「シグナスのクソ野郎が嫁と娘たちを連れてくるってぇ? あーやだやだ美形で金持ちのリア充は、爆発しろっての」
とある日のこと、マートルさんがやさぐれていました。
いつものことですが、やさぐれていました。あまりにも日常過ぎて、誰も気にしていません。というか、人間が近くに誰もいません。
「今日は何時にも増してやさぐれてますね、嘆きのマートルさん、妬みのマートルさん、僻みのマートルさん、根暗のマートルさん」
そんな彼女の傍らにはいつものごとく、正体不明の幽霊教師の姿がありました。これもいつものことです。
「そりゃあ、妬みたくもなるってもんよ。シグナスよ、あのシグナスよ! 何であいつばっかりいっつもいっつもちゃっかり幸せ者なのよ。ああ気に食わない!」
「仮にもシグナス・ブラック先生は副校長なのですから、もう少し敬意というものをはらいましょう」
「祓っちまいな、あんなヤツ」
「そこ、ヤンキー女子化しないでください。根暗メガネ女子の貴女がやっても死ぬほど、いいえ、死んでも似合いませんから」
「わざわざ言い直すんじゃないわよ、憎たらしいわね」
「それに、祓われるなら確実に我々でしょう」
「あんただけ祓われればいいのにね」
散々愚痴と文句を言いまくって少しは落ち着いたのか、マートルさんの様子がようやく正常値に近づいてきた。
今は両親からの祈りと、手紙によって随分緩和はされているものの、彼女とて本質は人を呪う悪霊の一種。ノーグレイブ・ダッハウいわく、“善良な悪霊”ではあるものの、妬み、恨み、嫉みこそが彼女の本分であることには違いない。
なお、ノーグレイブ・ダッハウについては、ホグワーツ生徒の大半が“悪質な悪霊”と思っていたりする。ようするに、ただの悪霊だ。
「全く本当に貴女と来たら愚痴ばかりですね。独身貴族が殊の外多いホグワーツ教師陣において、立派に家を構え、奥さんと三人の娘さんを養っている方なのですから、笑顔で出迎えるくらいはしてもバチは当たりませんでしょうに」
事の起こりは、シグナス・ブラック副校長閣下が9月1日の新学期を前に、今年入学の長女ベラトリックスを含めた娘達を、ホグワーツに見学させに来るという話だ。
別段、特権乱用というわけではなく、夏休みの休暇中でも仕事の多いホグワーツ教職においては、結婚して家族がいる場合にはいくつかの面で便宜が図られている。
流石に、自分の娘を放り出して、マグル生まれの子をダイアゴン横丁に案内に行けとは鬼畜に過ぎるというものであり、その辺りは独身教師組の担当となっている。
「あー、天下のブラック家ですもの、ご立派で結構な家だわ。というか、この間名簿を見た時点で気付くべきだったわ、ベラトリックス・ブラックって、あの嫌味なキザ野郎の娘じゃないの」
「蛇蝎のごとく嫌ってますね。生前にそんなに恨みがあったのですか?」
「あるわよ。こっちは友達の一人もいない、いいえ、我が親愛の“マーテルちゃん”だけが友達の根暗ボッチ。対してあっちは、名家の中の名家出身、スリザリンの御曹司、同じ名家で美人の婚約者あり、挙げ句に妹のヴァルブルガ・ブラックまで美形のリア充。誰だって殺したくなってくるでしょうが」
「ただの僻みじゃないですか、まあ、ここまで真っ直ぐな逆恨みだと却って清々しいですけどね」
彼女の生前、レイブンクローのマートル・ウォーレンと、スリザリンのシグナス・ブラックは1939年度入学の同学年であった。
その婚約者であった女生徒、ドゥルーエラ・ロジエールも同年代であり、やっぱり美人だった。名家の多いスリザリンの中でも四年生の段階で既に婚約していた例はあまり多くない。流石はブラック家といったところであろうか。
