少しずつ更新を再開させていきます。
秘密の部屋は、すっかり息を吹き返していた。
スリザリンの継承者が去り、そこに住まう怪物は息絶えた――ように錯覚したのは一部の人間だけ。
実際には、
そして、この日も――セレネ・ゴーントはバジリスクを連れ添い、秘密の部屋を訪れていた。
セレネは常時湿った陰気な場所を訪ねるのは嫌だったが、その嫌悪感に目を瞑ってまで訪れなければならなかった。
実は、この「秘密の部屋」の最奥部――そこには、古書で埋め尽くされた書斎が眠っている。それも、サラザール・スリザリンが正当な継承者のために残していった貴重な古書だ。残念なことに、そのうちの多く――特に、闇の魔術に関する書物は、不自然なまでに紛失しているが、幸か不幸か、セレネが必要としていた錬金術関係の書物は残されていた。
故に、こうして時折――時間を見つけては、部屋に閉じこもるような日々を送っている。
『それで、主様は帰省なさるのですか?』
スリザリンの怪物――バジリスクのアルケミーは、石の上に腰を掛ける少女に問いかけた。セレネの隣には、幾冊もの古書が積み重なっている。
『帰省する。
ただ、煙突飛行ネットワーク――という方法を使ってだけど』
『煙突飛行? あの汽車で帰るのではないのですか?』
『安全面を考慮して、らしいよ』
ぱたん、と書を閉じる。
守護霊の呪文を覚えた以上、吸魂鬼を払いのけることは理論上可能だ。
しかし、あくまで
吸魂鬼の前で実際に守護霊を出したわけではなく、ためすわけにもいかない。それに、セレネが作り出した守護霊が実態をとどめておく時間は短く、せいぜい5,6秒程度。
そんなもの、実際には役に立たないだろう。
さらにいえば、守護霊で払っている隙を狙ってシリウス・ブラックが行動を起こさないとは限らないのだ。だから、セレネは未だにホグズミード村へ行くことが許可されず、学校内から外に出る唯一の方法で帰省するという特例処置を受けることになったのだった。
『まったく、主様だけがホグズミード村へ行けないなんて。前の主ですら行くことが出来たのに。
今度、こっそり秘密の抜け道を通って行きますか? 今でしたら、のんびりと土産物を購入することが出来ますよ?』
アルケミーは、静かに囁いた。だが、セレネは首を横に振る。
『遠慮しておく。それに、菓子類の土産なら貰ったから』
セレネは、ベッドの横に積み重なった菓子を思い返した。
ダフネやノット、そしてジャスティンから貰ったホグズミードの菓子だ。
ダフネは「マグルのお菓子に負けないくらい、美味しいはずだよ」と太鼓判を押してくれた。
それらは、どれもこれも奇妙な菓子だった。どんどん膨らんでく風船ガムや、舐めている間は浮き上がってしまう飴など、あっと驚く菓子ばかりだ。
この菓子と比較すれば、マグルの菓子は味気ない物にみえてしまうのも分かる気がした。
『でも……ジャスティンが買ってきてくれた飲み物は欲しいかもしれないな』
セレネはジャスティンがペットボトルに入れて来てくれた飲み物――「バタービール」を思い出し、つい頬が緩ませる。
バターの甘い香りが漂う炭酸飲料は、彼女の心をつかんだ。
一口飲んだ瞬間に、クッキーのような甘い味が広がっていく。未体験の味に、セレネは少しだけ感動してしまった。衝動に突き動かされるまま、ジャスティンに「お金は払いますから、次も買ってきてくれますか?」と頼んでしまったほどである。
……余談だが、この会話が親衛隊に聞かれており、部屋一杯のバタービールの樽が届くことになるとは、まだ誰も知らない。
「それにしても……不思議ね」
セレネは、ニコラス夫人がくれた石を触っていた。すべすべとした感覚を味わいながら、ぼんやりと呟く。
『どうかしましたか?』
『いや、吸魂鬼ってナズグールと似ているなって思ったんだ』
セレネは、「指輪物語」を思い出していた。
ナズグールとは、物語の鍵を握る「1つの指輪」を追い求める死霊のことだ。
奴らが叫べば、人の意志を砕いてしまう。黒いフードを被った彼らの吐く息は、生命力を弱めて気絶へと追い込む。
吸魂鬼は幸福を食べ物にするので少し異なるが、外見や生命力を弱まらせて気絶に追い込むという点は酷似している。
きっと、ナズグールと対面したならば、吸魂鬼と対峙した時のような恐怖を覚えるのだろう。
吸魂鬼もそうだが、ナズグールなんかとも出会いたくない。
『失礼ですが……ナズグールとは?』
『ナズグールは、さすがにトルーキンの創作か』
クトゥルフ神話も創作で、ニャルラトホテプなんて存在しない。
では、マグルの世界で語られる伝説の生物は架空の存在なのか? と思えば、フランケンシュタインの怪物は魔法史に存在するらしい。それに、シャルルマーニュ十二勇士のアストルフォが愛用していたヒッポグリフは存在する。アストルフォ自身が魔法を使用した描写は存在しないにもかかわらずだ。
「……いや、アストルフォは魔女と関係していたっけ?
