放浪の剣士ガウアーは、とある村の住民からオークにさらわれた少女の救出を依頼された。

そうして乗り込んだ先に待ち受けていたのは、オークよりも恐ろしく邪悪な魔物たちだった……。

※個人サイト『妄想保管庫』にも掲載しています

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妖霧の森

 夜の暗い森の中で、下卑た笑い声が複数響く。その中に、少女の許しを乞う泣き声も混じっていた。

 金髪を長く伸ばした少女が、五人の男に囲まれ、押さえ付けられていた。揃いも揃って豚のようにつぶれた鼻をした男たちは、少女のほっそりとした肢体を包む薄衣を無造作にひきちぎり、破り捨てる。

 手足を押さえ付けられて身動き出来ない哀れな少女は、すぐに彼女の意思とは無関係に、肌を冷えた外気と獣欲をみなぎらせた視線にさらされた。暗がりの中でもまばゆい、真っ白な肌。薄い胸の先端には可憐な桜色の突起がある。

 服を破った男が、いそいそとズボンを脱ぎ始めた。

 手足を押さえていた男たちはその間に、気安い手つきで白い肌を、恐怖に波打つ胸を、華奢な足を撫で回す。

 心根まで醜悪な亜人種オークの群れは、さらってきた少女の下着まで剥ぎ取り、全裸に剥いた。そして無理矢理股を開かせる。

 少女は次に訪れる悪夢の予感に震えて、狂ったように暴れたが、無慈悲で強烈な平手打ちが飛ぶだけだ。

 オークが少女の両足を抱えた瞬間、歪んだ笑みを浮かべたまま、その首が胴体から跳ね飛んだ。一瞬遅れて、両肩の間から赤い間欠泉が噴き上がった。

 オークの背後から、一人の男が長剣を振るったのだ。

 

 背の高い、頑強な体格の男だ。伸びるに任せた黒髪は、まるで獅子の鬣だった。くたびれたマントの下に鎧を着込んでいるが、どれだけの死線をくぐり抜けて来たのだろうか、鋼の表面の至る所に刀傷や矢傷が刻まれていた。

 

 剣士は首をなくしたオークの襟首を掴んで、ぐいっと引き寄せた。死体は仰向けに倒れて、少女の白い裸身は鮮血で汚れずに済んだ。

 

「なんだ、テメエは!」

「よくも兄貴を!」

「ぶっ殺してやる! この豚野郎!」

 

 三匹目のオークがそう罵った瞬間、剣士の長剣が月明かりに煌めいて、その野豚に似た顔を縦に切り裂いていた。

 

「豚に豚呼ばわりされる覚えはないぜ」

 

 剣士は不機嫌そうに呟いた。そして残るオークたちに剣の切っ先を向け、ただ一言だけを言った。

 

「来な」

 

 戦いが、突如開始された。

 三匹のオークたちは各々が鉈や斧を腰帯から抜く。しかしそうやって武器を構えた時、一匹は頭の上半分を断ち切られ、もう一匹は喉を貫かれていた。

 両手にナイフを持ったまま、最後の一匹は呆然と佇む。しかし状況を把握すると、もともと持ち合わせていない恥や外聞をかなぐり捨てて、背を向けて逃げ出した。

 剣士はこれを逃さない。地を蹴って猛禽めいて跳躍すると、逃走するオークの頭上から稲妻のような激しい一刀を叩き込んだ。血に濡れた白刃が、オークの頭を縦に両断して、胸にまで達した。

 

 余りに一方的な、屠殺も同然の戦いが終わると、剣士は剣に付着した血糊を懐紙で拭い取ってから、獣の毛皮で出来た袋鞘に納めた。

 夜気に肌をさらしたままの少女の裸身に、自分のマントをかけてやった。

 

「俺の名はガウアー」

 

 剣士はそう名乗った。

 

「お前の村の連中に雇われて、助けに来た」

 

 それを聞いて、少女はようやく安心したらしい。救出者の胸に飛び込んで、大声で泣きじゃくった。

 ガウアーは少女を片腕で軽々と抱えて、歩き出す。拓けた場所に出ると、そこに立派な体躯の馬が一本の木に繋がれて、主人の帰りを待ちわびていた。

 その鞍にまたがったガウアーは、少女を鞍前に座らせると、愛馬の腹を踵の拍車で打った。馬は夜の森の中を、歩み始めた。

 剣士のたくましい腕に抱かれて、馬に揺られながら、少女は自身をフィオナと名乗った。

 

