「このままじゃ……梨々花がダメになっちゃうってことです」
奏さんの言葉が、教室内に静かに響いた。その声音には目を逸らすことを許さぬ気迫をそこはかとなく感じる。言っている文面は理解できた。けれど、中身まで理解できるかと言われればそれはまた別の話だ。
「ダメって、どういう意味ですか。私は」
「分かってますよ、あなたに悪気はないことくらい。あなたはあなたなりに部の事を考えて、部の事を思って動いているんでしょう。でもそれが必ずしも正しいとは限らない。そんなのは、あなたが一番分かってるでしょう。高坂先輩をそういう観点から批判したんですからね」
「……」
私はただ、これが一番合理的で、一番手っ取り早いからこういう手段を取っただけだ。議題の提案はパートリーダー会議でした方が良い。幹部だけで決める前体制を批判したからこそ、全体に諮ることを優先した。そんな私の考えを見透かすように、彼女は口を開いた。
「幹部だけで決めないって言うのは、幹部で情報共有をしないってコトじゃないですよ」
「そんなのは分かっています」
「分かっていたら、今日の提案を先に私と梨々花に伝えておくべきだったんじゃないですか? 部の運営に関する決定権を持っているのは私と梨々花です。それなのに、持っている情報量がパートリーダーと変わらないのでは意味が無いと思います。それとも、あなたの家の企業では、役員に根回しもしないで重要案件のプレゼンをするんですか? だから私は、あなたが
彼女の言葉に反論しようと思って、反論する言葉が見つからないことに気付いた。合理的な判断っていうのは、一番速度の出せる方式をとる事ではなくて、運営において一番良い結果をもたらすための方式をとることにある。私が見落としていたのはそこだろう。
彼女の言うことは正論だった。私が一番上にいるときは、私が発案しそれを伝えるだけだった。そうでない時も、情報は回って来ていた。それに対してこれまで深く考えたことは無かったけれど、多分それは根回し的なものだったのだろう。
「私はまず梨々花さんとあなたにアイデアを伝えて、こういうアイデアが出ているんだと梨々花さんの口から発案させるべきだったと、そういう事ですか」
「理解が早くて助かります。流石は学年一の才媛」
「……大変申し訳ありませんでした。以後、気を付けます」
「まぁ分かってくれればそれでいいんですよ、一応は。ただ、あなたはあなた自身のことを過小評価しているきらいがある。私はそう思います」
過小評価。その言葉に、私は眉をひそめた。私は私自身について、ちゃんと理解しているつもりだ。今回みたいにミスをしてしまうことはあれど。揚羽の言う通り、梨々花さんの立場についても理解しているつもりだし、それをどうにかするために何かしらの活動を行い実績を積み重ねることが肝要だと思った。今回の提案だって、メディア露出をすれば前面に出すのは部長だ。外から内側を作り上げていく。そういう意図も含まれていた。
「南中元部長、金賞獲得者、桜地先輩の妹、高坂先輩への反逆者、三年生に抗議できる唯一の二年生、全国ソロの実力者、B編成を見捨てなかったドラムメジャー。あなたを尊敬する部員も、慕う部員も多いです。それは、元南中出身者に限った話ではありません。あなたはどうも自分の地盤は南中出身者の層だけと思っているようですが。ありていに言えば、あなたの地盤は梨々花の何倍も厚く固い。それでも梨々花が部長である以上、申し訳ないですが、あなたにはもう少し工夫のある行動をしていただきたいです」
「……はい」
「ですので、今度から何かやろうと思ったら私か梨々花、出来れば両方に必ず相談してください。それは部の運営に関する事でも、演奏や指導に関する事でも。私は、情報はすべてこっちに集めておく体制を作りたい。もちろん、演奏や指導に関する決定権はそちらが持つべきですが、それでも部の長は梨々花です」
「情報こそを地盤が弱い梨々花さんの武器にする、ということですか」
「そういう物騒な話になると呑み込みが早いですね。言葉を選ばないのであれば、そういう事です。大人数がいるこの部では、いかに多くの情報を持っているかが人間関係を見るうえで欠かせない。私は二年間ここにいて、そう感じました。情報があれば、味方も作れる。桜地先輩もそう感じていたんじゃないですか? だから、最初に面談をした」