だけど、フランケンシュタインはメアリー・シェリーの創作だとばかり……」
どこまでが真実で、どこまでが虚構なのか。
知識を深めれば深めるほど、その見極めがつくようになる。だが、調べれば調べるほど疑問が生まれる。
たとえば、魔法使いはマグルに存在がばれないように暮らしているにもかかわらず、何故アストルフォやフランケンシュタインのように、マグルへ魔法の存在が漏れているのか。
完璧に隠すのは無理だ、と断定してしまえば話は早い。
だが、フランケンシュタインや――錬金術師でいえば、パラケルススはマグル世界にも名を知られている。むしろ、断片的な記録をたどる限り、パラケルススは魔法で培った知識を広めようとしていた。
これは、いかがなものなのか?
真か嘘か。真相は知識を深めればわかるものなのか、それとも永遠に闇のままなのか。
『……それで、主。考えているところすみませんが、シリウス・ブラックについて、いかがなさいましょう?』
『あぁ、それも問題か』
セレネは憎々しげに言葉を返す。
ハロウィンの夜、シリウス・ブラックが侵入したのだ。
結論から言えば、教授陣は彼の尻尾を捕らえることができず、生徒たちは不安に駆られたまま授業が再開された。
いまもどこか、近くに潜んでいるかもしれない。
セレネは正直、
だが、スリザリン寮内では「スリザリンの継承者」と呼ばれてしまっている。ひょんなことから噂を聞きつけた殺人鬼が、「勝手に闇の帝王の称号を騙るな!」と襲ってくるかもしれない。
最悪、「眼」を使う――もしくは、アルケミーに戦闘を任せればよいのだが、それが公になった時の説明が大変だ。
シリウス・ブラックが身近にいると確定した以上、早急に始末しなければならない問題である。
なにしろ、過去の新聞記事によれば、杖の一振りで大通りにクレーターを作り上げた男だ。爆発系の魔法一発でピーター・ペティグリューという親友だった男を含めたマグル13人を殺したらしい。
あまり直接対決したくない相手である。
『……あの夜に校内に忍び込んだのは、黒い犬一匹なんでしょ?』
『はい。大型の黒犬一匹です』
『……となると、奴は無許可の
有名どころでいえば、変身術のミネルバ・マクゴナガルがそれに該当する。しかし、その習得には危険が伴い、魔法省の許可がなければ学ぶことすらできない魔法である。
『だからどうした、なんだけど。
その黒犬が近くに来たら、撃退する。もしくは、対話を試みる。それしか対策はないか』
シリウス・ブラックが「賢者の石」や「錬金術」の知識が深い、なんて話はない。
とんだ無駄な労力を使う羽目になりそうだ。セレネは嘆息する。
『もういい。今日は帰る』
石をポケットにしまい、適当に幾つかの本を手に取る。
本日も大した進展はなし。賢者の石の完成に近づく記述は見当たらず、フラメルの研究ノート解読作業も進まなかった。この調子では、ホグワーツを卒業する年齢になっても、賢者の石の制作など不可能。
ホグワーツの図書室や秘密の部屋並みに本が所蔵されている場所は、少なくともイギリス魔法界になかった。
いっそのこと、将来はホグワーツで教鞭をとることを希望しようか?なんて考えながら、セレネはアルケミーの頭に飛び乗る。
『お送りしますね、主。今日はどこまで?』
『図書室の横。それでいいわ』
アルケミーの移動手段である大型パイプは、ホグワーツ内に張り巡らされている。
いちいち女子トイレまで登って行くより、人目のつかない場所まで送ってもらった方が早いし、なにより怪しまれない。
