『時計塔のオブジェクト記録』
【母の愛の魔法】
この魔法は、とても古く伝わるものだ。
そして、その効果を表す言葉を私は持たず、その深さもまた分からない。
“最も深き愛”
古の人々はそう呼んだとも伝わる。
なるほど、今よりもずっと死に近かった人々の言葉ならば、そういうものかとも思える。
成立条件は分からない、それが何を媒介にするのかも、血の繋がりを必ずしも要するのかも。
母とは、なんであるのだろうか。
愛とは、なんであるのだろうか。
独占欲との違いは何なのか、小賢しい議論で様々に語ることは出来よう。
だが、それがこの美しい魔法の本質を示すものになるとは思えない。
理屈ではない、ああ、これはもう理屈ではないのだ。
美しいものは、ただ美しい。
綺麗な心は、それだけで尊いのだ。
『私には、愛の何たるかは分からない』
『だが、それが尊いものであるということは分かる』
『ならば、それでよいのだろう』
『どうか、綺麗な物語が人々の心に宿らんことを』
*----------*
「メローピーさんは、旅立たれたのですね」
「ええ、私が見届けたわ」
「そうですか、ならば良い結果と評定できます」
緑の明かりに照らされ、石壁、石タイル、石柱、石像。全てが石で埋め尽くされた、畏怖の念と強大な圧迫感をもたらす部屋。
既に主の去った部屋に、ゴーストの影は二つ。
「アンタにしては、随分口数が少ないじゃない」
「偉大な墓の前では、流石の私も弁えますよ。彼女の迎えた結末は、時計塔の悪霊の言葉で穢してよいものではないでしょう」
「意外、でもないか。ほんと、墓に関してだけは昔からそうだったもの」
普段とは様子が異なるノーグレイブ・ダッハウに対しても、マートル・ウォーレンは驚くようなことはない。
これでも、長い付き合いだ。この存在は非常に厄介きわまる性質を持っているが、根底となる部分だけは分かりやすい。
「あの時計塔も、きっと誰かの墓なんでしょう? それも多分、アンタを創った誰かの」
「ええ、それは正しい認識でしょう。色々と複雑な事情が絡んでおりますのと、まだ全ての禁則事項が開放されたわけではないので、ここで詳細を語る事が出来ないのが心苦しいですが」
「別にいいわ。それだけ分かれば充分だから」
言いつつ、彼女は部屋の中央に座する巨大な人形の像へと目を向ける。
このホグワーツに存在する幽霊ならば、理屈ではなく畏怖の念を持たずにはいられない。
これこそが―――
「創始者の一人、サラザール・スリザリン。その分霊箱、ってことになるのかしら?」
「ヘレナ様曰く、似た部分も多いですが少し異なるとか。この石像に創始者の魂の欠片が宿っていることは事実ですが、用途はむしろ、歴代校長の肖像画に掛けられた魔法に近いようです」
「肖像画の魔法って言うと、あのお爺さまお婆さま達が、色々と助言をくれるやつでいいのよね」
「はい、この石像は秘密の部屋の要であり、パーセルマウスの資質、つまりはスリザリンの継承者の資格を持つものを判別するのが主な役目だとか。そして、部屋に遺されたバジリスクの成長に伴い、この石像も巨大化していく」
秘密の部屋に眠るは、毒蛇の王バジリスク。
主に呼ばれるまでは決して現れぬ部屋の守護者は、今はただ静かな眠りについているようだ。
そして恐らく、二度と目覚めることはないだろう。
「バジリスク。50年前にアタシをあのトイレで殺した、黄色の眼の持ち主」
「貴女にとっては、仇ということになります」
「それこそ今更でしょう、そもそも、リドル先輩が継承者でメローピーがお母さんだったんだから」
己の死に関する暗い因縁など吹き飛ばすように、マートル・ウォーレンは豪快に笑う。
