―堕ちてゆく。
天井を、床をすり抜けて。
手を伸ばしてくる人がいた。
助けを求める人、引き留めようとする人。
彼らは必死に、こちらへ手を伸ばす。
けれど。
涙を流す彼らの手を、俺は掴めなかった。
差し伸べられる手に、触れることすらできなかった。
蔦に飲み込まれる少年が、倒れ付す青髪の騎士が。
チョコレート色の肌の巨漢が、無精ひげを生やした青年が。
―――守りたかった、守れなかった彼女が。
かつての浮遊城を、空に向かって堕ちていく。
終わりの場所すらすり抜けて。
小さな竜を抱える少女が、無骨な鎚を手にした少女が。
あれ?
思わず、声が漏れた。
金の髪に、翠の瞳の少女が、弓を携えた、黒髪の少女が。
いるはずの無い二人が、そこに居た。
そこにいて、他のみんなと同じように、手を差し伸べてくる。
俺はその手を、とれなかった。
落ちて、堕ちて、墜ち続けて。
誰よりも大切な彼女の手すら、すり抜けて。
最後の最後。
紅く煌めく宮殿に、あの男が佇んでいた。
彼は、落ち続ける俺を見て。
何かを―――
目が覚める。
また同じ夢だ。きっとこの世界に来るときもこの夢を見ていたのだろう。最初は朧気で、けれど少しずつ鮮明になっていくあの奇妙な悪夢の正体には、すでに見当が付いていた。
「問題なし」
己の口から他人の声が紡がれることにはすでに慣れた。無意味とわかっていながら肩を回し、朧気に残っている先程までの夢の内容を反芻する。
クロウに聞いた話によれば、アバターはリンカー自身のコンプレックスや心の傷によって生み出されるらしい。
ならば、俺のそれが黒の剣士ではなく、星の王ということはつまり―――
「………流石に顔を出し難いな」
生活感というものを一切感じさせない、がらんとした家の一室で、そう独りごちる。分かりきったことに思考を回すのは非効率だ。
代わりに思い出すのは、この間乱入した七王会議とやらのこと。どうしてあんな真似をしたのか、自分のことだというのにわからない。
不思議なのは、あれほど尊大に振る舞い場を混乱させた上、クロウにも迷惑をかけただろうに、後悔や罪悪感といったものが全く湧き起こらないことだ。まるで義務、あるいは課された使命を果たしたかのような感覚は、本当に俺のものなのだろうか。二刀を振るうことに慣れていなかった、未熟な頃を想起する。
あの分離感覚、分かたれた、俺でない誰かが、自分の中にいるような。ありもしない妄想と切り捨てるには、それはあまりにも鮮明だった。
「でも、一人じゃ何もできない」
少なくとも俺は、そういう人間だ。彼女達のような強さを持っていない。あの男みたいにはなれない。
それにこの世界での行動方針を、自分はクロウに預けている。何をするにも、彼の所属しているネガ・ネビュラスというレギオンに入らなければ始まらないのだ。
ぐっ、と、部屋の扉を押し開ける。自分のものではないこの体にも、もう慣れてきた。どれだけの付き合いになるかは分からないが、既に愛着が湧き始めている。
―――いっそ、このまま
「いや、帰りたい」
戯言を打ち消すその言葉は、反射的に吐き出された。冗談にもならない、刹那の思考。破滅願望じみた一時の気の迷いを掻き消すように、必死に頭を振る。
それだけは、口にしてはならない。俺は彼女達のいる、帰るべきあの場所を愛している。のうのうとそこで生きている己自身が、気に食わないということが事実だとしても、戻らなければならないのだ。
薄暗い廊下を進み、並べられた靴の内から黒いものに足を通して外に出る。微かな温みと共に陽光が俺を照らした。嫌になるほど空は青い。けれどちっぽけな俺という存在を気にも留めていないみたいで、少し気が楽になった。
向けられる、数多の視線。殆どは、好意的ではない。訝しむ者、憤る者、そして片腹痛いが、恐れを抱く者。総じて言えば、異物を見るような、そんな目だ。その状況を居心地良く感じている自分に、苦笑が漏れた。アスナもクラインも、エギルも居ない攻略会議を想像する。疎まれる