『このあたりでいい。ありがとう』
セレネは適当な場所で降りると、パイプから出る。
豪雨が窓に激しく当たり、騒々しい音を出していた。外に出るのも億劫な嵐だが、図書室どころか城内の人気は少ない。
記憶が正しければ、今日は「グリフィンドールVSハッフルパフ」のクィディッチが行われているはずだ。今シーズン初の試合に、今朝は誰もが浮き足立っていた。
……クィディッチ。
セレネは箒が苦手だ。無論、それで飛べたらどれほど素敵なことなのだろう、と夢想することはあったが、地に足がついていない感覚が恐ろしく思えるのも事実。
何度か「スリザリンのチームに加わらないか?」と勧誘を受けているが、断り続けるのは、そのことが理由だったりする。
もちろん、誰にも真実を口外する気はないが。
「……ん?」
誰もいない廊下を曲がると、ひどく陰鬱な空気の2人組を見かけた。
ハーマイオニー・グレンジャーとロン・ウィーズリーだ。競技場から帰ったばかりなのか、雨と泥にまみれている。だが、そんな服装の乱れを気にしている様子はない。ただただ、黙って俯いていた。
……ハリーの姿がない。
グリフィンドールの
しかし、話しかける雰囲気ではない。セレネはそっと元の角に戻ると、別の道から寮に戻ることにする。
ハリー・ポッターが吸魂鬼に襲われ、箒から落ちたことを知ったのは、数時間後のことだった。
※
ハリー・ポッターは奇跡的に生還した。
ダンブルドアの呪文のおかげか、20メートル落下したというのに眼鏡1つ割れていない。ただ、吸魂鬼に襲われたこと、そして、愛箒ニンバス2000が暴れ柳に衝突し、木端微塵になってしまったことなど、精神的な疲労は計り知れない。
故に、その週末は入院生活を送っていた。
ハリーは抵抗もせず、文句も言わなかった。
ニンバス2000の残骸を傍に置き、まるで親友の1人を失ったような辛い気持ちに耐えていた。
そんな彼の元には、次から次へと見舞客が訪れる。
ハーマイオニーとロンは夜以外、つきっきりでハリーのベッドのそばにいた。
しかし、誰がなにをしようと、なにを言おうと、ハリーはふさぎ込んだままだった。
みんなには、ハリーを悩ませていたことのせいぜい半分しか分かっていなかったのだ。
吸魂鬼に気絶まで追い込まれる恐ろしさや、
「じゃあね、ハリー」
「また来るからな、元気出せよ!」
その夜、彼はハーマイオニーとロンを見送ると、そっと瞼を閉じた。
しかし、眠れない。
否、睡眠に落ちることはできる。
だが、何度も何度も吸魂鬼に襲われた時の感覚が襲ってくる。
吸魂鬼がハリーに近づいたときに、ハリーは母親の最期の声を聞いたのだ。
ヴォルデモートから自分を護ろうとする母の声。そして、ヴォルデモートが母親を殺す時の笑い声を。
「やめてくれッ!」
じめっとした腐った手、恐怖に凍りついたような哀願の夢にうなされ、飛び起きた。
「はぁ……はぁ……また、夢か」
ハリーは冷や汗をかいていた。額に手を置き、呼吸を落ち着かせる。
瞼を閉じるたびに、そんな夢をみる。夢だと理解していてもなお、彼を苛むのだ。
「ずいぶんとうなされていましたね、ハリー・ポッター」
唐突に、静かな声が上から降ってくる。
弾かれたように視線を向ければ、そこには眼鏡の少女が腰をかけていた。古びた本に目を落し、退屈そうな表情を浮かべている。
それは、絶対に深夜、出歩いたりしないような優等生――そう、彼女の名前は――
「セレネ……ゴーント?」