練習は進んでいく。進捗はあまり良くはない。悪いと断ずるほどではないのだけれど、良いと言い切るのも難しい。もうすぐ卒部会に卒業式もある。そっちの準備もしないといけない中、練習にはある程度の片を付けたいのが本音だった。ついでに言えば、この部内に存在する仄かに気まずい空気感も解消したい。
ついでに言うと、久美子先輩にクラリネットパートの件が露見してしまったようだ。男子部員経由で塚本先輩にも伝達されていると見るべきだろう。ともすれば多分瞳先輩も知っているし、仲の良い秋子先輩も知っていそうだ。でも高坂先輩が知らなそうというのを見る限り、秋子先輩も黙っているのだと思う。絶対面倒な事態になるのが手に取るように分かるからだろう。
ただ、同時に良いこともあった。前期試験が終了し、真由先輩や沙里先輩たちが帰還してきたのである。三年生の主戦力の復帰は演奏の幅を大きく広げる。特に『アクアラーク・マーチ』や『プラージュ・レダン』の演奏においてはそれが遺憾なく発揮されていた。残念ながら不合格となってしまい後期試験に向けて追い込んでいる方々は手拍子係などをしてもらうことになっている。なにせ、その方々の復帰日は沖縄入りの前日だ。
「ワン、ツー、スリー、フォー」
高坂先輩の合図でフレーズが奏でられる。一二年生はパートで動きながら演奏する方法を叩き込んでいる最中だ。同時に音楽室が空くため、そこで三年生の練習を行っている。主導は高坂先輩だけれど、私がOKサインを出さないといけないという方針になっていた。現役生の判断に任せるという高坂先輩なりの配慮だと受け取っている。
「正直に言います。人数が少ないっていうのもありますが、大半が前より下手になっています」
だよねぇ、という空気感が音楽室を包む。下手になっていない方がおかしいというか、もう本調子を取り戻している人が約一名平然とした顔でトランペットパートの席に座っているのだけれど、それがおかしいだけだ。真由先輩や川島先輩のような熟練者も、多少の技術劣化は否めない。それは自分たちが一番よく気付いているのだろう。
「縦の音のライン、まだまだ精度をあげられます。音の粒の形を意識して、しっかりとタイミングを合わせましょう」
「「「はい!」」」
「それじゃ、とくに気になっているところをさらっていきます」
高坂先輩の指摘は各パートごとに細かく、一つ一つ行われていく。私としても気になるところは大半言われてしまったけれど、やはり修正は早いし理解力も早い。下手をすると三年生の方が上手い状態で出発することになりかねない。それは毎日練習中の現役部員としては避けたい。もうちょっとペースアップをするべきなのか、それとも今のままでいいのか。判断は常に難しかった。
「去年の春、新一年生が入って来た時から、私はずっと同じことを言ってきました。お客さんにとって新人かどうかなんて関係ない。その瞬間に提供された音楽だけが、お客さんにとっての評価対象だって。そしてその考えは今も変わっていません。私は、北宇治がこの程度だって思われたくない。北宇治が一番だって、聞いてくれるお客さんに感じて欲しい」
高坂先輩としても、兄さんの関係するプロジェクトに関与する以上、成果をしっかりと残さないとまずいのは事実だ。師弟関係と言うのは、傍から見るよりも多分複雑で難しいのだと思う。指揮棒を握りしめる手はいつになく固く、眉間にも皺が寄っている。
「時間が無いのは分かっています。みんな受験で大変だったし、受験していない私がごちゃごちゃ言うのは腹立たしいかもしれない。それでも大事なオープニングセレモニーでの演奏に企業がゴーサインを出したのは、私たちの全国での演奏があったからのはずです。私たちの、北宇治としての最後の演奏です。そこで有終の美を飾りましょう!」
最後、の二文字が先輩たちの腹にずしんと響いたようだった。私としても苦しい。沖縄で最後にやるステージ演奏。秀塔大と一緒ではあるけれど、両校にとって三年生と現役部員が一緒にやる最後の演奏になるはずだ。或いは、兄さんはそれを理解していてわざわざ機会を設けたのではないかと思えてくる。
演奏する曲の練習が終わった時点で、残りの時間は三十分ほどになっていた。そろそろ現役部員が帰還してくる。高坂先輩は時計をちらりと見て、指揮棒をしまった。ここからが私のメインの出番だ。合唱ではユーフォを除き全員歌うため、私が指揮を担当している。
