「それでは、始めます!」
「お願いします、先生」
むん、と気合を入れている梨々花さんに頭を下げる。今日は二月の十三日。バレンタインの前日だ。アクアラークへの練習はまだまだ続いている中とは言え、こういう息抜きの時間も存在している。
私の家のキッチンは、エプロン姿の女子高生三人により占拠されていた。希美先輩は大丈夫かなぁという顔をしつつ教習所に行っている。最近仮免を取ったそうだ。教習所の中でも三十キロ出してビクビクするのに外で大丈夫かなぁ……と漏らしていたのを覚えている。まぁ、希美先輩なら何とかなるだろう。それに、免許を取ったら雫さん直伝のスパルタ運転指導が待っているのだし。
運転指導を受ける希美先輩と同じく(?)、私も料理の指導を受けている。講師は梨々花さん。アシスタントは奏さん。そして私が生徒だ。出来の悪い生徒だという自覚はある。
「本日はガトーショコラを作ります!」
「おぉ」
パチパチ、と私と奏さんが手を叩く。梨々花さんのご両親は飲食業を行っているためか、彼女自身もかなりの腕前を持っていた。
「まず、理系の涼音ちゃんに言います」
「はい」
「料理は化学です」
「……はい?」
「調味料を正確に測り、手順通りにこなす。理科の実験と同じです」
「なるほど」
「ということで、自己判断でやらないで、一個一個確認しながらやろう~」
「分かりました、梨々花先生」
普段と真逆の状況だった。
「まず、チョコレートを刻むよ~」
「は、はい」
自分の彼氏へのバレンタインチョコすら満足に自作できないのだから情けない話だ。付き合ってくれている友人二人に感謝しかない。揚羽は教えられるほど料理が上手くないと言っていたし、他に頼れるのは希美先輩しかいないけれど、あんまり迷惑をかけられない。そもそも生活リズムと言うか、希美先輩が料理を作っている時間に私が忙しい事が大半だった。
二人のサポートを受けつつ、なんとか生地が完成し、180℃のオーブンに放り込むことが出来た。無駄に高性能なこの電子レンジ兼オーブンは兄さんが購入してきたものだ。希美先輩の家にあるものよりいいやつらしく、毎日先輩は嬉々として使っている。
「これで何事も無ければ、あとは竹串を刺して、何もついてこなければ焼き上がりだよ」
「ありがとうございます」
「お茶飲んで良いですか?」
「どうぞ」
奏さんは冷蔵庫からペットボトルを取り出してコップに注いでいる。ガチッガチの初心者の指導をさせてしまって申し訳ない。少しずつ上達しているのだ、これでも。一応包丁は使えるようになったし、カレーくらいは満足に作れるようになった。ルーの裏に書いてあるレシピ通りになら、だけれど。
「涼音ちゃん」
「はい」
「私はちょっと不満があるよぉ」
「な、なんでしょう」
「それだよ、それ~。敬語だとなんか仲良くないみたいでさ」
「そう言われても……」
「揚羽ちゃんも言ってたよ」
「うぐ」
揚羽の名前を出されると弱い。普段色々と世話になっているし、夏のゴタゴタしている時には私に道を示してくれた。
「すみません。生まれてこの方ずっとこんななので……」
「まぁ、それも涼音ちゃんの良いところかもしれないけどね。副部長とドラムメジャーがずっと敬語で話してる部活ってなんか風通し悪そうだなって、部長としては思うのです」
「それは……確かに」
奏さんもバツが悪そうに目を逸らした。もしかして、今日三人でやっているのはこういう話をするためだったりするのかもしれない。だとしたら梨々花さんも結構策士だ。
「ということで、お料理強化のついでに親睦を深めようの会~。今から敬語禁止で行こう~」
「わかりま……分かったよ」
なんだか違和感が凄い。兄さん相手にはため口で話せているのに、どうしてだろう。身内以外でこんな崩した口調で話したことが幼少期を除き多分存在しないからだと推測した。ずっと丁寧に話すようにと教わって育ってきた。それが沁みついているのだ。けれど、それが友人に距離感を感じさせてしまっているのなら、直さないといけない。