地盤はもちろんこれからの活動の中で固めていく。ただし、それと同時に何かが起こっても揺るがない体制を作る。そのためには、多くの部員についての情報を正しく把握する必要がある。奏さんはそういう結論にたどり着いたのだろう。交友関係が広い彼女らしい結論だったし、それが誤りだとは思えなかった。
「新一年生にも梨々花が部長であると思われるには既存の部員の態度が大事だと思っています。先輩が舐めている部長を尊敬する一年生はいませんし」
「だから、梨々花さんがダメになると」
「はい。あなたの言う事を肯定するだけの存在になってしまいそうで。仮に梨々花本人にそのつもりは無くても、周りがそう捉えてしまうかもしれません」
当然、私はそんな未来は望んでいない。私は先代たちに伝えた通り、梨々花さんが部長で良いと思っている。同学年で自分が運営者ではないという状況が初めての事態で、それ故に上手く対応できていなかった。多分、奏さんからみればそういうところが「お嬢様」 なのだろう。そして、この言葉には世間知らずという意味を多分に含んでいる。
「私の行動に問題があったのは理解しました。私も、あなたの言うような未来は望んでいません。これからは気を付けます」
「是非そうしてください」
奏さんは少し疲れた声でそう答えた。彼女からすれば、取り敢えず納得させられたのは良かったが、骨が折れたという感想なのだろう。その点に関しては申し訳ないと思う。私は付き合い易い人間じゃない……遺憾ながら。
「じゃあ、行きますよ。早く行かないと、練習に遅れるので」
「はい。……ありがとうございました」
「何がです? 感謝されるようなことを言った覚えはありませんが」
「こういうことを指摘してくれる人がこれまでいませんでしたから」
「そうですか。なら、私も与えられた役目を果たせているということですかね」
「役目?」
「いえ、こっちの話です」
少しだけ満足そうな顔で、彼女は廊下を闊歩する。その表情は、さっきまでに比べれば随分と柔らかいものだった。まるで自らの使命を果たせていることに喜びを感じているような。彼女の役目とは何なのか、私はさっぱりわからない。私に関連している何かであろうということは理解できたけれど、その詳細も誰に与えられた役目なのかも、私にはわからない。
揚羽は優しい。だから、梨々花さんの事に気を付けるようにとは言ってくれた。けれど、厳しくお前のここがダメだとは、彼女は言わない。それは彼女の優しさであり思いやりであるし、私はそういうところが好きだ。でも時にはズバッと言ってくれるのも優しさなのだろう。
奏さんがくれるものと、揚羽がくれるものはそれぞれ違う優しさから来ている。私はそれに対して何か、返せているのだろうか。そんなことを、ふと思ってしまった。
「お疲れ様です」
奏さんとの話を終えて、私は自分のグループが練習している教室に戻った。高坂先輩と一緒に各教室を回っている関係もあって、中々自分の練習をする時間が取れない。家で自主練習はしているけれど、合奏練習の時間が取りにくい。生徒が指導をするというドラムメジャー体制を真面目にやると、こういう風にしわ寄せがくる。この重い負担を三木さん以降の後輩にそのまま渡すわけにはいかない。だから、どうにか改善したいとは思っていた。
兄さんが奏者でなかったからこそできた体制を歪ながら引き継いでしまったのが全ての根本的な原因ではあるのだ。そのよくない伝統を断ち切るのも、私の務めなのかもしれない。
「申し訳ないです、お時間を中々合わせることが出来なくて」
「まぁ、仕方ないだろ。それも織り込み済みでこのグループになったわけだし」
このグループは私が呼び掛けて作り上げたものなので、その際にちゃんと説明はしている。私がいない時の方が多いため、その間の練習の主導は同じ二年生である月永君と奈良さんにお願いしている。
「今は休憩中ですか」
「さっきまでずっと合わせてたからねぇ」
「ありがとうございます」
奈良さんにお礼を言いつつ、鞄を置いて準備を始める。