「ガウアーさんは、どこの国の人なんですか? 私の村にそんな髪の黒い人はいないし、時々やってくる旅人にも、いませんでした」

「ずっと北のバトゥールという国から来た」

 

 だが、その国の名をフィオナは聞いた事もなかった。

 

「国の土地の半分以上が高い山の中にある。俺は雇われ兵として出稼ぎに出たが、雇い主が負けちまってな。そのままあちこちさすらって、剣の腕をひさいで*1生きている身だ。そして今回は、お前の村の者全員が、俺の雇い主って訳だ」

「村のみんなが……」

 

 フィオナがオークにさらわれて、ほんの一日しか立っていない。しかし彼女は、もう何日も村から離れているような気持ちだった。早く両親の顔が見たい。父に抱き締められたいし、母の作るキノコのシチューが食べたくてたまらない。

 

「この森を抜ければ、すぐに懐かしの我が家に着くさ。こいつは風のように速く走る。開けた場所に出ちまえば、あとはまっしぐらに突っ走るだけだ」

 

 ガウアーは少女の気持ちを慮り、優しい声でそう言った。

 フィオナはその言葉に安心し、剣士の広い胸板にもたれかかった。

 

 それから少しもしない内に、霧が出て来た。ガウアーは口の中で小さく唸る。乳白色のカーテンが、まるで悪意ある者のように、たちどころに視界を遮り始めたのだ。手綱を引き、馬を止めざるを得なかった。

 

「この森は、夜になるといっつもこうなのか?」

「わかりません……夜中に森に入った事なんてないし……」

「それもそうか」

 

 思わず発した問いの馬鹿らしさに、ガウアーは苦笑した。

 

 霧は馬上の二人を囲うように広がっていく……風もないのに、音も立てずに忍び寄る群狼にも似て、前後左右に立ち込めていった。その濃霧の動きに、何かの意志を感じ取ったガウアーは、腰の剣に手を添えていつでも抜けるように身構えた。

 フィオナは恐怖に駆られて縮こまる。

 

 霧が生き物のように迫ってきた。ガウアーはそれが血肉を備えた敵であるかのように、抜き払った剣で斬りつける。霧は鋼鉄の刃に蜘蛛の糸のようにまとわりつき、中空に固定してしまった。万力で挟み止められたかのように、押しても引いてもびくともしない……!

 

「どうなってやがる!」

 

 唸るガウアーの顔にも、霧がまとわりついた。白い闇が視界を塞ぎ、鼻や口に入り込んで呼吸を塞ぐ。

 フィオナの悲鳴が耳を打ち、左腕からか細い身体が引き離されるのを感じた。ガウアーは咄嗟に剣を手離して、少女を取り戻そうと右腕を伸ばしたが、その手は虚空をむなしく掴むのみ。

 窒息したガウアーは無念の内に気を失い、落馬した。

 

 

 夜露に濡れた地面の上で、ガウアーは息を吹き返した。宙に繋ぎ止められていた愛刀は離れた所に転がっていた。立ち上がったガウアーはそれを拾い、破損がない事を確かめてから、袋鞘にしまう。バトゥールの山野に巣食う高山豹の毛皮で出来た物で、その毛皮は彼が自分で仕留めた豹から剥ぎ取った物だ。

 

 霧は晴れていた。

 大声でフィオナの名を呼ぶが、答えるものは何もない。呼ばわる声は夜の闇に響いて、そして消えていった。

 

 どうしたものか……ガウアーは思案する。捜そうにも、手掛かりが全くない。あの怪しい霧が何だったのかもわからない。どこかの魔法使いによる薄気味の悪い魔法だったのか、それともあれ自体が意志を持つ魔物だったのか……何故敵は――ガウアーは姿なき誘拐者を明確に敵と認識していた――フィオナをさらったのか。

 いくら考えても、答えは見えない。苛立たしげに黒髪をガシガシと掻いたガウアーは、こうなりゃ虱潰しだとばかりに、愛馬に乗ろうとした。

 それを止めたのは、木々の間の闇からピリピリと伝わってくる殺気だった。

 闇の中から姿を見せたのは、人間と蜥蜴を掛け合わせたような怪物だった。鱗に覆われた裸身も、二又の舌をチロチロと覗かせる口も、針のような細い瞳孔の黄色い目も、爬虫類のものではあるが、湾曲した二本の後足で立ち、歩く姿には、人間を思わせるものがあり、それがガウアーに不快感を与えた。