「ったく、マグル生まれでボッチのアタシは怪物に殺されて、一人で惨めにトイレのゴースト。純血名家のアイツは順調に卒業して、美人で金持ちの家の婚約者と結婚して、財産たくさんの屋敷を構えて、これまた可愛らしい娘が三人も生まれました。同じ人間なのに、こんなに格差があっていいの? 許されるの? ほんと死ねばいいのに、私の知らないところで勝手に」
「これでもかというくらいに、勝ち組と負け組の構図ですね。ですがまあ、それでも自分で呪おうとはしないあたりに、貴女の根の善良さが現れていると言えますか」
「ああん?」
「口では散々罵っても、実際に呪わない姿勢は立派だと思いますよ。世に生きる“自称善良な民草”には、その逆のなんと多いことか。そんな貴女には、実は友達の一人くらいはいたかもしれませんね。貴女が忘れてしまっているだけで」
「あのねえ、どっちも五十歩百歩でしょうが」
「ともあれまあ、貴女にとってシグナス・ブラック氏がホグワーツの教職となったことは、災難ではありましたね。どうしても“生前からの恨み”ばかりは、ゴーストが最も改善し難い部分ですし」
ブラック家の人間が、ホグワーツの教職に就くこと自体はさほど珍しくもない。
有名なフィニアス・ナイジェラス・ブラック校長しかりだが、基本的にホグワーツの教職というのは名誉ある仕事であるとイギリス魔法界では認知されている。
それでも、理事との兼任という異例の形でシグナス・ブラックが引き受けたのには、そうせざるを得ないだけの理由があったためだ。
「ったく、どこのどいつよ、防衛術の教師の座にふざけた呪いをかけやがったクソ馬鹿は。おかげでこっちはいい迷惑だわ」
「その辺りは謎なんですよねえ、例の“闇の魔術団”をアラスター・ムーディ氏とバーテミウス・クラウチ氏らが壊滅させた頃に現れた謎の闇の魔法使いだとか言われていますが、真相は不明です。まあそもそも、呪いの発信源を特定するのは困難ですし、分かっていればとうの昔に闇祓いへ引き渡していますよ」
「そりゃそうだけど、毎年ごとに闇の魔術の防衛術の教師が代わるとか、嫌がらせにしても馬鹿みたいな呪いじゃないの」
「となれば、頭の良い馬鹿がかけたんじゃないでしょうか」
「もし出会えたら、その馬鹿には糞爆弾をダース単位でぶつけてやるわ」
毎年防衛術の教師が変わってしまうという異常事態。
それも、先任のガラテア・メリソート先生が引退した1955年から、五年間も連続で。
生徒たちへの教育上、非常によろしくないのは当然で、フクロウ試験やイモリ試験の実施にも非常に差し障りがある。というか、このままではまともに実施できない。
特に、“闇の魔術に対する防衛術”は、魔法省の就職の面でも重要な教科なのだから、今年来たばかりの教師にフクロウ試験とイモリ試験を担当されるのは非常に厄介だ。もしそれがハズレ教師だった場合には目も当てられないし、それで人生の就職先を決められた生徒たちこそが防衛術を呪うだろう。
ただでさえ、その年の五年生は毎年講師が変わってしまう弊害をモロに受け、まともに防衛術を学ぶことが出来なかったのだから。
そういう経緯で、ダンブルドア校長と理事会が協議したところ、当時の理事の一人であったシグナス・ブラックに白羽の矢が立ち、理事を兼任したまま副校長に就任し、防衛術の講師も兼ねることとなったのが昨年、つまり1960年の話。
権力を極端に集中させたこの強攻策が功を奏してか、シグナス・ブラックは一年で辞めることなく(そもそも、理事と副校長を兼任しているブラック三男家の当主を辞めさせるのは魔法大臣でも無理だろう)、今年も継続して教鞭を取ることとなっている。
「でもさあ、あいつはブラック家の人間よ。あいつが防衛術の教師で、フクロウ試験やイモリ試験見るなら公平になるのかしら? マグル生まれは全員“不可”にされたりするんじゃない?」