スティックが刻む四拍子に合わせて、久美子先輩と真由先輩が演奏を奏でる。難易度自体は高くない。後は合唱を引き立てる演奏が出来るかが勝負だ。中学時代の合唱祭を思い出す。
「分かち合った喜び
分かち合った悲しみ
君と共に過ごした日々を
僕は一生忘れやしない
また会おう
また会おう」
普段から譜面を歌うこともあるので、歌唱力自体は高い。綺麗な歌声だ。合唱祭ではたいていの場合吹奏楽部員が指導者役をやらされるので、そういう意味でも慣れている生徒は多い。兄さんも中学時代にやらされたと言っていた。音大卒を指導者役にするのはレギュレーション違反な気もするが。
「ソプラノ、もう少しだけ音量をください。アルトは今のところ、ラー、この音です。出してみてください」
「「「ラー」」」
「はい、そうです、その調子で」
男子部員が少ないので、男子には頑張ってもらわないといけない。肺活量はあるはずなので、出そうと思えば女子ももっと出るはず。合唱部じゃないので専門的な指導は出来ないけれど、最低限の練習確認は出来ているはずだ。
「全体として、良いペースだと思います。本番までの日数はそこまで多くありません。卒部会や卒業式など、色々と予定も入っていきます。いつも通りではありますが、現状を把握し、そこから逆算した練習計画の試算をお願いします。先輩方なら出来ると、私は信じていますので」
当代のドラムメジャーである私の指示にも大きい返事が返って来る。実力面でもしっかり認めてもらえている、ということだろう。
「最後に合唱伴奏のユーフォですが……」
ユーフォのユニゾンは上手い。もちろん二人ともブランクはあるけれど、それも早晩埋められるだろう。ただ、少しだけ違和感がないわけでもない。色々あった二人だ、息を合わせて二人だけで演奏するという機会もほとんどなかったのだろう。遠慮しあっている感じがある。こういう時にはどういうアドバイスがいいのか。少し悩んで、言葉を見つけた。
「技術的には現状のペースで練習を続けてください。本番は屋外ですし、音量面でも問題ないと思います。あとはそうですね、もっと楽しんで演奏してください。よろしくお願いします」
楽しんで、という言葉が私の口から出てくるとは思っていなかったのか、高坂先輩はちょっとビックリしている。失礼な話だ。私だって楽しんで演奏するようにとアドバイスすることくらい出来る。
これで三年生の練習は解散になった。僅かな休憩時間を挟んで、私は次に現役部員の指導をしないといけない。
「あ、涼音ちゃん!」
練習での疲れなどまるで存在しないかのような笑顔を浮かべつつ、真由先輩が小走りで近付いてきた。
「合格おめでとうございます」
「ありがとう! それでね、折角東京に行ったからお土産を渡そうと思って」
「そんな、わざわざありがとうございます。遊びに行かれたわけではないのに、お気遣いいただいて……」
「受験終わって帰る日だったから、気にしないで。和菓子がいいかなぁと思って選んでみたんだけど」
渡されたのは東京の老舗和菓子屋のセット詰め合わせだった。私の好きなタイプのお菓子を捜してくれたのだろう。確か、銀座に行かないとお店が無いはず。受験会場がどこだったのかは分からないけれど、少なくとも銀座ではないだろうからわざわざ行ってくれたのだと思う。
「私の好きなやつです! 家で美味しく頂きますね」
「良かったぁ、前に好きって言ってたような気がするなぁとは思ってたんだけど、合ってて」
「覚えてくださってたんですね」
「うん、大事な事だったから」
そう言って真由先輩はにこりと微笑む。この部内で自然体で過ごせるようになってくれたのだとしたら、私としても誇らしい。真由先輩がこの部にいたことを良い思い出として、これからの人生を生きてくれることを願うばかりだ。
「東京駅の中で迷っちゃって。修学旅行とかで来てるし、関東に住んでたこともあるんだけど、やっぱりしばらく行かないと分かんなくなっちゃうよ」
「そんなにですか。梅田駅とどっちが迷うんでしょう」
「どうかなぁ。でも東京駅より新宿駅の方が凄いよ」
想像するだけで大変そうだ。そこを毎日何万人もの観光客やサラリーマン、学生が闊歩しているのだろう。京都や大阪も大都市とは言え、それでも東京よりは少ない。真由先輩が道に迷っている姿はどういうわけか結構想像できた。思っているよりはズボラだし抜けているところもある人なのだ。
