最近、セレネはあまり図書室に行かない。
秘密の部屋でだいたい事足りてしまうからだが、一応、秘密の部屋は閉鎖されたことになっている。おおっぴらに行くわけにはいかないので、時折は図書室を利用して勉強していた。
課題は、いよいよ明日に迫った。今回使用予定の魔法は、すべて習得し終えている。通常の予習復習はとうに終わっていたので、セレネは明日に備えて脳を休めるため、軽い読み物を探しに来ていた。
「『新説アーサー王と円卓の騎士』『フランケンシュタイン』『狂えるオルランド』。これ、全部マグルの図書館にもありそうね」
セレネは本棚の間を歩きながら、興味の引く本を取り出していく。
魔法界の文化の中にマグルの文化とのつながりを見出すとき、いつも興味が沸き上がってくる。いまでこそ魔法界とマグル界はほぼ完全に遮断されているが、このように痕跡は少しずつ残っている。魔法界の物語がマグルにも流れたのか、それとも、逆なのか。はたまた、それらは重なり合って共存していたのか。
「ゴーント、そんなところで何してるんだ?」
後ろから声をかけられる。
振り返ると、そこにはセオドール・ノットの姿があった。彼は『ニガヨモギの効能と特製』という本を抱えている。おそらく、魔法薬学のレポートで使うのだろう。彼はセレネの借りる本を一瞥すると、興味深そうに眉を上げた。
「意外だな、アーサー王伝説を読むのか?」
「読み物として面白いですよ。マグル界で知られる伝説との差異も感じられますから。この本を読んで、私は初めてアーサー王が女だったと知りました」
「いや、それは絶対に違う。魔法界でもありえない」
ノットは即座に否定してきた。
「アーサー王が女だったら、どうやったらモードレッドが産まれるんだよ?」
「この本によると、モルガンの魔法らしいですよ」
「ますますありえないだろ……」
小声で話しながら歩いていると、図書室の隅でハリーたちが大量の本を読み耽ってる姿が目に入った。疲れ切った顔で本を読み漁っている。ハリーはセレネが見ていることに気づいだろう。
「セレネ!」
ハリーは『トリック好きのためのおいしいトリック』に突っ伏していた頭を上げると、縋りつくようにこちらを見てきた。完全に疲れ切った目をしている。セレネは小さく息を吐いた。
「ハリー、明日に備えて寝た方がいいのでは? 目の下にくまができていますよ」
「うん、そうしたいんだけど……も、もしかして、セレネも課題の本を探しに来たの?」
「いいえ、私はただの読書です。……まさかとは思いますが、まだ課題が分からないのですか!?」
セレネはぎょっとした。
課題開始まで、とっくに24時間を切っている。いまから『泡頭呪文』を習得するのは至難の業だし、変身術で水生生物にしても、上手くやらなければ記憶をすべて失ってしまい、元に戻れなくなってしまう。そうなったら課題の解決もあったものではない。
「ハリー、卵を水につけてみましたか?」
「それはやったよ。でも、思いつかないんだ」
ハリーはぐったりとした声で言った。
「湖の中で一時間、息をしているなんて……僕、あの人から動物もどきになる方法を習っておけばよかった」
おそらく、彼の脳裏にはシリウス・ブラックの姿があるのだろう。彼は無登録の動物もどきで、大きい犬に変身できた。
「セレネはカエルに変身できるの?」
「カエルに変身させる方法は知っていますけど……そんな期待に満ちた目で見ないでください。カエルになったが最後、課題のこともすべて忘れてしまいますから」
「……そっか……」
ハリーはまた本の上に頭を落とした。
ロン・ウィーズリーはこんなときだというのに、セレネたちを警戒しているように睨んでくる。ハーマイオニーは『奇妙な魔法のジレンマとその解決法』という本をぱたんと閉じた。
「ねぇ、セレネはどうやって課題を解決するの?」