もしかしたら、フルートパートのみんなも揚羽も言わないでおいてくれただけで、少し距離を感じていたのだろうか。時間は進んで、皆成長していく。それなら、私だって過去を言い訳にしていつまでも停滞しているわけにはいかない。しっかりと前に進んでいかないと。後輩や普通の子には敬語でも、ここにいる二人とか、パートの仲間とか、さやかさんや揚羽には崩した口調でもいいのかもしれない。
「違和感が凄い……」
「そんな笑いながら言わなくてもいいじゃないです……いいじゃない」
「普段はいつも通りにしていて良いと思うけど。梨々花が言いたいのは、もっと距離近付けて~ってコトだろうし」
「それは理解してま……理解してる」
なんかムズムズしてしまう。まだ慣れるのには時間がかかりそうだ。奏さんもかなり気を許した人以外には丁寧口調で話している。逆に言えば、低音パートのメンバーなどの存在にはため口だ。月永君にしているように若干適当な話し方こそ、彼女が一番気を許していることの印なのかもしれない。
だとしたら、私に話しかけている今の口調も、同じ枠に入れたという理解でいいのだろうか。そうなら、それは嬉しい事だ。最初はなんだこの人と思っていたけれど、まさか二年の月日が経過した結果こんな関係になるとは思いもしなかった。
「よーし、ますます二人が仲良くなったところで洗い物しちゃおっか」
「希美先輩が綺麗にしているキッチンを汚したままにするわけにはいかないしね」
このキッチンの城主は不安を感じつつも快く使用許可をくれた。かつて兄さんの城だったこの場所は希美先輩の色に染まっている。可愛い小物やら調理器具はこの一年で増えた。窓際には観葉植物まで置いてある。兄さんは料理をお願いしている引け目からか、希美先輩がお願いすると何でも買ってしまうので、その影響でトースターとフライパンが新しくなった。水回りも修理が入るらしい。
「ほら、主体が手を動かす。洗いものまでが料理だよ、お嬢様」
「分かってる、猫かぶり」
シャーとお互いに威嚇しあう。その中央で梨々花が呆れた顔で苦笑していた。少しは私も変われているのだろうか。綺麗に磨かれた銀色のシンクに映る自分の顔は、いつになく晴れやかだった。
「まぁ、これはこれで仲良しなのかな? 喧嘩するほど大親友って言うし~」
「「違う!」」
私の大親友は揚羽だけで十分だ。向こうがなってくださいとお願いしてくるのならやぶさかではないけど。と思って顔を見ると、向こうも同じことを考えていそうに思える。
ピーと音が鳴って、オーブンが完成を報せた。取り出した甘い香りのするケーキに竹串を刺す。するっと抜けたそれには、何もついていなかった。梨々花さんがOKサインを見せる。目標通り綺麗に完成させられた。あとは粗熱を取って型から抜き、完全に冷めたら粉糖を茶こしでふりかけて終わりだ。
「二人とも……ありがとう」
「どういたしまして~」
「ま、たまになら付き合ってあげてもいいから」
梨々花さんはニコッと笑い、奏さんは腕を組んでツンと視線を逸らす。ポーンと時計の音が鳴る。もう午後三時だ。お茶の時間にはちょうどいい。粗熱が取れるのにも時間がかかるだろうし、お茶でも飲んで待とう。お菓子なら祖母が希美先輩宛に持ってきたのが沢山あるのだし。
そう思いながら、私は急須を取り出した。この家にこんな賑やかな声が響くようになった。それは多分、兄さんが吹部に戻ったから。あの時は何を考えているのかと思っていたけど、結果的には多くの幸せがこの広すぎる屋敷にもたらされた。昔の私は、自分がこんな空間で過ごしているなど、想いもしなかった。友達という存在にそこまで価値を見出していなかった。
今は、そうでもない。友人と言う存在はいいものだ。もしかしたら高坂先輩もかつて私と同じように思い、そして今の私と同じような気持ちになったのかもしれない。視界の先にある窓の外では、雪に少しだけ陽光が指していた。
「久々に戻ってくると、懐かしいね~」
問題が解決しているわけではないけれど、それでも時間は進んでいく。その中で嬉しいこともあるわけで。今日はその一つである私立組の先輩たちが本格的に戻って来た日だった。真由先輩や沙里先輩たちはまだだけれど、秋子先輩は楽しそうに楽器をケースから取り出している。
「合格おめでとうございます」
「ありがと~。いやぁ、何とかなってよかったぁ。本番には強い自信があったんだけど、ちょっぴり不安だったから」