「マグル嫌いで高名な長男家のオライオン・ブラック氏ならば、そういうこともあり得たかもしれません。ならばこそ、オライオン氏も同じく理事でありながらも、三男家のシグナス先生が引き受けたという経緯があります。彼は、マグル問題については中立派であることで有名でしたから」
「あー、そうよ、そうだった。ブラックのくせに世渡り上手で、混血やマグル生まれとも程々の距離で上手くやるのがアイツだったわ」
「でなければ、貴女など集団リンチの対象になっていたかもしれませんね。レイブンクローの穢れた血の癖に、スリザリン監督生にして偉大なるブラック様の前を横切った罪とか何とかで」
「オライオンだったら本当に言いかねないわねそれ。ま、んな馬鹿なこと言い出したら、プルウェットとマッキノンが黙ってなかったでしょうけど」
「ああ、マグル贔屓で高名なお二方ですね。確か、貴女の一つ上の学年でしたか」
「そうよ、アタシが死んだ年には五年生でそれぞれ監督生だったから、当時のホグワーツじゃ、イグネイシャスとハロルド先輩を知らない生徒なんていなかったわ。流石のブラック様と言えど、あの二人がいるところじゃあ露骨なマグル差別も出来なかったしね」
グリフィンドールのイグネイシャス・プルウェット
レイブンクローのハロルド・マッキノン
当時、ブラック家の人間が次々とスリザリンへ入学し、マグル生まれの肩身が狭かった時代において、敢然と立ち向かった監督生たちである。
また、同学年のスリザリンの監督生が名家出身ではなく“マグル生まれ”と噂されるトム・リドルであり、彼とも親交があったことも知られている。
「ハラルド・マッキノンのことはよく覚えているのですね」
「そりゃそうでしょ、有名人だったし、あたしもマグル生まれでレイブンクローだったから少なからず恩があるし」
「では、その隣の名前、奥方についてはどうです?」
「うん? ユフィリア・マッキノン? 覚えはないけど、ハラルド先輩の奥さんよね」
「ええ、前の二者には知名度で劣りますが、当時のレイブンクローの看板ビーターでした。ちなみに旧姓は、バグマンですよ」
「へぇ、よく知ってるのね、意外」
「まあ、私もそれなりに長くいますし、貴女よりは色々とものを知っておりますから」
「ああん、馬鹿にしてんの?」
「いいえ、滅相もありません」
プルウェットやマッキノンに比べれば、バグマンといえば有名クィディッチ選手を輩出することくらいだ。
例え同年代だったとして、マートルさんに覚えがなくとも無理からぬことではある。よほど親しい縁でもなければ、忘れてしまうのが当然だろう。
「その彼らの娘、モリー・プルウェットとマーリン・マッキノンが揃って今年、入学してくるわけですから奇妙なものです。まして、モリーさんの御母上の旧姓には、尚更驚かされます」
「その時はもうアタシは死んでたけど、イグネイシャスとルクシリアが結婚したと聞いたときには、空いた口が塞がらなかったわ」
「どうにも、プルウェット家は世間を騒がす結婚をすることが多いようですね」
イグネイシャス・プルウェットと結婚したのは、オライオン・ブラックの姉である、ルクシリア・ブラックであった。政略結婚とも、恋愛結婚とも伝わる。
家格を考えれば、これほど相応しいものがないくらいの釣り合いだが、マグル世界で言うならば、ブルボン家のルイ16世とハプスブルグ家のマリー・アントワネットの結婚に相当する、外交革命のようなものだ。
「ですがそうなると、モリー・プルウェットとベラトリックス・ブラックは、義理を挟んだ従姉妹になりますか」
「ええっと、ちょっと待って。ベラトリックスの親父がシグナスの糞野郎で、その腐れ姉のヴァルブルガがオライオンと近親相姦かましてて、その姉のルクシリアがイグネイシャスに股を開いて結婚と……うん、義理の従姉妹でいいんじゃないかしら」