「ハーマイオニー、君は正気? 相手はスリザリンだぞ!?」
ウィーズリーが非難の声を上げるが、ハーマイオニーは彼を制した。
「いまはそんなことも言ってられないわ。ハリーは明日の課題を乗り越えないといけないもの。
それで、セレネはどうするの? まさか、鼻毛を伸ばして小さな浮き輪を作るわけじゃないわよね?」
「……ゴーント、お前……そんなことをしようとしていたのか?」
「まさかっ!」
ノットまで神妙な面持ちでこちらを見てきたので、セレネは一蹴した。
「誰がそんな方法をしますか!」
「オレはやってもいいと思うぞ」
第三者の声が聞こえてきた。振り返ると、そこには赤毛の男――フレッド・ウィーズリーとジョージ・ウィーズリーがいた。その後ろには、同学年のスリザリン生 ブレーズ・ザビニの姿もあった。完全に不釣り合いな二人である。
「ネタになる。笑い話にちょうどいいじゃないか」
「二人とも、こんなところで何をしてるんだ?」
ロン・ウィーズリーが尋ねると、フレッド・ウィーズリーが口を開いた。
「お前たちを探してたんだ。マクゴナガルが呼んでるぞ、ロン。ハーマイオニー、君もだ」
「どうして?」
ハーマイオニーは驚いた。
「知らん。少し深刻そうな顔をしていたけど」
「オレたちが二人をマクゴナガルの部屋に連れて行くことになっている」
フレッドとジョージ・ウィーズリーが交互に口を開いた。ハーマイオニーたちはひどく心配そうな顔でハリーを見ると、2人に連れられて去っていく。
セレネは残ったザビニ・ブレーズに問いかけた。
「……それで、ブレーズはどうしてここに?」
「それが、同じ理由なんだよ。マクゴナガルにセオドールを連れて来いって」
「オレを?」
ノットは困惑していた。彼もハーマイオニー同様、呼び出される心当たりがないらしい。彼はザビニに連れられ、少し不安そうな顔をしたまま去って行った。
図書館には、ハリーとセレネだけが残された。
「……このタイミングで、この3人を呼び出すなんて……」
セレネは考え込む。
ハーマイオニー・グレンジャー、ロン・ウィーズリー、セオドール・ノット。この3人に共通点があるとは思えなかった。しかし、課題前夜のタイミングで呼び出されるとは何か臭った。
ハーマイオニーとノットだけなら、なんとか共通点は見つかる。クリスマスのダンスパーティーで最初に踊った二人だ。ノットはセレネと、ハーマイオニーはビクトール・クラムと踊っている。だが、それを呼び出す意味が分からなかった。ましては、ロン・ウィーズリーはハリーと踊っていない。
だが、一応、セレネはハリーに確認してみることにした。
「ハリー、……あなた、ウィーズリーとダンスパーティーで踊りましたか?」
「まさか!」
ハリーは目を剥いた。
「僕がロンと? 踊るわけないじゃないか、男同士だよ!? ロンは友だちだから、パーティーの時はずっと一緒にいたけど」
「パートナーの子とは踊らなかったのですか?」
「うん、パーバティとは一曲だけ。あとは別行動だったんだよ」
「……なるほど」
セレネは腕を組んだ。
あのパーティーは、代表選手の「大切なもの」を探すためのイベントだったのだ。だから、わざわざ『代表選手はパートナーを連れてこなければならない』なんて規則がある。クラムの場合、それでハーマイオニーを見初め、めでたくそのまま「クラムの大切なもの」として選ばれた。
ハリーの場合は、パートナーは連れて来たが、彼女よりも友人を取った。だから、いつも仲の良い親友を「大切なもの」にした。
セレネの場合はどうなのだろう。セレネはセオドール・ノットとはそれなりの仲だと思っているが、「大切なもの」かと言われると首を捻ってしまう。ハリーのように、いつも一緒にいるわけでもないし、いる人もいない。
「……あいつ以外に候補がいなかったわけね」