受験の不安と言うのはちょっぴりで済むようなものではない気がするのだけど、それでもそう言い切れる当たりが秋子先輩のメンタルの強さと言うか、心臓が鋼で出来ているのではというか、上手さの秘訣のような気がする。
「そうそう、合格したって言ったらさ、楽器買ってくれるって」
「ご両親がですか? 良かったですね!」
「私も麗奈ちゃんみたいにマイ楽器欲しかったし、大学でものんびり続けて行こうとは思ってるから。これで毎日ちょっとでも吹けるかなぁって」
マイ楽器というのは中々ハードルの高いものだ。トランペットもピンからキリまであるとはいえ、比較的買いやすい方かもしれない。少なくとも、みぞれ先輩のオーボエなどに比べれば。フルートも私のものがオーダーメイドの高すぎるやつなだけで、普通のは手が届く値段になっている。それでも高校生のお小遣いでは厳しい。
秋子先輩が大学生になってもトランペットを続けてくれるというのは、兄さんにとっても高坂先輩にとっても朗報だろう。プロの道を選ばなかったとはいえ、大学の吹奏楽もあるし、アマチュア楽団の道もある。吹奏楽だけではなく、アマチュアオーケストラとか、趣味で続けるということも出来るだろう。
一度見に着いた技術はそう簡単には消えない。高坂先輩が日本に帰国した時、一緒のセッションしている姿が容易に想像できた。それに、秋子先輩の受かった大学の吹奏楽部は毎年関西などで金を獲っている団体だ。北宇治で磨いた世界一直伝の技術は、そこでも大いに輝く事だろう。高坂先輩と同じ道を選ばなかったからこそ、スポットライトを浴びる機会は増えていくかもしれない。
「おはよう~」
「おはよう」
「あ、久美子ちゃんと麗奈ちゃん。おはよー」
「おはようございます」
音楽準備室に二人が姿を現す。今日から早速練習を始める日だ。最初の基礎合奏は一緒にやり、その後の個別練習はそれぞれ分かれてやることになっている。三年生の個別練習は先生と高坂先輩が中心だ。
「あ、涼音ちゃん。曲はこれになったから、秀塔大と桜地先輩にも伝えておいてくれる?」
「分かりました。拝見しますね」
久美子先輩から渡された紙には、プログラムが書いてある。曲目は全部で五つ。
・『ウエスト・サイド・ストーリー・メドレー』
・『マンボ No.5』
・『故郷の空 in Swing』
・『再会 ~未来への約束~』
・『Another Day of Sun』
演奏時間は合計二十五分ほど。MC、スタンバイ、予備の時間を含めると三十分ほど。これくらいが適正時間だろう。
「四番目の曲は、合唱曲ですが」
「それは合唱しようと思って。ユーフォ二人のユニゾンで。メリハリも必要だろうし、どう?」
「なるほど、それは面白いですね」
合唱曲を使う、というのは私に無い発想だった。ユーフォのユニゾンということなら合唱の声も掻き消えたりしないだろう。あとは指導者がいるのかという問題もあるが、そこは先生と高坂先輩がどうにか出来ると思う。
「では、こちらは私が伝えておきますね」
「お願い」
「合唱の指導も高坂先輩がなさいますか?」
「現状はそのつもり。もちろん滝先生に頼ることはあると思うけど」
「分かりました。兄さんも合唱指導は一応できるとは思うので、本番前の合わせで何かしらアドバイスできるように準備してもらいます」
この合唱曲は卒業ソングとして随分前に流行ったものだ。世代としては、丁度雫さんが高校を卒業するくらいの頃だろうから、十数年前になる。卒業ソングなので先輩たちが歌うのにも相応しいし、お客さんの中でも覚えている人には懐かしさを持ってもらえるだろう。
「懐かしいね、先輩と一緒にカラオケ行ったの」
秋子先輩の言葉に、高坂先輩が頷いた。そういえば、トランペットパートは新入生歓迎会で毎年やっているそうだ。
「私は兄さんとカラオケ行ったことないんですが……どういう感じなんですか?」
「他の人が歌ってる時にトランペットで伴奏してくれたりするから凄く盛り上がるよ~。あぁでも、麗奈ちゃん張り合って点数取ろうとしていつも叩きのめされてたよね」
「そんなことあったかしら」
「記憶修正しないでくださーい。優子先輩と一緒になって悔しがってたくせにぃ」