その笑いはどこまでも明るく、叡智の寮よりもむしろ、彼女が好んで現れる獅子の寮のそれか。
「流石はマートルさんです。死後の悪霊かくありき、湿っぽいのは棲家だけで十分ということですか」
「とはいっても、純粋な疑問は少しだけ残るんだけど、いいかしら?」
「ええどうぞ、今はもう部屋について開示してはならぬ情報はありませんので。この部屋は、既に役目を終えました」
「じゃあ遠慮なく。スリザリンの継承者ってのは、創始者の残したバジリスクを操ることが出来るけど、同時に秘密の部屋に捧げられた生贄でもあった。違う?」
「生贄という形容は語弊がありますが、大凡正解でしょう。原初の形はむしろ、“自分が命を失うことを覚悟で、バジリスクを用いてホグワーツを守る者”をスリザリンの継承者と定義した。何せ創始者達の時代は、外敵との戦乱の時代でしたから」
1000年もの長きに渡り、秘められてきたことで様々なものは変質してしまう。
道具には、用途というものがある。スプーンとスコップは形は似ていても違うように、秘密の部屋の用途もまた、創られた時代に合った“用途”があった。
だが、時代が変われば、同じ道具を同じように使うこともなくなっていく。銃があれば、弓が廃れていくように。
「表側のホグワーツの歴史においては、ゴドリック・グリフィンドールとサラザール・スリザリンは対立し、やがて学び舎をスリザリンが去ったと語られます」
サラザール・スリザリンはホグワーツを去り、秘密の部屋を残していった
「ただし、そこは一種の頓智を好むのが魔法族というもの。正確にはこう読むのが正しい」
サラザール・スリザリンはホグワーツを残し、秘密の部屋へ去っていった
「つまり、彼はここに去ったのね。1000年経っても、ホグワーツを守り続けるために」
「そうしなければならないだけの理由が、時計塔を封じた創始者達にはあったのです。秘密の部屋を放棄するという選択肢もあり得たでしょうが、まあそこは四人の決断というもの」
後は、血筋の者達に託される。直系のゴーントの家へと。
「敵を倒すか、裏切り者を殺すか、四寮の結束を乱すものを誅するか。使い方は様々であり、バジリスクは強大なれば、象徴や切り札としてだけでも意味を持ちます」
「そこに命を失うとかの代償を設けるのは、強力な魔法具とかを設定する際の常套手段だけど、創立者の時代ともなると、より剣呑だわ」
「ええ、どうあっても命を失うことになる対象を己の直系の血筋に限定したとも言えるわけですから、実に純血の家らしいと言えます。となればええ、マートルさんの疑問も分かります。“なぜ貴女が”と」
マグル生まれの穢れた血であったから、粛清対象にされてしまったという理屈は、取り敢えず通る。
だがそれだけでは、死後に至るまで彼女があのトイレに縛り付けられていた理由にはならない。
その妄念からトイレの地縛霊になったとしても、秘密の部屋と直結し、時計塔の悪霊の禁則事項と重なることは普通ならありえない。
「答えは、350年前の事例にあります。継承者の資格を有していたゴームレイス・ゴーントは、実に人間らしく創始者の宝の“良いとこ取り”を考えた。バジリスクを操るのは自分が、部屋の生贄となるのは姪のイゾルト・セイアが、と分けることによって」
「なるほどね。それはまた随分、アンタ好みの話のようで」
「歴史が示す通り、イゾルト・セイアは束縛から解き放たれ、イルヴァ―モーニーを創立しました。その結果、生贄のすり替えの術式は実際に使われることのないまま残り、さらに300年の時が過ぎる」
「そして、ゴーントの末裔だったリドル先輩が部屋を開けて。その入口のトイレに、アタシが居合わせちゃったと」