たしかに、ノットがいなくなると困る。親衛隊の運営的な意味で。彼の後釜はおそらく現状いないだろう。フローラたちに隊長が務まるとは思えなかった。
「セレネ、もしかして、君はロンたちが連れて行かれた意味が分かるのかい?」
「え? ……ええ、おそらく彼らが代表選手の『大切なもの』に選ばれたのでしょうね。私がノットで、ハリーがウィーズリー、きっとハーマイオニーがクラムの大切なものなのでしょう」
そうなってくると、もう一つ――習得する呪文が増えてしまう。やや複雑な魔法なので、この時間から習得するのは少し困難かもしれないが、試してみる価値くらいはある。このまま寮に帰らず、秘密の部屋へ行くことにしよう。
「それでは、ハリー。また明日」
「待って、セレネ。セレネはどうやって課題を解決するんだい?」
ハリーは藁にも縋るような顔で、セレネを見つめてくる。
セレネは悩んだ。いまここで、ハリーに助け舟を出すことは簡単だ。しかし、ハリーは1位である。1位の彼がこのまま課題を解くことができなかったら、あっというまに最下位だ。最後の課題で追い返すのは至難の業だろう。そのすきに、自分が1位になればいい。たとえ、惜しくも1位になれなかったとしても、自分より格下のハリーに負ける可能性は0だ。
「僕、絶対にロンを助けないといけないんだ! 友達なんだよ!」
このまま見捨ててしまえばいい。
課題の内容は教えることができても、その解決法まで教えることはできない。自分たちは代表選手で競い合うライバルなのだからと、言ってしまえばいいのだ。
だが――
「……私は、泡頭呪文を使って新鮮な空気を確保します」
セレネは口を開いていた。
「あぶく……あたま?」
「しかし、これは数時間で習得できる魔法ではありません。慣れずに使用し、湖の最奥で切れてしまったら最後、貴方の命はないでしょう」
真実薬を飲まされたわけでもないのに、セレネの口からは滑らかに答えが出ていた。
「なので、貴方には鰓昆布をおすすめします。これなら、食べるだけで1時間は水中で活動をすることができるでしょう。たしか……『地中海の魔法水生植物』に書いてあったと――」
「その本、ネビルが持ってたよ!」
ハリーは目を輝かせると、勢いよく立ち上がった。
「ありがとう、セレネ! 助かったよ!」
「あ、しかしですね。肝心の鰓昆布を手に入れるためには、スネイプ先生の研究室に忍び込む必要が――……って、行ってしまいましたか」
ハリーはセレネの最後の忠告を聞かずに、図書室を飛び出して行ってしまった。あまりの勢いで走って行ったので、司書のマダム・ピンスが怒る声が聞こえてくる。セレネは黙ってハリーが去って行った方向を見ていた。
「……馬鹿な私。せっかくの勝機を無駄にするなんて」
鰓昆布を使えば、身体が最も水中に適した姿になると言われている。水かきなしで泳ぐより、ずっと速く簡単に進めることだろう。迷わなければ、一番最初に「大切なもの」がある場所に辿りつけるかもしれない。
セレネがこの方法を取らなかったのは、鰓昆布の入手方法が難しいからだ。通常の方法では手に入れることができず、ホグズミードの薬問屋を訪ねてみたときも、影も形も見当たらなかった。おそらく、スネイプの研究室にはあるだろうが、スリザリン寮生に甘く、名付け親であることを加味しても、彼と交渉して手に入れるのは至難の業になるはずだ。
それだけ、鰓昆布は希少価値が高いのである。
そこまでの労力を考えるくらいなら、てっとり早く泡頭呪文を使った方がいい。
「……まあ、それでも勝つのは私よ」
セレネは本を抱えると、貸出カウンターへ急いだ。
時間は有限だ。それまでに、ある呪文を習得しなければならないのだ――。
※
第二の課題、当日。