フルートがいないけれど合わせるというのは、私ならいなくても上手い具合に混じれるだろうというある種の信頼に基づいていた。その信頼に応えるべく、私は私で自主練を進めている。流石にもう少し本番に近付いたら他所の練習は高坂先輩に投げていきたいと思う。
「録音したデータはありますか?」
「あるよぉ」
私の携帯に送られてきた録音データを再生する。このグループが演奏する「風の戯れII」は元々フルート用の楽曲だった。それをアンサンブル用に改変したものになる。透明感のある演奏が出来るかが肝になるので、音をはっきりとさせることとクリアな演奏になる事を心がけて練習するようにお願いしていた。
月永君は一年生から大会メンバーに入っているだけのことはあり、指導はある程度出来ると踏んでいた。それなりに面倒見は良いようだし、真島さんなんかはサンライズフェスティバルのステップ係の関連で繋がりがあったので、多少の交流は出来ているようだ。あまり他者と積極的にコミュニケーションを取るタイプではないと思うが、それでもちゃんと受け答えは出来ている。多分、奏さんとの相性が悪い……というよりお互いにバチバチしているだけで、それ以外とは普通にできるのだろう。
或いは、川島先輩が引退して、先輩としての自覚が出て来たのか。いずれにしても、来年は一人くらいコントラバスの奏者を加えたいので、後輩との交流は必須になる。それも考えれば、この面子になったのは良かったのかもしれない。
「どう?」
奈良さんの問いかけと思案している私に、一年生たちの視線がチラチラと注がれているのが分かった。私と言う存在がどう認識されているにしろ、ドラムメジャーからいかなる評価が下されるのかと言うのは気になるのだろう。
「良い調子だと思います。全体的にレベルも向上していますし……特にサックスのレベルが高くなっています。奈良さんの指導のおかげでしょう。真島さんは大分息がしっかりと続くようになってきましたね。音がしっかりと出せています。音量の確保は奏者に必須の要素ですから、良い傾向です。とは言え、体格的な問題もありますから、音量がある程度確保され次第音程の方も随時気を遣えるようになると良いでしょう」
真島さんが露骨にホッとした顔になった。フワッとした髪の毛が嬉しそうに鳴動している。彼女はやや低めな身長も相まって小動物的な感じがするのか、先輩や同期からよく可愛がられていた。マシュマロが好物だそうで、今も休憩中に食べていたであろう袋が鞄の中から覗いている。
「梶原さんも中盤のクレッシェンドが明確になりました。一気に大きくなりすぎてもいけないですし、前半のんびりしすぎて後半が詰め詰めになってもいけない。このバランス感覚は大事にしてください。一定の線を保つように大きくすること。これを意識するだけで綺麗に聞こえますので。河口さんも同様ですね。ただ、こちらはもっと音を出すことを恐れずに。聞こえない方がよほど問題ですから」
「「は、はい!」」
両名は思わずと言った様子で背筋を伸ばして返事をする。読書仲間ということで仲が良いと聞いているけれど、動きまで似ていた。梶原さんは純文学を、河口さんはSFをよく読んでいるらしい。
「他の一年生も上達していますね。加千須さんは丁寧に滾々と進められています。リードつくりと言い、その黙々とタスクをこなせる職人気質は上達に大きなアドバンテージですから、是非続けてください」
「はいっ!」
「中田さんはもう少し高度な練習でもいいでしょう。北山君とも相談しつつ、少しブラッシュアップしていきます」
「分かりました。よろしくお願いします」
大会メンバーになったことのある部員と無い部員ではやはり実力差がある。それは致し方のないことだ。私たち高校生に、たった数年の差はすさまじく大きい。秋子先輩みたいにそれを埋められないとは思わないが、あれは一部の特例の話であり、それを他の部員に求めるのは酷だろう。
それでも昨日の自分より少しでも上手くなっていく。その精神性を持って練習を続けることは大事だと思っていた。差は埋められないかもしれないが、必ずしもナンバーワンであることが大会メンバーになるために必要な事ではない。
「さて、取り敢えずこんなところにしますか。この後に一回合わせてみましょう。あと五分くらいしたら始めますので、それまではもう少し休憩していてください。休むのも、大事な事ですから」