 両腕の先端には指がなく、緩やかにカーブした長さ九十センチほどの爪が一本、左右それぞれに生えている。

 剣を袋鞘から抜き払うガウアーに、怪物は流暢な人間の言葉を投げ掛けた。

 

「我が主は、貴様の生き血を滴らせた心臓もご所望だ。主の晩餐となれる栄誉を、粛々と受けるが良い」

「俺の心臓も、ね」

 

 ガウアーは歯を剥いて笑った。つまりこの爬虫人間とでも呼ぶべき化け物の親玉が、フィオナをさらったという事だ。少女を救う手掛かりが向こうからやって来たのだ。

 

 怪物は左右の爪を、刀のように動かしながら、ジリジリと間合いを詰める。

 だがガウアーは、相手の出方をうかがったりはしない。先手必勝、機先を制して一太刀で仕留めるのが、彼のスタイルだ。身を屈めるや否や、藪から飛び出す猛虎めいて距離を詰め、鱗に覆われた腹目掛けて、豪剣を叩き付けた。

 怪物は両足をバネのようにたわませ、大きく跳躍してこれを避けた。そして、落下の勢いと全体重を乗せた爪での一撃で返礼する。

 ガウアーは剣を頭上に掲げてこれを受け止めた。爪は怪物に生来備わっている物のはずだが、ガウアーの手に剣を通して伝わったのは、慣れ親しんだ金属同士がぶつかり合った時の衝撃だった。

 その後も、一刀対二刀の打ち合いが続く。左右から素早く、鋭く繰り出される爪での打ち込みを、ガウアーは一本の剣でよく防いだ。剣と爪がぶつかり合う度に、火花が闇を照らし、金属音が静寂を切り裂く。

 しかし手数の違いは、徐々に剣士を追い詰めていった。鎧のおかげで致命傷は避けられてるが、対処しきれない攻撃が表面に新たな傷を刻んでいく。怪物は勝利を間近に見て、ニタリといやらしく笑った。

 更に打ち合う事、十数合。ガウアーの胸元のガードに、怪物の黄色い目はかすかな隙を見出だした。

 

「シャアッ!」

 

 すかさず、右の爪の切っ先をそこへ突き出す。

 たがそれは、ガウアーの巧みな誘導だった。迫る爪を、籠手で守られた左手でガッチリと掴んだガウアーは、怪物の右腕を肘関節の辺りから、渾身の一太刀で切断した!

 

「グアーッ!」

 

 濁った黄緑色の鮮血が噴き出る。

 苦悶の叫びを上げる怪物の喉元に、ガウアーは剣尖を突き付けた。

 

「テメーの御主人様の所に案内しな。そして言ってやれ、こいつの心臓はご自分でお取りくださいってな」

「がぁあああっ!」

 

 しかし怪物は聞き入れる様子はなく、残った左の爪を振り上げる。ガウアーは両手で握った愛刀を振り抜き、手首から切り落とした。再び、鮮血と悲鳴がほとばしった。

 

「案内しろっつってんだろ」

 

 手にした鋼鉄よりももっと暗く、冷たい声色で、ガウアーは言った。

 しかし怪物は、両手を失ったにも関わらず、従う様子はない。背を向けるや否や、太い尻尾を鞭のようにガウアー目掛けて振り回す。銀色の光が煌めき、ガウアーの剣が一閃して、これも切断した。だが、本物の蜥蜴同様にその切り落とされた尻尾が、足下で暴れ回る。

 彼がそれに気を取られた隙に、怪物は闇の中へと消えた。

 だがガウアーは慌てない。怪物は彼に自分の軌跡を教えていた。失われた両手や尻尾から滴り落ちる黄緑色の血が、月明かりにボンヤリと光っているのだ。

 ガウアーは抜き身の剣を引っ提げたまま、その不気味な血痕をたどって、森の中を進んでいった。

 

 

 フィオナは気を失ったまま、唯一身に纏っていたマントを剥ぎ取られ、細い裸体を剥き出しにされて、木に吊るされていた。低い位置にある木の枝に、蔓草で両手を縛り付けられて、万歳のポーズで。爪先がかろうじて、地面に届いていた。