「もう少しキレイな言葉遣いで説明して欲しかったですね。それに、ヴァルブルガ女史とオライオン氏は又従兄弟ですから、近親というほど近くはありませんよ」
ちなみに余談となるが、フィニアス・ナイジェラス・ブラックの三人の息子が、それぞれに屋敷を構えたことが世に知られている。
長男家 シリウス・ブラック二世
次男家 アークタルス・ブラック二世
三男家 シグナス・ブラック二世
長男家の孫にあたるのが、オライオン・ブラックとルクシリア・ブラック。三男家の孫にあたるのがシグナス・ブラック三世とヴァルブルガ・ブラックである。
なお、シグナスの弟のアルファードは血を裏切ったために系譜から抹消され、次男家の娘、セドレーラ・ブラックは“血を裏切りし”セプティマ・ウィーズリーと結婚したため、こちらも系譜から抹消されている。
「それに、ややこしいにも程がありますが、同じく今年入学するアーサー・ウィーズリーも、オライオン、ルクシリア、シグナス、ヴァルブルガとの又従兄弟になりますね。ついでながら、バーテミウス・クラウチ氏も母がケイリス・ブラック女史なので又従兄弟のはずですが……そうそう、フリーモント・ポッターさんも、ブラック三男家の孫ですね。確か御母上がドレア・ブラック女史」
「複雑すぎない? ブラック家」
「あっちにもブラック家、こっちにもブラック家、これが純血の血筋というものですから。聖28家の血縁関係など、綾取りよりもこんがらがってます」
身も蓋もないが、そんなものであった。
“身内”をどこまでにするかと考えただけでも、頭が痛くなってくるのが貴族社会というものだから。
*----------*
「アン! ナル! あんまりはしゃがないで頂戴! お父様がこの部屋から出ては駄目とおっしゃっていたでしょう!」
そんな悪霊二人の話題に登っていた渦中の少女、ベラトリックス・ブラックは広大な敷地を誇るホグワーツに若干の愚痴を吐きたい気分となっていた。
もちろん、高貴なるブラック家では娘達に淑女教育を徹底しており、そんなはしたない真似はしない。
もう彼女も11歳になる。こうしてホグワーツからの入学案内を受け取り、偉大なる父が理事と副校長と防衛術の教師を務める学び舎を前にしても、はしゃいでスカートをひるがえすような真似はしないとも。
「こっちまでおいでー」
「アン姉さま、待って待ってー」
とはいえ、まだ8歳の次女、アンドロメダ・ブラックにとってその意識はまだ早いというもので、6歳の末妹、ナルシッサ・ブラックにあっては言わずもがな。
幼くも可愛らしい妹二人は、ベラトリックスにとっても自慢であったが、こういう時には奔放さと無邪気さが恨めしい。
特にアンドロメダは、元気いっぱいで行動力が人一倍だから尚更に。
姉の静止の声など馬耳東風、とっても仕立ての良い軽装のドレス風のスカートをひるがえしながら、トタトタと可愛らしくも早足で、いざ魔法の城の探検に乗り出していく妹二人。
「ああもう! 足縛りの呪いでもお父様から習っておくべきだったかしら!」
彼女の自慢の父、シグナス・ブラックは母のドゥルーエラと共に、ダンブルドア校長先生への挨拶に向かっている。
少しばかり大人の話もあるから、ベラ達はこの応接室で良い子で待っているように。小物には安全魔法がかかっているから自由に触ってよいが、廊下には出ないようにと。
言われて、10分後にはこの有様であった。普段はお父様の言いつけを破ったりはしない良い子の妹たちなのだけど、この不思議な城の空気に充てられてしまったのだろうか。
そんな彼女自身も、妹たちを追いかけながらも高揚してくる心を抑えられないでいるのは確かだった。
だって、こんなの無理よ。何あの鎧、廊下と一緒に動いてるわ。
向こうの額縁は何やらお外と繋がってるようにも見えるし、廊下の天井にいたってはよく見たらゴーストが何人もいる!