「ネガ・ネビュラス、プロミネンス」
初めに口を衝いて出たのは、彼らの所属するギルド、否、レギオンの名前だ。この仮想の世界の中で俺が、ついぞ馴染むことのできなかったシステム。束縛を嫌った、というのは、自分を誤魔化すための建前だろう。今もまだ、喪失を恐れている。大事な者が増えるたびに、それを失ったときのことを考えて、怖くなるのだ。俺は彼女たちとは違って、弱いから。
「大体の成り行きと目的は把握させて貰ったよ。その上で、俺は君たちに手を貸したいと思っている。この申し出、受けてくれるかな」
それでも、やるべきことから逃げはしない。見方を変えれば、それも弱さなのかもしれないけど、守れもしない約束をした、無理だって分かっていながら、離しはしないなどとほざいたあのときの自分よりは、成長しているはずだから。あるいは、諦めてしまえる程度のちっぽけなこの命などよりも、ずっと大切なものがこの世界での行動に懸かっているという直感が、俺を突き動かしてくれるかもしれない。
「もちろん、無理強いはしない。断られたとしても決して口外することはないと、剣に誓おう」
一際強い殺気を放つ黒色の……、刃の集合じみた流麗なアバターの方を見据え、そう伝える。レギオンのマスターであるらしい彼女の許可は、必要不可欠だ。当然、この程度で先ほどまでの行動の怪しさを拭いきれるとは思っていないが、警戒を解かせる努力をするに越したことはない。彼女の隣に立つもう一人のレギオンマスターである緋色の少女アバターからは、若干怯んでいるような気配を感じた。少し、竜使いの少女の面影が見えた気がして、いつの間にか大人になっていた彼女に思いを馳せた。守られるだけの存在では無いと思っていたけれど、こうもあっさり越えられてしまうと、複雑になる。別に、自分が立派な人間だと考えているわけではないけども。
と、そこで無為な思考は打ち切られた。惜しげも無く放棄できる、という点だけが、こういうネガティブシンキングのメリットだろう。仮想の肉体が、何万回と繰りかえした抜き打ちの動作を反射的に行う。身体に染みつく、という言葉があるが、VR技術の発達によって拠り所を失った今、寿命はもう長くないのかもしれない。或いは、形を変えて使われる可能性も有るか。
それはともかく、いきなり斬りかかってきた漆黒のアバターの一撃を防御するのには成功した。左腕を弾かれた彼女は、追撃を行うことはなく後ろに退くと、構えを取りこちらの出方をうかがう。もう一方の剣を抜く必要性を見出せなかった俺は、空いた手をだらりとぶら下げたまま、それでも応じるように切っ先を向けた。
「お、おい、何急におっぱじめてんだよ!?」
均衡が生み出した静寂は、僅かだけ場を支配し、焦りの滲んだ少女の声に破られる。それと同時に、漆黒のアバター、《ブラック・ロータス》が殺気を緩めた。俺も剣を下げ、戦うつもりはないというポーズを見せる。どうにも自分は分かりにくいらしいので、少し大げさに。精一杯のおどけた表情を見せたつもりだが、顔面が固定されているこのアバターでは効果は見込めない。
「剣に誓う、その言の重さを確かめたかっただけだ。……私は、信用してもいいと思った」
「遠距離型にはわかんねえ対話で解決すんなよ……」
ぼやきながらも、緋色の少女アバター、《スカーレット・レイン》は後方のレギオンメンバー達に目配せしていた。自分は納得したが、それでいいかと尋ねる彼女と、リーダーがいいならと肯定を返す彼らの無言のやりとり。そこに確かな絆を感じて、胸の奥に温みが生まれるような心地がした。一拍、間を置いて。向き直った彼女が頷く。
「申し出を受け入れてくれたことを、心から感謝するよ。ありがとう」
そう言って、頭を下げる。こんなにも欺瞞だらけの男を信じてくれた人たちへの、精一杯の敬意を込めて。その優しさはいつか足を掬う。或いはもう、何かに躓いた後なのかもしれない。けれど、そんなくだらない理由だけで、非情さに逃げる人間では、強くはなれないのだ。彼女たちは強い。それを改めて、実感する。