トランペットパートの常識人(?)だった秋子先輩が上手く場を回しているのが容易に想像できる。優子先輩も兄さんも高坂先輩も我が強いのでマイクを取り合っているのとか、点数でわちゃわちゃやっている景色が浮かぶ。なんだかんだ楽しそうな空間ではあるけど。
「桜地先輩って何歌うの?」
「結構なんでもかなぁ。洋楽も歌えるし、普通にヒットソング歌ってた時もあるし」
秋子先輩や高坂先輩の口から語られるのは私の知らない兄さんの姿。誰にでも家族には見せない顔がある。きっと、トランペットパートの子たちしか知らない思い出が幾つもあるのだろう。
「その話もいいけど、楽譜は確認した?」
「あぁ、先輩の曲の? それは当然したよー」
高坂先輩は顔を少し赤くしながら話を切り替えた。多分照れ隠しを誤魔化している。なんだかんだ秋子先輩には弱いのが分かる。色んな弱みをお互いに握り合っているのだろう。
「ソロは状況次第で三年生に回って来るみたいだから。現役の子たちにも頑張ってほしいけど、ただで譲るわけにはいかないでしょ?」
「だね」
「ちょ、二人とも。あんまりやりすぎないでよ?」
「分かってるよ~」
「分かってる」
「ホントかなぁ……」
久美子先輩が困り顔をしている。多分、理性としては分かっているのだろうけど、奏者としての本能が全力を発揮しないという選択肢を拒んでいるのだ。こういう人種を多分、音楽バカというのかもしれない。もちろん、誉め言葉として。
「とはいえ、他校の子もいるんだしあんまり負けられないから、譜読みだけは終わらせてきたんだけど……」
秋子先輩は自分のトランペットを構えると、息を吹き込んだ。その瞬間、埃っぽい音楽準備室の空気が一気に動いたような感覚がある。小日向さんやさやかさんが必死にやっているソロパートの演奏を、同じようなレベルで吹いていた。
秋子先輩が楽器に触れたのは引退以来初めてのはず。にも拘らず、ここ数ヶ月かなりの練習を積んできた後輩と同じ技量で演奏出来ている。それがどういうことなのか、言うまでも無かった。秋の時点で先輩と後輩の間にあった力量差はこれくらいあったということなのだ。
その演奏は、あの大ホールの中央で高坂先輩から勝利をもぎ取ったあの調べを思わせる。ぽかんと口を開けるしかない私と久美子先輩の視線が交わる。多分、同じことを考えていた。そんな我々二人の気も知らず、高坂先輩と秋子先輩は険しい顔をしている。
「いやー、多少は何とかなると思ったんだけど、下手になっちゃったなぁ」
何言ってんだこの人。失礼を承知でそういう感想が出てきてしまう。確かにレベルとしてはあの時私が感じたような隔世の感というか、頭幾つも飛び出た感覚はない。それでも現役部員と遜色ない演奏が出来ている。これで下手になったと言われては、今の子たちが泡を吹いてしまうだろう。ただ、高坂先輩はやはりと言うべきか秋子先輩と価値観を共有している。
「そうね。秀塔大の子には悪いけど、私は負けるつもりはさらさらない。ソロは私ね」
「うーーん、まぁそうやって油断してると良いんじゃないかなぁ~」
ニコニコしながらも、二人の目から火花が飛んでいる。なんですか、これと尋ねる私の視線に、久美子先輩は肩をすくめるしかないようだ。
「間に合う?」
「えっと、今がここだから、本番まで……」
秋子先輩は指を折っていく。
「これくらいかぁ。うん、全然余裕だね」
「そう来なくっちゃ」
高坂先輩は満足そうに頷く。どうやら数ヶ月のブランクを数週間で取り戻すつもりらしい。と言うか、高坂先輩はレベルアップを続けているので、その差も含めて埋めに行くつもりのようだ。私とて、高校受験の前には練習時間がかなり減ってしまったとは言え、それでも少しは楽器に触れて実力を維持できるように苦心した。それをこの日数でやろうとしている。眩暈がしてきた。これを目指させるのは果してドラムメジャーとして正しいのか。
ライバルとして理想的過ぎる秋子先輩の存在が、高坂先輩の感覚を壊しているのではないかと、そんな気すらしてきた。とは言え、久美子先輩も苦笑しつつ目の中に火が灯っている。真由先輩がもう少しで戻って来る。オーディションのように張り詰めたものではないとはいえ、リベンジをしてみたいなぁと思っていてもおかしくはない。