「私も、もしかしたら東京の大学に行くかもしれないんです」
「そうなの? もしそうなったら、何でも言ってね。先に行ってる先輩として、色々案内するから」
「いいんですか?」
「もちろん! 北宇治での恩返しにもなるしね」
真由先輩は随分と楽しそうだった。確かに、誰も知り合いがいない町に一人でいるよりも、後輩とは言え知り合いがいるっていうのは心強いところがあるのかもしれない。真由先輩の家はどこになるのだろう。私が住むとすれば駒場に近いところになるのだろうけど……それはまだ当分先の話だし、そもそも試験に受からないといけない。
「ママちゃーん、練習行かないの~?」
加藤先輩がチューバの横から顔を出し、真由先輩を読んでいる。ママちゃん、というのは真由先輩のあだ名だった。女子が使っているのでギリギリセーフな名前だと思う。男子が行っていたらドン引きだ。
「今行くよ~。それじゃあ、またね」
「はい、また」
これからは真由先輩と話す機会もまた増えるだろう。もし余裕があれば、行進が上手く行っていない子のアドバイスをお願いしてみたい。マーチングにも精通しているだろうし、なにかしら私では気付けなかったリする問題や、上手い改善案を教えてくれるかもしれないし。それに、そういうのを抜きにしても親しい先輩が戻って来てくれるのは嬉しかった。
「それ、真由ちゃんからのお土産?」
「あぁ久美子先輩、お疲れ様です。そうなんです、さっき頂いて」
「私たちも貰ったよ、ほら」
久美子先輩が見せてくれた包み紙には東京ばな奈 「見ぃつけたっ」と書かれている。東京と言えば、の定番お菓子だ。東京駅の地下とかで見つけたのかもしれない。二年前の修学旅行で希美先輩が買って来てくれたのを思い出す。パートのメンバーで休憩時間に食べたのも、遠い思い出だ。
「卒部会は、全員参加して頂けそうですか?」
「うん、大丈夫みたい」
「それは良かったです。卒業式の後に沖縄で再会っていうのも少し変な感じがするかもしれませんね」
「あんまりしんみりとしないかもね」
それはどうかなぁと思う。奏さんとかは泣いてそうだ。でも、人前では絶対泣かないと思う。泣くとすれば、それは久美子先輩の前だけだろう。
「最近、どう?」
「随分と回りくどい聞かれ方をされますね? 奏さんから聞いていますよ」
「そっか……」
「まぁ、何とかなると思います。卒部会までには片を付けたいというのがこちらの正直な気持ちですし」
みんなで進んでいく、というのが梨々花さんの目指す理想像だ。そのために、彼女は走り回っている。不完全で未完成かもしれないけれど、それは私とて同じこと。
「梨々花さんは優しいですから、それが原因で上手く行かないこともあるでしょう。ただ、その理想だけは曲げて欲しくない。久美子先輩が最後まで、自分の想いを曲げられなかったように、ね。部長と言うのは本質的には頑固者の職業なのかもしれません。私も含めて、ですが」
「頑固者、かぁ」
「良いと思いますよ。意志薄弱より、よっぽどいいじゃないですか。真由先輩もそうですが、ユーフォはそういう人が多いですね。なんとなくですが。なんていうのでしょう、俗に言う、ユーフォっぽいということなのかもしれません」
「それ、昔先輩にも言われたよ」
「みんなそう思うってことですね、恐らくは」
俯瞰して冷静に見れば、久美子先輩も真由先輩もどちらも自分を曲げられなかった。高坂先輩を含めて、この辺全員頑固者の集まりだ。でもそれでいいのだと思う。理想や想いは時にはぶつかるかもしれないけれど、それでも最後にはしっかり形を成したのだから。
「厳しくするのは慣れていますので、元部長として、ドラムメジャーとして、彼女の一人の友人として、その理想が結実するように努めるつもりです」
「そっか。みんな、ちゃんと進めてるんだね」
「それはもちろん。貰ったものは沢山ありますから。梨々花さんも同じでしょう。優子先輩や久美子先輩の背中を見て、彼女は一歩を踏み出している。躓いている時もあるかもしれませんし、それを見るのはもどかしいかもしれませんが、どうか見守ってください。彼女はそれを乗り越えられると思いますから」
「ハッキリ言いきってくれるんだね」
「元部長としての勘、ではありますけどね。この手の勘は外れないんですよ?」