 冷たい夜風に肌を撫でられて、目を覚ます。

 開いたつぶらな瞳に、さっき自分たちを襲った妖霧が立ち込めているのが映った。霧は一ヶ所に集まり、人の形に圧縮されていく。そして、一人の裸形の女へと変化した。髪は無機質な金髪で、肌は青白い。体つきは、成熟しきったメリハリのある艶かしい曲線を描いている。そして、生き血のような黒っぽい深紅の双眸で、フィオナをじっと凝視していた。

 かと思えば、ゆったりとした足取りで少女に近付き、肋の浮き出た脇腹を両手で撫でた。まるで巨大な獣の舌で味見をされたような恐怖と不快感が、フィオナの五体を駆け抜ける。

 女怪は彼女を抱き締め、耳たぶの凹凸を舌先でなぞった。

 

「お前はこれから、妾の糧となるのじゃ」

 

 ぞくぞくするほど甘い声で、子供にお伽噺を聞かせる母親のように優しく、語りかける。

 

「その生気を吸って、妾はまた新たな若さと美しさを保てる……この上ない栄誉であるぞ?」

「い、いや……」

「お前の意思などどうでも良い」

 

 女の手がフィオナの薄い胸を揉み、へそ回りを撫で回し、小振りな尻にも這い回る。長い舌が、胸の先端の桜色をくすぐった。

 妖しく蠢く指が、舌が、唇が、少女の清らかな肉体を這い回り、愛撫して、弄ぶ。大蛇に我が身を絡め捕られたような気持ちのフィオナだが、魔女の邪悪な愛撫を受ける内に、いつしか白い頬に赤みが差し始め、呼吸も恐怖とは違う理由で乱れ始めた。

 

 我が身を霧に変える力を持つこの魔性の女は、かつて魔導士によって召喚された異界の住人だった。しかし魔導士の束縛を断ち切り、元の世界へは帰らずに、あちこちを気ままにさまよい、若い女の生気を吸ってその若さと生命の糧にしているのだ。

 

「可愛い娘じゃ……たっぷりと可愛がって、至福の内にその生気をいただこう」

 

 魔女の指が、フィオナの金髪を鋤いた。そして、少女のまだ誰にも許した事のない唇に、自分の赤い唇を重ね合わせた。

「わ、我が君……!」

 

 闇の中からの呼び声に、女は眉根を寄せた。

 配下の爬虫人間が、フラフラとした足取りで戻ってきたのだ。しかし、見れば、その両腕と尻尾が切断されて、ボタボタと黄緑色に光る血を流している。

 

「タング……その様は何とした? 人間ごときに不覚を取ったのか?」

「お、お許しを……!」

「このうつけが!」

「うつけはテメーだ!」

 

 粗野な怒鳴り声が響いた。手負いの怪物の後を追ってきたガウアーが、抜き身の剣を振り上げて闇の中から躍り出る!

 タングと呼ばれた怪物は、最後に残された武器――すなわち、口の中に生えた鋸刃のような歯で、この男に挑みかかったが、それはむなしい挑戦だった。歯がガウアーの体に届く前に、ガウアーの剣が首筋に食い込み、そのまま首を刎ねる。黄緑色の血飛沫をほとばしらせて、タングの口を開けたままの生首は宙に舞った。

 

「お次はテメーだ!」

 

 ガウアーは勢いそのままに、女怪目掛けて鉄剣を振り下ろす。白刃が、雷に撃たれた樹木のように邪悪な美貌を唐竹割りに断ち割った。

 声も上げずに倒れた女をまたいで、ガウアーは血濡れた剣で蔓草を切断し、フィオナを解放した。しかし少女は白痴めいてぼんやりしたままだ。その頬をひっぱたくと、正気を取り戻し、二度も自分を救ってくれた剣士の首に腕を回して、すがり付いた。

 離れた所にある別の木の枝に、自分のマントが掛けられているのを見付けたガウアーは、少女の裸身をそれでくるんだ。

 

「帰ろう、今度こそな」

 

 フィオナはコクンとうなずいた。

 

「逃がさん……」

 

 おどろおどろしい声が響いた。

 振り向いたガウアーの目の前で、顔を真っ二つにされた女が、立ち上がってくる……!