審査員、代表選手、そして観客は湖に設置されたスタジアムに集まっていた。ハリーはネビルとひそひそと話している。セレネの位置から、ネビルからハリーへ灰緑色のぬるぬるした海藻の塊を手渡すのが見えた。
「よしよし、全員揃ったな」
バグマンが満足そうに代表選手を見渡した。
全員、水着を着用している。
ハリーたち男性陣は短パン型の水着とシャツ姿だった。特にクラムはシャツが風でひらめくたびに鍛え抜かれた肉体が見え隠れし、ファンの女子生徒たちが黄色い歓声を上げていた。
フラーは競泳水着だ。美しすぎるラインがくっきりと浮き彫りにされ、男子生徒たちの目を集めていた。セレネはその隣でタンクトップに短パン型の水着を纏っていた。ホグズミード村の「グラドラグス・魔法ファッション店」に唯一あった耐寒性能が付与された水着である。しかも、ポケットがあるのでナイフをしまうことができた。
何人かの生徒が隣のフラーと自分を見比べ、あきらかに嘲笑する。それを見て、セレネは男子生徒たちを絞殺したい気分になった。……だが、よく見ると、彼らの背後にフローラたちの姿が見えた。セレネ自身が手を下さなくても、まもなく彼らには制裁が下されるだろう。
「あの……セレネさん。大丈夫ですか?」
気がつくと、セレネの後ろにはアステリアの姿があった。ダフネの腕を握りながら、こわごわ尋ねてくる。
「こんな寒い中、潜れるわけないですよ」
「心配してくれてありがとう、アステリア。でも、魔法があるから大丈夫ですよ」
「ね、アステリア。言ったでしょ。セレネは大丈夫だって」
ダフネがアステリアを安心させるように微笑んだ。それでも、彼女はまだ心配なのか青白い顔をしていた。セレネは彼女の頭にぽんっと掌を乗せた。
「私は大丈夫です。ここで、ダフネと待っていてくださいね。……それよりも、ダフネ。ノットは? 姿が見えませんけど」
「え? たしかに、そういえば見ないよね。昨日の夜から見てない気がする」
彼女の答えを聞き、セレネは確証を深めた。
正直、彼のことなどなんとも思っていないが、親衛隊の運営のためには生きていてもらわなければ困る。今も背後で過激派たちは、セレネを嗤った男子生徒たちを湖に突き落とそうとしていた。あの彼らを止められるほど実力があり、かつ良識人は、スリザリンには彼しかいない。
「さて、全選手の準備が整いました! 第二の課題は私のホイッスルの合図で始まります!!」
バグマンが陽気な声で話し始めた。魔法で拡大された彼の声は暗い水面を渡り、スタジアム全体に響き渡る。
「選手たちは一時間以内に、奪われた大切な物を取り返します。では、三つ数えます。いち……に…………さん!!」
ホイッスルが冷たく静かな空気に鋭く鳴り響いた。
スタジアムは拍手と歓声でどよめいた。セレネは他の選手を見ずに、真っ先に念のため「防寒魔法」をかけると湖に飛び込んだ。耐寒性の水着と呪文のおかげで、寒さは全く感じない。そのまま杖を振るって「泡頭呪文」で新鮮な空気を確保すると、セレネは最後の呪文を唱えた。
「『ホメナム レベリオ‐人現れよ』!」
人が隠されているなら、それを探し出す呪文を唱えればいい。杖先から明るくて白っぽい銀色の物質が、液体のように流れ始めた。液体は細い道のように、湖の奥底へと続いていく。この道筋を辿って行けば、確実に最短距離で人質の元へ辿りつくことができる。
セレネは右手で杖を握ったまま、勢いよく水を蹴った。
もつれあった黒い水草が、左右にユラユラと揺れる森。泥の中に鈍い光を放つ石が点々と転がる平原。
小さな魚が、私の脇を銀の矢みたいに輝きながら、通り過ぎて行った。淡い緑色の水草が、目の届く限り先まで広がっている。1メートルにも満たない水草が生える様子は、まるで手入れの行き届いていない牧草地のようだった。このように水草が集まっているところには、近づかない方がいい。