久美子先輩は目を細めている。彼女の一年はきっと、かなり波乱万丈だった。一年と言うか、この高校生活三年間がそうだったかもしれない。でもそれはきっと誰でもそうなのだ。多くの出会いがあって、別れがあって、それぞれの物語がある。久美子先輩には久美子先輩の物語があるんだ。
「私は、立派な部長になれた……かな?」
その言葉は私に聞いたのか、それとも漏れ出てしまった想いなのか、判別は出来なかった。でも、なんとなく私に聞いたのだと思えた。同じ強豪校の部長経験者として、もしかしたら久美子先輩はずっと私を意識していたのかもしれない。だから、この質問をほかならぬ私にした。けれど、そんな問いをする必要があるとは思えない。なにせ答えなど初めから決まっているのだから。
「あなたは迷いながらも、足掻いて、藻掻いて、決して立ち止まろうとはしなかった。その理想を貫こうと苦しみながらも前に進み続けようとした。あなたが公開オーディションの時に、スポットライトを浴びながら堂々と理想を叶えた姿を、私が忘れることはないでしょう。それが私の答えです」
私の言葉に、久美子先輩は安堵したような息を漏らした。その少し潤む目が、西日に照らされている。私の厳しい事しか言えない言葉でも、彼女の心に少しでも何かをもたらすことが出来たのかもしれない。そうだと良いなと、今は無邪気に思えた。
私がそうだったように、彼女の背負っていた重荷がやっと、取れたような気がしたから。
「で、そのなんだっけ、揉めてるのはどうにかなりそうなん?」
期末テストはとうに終え、もうすぐ二年生も終わりの中、帰りのHR終了後に揚羽に尋ねられた。例の恋愛トラブルに際し、情報提供を求めた関係で揚羽も一連の流れを大体把握している。
「一応目に見えて揉めてはいない……はず。冷戦状態?」
「あー、そういう感じね。ま、そういうのに理性論で対処しようって言っても、多分聞かないっしょ」
私たちの被っている状況をぴたりと言い当ててくるあたり、多分考えていたことは同じなのだろう。話を聞いて、それで解決するのならもうとっくの昔にこの問題は終止符が打たれている。そうなっていないということはつまり、理性的な話し合いでは解決できない領域ということだ。私の不得意な分野ということでもある。
「感情論で説得っても、難しいからねぇ」
「何かしらインパクトがないと。それこそ今までの感情を吹き飛ばすような、インパクトが」
私の丁寧語が外れたのはごく最近の話だ。揚羽が凄い喜んでいたので、これで良かったのだと思うようにしている。時々つい癖で出てしまうこともあるけれど。
「そうか、それなら……」
揚羽と話していて、思いついたことがある。上手く行くかは未知数だけれど、やってみる価値はあるかもしれない。彼女と別れて、足早に音楽室に向かった。ちょうどいい具合にそこにいた梨々花さんと奏さんを捕まえる。
「どうしたの?」
「ちょっと提案が。お芝居をしてみるのはどうかな、と」
二人の顔に?が浮かぶ。方策としてはこうだ。いい加減そろそろこの状況を何とかしたい。そのためにはまず、私が両名を呼び出し理性的な説得を試みる。それで何とかなったのならそれで良し。ただ、多分そうはならないだろう。
だから、そこで梨々花さんの出番だ。普段優しく、温厚で、まかり間違っても高坂先輩みたいに怒髪天で怒る人には見えない存在。それが梨々花さん。そんな人が本気で怒ってきたらどう思うだろう。通常の人はこう思うはずだ。やり過ぎた、と。騙しているみたいで気が引ける部分もあるが、上手く行けば事態が収まる、せめて鎮静化するくらいはしてくれる可能性がある。
あとは梨々花さんがしっかりと怒れるかどうかだが、優しく接するのとストレスが溜まっていないのは別問題だとは思うので、何とかなるんじゃないだろうか。いずれにしても現状ではよくない。事態を強制的に動かすのには、これくらいの勢いが必要なんじゃないかと考えた。
「えぇ……」
梨々花さんは作戦を聞いて困惑した顔になった。
「確かに理論上は上手く行きそうだけど、それ梨々花の負担が大きすぎない?」
「じゃあ、奏さんでも良いんだけど。それに、怒る練習はしておいた方がいいと思う。来年以降、何も問題が起こらないとは限らない。本当に問題になる行為が発生した時にしっかり怒れないのは致命的だから」
「それを言われると……賛成せざるを得ない、か」