先ほどまでの奇異の視線は、少し柔らかくなっていた。ロータスと交えた一合だけで、こうまで見方が変わるのは、この場に集う者達がみな、紛れもない戦士であることの証左だろう。彼らと肩を並べられる、そう思うと、胸が少し高鳴った。長く一人だったから、隣に誰かがいるその事実が、どれほど心強いか、知っているんだ。
貼り付けたような能面で、二レギオンのメンバーを睥睨する《スター・ロード》がどのような感情を抱いているのか、ハルユキには分からなかった。けれど、決して悪いものではない、という確信だけはあった。
それを得るために彼を注視していたからだろう。ロータスが少年のすぐ側に近づくまで、気づくことができなかった。ハルユキがその思惑を読み取るより先に、水晶色のバイザーから声が発される。
「一つ、聞いておきたいことがある。構わないか?」
ロータスの問いかけに、能面が振り返る。中性的な容貌を彩る、今時珍しいほどの漆黒が、その表情の異様さを際立てていた。揺れる長髪の質感はあまりにも滑らかで、一瞬目を奪われる。だから、首肯のみで意を示したキリトの行動を、見逃した。
「ありがとう。………本当は、いくらでも尋ねたいところなのだが、決戦が近い。そのカラーの由来、見当がついているなら、教えてほしい」
ハルユキがその意味を理解するのに、少し時間がかかった。確かに彼に聞きたいことは多い。先の手合わせのときにも感じたことだが、彼の剣筋は《グラファイト・エッジ》のそれを思い起こさせた。師弟関係からくるものではない。流派が同じ、それだけでは片付けられない酷似性。あれは、もっと近い、いっそ―――。
(でも、先輩が聞きたいのはそれじゃない)
そこで思考を振り払う。なんというか、それはもう、踏み込んではいけない領域だと本能で察知したのだ。きっと、ロータスも同じなのだろう。
彼女が尋ねたのは、彼のアバターの体色について。単純に言えば、キリトは黒い。人型であるゆえ、肌色の部分もあるにはあるが、主体となっているのは完全なる漆黒だ。ロータスと、同じ色。リンカーに与えられるカラーは、唯一無二のはずなのに。
だが、前例はあるのだ。あってしまっている。幾度となくハルユキ達を窮地に追いやった、最悪の仇敵。加速研究会なる組織の中核を担う謎のリンカー、《ブラック・バイス》。そのカラーは、紛れもない
恐らくロータスは、同色のアバターが存在するロジックを暴くためのヒントを、キリトから得ようとしているのだろう。それが奴らの正体に迫る手がかりになると踏んで。
そんな思惑を、彼は見抜いていた。だから、困ったように首を振ったのだ。望む答えを返せないと、知っていたから。
「俺の色は星じゃなくて、星空の色なんだ。星一つ無い星空。包むべき、守るべき明かりを失った、独りよがりの夜空。それが俺の、
そこに、どれだけの想いが込められていだろうか。ゾッとするほどの負の感情が、己だけに差し向けられていた。ハルユキは、自分がそれなりに自虐的な人間だという自覚がある。だから、余計にその異常さを思い知らされた。一体どんな経験をすれば、そう成り果てられるのか、ハルユキには想像もできなかった。
「ああ、ごめん。そうじゃないよな。でも、俺は君たちが思う以上にこの世界に疎い。腕っぷしくらいしか、取り柄はないんだよ」
自嘲気味にそう呟くときですら、彼の表情はピクリとも動かない。でも、違う。これだけのやり取りでも、ある程度は読み取れるようになってしまうぐらいに、彼の心は揺れ動いている。見えた側面がどんなに傷だらけでも、眼を逸らしはしない。ここに辿り着いた者は、大なり小なりそういうものを抱えている。そんな人たちが受け入れられる世界であって欲しい。そう思うから、ハルユキは戦うのだ。同じ願いを持った、仲間達と。
書けてしまった……。細々これからも書いてきます。よければ見守ってやってください