「「「はい」」」
「では、よろしく。あぁ、そうだ。真島さん、こちらいりますか?」
彼女に手渡したのは、小さなキーホルダー。シマエナガという小さな鳥のぬいぐるみだった。愛くるしい見た目をしているので、昨今女子の間で人気らしい。女子のくせにらしいという言葉を使っている辺り、自分が流行に疎いのだと理解させられる。その辺は揚羽がカバーしてくれているので、教室で浮かないで済んでいた。
「揚羽……私の友人が駅前のガチャガチャを引いたそうなんですが、被ってしまったそうで。私はあまりこういうのは付けないですから、よろしければどうぞ」
「いいんですか?」
「えぇ、もちろん。可愛がってくれる方に貰われた方が、この子も嬉しいでしょう」
「ありがとうございます」
ペコペコと彼女はお辞儀をしている。好きな物を把握しておいてよかったと思うのはこういう時だ。被った~と嘆いている揚羽から後輩に好きな子がいるからと貰ってきて正解だった。喜んでいる彼女と、良かったねーと言っている周囲から、このメンバー内の関係性がちゃんと築けていることが分かって、それも大事な収穫だった。
一年生たちに気を遣わせないように、私は静かに教室の端に座る。ふぅと息を吐いて、今後の暫定的な予定を記した紙を開く。現在は十二月初旬。ここから年末まで、そう時間はない。自分の個人的な予定と部全体の予定。それにどう折り合いを付けながら練習計画を立てていくのか。この作業は中々難しい。
年末にはクリスマスコンサートがあるし、年が明けたら定期演奏会がある。この定演を楽しみにしている一般客は大変多いので、しっかりとした演奏をしないといけない。この曲選定もそろそろ始めないといけないだろう。三年生がいなくても北宇治の演奏に劣化はないと見せつけないといけない。今年は全国金ということもあり、いつも以上の集客が見込めた。
その後、三月がやって来る。三月は卒業式での演奏などもあるが、イベントの多いシーズンになって来る。またデパート演奏などがあるかもしれない。それに、例の沖縄リゾート開園に際して何かしらのイベントに出てもらうという話がある。あれがどうなったのか再度確認を入れないといけない。前向きに検討されているのなら、いい機会なのでこれを活かさない手はないだろう。要請があれば受ける方向での調整をパートリーダー会議で……
と考えて、そこで思いとどまる。先ほど言われたことを忘れるところだった。こういう情報や議題・話題の提案はあの二人を通してやらないといけない。そういう風に言われていたし、私もそうするべきだと思ったのに、染みついた物は中々簡単には消えてくれないのだろうか。報告連絡相談はされるものだったので、する側に立つとその難しさを感じてしまっていた。しばらくはこうしてちゃんと意識しないといけない。
「ままならないですね……」
「大丈夫か?」
「え? あぁ、はい。お気遣いありがとうございます」
「大丈夫ならいいけど。また久石に何か言われたのかと思った」
月永君はあまり大きくない声で、私を気遣った。彼と久石さんの関係性は決して凄く良いわけではない。むしろ、どちらかと言えば犬猿の仲に見える。とは言え、一見するとそう見えるけどそうじゃない組み合わせを私たちの世代はよーく知っていた。ともすれば、この二人もそうなのかもしれない。
「どうして、そう思ったんです?」
「いや、桜地と久石、あんまり相性よさそうに見えないから。いつもなんか言い合ってるし」
「あぁ……外からはそういう風に見えていたんですね。別に仲が悪いわけじゃないですよ。良いというわけでもないですけど。ただ何というか、腐れ縁みたいなものです。お互いに認められないところとか、腹立たしいところがあって、それでもまぁ悪くないかなと思えている。多分、そんな感じでしょうか。歯に衣着せぬくらいが、丁度いい時もあるんですよ」
言いたいことを包み隠しながら、それでもお前が察しろと言う態度で接してくる人間の方が多い。それよりは、チクチクと刺しながらもはっきりと言いたいことを言う彼女の方が好感が持てる。
「本音と言うのは、時に耳障りなものですから。良薬は口に苦しとも言いますでしょう?」
「俺は……そこまで好意的には思えない」