川島先輩や加藤先輩も練習を開始すれば、きっとすぐに感覚を取り戻すだろう。高坂先輩や秋子先輩が目立つだけで、この部の三年生全員がトップクラスの環境で教わり続けて来た頼もしい先輩たちだ。この期間を利用し、最後のノウハウ吸収も狙える。転がり込んできたチャンスを逃すわけにはいかなかった。
「一、二、三、四!」
メガホンを持ちながら声を張り上げる。まだまだ寒い冬空は曇天で、ぶ厚い雲に覆われその寒さを一層加速させていた。冬木立に新緑が芽生えるのにはまだ時間がかかる。それでも梅の花は咲き誇る季節になっていた。
五メートル八歩で歩く部員の姿は規則的で、整然としている。ただこうして俯瞰してみていると全体の完成度が気になる。高坂先輩も春にこんな気持ちだったのだろう。今回、私はドラムメジャーとして隊列の先頭に立たないといけない。優子先輩や高坂先輩の使ったバトンを今年も使うのだ。ちなみに、衣装はアクアラークが貸してくれている。採寸データは既に送信済みだ。
「前を向く、前!」
久しぶりにやったからかもしれないが、部員たちの動きはどこかぎこちなさがある。一応高坂先輩のスパルタで一度経験済みとは言え、それももう一年近く前の話。全くゼロから始めるわけではないのだけが救いだ。
「動きがかたいです! 楽毅を持たないでこれだと、楽器を持った時にスムーズに動けません。まずは身体に動きを叩き込む! 自分の目線よりもやや上を見ながら!」
今日は動きを叩き込むところで終わりかもしれない。パレードならやはり立華や清良女子には勝てない部分がある。私もマーチングが専門ではないし、せめてマーチング経験も豊富な真由先輩の力を借りたいところだった。とは言え、真由先輩は現在受験勉強の真っ最中。邪魔をするわけにはいかない。
「しっかり後ろの足で地面を蹴っ飛ばしていくイメージ! 頭の中で理想の自分の動きをイメージしつつ、それをトレースして!」
あんまり大きな声を出すのは好きではないけど、こればっかりは仕方ない。奏さん曰く、北宇治の持ち味は座奏だ。それは私も同感だが、依頼を引き受けた以上はしっかりこなす義務がある。
「どこ見てるんです! 前を見る、前だけ! 事故になりますから、絶対に注意をよそに向けない!」
クラリネットパートの方は注視するようにしていた。この前私に色々言われたのが効いたのか、最近は少し大人しい。なのでパレード練習への参加を許可したのだけれど、それがいつまで続くのかは分からない。根本的な問題が解決していない以上、どこかでまたぶり返す可能性もあるからだ。
奏さんが腕時計を叩くジェスチャーをする。休憩時間にしろ、という意味だった。確かに体力的にはこれくらいのタイミングで休憩にするのが良いだろう。私は頷いて、停止するよう呼びかけた。
「全体、停止!」
部員たちの疲弊した顔が私を見つめる。やる気がないわけではないが、単純に久しぶりで感覚を取り戻すのに苦労しているのだと思う。
「現状はあまり進捗が良くありません。楽器を持っていない状況でこれでは、楽器を持つとバランスが狂ったり重かったりで上手く行かないままに事故が起こる可能性があります。一度休憩を挟んで今日はこの動きを徹底します。よろしいですね?」
「「「はい!」」」
「部長、お願いします」
厳しい言葉になるが、暴言を言うつもりはないし、あくまでも指導は淡々と行う。ここで感情を込めるとマイナスな捉え方をされかねない。梨々花さんへの敬語は努めて外すようにしているけれど練習の時は別だ。ここはしっかり引き締めたい。私の視線が一同を見渡すと、空気が引き締まっていく。
「じゃあ休憩にします。ここでしっかり身体を休めてください。あと、冬だからと言って水分補給を疎かにしないように……」
梨々花さんが話している。しかし、空気は緩い。張り詰めていた糸がたわんでしまった時の感覚に近い。私の時の空気は雲散霧消しているような気配さえある。無意識に表情が険しくなる。
笑いあっている部員もいる。これが久美子先輩や高坂先輩の前だったらまずありえない態度だ。部長というのは難しい。特に梨々花さんの場合、空間にいる大半は同学年だ。どうしても親しみに起因する甘えが出る。そこである意味