水草に足を取られて溺れてしまうかもしれないし、何かが隠れているかもしれない。実際に、水草と水草の合間から、長い指のようなものが揺らめいているのを見た気がした。
「……スイミーとは大違いね」
昔読んだ絵本を思い出す。
あの本での水中は、美しいもので溢れていた。虹色のゼリーのようなクラゲ、ブルドーザーみたいな伊勢エビ、見えない糸で引っ張られている美しい魚たち――。
「……まあ、あれは海だし。違うのは当たり前か」
セレネは泳いだ。暗い湖の底に向かって。
そのうちに、水草の林の中を道筋が示していた。セレネは嘆息した。明らかに怪しい林を通らなければならないらしい。やはり、一筋縄ではいかない試験である。林の中を泳ぎ始めてすぐ、視界の端に水魔を捉えた。小さな角のある魔物で、草の隙間からこちらに長い指を伸ばしている。セレネは杖先をまっすぐ水魔に向けた。
「『ステューピファイ‐麻痺せよ』!」
セレネを狙っていた水魔は赤い閃光に当てられ、白目をむいて流されていく。しかし、水魔は一匹ではなかった。次から次へと現れる。一匹一匹相手をしていたのでは埒が明かない。
「『イモビラス―動くな』」
セレネは周囲すべてに向けて、円を描くように呪文を放った。
すると、数多の水魔は石になったかのように動きを止めた。固まったまま傍をふわふわと漂っている。セレネは水魔の頭を蹴りながら先に進んでいく。
水魔の林を抜けると、水草がゆらゆら揺れる以外に動くものは何もなかった。
「探しにおいで 声を頼りに
取り返すべし 大切なモノ
…時間は半分 ぐずぐずするな
求めるモノが 朽ち果てぬよう」
道筋の方向から、卵の歌が聞こえてくる。歌の細部が違った。おそらく、もう制限時間が30分過ぎてしまったということだろう。だが、いずれにしろ、道は合っていた。セレネは口角を上げると、歌の聞こえてきた方へ思いっきり水をかいた。
黒い泥地を通り過ぎ、しばらく進むと、藻に覆われた石の住居が、薄暗がりの中から突然姿を現した。あちらこちらの暗い窓から覗いている顔、顔、顔。おそらく水中人だろう。彼らの肌は灰色味を帯び、眼は黄色く、首には丸石を繋げた首飾りを巻きつけていた。鎧をまとい槍を構えた威圧的な雰囲気を醸し出している。
だが、彼らは襲ってこない。遠巻きにこちらを眺めながら、ひそひそと囁き合っている。
集落のような場所を抜けると、広場にたどり着いた。その真ん中で、水中人のコーラス隊が歌っている。コーラス隊の背後には、荒削りの大きな水中人をかたどった石像が立っていた。
「……あれね」
セレネは石像に向かって泳いだ。
石像の尾の部分に、人が5人ほど繋がれていた。
ハーマイオニー・グレンジャー、ロン・ウィーズリー、セドリックのパートナー、セオドール・ノット、そして銀髪の小さな女の子。
魔法で眠らされているのか、まったく動く様子がない。それぞれの口元には泡頭呪文がかけられていた。
誰の人質も解放された様子がないので、セレネは自分が一番かと思った。しかし、よく見ると石像の端にハリー・ポッターが浮かんでいる。彼はセレネからの情報で、自分の人質がロン・ウィーズリーであることを知っているはずだ。事実、よく見ればウィーズリーを縛るロープが切られている。あとは、彼を連れて地上に泳げばいい。
なのに、ハリーは何もしないで浮かんでいる。
せっかく1番になったのに、なぜぼんやりしているのだろう。セレネにはハリーの考えがまったく分からなかった。
「もたもたしていると、抜かされますよ」
セレネはハリーに向かって叫んだが、彼の口からはボコボコと泡が出るばかりで何を言っているのか分からない。だが、彼が何かの理由で動かないなら好都合である。
セレネは自分が一位になるために、セオドール・ノットのもとへ進んだ。