「ほら見てナル! しもべ妖精があんなにたくさん!」
「わぁ、すっごーい! みんな元気にお掃除してるー」
もちろん、ブラック家にはどの屋敷にもしもべ妖精くらいはいる。
けれども、このホグワーツのように何百もの屋敷しもべが働いているお城など、イギリス魔法界全体を見渡しても他にはない。
大きな屋敷で普段過ごすだけに、あまり外出する機会のないブラック三男家の三姉妹にとって、父と母の目もなく、教師に引率されているわけでもないこの状況で、好奇心を抑えろというのが無理な注文だったろう。
でもでもだからこそ、好奇心は猫を殺すという諺もあって。
「見つけたわよおぉぅぅ! 可愛いお嬢さんたちいいいぃぃぃ!!! 怖いお姉さんが食べちゃうわよおおおお!!」
ふわふわと漂いながら、あちこちを移動していてゴーストの一団から、とんでもない形相の化け物が一匹、妹たちのほうへ向かっていくのがベラから見えた。
「アン! ナル! 逃げて! 空から鬼婆よ!」
「え? 空って?」
「きゃああああああ!」
夢中で走っていたためか、反応がやや遅れたのは気の強い次女のアン。
若干気の弱い三女のナルにいたってはモロに鬼婆を見てしまったためか、悲鳴を上げてしゃがみこんでしまった。
「誰が鬼婆よ! 誰が! 失礼なガキね!」
件の鬼婆、もとい半実体化している狂乱の悪霊ことマートルさんは、この場にあって本分を曲げるつもりはない模様だった。
小さな子がいたならば驚かす。何が何でもビビらせる。
怖がられ、怯えられてこそ幽霊の本懐というもの。
妙にスレたガキや、余分な知識を付けてしまった小憎たらしい子供の多いホグワーツにあって、彼女らのような純粋で穢れを知らない小さな子はまさに“ご馳走”なのであった。
(逆に、後の伝説となるウィーズリーの双子などは煮ても焼いても食えない“ゲテモノ”である)
「ひっ! だ、誰なの!?」
「うわーん! おかあさまぁぁ!」
ついに至近距離で見てしまったアンは、それでも気丈に泣き叫びはしなかった。
生来の彼女の持つ気の強さもあるが、何よりも大泣きの末妹がしがみついているのだから。
ここで自分まで、泣き崩れるわけにはいかないのだ。
「ケッケッケッ! 悪い子供にはお仕置きよおお! なーんでお父様の言いつけを破って部屋から出ちゃったかなあぁぁ!! ヒーヒッヒッヒ!」
このマートルさん、ノリノリである。
やはり幽霊の本能が疼くのか、書類仕事や事務処理よりも、子供を驚かす方がよっぽど楽しいらしい。可愛らしい小さい子ならば尚更に。
「う、うっさい! あ、アンタなんて、お、おねえさまがやっつけてくれるんだから!」
「へーえ、向こうのガキがかしら? まだ入学すらしてないガキンチョに一体何ができるのかしらねえ―――え?」
「飛んでけぇぇえ!!!!」
両親に買ってもらったばかりの新品の杖、とっても大切な宝物だからこそ当然ホグワーツ見学に持ってきていたそれを夢中でベラが振ったその瞬間、甲冑の頭部がマートルさんめがけて吹っ飛んでいった。
“ただの物”ならば、いくら半実体化しているとはいえ、ゴーストに何ら影響を与えられるものではない。
しかし、ホグワーツの“動く甲冑”ならば話は別。本来動くはずのない鎧が動くのだから、それはつまりゴーストを動かす力と同じような、何らかの魔法の力を見に宿しているということ。
「こんの! アンとナルから離れなさいこの化け物!」
未だ入学すらしていない彼女の脳裏には、そんな理屈は毛頭ない。仮にあったとしても忘却の彼方だ。
今彼女にとって何より大切なのは、妹たちを守ること、ただそれだけ。
そのために鬼婆を打ちのめさないといけないなら、鎧だって何だって使ってやるとも! 調度品を壊しちゃったらごめんなさいお父様!