私の価値観の中に部長が、というか部長に限らず誰かがちゃんとした話をしているのに真面目に聞かないという選択肢はない。無言でしっかりと傾聴する。それが当然と考えていた。まぁそれが行き過ぎると南中みたいになってしまうのだが。それにしても、現状はどうだろうか。楽しげでよい雰囲気と言うこともできるし、部長が舐められているとも言える。
とは言え、これも私の中の見方、私の中の価値観にすぎない。どういうアプローチをするのが正解なのか。それは、梨々花さん自身が模索するしかないのかもしれない。
「注意して良い?」
「……」
隣りにいる奏さんに小さい声で話しかけた。彼女は無言で全体を見渡し、次いで話している梨々花さんを見る。その後少しだけ逡巡して、そして頷いた。
「じゃあ、これから十分間休憩にします!」
「ごめんなさい、その前に一つだけ。パートリーダー、三木さんと義井さんは休憩中、集合してください」
いきなり全体に注意してもいいけれど、それではどこまで効果があるか分からない。それよりはパートという集団を上手く使って、そこで処理できるのならばしてしまいたい。高坂先輩のように名指しで注意するのも効果はあるかもしれないが、不必要な威圧感を真面目にやっている部員に与えたくはなかった。
休憩時間になり、何事かと指名したメンバーが集まって来る。正直北山君は長年の付き合いから何となく私の感情を察しているようではあった。梨々花さんは疲れている子たちや上手く行っていない子たちの間を励まして回っている。彼女自身も、決して楽ではないだろうに。
「当たり前のことを当たり前に出来ていない部員がいます」
「「「……」」」
「人が話している時は静かに、話し手の方を向いて、真剣に聞く。当然のことではありませんか?」
奏さんは何も言わない。ただ、腕を組んだまま立っているその態度が彼女の感情を示しているように思えた。梨々花さんの方針は支持している。それでも、彼女の優しさが舐められるのは愉快な気分ではないのだろう。それは私とて同じことだ。
「練習が楽しいのは大いに結構だと思います。楽しく練習できるのであれば私もそうしたいですし、それに越したことはないのでしょう。ですが楽しい練習と適当な練習は違います。音を楽しむ事、練習を楽しむことは、不真面目に取り組むこととイコールではないはずです」
「現状、私たちの態度が適当、ということですか?」
誰もが無言で私の前に立ち尽くす中、三木さんが声を挙げてくれた。彼女は私に物怖じしない。南中時代の記憶を引きずるパートリーダーが多い中、彼女は後輩でありながらも聞くべきところではしっかり聞いてくれる。それはありがたい事だった。同時に、パートリーダー各員にも見習ってほしいところでもある。
「それは少し違いますね。音楽や演奏にはしっかりと向き合っていると思います。練習中も、目の前の課題に取り組めています。ですが、どこまでを練習とするかの境界線が曖昧になっている生徒が一定数存在していると私は考えています。メリハリの出来ていない集団に上達はあり得ません。自分の態度がどうなのか、そういう基礎基本の部分から考えさせてください。よろしいですか?」
「「「はい」」」
「では、お願いします」
頭ごなしに注意しても聞いてくれるかは分からない。まずはパートリーダーを経由して、自分の態度について見直してもらいたい。それで気付ける人は気付けるだろうし、気付けない人もいるだろう。前者はそれでいいし、後者に関してはもう少し対応を考える必要がある。ある意味で、今のは識別なのかもしれない。今後どういう風に向き合っていけばいいのか、ということを考える際の大事な指標になるということだ。
「さて、どうしたものか……」
パートリーダーたちも休憩してもらい、私はため息を吐きながら水筒のふたを開けた。
「私は、ちょっとくらい波風立ってる方が健全だと思う」
「梨々花さんの胃は痛むけど?」
「それは私たちでフォロー。梨々花には、問題を起こさせない絶対的な女王も、問題の芽を丁寧に摘んでいく方策も、多分合ってない」
一年生に声をかけているその様子を見る限り、確かに奏さんの言う通りであるように思えた。優しい人は、舐められやすい。それを私はよく知っている。彼女のやり方と彼女の理想。それを叶えるためには、まだ時間がかかるのだろう。