「良いんじゃないですか、別に。どう感じるかはあなた次第でしょうし。ただまぁ、お互いに知らないものですよ。その言葉の、後ろ側にあるモノは」
彼らはもしかしたら、たがいに何か欠けているものがあって、本当は二人ならいい具合にそれが満たせるのかもしれない。翼は一枚では飛び立てない。この二人の関係性も、或いはそれと同じことなのだろう。奏さんは月永君について、その背後を知らない。逆もまたしかりだ。当然、私はどちらも分からない。
ただ分かるのは、この裏側にあるものをしっかりと伝え合えたのなら、それはきっと素晴らしい事なのだろうという事。そして、そういう風に出来たのならとても幸せであろうという事だけだ。兄さんは彼の何を知っていたのだろう。それはどこにも書かれていなかったし、誰にも教えていないのだと思う。秘密にされたそこに、きっと月永君の一番大事な何かがあるのだ。
でも、それはきっと、私が知るべきことではない。そんな確信があった。
「クリスマスもお正月も帰ってこれないってさー」
希美先輩の声がぼんやりと頭の中に響いていた。
「涼音ちゃん? 大丈夫?」
「あ、はい。大丈夫です、すみません。半分寝ぼけてました」
「さっきソファーで爆睡してたもんね」
「ちょっと横になるだけのつもりだったんですけど……ちょっと疲れてるみたいで。それで、なんでしたっけ」
「凛音がさ、クリスマスもお正月も帰ってこれないって話」
「あぁ、なるほど」
兄さんから予定が正式に伝えられたのだろう。向こうのクリスマスは日本よりも盛大なイベントだし、新年はそこまでではないにしてもニューイヤーに関連したコンサートはあちらこちらで開催されている。コンテスト系も多いらしいし、それも相まって帰れないのだ。薄っすらと雪の積もった曇り空のベルリンの写真がこの前送られてきた。
「毎年こんな感じになるんじゃないですかね、恐らくは」
「だよねぇ。成人式どうするんだろう」
「それもありましたね……」
兄さんたちの成人式が行われるのは再来年の一月だ。成人式なんて兄さんからしたら今更かもしれないけれど、希美先輩の振袖を見ないまま終わったら一生後悔していそうな気がする。案外、その時だけはとんぼ返りしてくるかもしれない。それくらいのことは平気でするだろうという信頼があった。
「なんだか随分先のことみたいに感じてました」
「あっという間だよ、あっという間。私もあとちょっと大学行ったら、今年度はもう終わりだし。受験生だったのが遠い昔みたい」
希美先輩はどこか懐かしむような声音で言う。テレビではクリスマス商戦の話をしていた。窓の外はとっくの昔に暗くなって、チラチラと積もらないだろうなという粉雪が舞っている。ガラス一枚隔てたこちらの温かさは、向こうには届かない。
夜の空の奥に、星があるのだろう。街の灯りと部屋の明かりで見えないけれど。ぼんやりと外を眺めている私に、希美先輩は少しだけ優しく微笑んでから問いかけた。
「涼音ちゃんは、どうするの?」
「大学ですか?」
「そうそう」
「そう、ですね……」
「みぞれとか夏紀曰く、進学クラスだとこれくらいの時期にはもう聞かれてるんでしょ?」
「はい、まぁ。学部はもう決めてるんです。ただ、どこに行くのかは、まだ……。京都に残るのか、東京に出るのかも決めてませんし」
「えぇ!? 涼音ちゃん東京行っちゃうの?」
「まだ決めてませんけど、考えないのも良くないかなって」
「私的には残ってくれると寂しくないんだけどなぁ」
その言葉は嬉しい。私は希美先輩がそう言ってくれるだろうとは思っていた。でも、その言葉に甘えていいのかが分からない。医学部は六年かかる。来年と、そしてその後の六年間。合わせて七年も月日が流れる中で、希美先輩と兄さんの関係性は確実にもっと先に進んでいるのだろう。この家に、新しい声が響き渡る日もそう遠くない気がしている。
そこで私は、新婚夫婦の邪魔になっているんじゃないか。小姑がいつまでも家にいるのはいかがなものかと、そう考えてしまう事が多々あった。
「六年間かかりますから。色々と、ご迷惑になりそうなので」
「でも、ここは本来涼音ちゃんの家だよ?」
「はい、今は。でも、きっとそのうちそうじゃなくなっていくんだと思います」
「……そっか」