「危な! ふう、何とか解除が間に合ったわね」
当たればノックダウンは避けられないと思ったか、マートルさんは咄嗟に半実体化を解除して、完全な透明状態になる。
空中を滑走する甲冑は当たりこそしたものの“鬼婆”をすり抜け、無傷の鬼婆は当然再び姿を現して牙をむく。
「下がりなさい鬼婆! 妹達に手を出したら承知しないわよ!」
「おねえさま!」
「ふぇええん!」
その隙に妹達の下まで駆け寄ったベラは両手を大きく広げ、仁王立ちで庇うように、果敢にも悪霊に立ち向かう。
アンが歓喜の声で、ナルは言葉になっていない泣き声で応じる、幸いにも怪我などはなさそうだ。
「あらら、随分勇ましい新入生ちゃんだけど、どう承知しないの? 良かったらお姉さんに教えてくれないかしら。答えられなかったら、食べちゃうわよおお!」
実際、子供達を食べることが出来るわけでは当然ない。
そもそも、ホグワーツの幽霊である以上、“客人”に対して直接的な危害を加えることが許されているはずなどないのだ。魔法の城の古い守りが、そんな柔な作りをしているものか。
彼女に出来ることは、幽霊らしく脅かすことだけ。とはいえ、そんなマートルさんの事情など、この勇敢で小さな姉には分かるはずもなかったが。
「これが答えよ! インセンディオ! (燃えよ)」
“よいかベラ、覚えておきなさい、亡者、幽霊には火が有効である。”
“吸魂鬼には守護霊呪文以外は効き目がないが、一般的な幽体は魔法の火を苦手とするのだ。”
闇の魔術に対する防衛術の教師である父シグナスを誰よりも尊敬するからこそ、ベラの頭脳はこの土壇場において父の教えに従い、最も有効な対処を導き出した。
「え? マジで? 火ぃぃぃい!」
かくして、邪悪は滅びました。
カチカチ山の狸の如く、三匹の子豚を食べようと煮えたぎる大鍋に煙突から落ちてきた狼の如く。
幼い少女たちを食べようとする悪い鬼婆は、正義の火の前にあえなく退散したのでしたとさ。
*----------*
「ベラトリックスさんの小さな勇気の武功と、愚かなマートルさんの恥、確かに記録いたしました」
「うっさいわねバーカ、これでいいのよ、これで」
「おや、意外と冷静なご様子」
「こっちは十分に楽しめたし、“畏れ”も補充できたしね。ちっちゃい子の勇気を前に、悪霊は退散するからハッピーエンドなんでしょうに」
半泣きになりながらも長女に抱きつく次女と。
大泣き状態で腰にしがみついている三女。
そして、二人をあやしながらも誇らしげに微笑んでいる長女。
そんな三人姉妹を遠目に見守りながら、魔法の城の“管理人”たちは、いつもの様子でぷかぷか宙を漂っていた。
いいや、いつもとは若干違うかもしれない。普段は教師として半実体で歩くことが多い彼だが、この時に限っては“幽霊”として見守りたいのか、彼女の隣でふわふわと浮いていた。
「それは確かにそうですね。ならばこそ、甲冑さんも心打たれて力を貸してくれたのでしょう」
「ああ、そういえばちょっと謎だったんだけど、あの時吹っ飛んできたのは何?」
「それはまあ、鎧の頭部分でしょう」
「馬鹿にしてんの? そうじゃなくて、何であれが浮遊呪文どころじゃない、爆発呪文でぶっ飛んだくらいの勢いで動いたのかってことよ」
悪霊を退散させた火については、かつて彼女もホグワーツで習った呪文、インセンディオだった。
入学前の一年生が完璧に使えたのはまあ、寮への加点に値することだろうが、疑問点はそこではない。
「あの時、あの子がやったのは杖を振っただけ。ウィンガーディアム・レヴィオーサと唱えた訳でも、モビリコーパスと唱えた訳でもない。そもそも杖の振りが“ビューン、ヒョイ”でもなかったし」
「ええそうですね。ですがだからこそ、どんな呪文よりも効果のある“魔法”となったのでしょう」