「鍵は恐らく日記でしょう。貴女が自分のためにトイレで綴っていた日記と、トム・リドルが秘密の部屋探索のために綴っていたノート。実際にそこにどこまでの関連性があったかは分かりませんが、結果として“取り違え”が発生してしまった」
ひょっとしたら、どちらかがノートを間違えたことがあったのかもしれない。
あるいは、秘密の部屋の入り口で同じような行動であったのが、仲間とみなされたか。
それとも、ゴームレイスとイゾルトが300年前に行うはずだった儀式を、偶然に二人でなぞってしまうものがあったのか。
「1000年という時間により、魔法にも少しは変質していた部分があったのかもしれません。いずれにせよ、部屋は開かれスリザリンのバジリスクは起動。ヴォルデモートは操り手となり、トム・リドルは日記に封じられ、そして貴女は生贄として死に、部屋の入口に縛られた」
それが、50年前に起きた秘密の部屋の事件に関する顛末であり。
秘密の部屋の機能や、350年前の出来事を知っていながら悲劇を防げなかったことが、ヘレナ・レイブンクローの後悔。
マートル・ウォーレンが生前に使っていた部屋は、今もレイブンクローの開かずの間として、彼女の後悔とともに時が止まっている。
「そうして魂を分裂させ、『ヴォルデモート』となった先輩は、日記を抱えて卒業していって、アタシだけがあのトイレに遺されたと」
「貴女が死ぬのを観測していたのは私です。当時“裏側管理人”であったヘレナ様の言いつけでしたが、部屋が開かれれば裏側のゴーストは関わることを許されない。そこでヘレナ様はおっしゃったのです、教師になれと」
「教師なら、生徒を守るために動くことが出来るはず。ビンズ先生には無理でも、特殊なアンタなら生徒に触れられる。今のアンタがやってることは間逆な気もするけど」
「その辺りは、ダンブルドア校長先生の後悔とも関連します。あの夜間学校はあくまでアリアナちゃんのために用意された私塾が始まりでした。しかし、魔法戦争の経緯を経て、生徒を守り危険から遠ざけるだけでは駄目だと。具体的な命令は、シグナス副校長のものでしたが」
そうして、ホグワーツは今に至る。
スリザリンのバジリスクが城を守る防衛機構の頂点にあり、アクロマンチュラの群れがその尖兵となって死喰い人と戦うというには、ある種滑稽な喜劇だろう。
「そして、あまりにも不完全で不安定だったゴーントの末裔である彼女がこの城に現れ、留まっていたのは貴女がいたからなのでしょう、マートル・ウォーレン」
「例の、“取り違え”の続き?」
「彼女の未練はトム・リドルでしたが、肉体を持つ者は既にその名を捨て、日記に封じられし者は分霊箱となり姿を表さない。けれどどれほど時間が過ぎようとも、貴女は彼に殺された存在であり、代わりに生贄となったも同然ですから、その縁は深い」
マートル・ウォーレンと、メローピー・ゴーント。
ホグワーツに招かれたマグル生まれの少女と、ホグワーツに通うことを許されなかった純血の家に縛られし娘。
本来ならば、交わることなどありえなかった二人の道筋。
「本当に、貴女達の存在及び行動は、想定した未来予測の範疇外でした。私は時計塔の機能として多くの情報を管理する身ですが、あまりにも多くの事柄が、貴女達の些細な行動から変わっていった」
マートル・ウォーレンは、ペチュニア・エバンズと友誼を結び。
メローピー・ゴーントはセブルス・スネイプに人生を伝え、そしてリリーの運命をも大きく変えた。
そして、パーセルマウスであったハリー・ポッターは、ただの一度も関わることなく、秘密の部屋は閉ざされた。
「例えジニー・ウィーズリーの肉体を完全に操っていたとしても、今のトム・リドルに秘密の部屋は開けない。ハリー・ポッターにも開けなかった」