ポケットからナイフを取り出した。頑丈そうなロープは女の腕力では容易に切れそうにない。しかたないので、セレネは眼鏡を少しずらした。そして、浮かび上がってきた『死の線』に沿って切っていく。セレネの腕ほど太いロープも、直死の魔眼にかかれば脆いロープに過ぎなかった。
「せっかく課題に参加できたのに、最下位になるつもりですか? 早く来なさい」
セレネはハリーに向かって叫ぶと、彼に背を向けた。意識を失ったままのノットを抱えて湖面を目指す。水中で随分軽減されているとはいえ、男子生徒の全体重が自分に圧し掛かってくるのだ。いくら水を蹴っても、なかなか上へ進まない。セレネの悪戦苦闘を楽しむように、水中人たちが周りを泳いでいた。彼らの持つ槍がちらちらと光っている。吹き矢を持っている者もいたが、やる気がないようにボンヤリ漂っていた。
「……もういい」
セレネは泳ぐことを諦めた。
これでは、きっと後から来る17歳の代表選手に追い越されてしまう。単純な力や体力では、他の代表選手に絶対に敵わないということは分かり切っていた。
セレネは上昇魔法を使おうと、杖を上に向ける。
これで確実に一位を目指すのだ。
「アセン――ッ痛!」
呪文を唱えきる直前、杖を握っていた腕に鋭い痛みが奔った。あまりに唐突な痛みに、セレネは右手を緩めてしまう。右手から杖が滑り落ち、くるくると回りながら湖底に落ちて行った。
「ここにきて妨害?」
周囲から濃厚な殺気を感じた。
水中人だ。先ほどまで敵意の欠片も感じられなかったのに、それぞれが槍や吹き矢を構えている。黄色の目を異様なまでに光らせて、セレネを狙っていた。
これは、自分を試すための最後の関門なのだろうか。
杖は湖底、左腕には障害物を抱え、右手は負傷している。直死の魔眼があったとしても、満足にナイフを振るえる状態じゃない。しかも、水中だ。動きがどうしても鈍ってしまう。
対する相手は水中人4人組だ。3人が槍を持っていて、1人が吹き矢である。水の中が彼らのフィールドだ。完全にこちらの分が悪すぎる。
「……いいわ、やってやろうじゃない」
セレネは挑むように笑った。眼鏡を捨て、直死の魔眼で水中人を睨みつける。その瞬間、放たれた吹き矢を避ける。間一髪だったようで頬にかすりそうになりながらも、矢は当たらずに湖底へと沈んでいった。
それを皮切りに、狂気の目をした水中人たちが襲いかかってくる。しかも、課題だというのに喉元を目がけて槍を伸ばしてくるのだ。セレネはナイフを手に取ると、まっすぐ伸ばされた槍にまとわりつく「死の線」を斬った。その途端、槍は形を保てなくなる。セレネの喉元に達する前に3人の槍は解体された。
「そう簡単に死ぬわけには、いかないのよ!」
槍使いの水中人が何が起きたのか理解する前に、セレネは吹き矢の水中人の頭を蹴り飛ばし、その反動で上昇する。だが次の瞬間、何とも言えないヌメリとした不快感が足に纏わりつく。3人の水中人が、セレネの足をつかんできたのだ。そのまま湖底へ引きずり降ろそうとしてくる。足に痕が残るのではないかと思われるくらい強い力で、そのまま湖底へ引き摺り下ろそうとしてくるのだ。
セレネは振り払おうと足をバタつかせるが、鋭いモノが脇腹を切り裂く。矢がかすった痛みを感じる前に、頬から深紅の液体が霞のように水中で広がっていく。吹き矢を咥えている水中人が悔しそうな表情を浮かべていた。そして、再び次の矢を装てんしようと動く。
水中人に奔る「線」も見えた。
あれを切れば、水中人を簡単に殺せる。だが、それをしたらいけない。セレネのなかで何かがセーブをかけていた。水中人は人だ。セレネには聞き取れないが、言語を介する人である。殺したら最後、セレネの中で何か大切な物が失われる気がした。
「――ッ、めんどくさい!」
セレネはノットのポケットから杖を引き抜いた。
