの身体に鋭い激痛が走った。
「――――ぅっ!!」
想像を絶する痛みのあまり、気づけば床に倒れ込んでいた。
血が――体中の血液という血液が沸騰している。まるで血管の中を虫が這いずり回っているかのような痛みである。
かと思うと、喉の奥に異物感が生じた。固形物のようなモノが急速に体内を迫り上がってきて、ゲオルギウスは血液の塊を盛大にぶちまけた。
「何だ……これは?」
信じられぬ裏切りにあったかのように、血まみれになった己の手をゲオルギウスは凝視している。
「大陸の仙人は、悟りを開くために自分の身体をひたすら苛め抜いて、その苦行の果てに真実を見出した。自分の身体を極限状態にあえて追いやることで、限界の先に到達しようとしたそうだ」
老人がくつくつと嗤い声を上げた。
この世のどんな闇よりも深く、色濃い影をたっぷりと刻ませながら。
「貴様……一体、何を仕掛けた?」
「私は何もしていないさ。それは一種の拒絶反応みたいなものだな」
「拒絶……だと?」
老人は「そうだ」と頷いた。
「たしかにロストメモリーは使えば何者にも引けを取らない。それを手にすればたちまち絶大な力が手に入るだろう。ただし――才能無き者がロストメモリーに触れれば、拒絶反応が起こる。尋常ではない激痛が呼び起こされ、使い手の身体を苛む。最悪の場合――死に至るだろう」
「何だと……!?」
驚愕に顔を強ばらせるゲオルギウスを見て、老人は溜息をついた。まるで聞き分けのない子供を教えきかせるように。
「だから、私は試せと言っただろう。私にもこれを使い続けて、どうなるのか確信を持てなかった。歴史家や考古学者の間で研究が進められているが、どういう原理でそれが起こるかは残念ながら明らかにされていない。
「……ッ、何故それを早く言わない! 副作用の存在があることを一言教えてくれなかったのだ!」
「おやおや、もう弱音を垂れるのか? 君は英雄になりたかったのではないか。世界を変える力を手にしたかったのではないか? そこに才能があろうとなかろうと瑣末な問題だ。そして、その力を提供したのはこの私だ」
ゲオルギウスは歯噛みした。
(たしかにその通りだ。この程度でへこたれているようでは世界を掴むなど、到底叶わぬ)
この人を喰ったような薄笑いを浮かべる老人と出会わなければ、凡人の自分ではロストメモリーを手にする機会もなかっただろう。おそらく力ある者の暴力に屈し続ける無間地獄のような毎日から、抜け出すことすら出来なかった。
悔しいが、それが現実だった。
「君はこれからも試され続けるのだろう。その武器を飼い慣らすが先か――はたまた飼い殺されるのが先か。願わくば、終わりなき痛みの先にある領域へと、辿り着かんことを祈っている」
闇の奥底から響くような甲高い笑い声を上げてしばらく、老人の笑い声がいきなり消えた。
ゲオルギウスは我が目を疑った。
いつしか老人の姿は忽然と消えていた。そこにあるのかどうかすら怪しかったが……それまで現実感の薄かった姿がなんの前触れもなく、ぷっつりと消えた。まるで蜃気楼のように老人の存在が跡形もなく消失していたのだ。
「……」
だが、全てが夢だったなど誰が断定出来ようか。
ゲオルギウスを覆うこの白銀の鎧と、目の前で腐るのを待つ男の死体。
そして、全身を射抜くようなこの痛覚は紛れもない現実であると告げていた。長年、痛みと隣人のように寄り添っていた彼だからこそ否応なしに分からされた。
この痛みこそ紛れもなく現実で、誰よりも信頼できる保証人だということを彼は知っていたのだから。
ゲオルギウスは立ち上がった。ふらつく膝を途切れそうな気力だけで、かろうじて支えながらその身をゆっくりと起こしていく。
いつまでこの命が持つのか分からない。半年か来年か。運が悪ければ明日か今日には死体に変わり果てているかもしれない。
それでも立ち上がらなければならない。
こうしている今この時でさえ、苦しんでいる者たちはいる。圧倒的な暴力に苦しむ民衆を解放する。強者を挫き、弱者を救済するためにも。
空っぽとなった部屋から立ち去ろうとしたそのとき、視界の隅に父親の死体がよぎった。今更になって胸が痛んだ。身体ではなく、心の中にいる傷だらけの自分が静かに悲鳴を上げていた。
だけど、強いて目を背けた。
こんなところで立ち止まっている暇などなかった。
家の外に出て、周囲にガソリンを撒いた。
頭上ではもう間もなく新しい朝日が顔を出そうとしている。
この時間帯ならば人目も少なく、咎められることはないだろう。やるならば今だった。
ライターに火を点けて、ガソリンの中に放り投げた。
ごうっと音を立てて、炎が激しく燃え上がった。おそらく数時間もしない内に灰と帰すに違いない。
これで帰るべき場所は失われた。
自分は試さなければいけない。世界を、神さえも、己自身の運命すらも。
たとえそれが傲慢であると謗りを受けようとも構わない。
この痛みが続く限り、試され続けるのだろう。
炎の海に包まれゆく我が家を名残惜しそうな目で見つめてから、
「我輩は豚ではない。人間だ。――人間なのだ」
傷だらけの男は背を背けた。もう振り返ることは決してなかった。
これは己の選択した道をただ盲目に信じ、人々の正義であろうとした男の悲しき物語である。
おっさんの話ばっかり書いてて勘違いされそうだけど私はかわいい女の子書きたいんだ!
次で終わらせられたらいいな。