「んん?」
「合理性と叡智を重んじるレイブンクローの貴女には喧嘩を売るようなものですが、きっと魔法の発動には何も要らないのですよ。何しろ、“心の魔法”なのですから」
だからきっと、あれはそういうこと。
少女は願った、守りたいと。
甲冑は応えた、守ってみせると。
単純で純粋だからこその、何より強い原初の魔法。
それが、“縁”というものだから。
「何時だったか、ダンブルドア校長先生がおっしゃっていました。このホグワーツでは、救いを求める者には必ずや助けが与えられると。当然、金よこせ、虐めたい、妬ましい、テストでカンニングしたい、といった“邪な救いを求める声”には、助けは永遠に来ないでしょうが」
反面、自分勝手に逃げる者、誰かのせいにして耳を閉ざす者、誰かを密告して身代わりにしようとする者。
もしホグワーツにそんな愚かな教師や生徒がいたとしても、他ならぬホグワーツ自身に見捨てられるだろう。彼ら自身が、善き物語から背を向けて、皆が幸せになれるハッピーエンドよりも、自分だけの快楽や安全を望んだのだから。
因果は巡り、負債は相応しい結末となって、最後の最後に現れる。お伽噺には、そういった正しくも残酷な側面もあるものだ。
「……杖魔法が発達する前の、原初の魔法ってことか。まあ確かに、子供の時に発現する魔法に杖は使わないし、“無言呪文”や“杖なし呪文”もあるわね。開心術なら目を合わせるだけで“望めば”覗けるし」
「逆に、閉心術は“望んで閉ざす”ものですね。誰かと友達になりたい、分かり合いたいという想いではなく、知られたくない、隠していたいという想い。別に非難するつもりはありませんが、酸いも辛いも知った大人向けの魔法であって、純粋な子供に教えたいものではありませんね」
穿った見方をするならば、閉心術の素養が高いということは、幼少期に親や大人から心を閉ざしていたことを意味する。子供が子供らしく、心を無防備に出来なかった瑕のようなものとも言えるだろう。
「アタシの三文芝居でも騙されてくれる、あの子達のような、ね。糞リア充のくせに、ちゃんと親はやってるのねシグナスのやつ」
願わくば、危険な魔法など覚えることなく、健やかに成長して欲しい。
騙す術、戦う術、ましてや許されざる呪文など、あの子らに似合わぬものはないのだから。
「必ず助けが与えられる、か。流石ダンブルドア先生、いい言葉だわ」
「彼曰く、ホグワーツそのものに幾重にも古い守りがかけられているそうです。純粋な願いが届くならば、一年生がトロールをやっつけることも、あるいはケルベロスやドラゴンを出し抜くことだって出来るのかもしれません」
「まるで御伽話のように、ね。そりゃあ、子供の学び舎に一流作家の描く大人の悲劇なんかお呼びじゃないわよ。例え滑稽な三流紙芝居でも喜劇のハッピーエンドじゃなきゃ、子供達を笑顔になんて出来ないしね」
「さてさて、この結末がハッピーエンドと言えますかどうか。この後にはお父様からのお説教が確実に待っているのですから」
「そこは悪霊の領分じゃなくて、親の領分でしょうに。けけけ、せいぜい似合わない仏頂面で、愛娘たちに説教するがいいわ、不器用シグナスめ」
「幽霊への見事な対処をしてみせた長女を、内心では存分に褒めたいのを隠しながら、ですか?」
「ええそうよ。娘達に抱きつかれながら、せいぜい幸せに埋もれて萌え死ねばいいの」
軽口を叩くように言いながら、彼女の顔には笑みが浮かんでいた。
過ぎ去ってしまった遠い日、幼い自分がかつて入学した頃の風景を幻視しながら。
止まってしまった自分と違って、次代へと命のバトンを渡していった同級生たちを寿ぐように。
マートル・ウォーレンは、久方ぶりに心からの笑顔で奇妙な隣人に微笑むのだった。