希美先輩は静かに天井を見上げた。そして、少しだけ考えた後、真っ直ぐ前の画面を見つめる。ただ、テレビを見ているわけではないのは伝わった。
「もちろん、それが自分で決めたことなら全力で応援するけど……自分の進む道は、自分がポジティブに思える方法で、選ぶべきだと思う。義務感とか、迷惑とかそう言うのじゃなくて、私はこうしたいんだって。迷うことはあると思うけど、私は自分がそういう重しになっているには嫌だな」
「……すみません」
「責めてるわけじゃないんだけどね。ただ、私も凛音もこの先どうなろうと、それは私たちで何とかしていくことだから。東京に行きたいなら行けば良いと思う。行きたくないなら行かなくていいと思う。行きたくても、もし辛くなったら帰ってくればいいよ。どんなに月日が経とうとも、どんなに世界が変わっても、ここが涼音ちゃんの家っていう事実だけは、変わらないと思うから」
東京。母と父の出会った場所。多くの夢が集い、そして壊れていく場所。摩天楼のそびえたつあの場所で、私は生きていけるのだろうか。一人暮らしか揚羽の提案通り一緒に住むのかは分からないけれど、どっちにしてもお金がかかる。兄さんは気にせず好きにしていいとは言っていたけど、出来れば負担はかけたくない。
私立よりは国公立。もし東京に行くのなら、それが最低条件だと自分で思う。いくら兄さんが色々助けてくれると言っても、私はそれに無条件に甘えられるほど面の皮が厚くない。それに、狙うのなら天辺だ。そうじゃないと、六年分の学費を出してくれることへの言い訳が立たないし、私のプライド的にもそうありたいと思っている。となると、一番上。東京の一番上は……東京大学理科三類。もうちょっと頑張らないことには厳しい場所だ。
「それに、東京がどんな場所かとか、どんな大学があるのかとか、よく調べた方が良いと思うよ。人生預けるわけだからさ」
「そう、ですね」
「じゃあ、行けばいいじゃないですか」
私たちの後ろから、声がかけられる。振り返れば、少し濡れた長い髪をタオルで拭きながら、寝間着姿の雫さんが立っていた。声をかけるタイミングを伺っていたのだろう。お茶が注がれたコップには水滴がたくさんついている。
「東京に進学する予定の人に話を聞いて、そのうえで実際に行ってみる。一日か二日くらい、時間は作れるんじゃないですか? 特に冬休みの中とかなら」
「行くんですか? 私が?」
「直接行かないと分からないこともありますよ、色々と。大学なんて大抵はいつでも入れるもんです。適当に選ぶと私みたいになるので、ご注意あれ」
雫さんはそう言うと、お茶を飲み干した。自分の夢を諦めきれないまま京大という恵まれた進路を飛び出した人の言葉には重みがある。知らないままでは何も出来ない。悩んでいたって、それは何の解決にもならない。行動しないことには現実は変えられない。この論理が正しいのなら、私がするべきことは決まっていた。
そういえば、真由先輩が受験校の下見も兼ねて冬休みに東京に行くと言っていた。そういう具合に、私も行くべきなのかもしれない。自分の部屋に戻って、カレンダーを見つめる。一日一日と時間は過ぎ去ってしまう。なら、善は急がないといけない。取り敢えず、冬休みの予定を固めてしまうことにした。
「もしもし揚羽?」
『どしたの、お涼』
「この前誘ってくれた冬期講習、まだ間に合いますか」
『全然間に合う! 明日資料渡すから』
「ありがとう」
揚羽が喜色の籠った声で答えてくれた。私を何回も誘ってくれていたので、きっとそれに応じたのを喜んでくれているのだろう。彼女の言葉に受け答えをしながら、窓の外の黒い世界に視線を移す。窓枠に、小さく雪が積もっていた。
当選するかは不明ですが、夏のコミックマーケットに応募しました。小説の第一章にあたる部分を大幅な加筆修正をして刊行する予定です。つきましては、表紙を書いてくれる人とかいないかなぁと募集中でございます。お支払い出来る額はあまり多くはありませんが……。もしいましたら、XのDMかハーメルンのメッセージまでご連絡ください。お待ちしております!!
また、もう一冊立華高校編として完全新エピソード(世界観は同じですが)を出そうと思っています。こっちはほとんど原稿は出来上がっているので、出せるかは分かりませんがお楽しみに。