杖には忠誠心があると本で読んだことがあった。他人の杖は忠誠心を勝ち得てないので、自分の杖と同じ働きをすることはできないらしい。だから、他人の杖はあまり使いたくないのだが、いまはそうはいっていられない。
「『アセンディオ‐昇れ』!!!」
セレネは上に向かって叫ぶと、水中人たちの腕力とは比べ物にならないくらいの力で、身体が一気に持ち上げられていく。急速に明るい湖面が近づいてくる。セレネがそのまま魔法に身を任せていると、頭が湖面を突き破るのを感じた。途端に「泡頭呪文」の効果で頭を覆っていた泡も音を立てて砕ける。冷たく澄んだ空気が、セレネの濡れた顔を刺した。すぐ隣で、ノットが咳き込む音が聞こえる。彼にかけられていた呪文も解け、目を覚ましたのだろう。
スタジアムの観衆が歓喜の声を上げるのが耳に入った。セレネは、そのままスタジアムの方へ泳ごうとした。
しかし――。
「うっ!」
「セレネっ!?」
セレネの身体が急に、湖に沈んだのだ。
呪文の効果が切れたことで、セレネの足をつかんでいた水中人たちが再び引きずり込もうとしてきたのである。人質を助け出し、課題をクリアしたのに、だ。
水中人は湖底の広場でヒントをコーラスしていた。おそらく大会側の生物である。ドラゴンとは違い、完全に課題に協力していた。それなのに、課題のルールを破ってまで襲いかかってくるとは、セレネは考えもしなかったのだ。
セレネは足を動かし、下から来る強烈な力に逆らう。呪文を放ちたいが、泡頭呪文が弾けた今、セレネは水中で魔法が使えない。なんとか一瞬浮上すると、セレネは急いで狙いを定めた。
「『レラシオ‐放せ』!」
赤い閃光が奔った。水中人に直撃し、そのうち2人は離れていく。しかし、杖の忠誠心と急いで狙いを定めたことが原因だろう。1人の水中人は相変わらずセレネの足をつかんでいた。セレネの身体は再び水中に沈んでしまう。もう、呪文は唱えられない。バタ足で振り切る体力も残っていない。セレネは最後の手段で、杖をナイフに持ち変えると、水中人の腕に奔る「死の線」を斬った。これには、水中人も仰天したのだろう。身体から腕が切り離されたこととその痛みでのたうちまわり、セレネをつかんでいるどころではなくなった。
セレネはその隙に浮上する。
「げほっげほっ」
咳き込みながら、必死に酸素を取り入れようとした。
足が解放されたので、身体が動きやすくなるはずなのに、不思議と全身に鉛をつけているかのように辛かった。切り裂かれた脇腹も腕も痛い。血がどんどん流れ出ているからだろうか、猛烈に瞼が重くセレネは眠ってしまいたくなった。
「おい、しっかりしろよ!」
セレネの耳元で、誰かが叫ぶ声が聞こえてきた。
「目を開けろって、この馬鹿! 眠ったら死ぬぞ!」
うるさく叫ぶ声に、のろのろと眼をこじ開ける。だんだんかじかんでくる爪先と血が流れ出る感覚で意識が朦朧としていたが、それでも岸まで泳がなければならないことを思い出した。
「……分かってますよ、うるさいわね」
セレネは最後の力を振り絞って水を掻きわけ、足を動かした。途中から自力で泳いでいるのか、誰かに引きずられるようにして泳いでいるのか分からなくなってきた。
「ゴーント先輩っ!」
審査員たちを押しのけ、フローラとヘスティアが駆け寄ってくる姿が見える。その後ろにはウルクハートたち他の幹部やダフネにアステリア、ミリセントの姿も見えた。皆、どうして蒼い顔をしているのか、セレネにはまったく分からなかった。ムーディはいつもの表情で岸に立っていたが、マクゴナガルとスネイプが青ざめている顔なんて見たことがない。
セレネは泳ぎながら、ぼんやりと全員を見た。
その全員をマダム・ポンフリーが追い越し、温かい毛布を広げる。それに倒れ込むようにして包み込まれた時、セレネは意識を手放した。
セレネ・ゴーントの第二の課題は、こうして幕を閉じた。