 ガウアーはフィオナを背に、剣を構える。

 女怪は裸の女から、別の姿に変化し始めた。背丈は三メートルにまで伸び、青白い肌を針のような剛毛が覆う。腕も足も、筋肉が量を増して丸太のように太くなった。指先には鋭い鉤爪が備わり、断ち割られた顔は傷口を塞ぎながら、口からはみ出すほど長い牙を生やした獣面になった。

 

「霧の女王たる妾を傷付けた罪、死を以てあがなえ!」

「捻りのねえ台詞だな」

 

 ガウアーは変身を見届けた上で、歯を剥いて笑った。あの妖しい霧には一杯食わされたが、血肉を備えた敵なら、冷たい鋼の刃で立ち向かえる。

 

「霧の女王だと? 治める領土も、かしずく家来もいねえくせにほざいてんじゃねえ! テメーの抜け出てきた地獄に、俺が送り返してやるぜ!」

 

 見上げんばかりの巨体に、ガウアーは恐れず突っ込む。振り下ろされた剛腕を身を捻ってかわし、がら空きの脇腹に剣を叩きつけた。だが黒々とした剛毛が、鎧となって白刃を受け止めた。

 魔獣の拳が横殴りに、破城槌めいて飛んできた。かわしきれず、ガウアーは毬のように吹っ飛んで、木の幹に叩きつけられる。強烈な衝撃が内臓に響いた。体内から枯れ枝が折れるような音がするのが聞こえた。

 間を置かず鉤爪が振り下ろされる。鉄の胸当てに、複数の裂け目が走る。続く一撃で胸当てがちぎり取られて、たくましい胸板にも深々と爪痕が刻まれた。

 それでもガウアーは、迫り来る剛腕をくぐり抜け、腹を、足を、力任せに斬りつけ、突き刺す。しかし彼が頼みとする愛刀は、獣毛の守りを突破出来ない。

  それでも怯まず鉄剣を振り上げたところを、魔獣の両腕が捕らえた。まるで赤ん坊にするように担ぎ上げ、胴体を締め上げる。憎しみのこもった死の抱擁が、剣士の体内から空気を容赦なく絞り出していく。

 獲物が口から吐血するのを見て、魔獣は口をニタリと歪めた。殺意と、血への渇望で爛々と輝く双眸が、ガウアーの視線と重なった――瞬間、霧の女王の左目に灼熱の激痛が走る! ガウアーの剣が、眼窩に深々と突き立てられていた!

 

「がぁあああああっ!」

 

 おぞましい悲鳴が、森の木々を揺るがした。

 

「死ね、化け物! テメーにふさわしい地獄に帰りやがれ!」

 

 ガウアーは両手で柄を握り、渾身の力で剣を押し込み、捻る。冷たい切っ先が魔獣の脳に届くかと思ったが、その前に魔獣はガウアーを投げ捨てた。

 地面に投げ出された剣士の上に覆い被さった怪物は、左の眼窩から滝のように血を流しながら、巨大な犬歯で頭を食いちぎろうとする。

 霧の女王は痛みと怒りのあまり、選択を誤った。彼女はまず、相手の“牙”を奪うべきだったのだ。しかし剣は、ガウアーの手に握られたままだ。

 ガウアーは大きく開かれた口に、長剣を突き込んだ。霧の女王の後頭部から切っ先が飛び出した。

 

 数秒の静寂。

 

 魔物はゆっくりと、枯れ果てた巨木のように横倒しに崩れ落ちた。

 魔獣の巨体が、シュウシュウと煙を上げ始めた。否、霧へと分解されているのだ。しかしその霧には、最初の襲撃の時のような悪意が感じられなかった。

 夜風が霧を――死んだ魔物の成れの果てを散り散りに押し流していった。

 

 

 ガウアーは愛刀を杖代わりに立ち上がった。

 喉から込み上げてきた血を、無理矢理飲み込む。

 

「ガウアー、さん……」

 

 フィオナは黒髪の剣士に今にも抱きつきたかったが、その痛々しい姿を見ると、指先で触れる事すら躊躇われる。だがガウアーは、歯を剥いて笑った。

 

「さて、帰るか」

 

 少女の金髪を、荒っぽく撫でる。そして肩を抱き寄せ、タングの光る血痕を逆にたどって、馬を置いてきた場所まで戻った。

 痛む体に鞭を打ちながら鞍にまたがり、フィオナを抱えてその前に乗せる。

 森を抜けると、出迎えるかのように日が昇り、二人を照らした。

*1
売る・商いをする


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