当事者二名には申し訳ないが、実験台になってもらう。梨々花さんを強化するための踏み台だ。自分勝手な事情で周囲を巻き込んで困らせたのだから、これくらいの罰で済んでいる事には感謝した方がいい。
「それに、理性的な説得で言うことを聞いてくれる可能性もあるし。これまで私はノータッチだったから、試してみる価値はある」
梨々花さんは困惑し筒ではあるけれど、それを押し切って私は二人を呼び出した。何の用事で呼び出されたのかは、二人とも理解しているようだった。梨々花さんと奏さんとパートリーダーの北山君は念のため外で待機している。練習場所とは少し離れた教室を借りて、二人を前に私が立つ。二人とも私に見据えられて視線を逸らした。
「二人とも、何が原因で呼び出されたのかは十分に理解していると思います」
「「……」」
「大体の事情はこれまでの時間に既に把握しています。その上で、これまで何度も部長がアプローチをしてくれていましたね。私も、直接的ではないにしろ警告を行ってきたつもりです。最低限パレード練習には出してもいいと思える程度にはなってくれましたが、周囲に悪影響を及ぼしているのは事実です」
私の冷たい声が、冷え込んだ教室の中に響き渡る。これまで高校に入って二年間、ずっと封印してきた姿を見せている事だろう。心持だけは南中時代に戻した。ストレスと様々な感情に押しつぶされそうになり、虚像の希美先輩に縋っていた、あの頃の虚勢を張るしか出来なかった弱い私。思い出したくはなかったが、それでも効果があるのならやる価値はある。
「仲良くしろ、とは言いません。しかし同じパートであり、来年最高学年として後輩を指導していかないといけない立場である以上、最低限の協力を行えるようになっていただきたい。それが出来ない以上、私も看過することは出来ません。自主解決が不可能なら、先生方に委ねることにします。あなた達の担任の先生や滝先生、松本先生まで巻き込むことになります。それはあなた達二人の尊厳と言う意味でも避けたいとは思いませんか? 手塩にかけた後輩たちが協力どころかいがみ合っている姿を見て、高野先輩や高久先輩はどう思われるでしょうか?」
下を向いて俯きながら、二人は項垂れている。先輩の名前を出したことはかなり効果的に作用している。お世話になった先輩に今の惨状を見せるというのは耐えられない事だろうと踏んでいたけれど、実際その通りだったようだ。
「ドラムメジャーには分かんないよ……。モテるから絶対に振り向いてくれる人に、私の気持ちなんて」
平沼さんが呟くように言った。その言葉は自嘲でもあるけれど、私への精一杯の抵抗にも見えた。確かに、自分の容姿は恵まれている方なのかもしれない。けれど、自分の恋愛に関して余裕だと思ったことなど一回も無かった。容姿がいくら良くても、振り向いてくれるかなんてわからない。
それこそ、純一さんのタイプが私ではない可能性もあった。友人の妹になんて恋愛感情を抱いてもらえない可能性もあった。不安でいっぱいで、誰かにとられてしまうんじゃないかと何度も思った。この気持ちが一方通行ではないかと心配になる事だってある。それをまるで無かったかのように扱われるのは良い気分ではない。
人間の心なんてわからないものだ。何に恋愛感情を抱き、何に抱かないのか、いつそれが生まれるのか、消えてしまうのか、私たちにはさっぱり分からない事ばかり。そんな不安定で摩訶不思議なものに身を委ねながら日々を過ごしている。秋子先輩だって凄く可愛い人なのに、その恋は叶わなかった。顔だけで恋愛が上手く行くのなら、今頃高坂先輩は禁断の恋を成就させているだろう。
「私があなたの気持ちに共感を示せるのかどうかと、私が今話していることには関係がないのでは?」
私の声が一段低くなる。
「私は何の関係もないじゃん! なんも悪い事してないし!」
「はぁ?」
「先に好きだったからなんだってのよ!」
「でも、知ってたくせに!」
「知ってたら告っちゃ駄目なルールでもあるわけ!?」
ヒートアップする二つの声。私をそっちのけで言い争いを始める。
「私が話している最中なのですが。あまりにも続くようなら、部員の恋愛は一切禁止にしますよ。時代錯誤かもしれませんが、仕方ないですね」
「ドラムメジャーは黙ってて!」
「そうよ。特別な人には分かんない話なの! 大人ぶって、無関係ですって顔して上からごちゃごちゃ言わないで!」