「分霊になって残ってる古い仕組みが、魂を判別するからかしら」
「そうです。トム・リドルは父がマグルの混血。ハリー・ポッターとて母がマグル生まれ。他に資格者がいなければ“早いもの勝ち”にもなるでしょうが、比較にならないほど条件を満たしている存在がこの城にいるのです」
ゴーントの直系、メローピー・ゴーントは純血の魔女。
当然、彼女こそが最も資格を持つスリザリンの継承者。彼女の許可がない限り、部屋は開かず、バジリスクは動かない。
「見事なものです。彼女はここにいるだけで、全ての思惑を完全に封じていたのですから。肝心の部屋が閉ざされたままでは、あらゆる行動が滑稽な喜劇にしかなりえない。そして実際、禁に触れた愚か者らを除きこの度は貴女のような生贄を出すことなく秘密の部屋は終わりを迎えたのです」
「それだけ強いのよ、母の愛ってやつは」
部屋の最後の犠牲となった少女が、誇らしげに胸を張る。
流石は私の友人だと、あの女性を舐めるなと、堂々と誇示するように。
「母の愛ですか」
古いゴーントの小屋で、ここから誰かが連れ出してくれることを望んだ女がいた。
マグルの孤児院に預けられた少年は、もし親に、母に育てられていたならばと、心のどこかで願い続けた。
その不完全な分霊箱となった少年は、最早そのことを願いはしない。彼は自らの存在を実感するたびに、母の愛を想うのだから。
「母の愛による原初の魔法。それは、命が命を産むこと、母が子に与えるもの。生命というものの定義不可領域そのもの」
「定義不可領域? はぁ…… こんなときもアンタは所詮アンタね。『不思議な力』でいいのよ、こういうのは」
「そういうものですか。まあどだい、命を持ったことのない私には永遠に実感など出来ぬこと。どこまでいこうと仮説の域を離れはしませんので」
出産の瞬間を、どこまで記録映像に収めようが、分かるものでもない。
命が宿るのは、何時なのか? 受精の瞬間か? 排卵の瞬間か?
どれほど精密な時計で観測しようと、その時を捉えることは、叶わない。
「随分と皮肉なものです。純血を貴ぶはスリザリンであり、ゴーントの家はそれを病的なまでに貫いた」
純血というものが、魔法の力を宿した純粋性のことを指すならば。
「メローピー・ゴーント唯一人から生まれた少年は、究極の純血と言えるでしょう。マグル生まれの貴女もよく知る聖典において、聖母マリア唯一人から生まれたとされる、この世の全ての罪を背負った聖人のように」
もしや、救世主とはそのような存在であったのか?
このノーグレイブ・ダッハウをして、その血筋の意味とは、と益体もない考えが浮かんでくるほどに。
彼女の示した無償の愛は、時計の観測を遥かに超えていた。
「人間とは愚かなもの、無償の愛などこの世に存在しないと嘯くのが私なのですが、今回ばかりは完全敗北を認め、白旗を掲げましょう。非常に稀有な例であるものの、人は無償の愛を体現できる生き物であると」
「彼女の歩んだ歴史に負けたわね、ノーグレイブ・ダッハウ」
「ええ、膝を屈しましょう」
「ざまあみなさい」
「人類を嘲笑う悪霊は、嘲笑うことの叶わぬ人類の高潔さに敗れたのです」
秘密の部屋は、ゴーントの墓へ。
サラザール・スリザリン直系の血筋は、こうして、役目を終えたのだ。
最後の一人となった純血の魔女は、たとえ魂だけとなっても貫き通したその愛の果てに、最大の偉業を為したのだから。
「お見事でした、メローピー・ゴーント様」
そして部屋は閉じられ、彼女の友人であった亡霊は、今もその墓を見守り続ける。
「貴女の気高き魂に、時計は敬意を表しましょう」
時計塔の悪霊は、深く深く頭を下げ、彼女の墓へお辞儀をしたのだった。
次回、秘密の部屋編エピローグになります。