割と酷い事を言われ、辟易した感情になる。それと同時に、ガラッと教室の扉が開かれた。いきなり登場した梨々花さんの姿に私も驚く。合図をしたら出てきてもらうつもりだったのに、今は何の合図も送っていない。完全に彼女がアドリブで出てきたのは明白だった。その顔は、演技ではない怒りみたいなものに満ちている気がする。
「二人とも、いつまで揉めてるの?」
「り、梨々花ちゃん?」
「私は、二人のお母さんじゃないーー! 何回も何回も何回も同じ話をオウムみたいに言われても困るんだけど! それに加えて涼音ちゃんが特別だからって何? いつも私たちのために奔走し続けてくれた相手に向かって言うことがそれ!? そういうことは、高坂先輩相手にちゃんと言うべきこと言って、一年生の練習を見続けてから言って!」
それだけ言うと、梨々花さんは乱暴にドアを閉めるとカツカツとどこかへ怒りながら歩いていく。慌てた声でそれを追いかける奏さんの声が遠ざかっていった。多分あれは演技じゃない。本気で怒っていたのだろう。あの怒りの雰囲気は私も驚いたし、さっきまで言い争っていた二人は完全にその意思に冷や水をかけられ、気まずそうにしている。
はぁ、とため息を吐きながら北山君は入って来た。眼鏡をクイと直し、縮こまっている二人の前に立つ。
「あのなぁ、剣崎部長メッチャ怒ってたぞ」
「「……」」
「お前らのことには俺が何を言っても事態悪化するだけと思って言わなかったけど、これだけは言わせてもらう。剣崎部長も久石副部長もずっとお前らのために色々考えてくれてたし、ドラムメジャーも練習で散々迷惑かけられてるのにこれまで穏便に済むようにしてくれてたんだからな。それを言うに事欠いて、どの口で言うんだよ。それに加藤も平沼も、高坂先輩に文句言ってたじゃないか。ドラムメジャーには俺たちが内心思ってても言えないようなことを、いつも言ってもらっている。一年とか黒江先輩みたいな弱い立場の存在にも寄り添ってる。それなのに言うのがそれかよ。それは違うだろ。剣崎部長もきっと俺と同じ気持ちだろうな」
北山君が淡々と言う。男子部員はパートリーダーと言ってもそこまで強く言えないことが多い。それでも北山君とて魔境南中吹奏楽部で副部長を務めていた。しかも一番よくない状態の私の側近として、部内での諸々に尽力してくれた。梨々花さんに大激怒され、北山君にも諭され、いい加減二人も目が覚めたみたいだ。青ざめた顔をして私を見ている。
「あ、あの、ごめん」
「気が動転して、つい……」
「別に気にしなくていいですよ。気分は良くないですが、もっとひどいことは沢山言われてきましたからね。ねぇ、北山君?」
「確かに」
中学時代には散々色々言われたものだ。それに、自分が言われるだけなら、自分の内心に留めておけばいい。家族の事や純一さんのことを言われたらちょっと冷静ではいられないかもしれないけれど。そういう意味では二人は最後の一線を守った。とは言え、兄さんに何か言おうものなら三年生にボコボコにされるし、希美先輩について言えばフルートパートと全面戦争だ。それくらいは分かっているのだろう。
「部内の恋愛が自由なのは、これまで歴代の先輩方が節度のあるお付き合いをされていたからです。だから、許可されている。兄さんを思い出してください。練習中の態度、あれが付き合っている彼女への指摘方法ですか? あれくらい公私をしっかり分けろとは言いませんが、他人に迷惑をかけない。それが最低限の条件であり、常識だと思います」
「「……はい」」
「恋愛なんていつまで続くかは分かりません。恋愛が悪いことだとは思いませんが、それに振り回されて大事な仲間を傷つけたり喪ったりするのは愚かしいと思いませんか? そこをしっかり考えてください」
「「はい」」
「では、梨々花さんを捜索しに行きますよ。北山君はパート練習の方に」
「了解」
思わぬ結果にはなったけれど、取り敢えずこれでひとまず前には進んだのかもしれない。梨々花さんの心にはダメージが入っていそうで心配なので、そこは奏さんとフォローしないといけないが。自分が言われたわけでもないのに梨々花さんがあんなに激怒するとは思ってもいなかった。あと数段階は全然問題なく乗り切るつもりだったのだけれど。
やはり、少しやり方が良くなかった。今回のはあまりにも劇薬すぎた。そこは反省しないといけない。私の取る方法は今回みたいに拗れに拗れた時以外は使わない方がいいだろう。そういう決意を胸に秘め、私は二人を先導して歩き始めた。