スリザリンの継承者―魔眼の担い手―   作:寺町朱穂

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 平凡なホグワーツ生だったはずの私、セレネ・ゴーントに訪れた突然の事態。
 手に入れたのはピンク色に輝く魔法のステッキ、そして新たな魔法の力。ステッキが導く出会いは、運命なのか、偶然なのか――……それは、いまはまだ分からないけど……ルビーの力を借りて、絆を繋いだ仲間と一緒に、分霊箱を破壊する旅は続いていくのだと信じて……


 魔法少女プリズマ☆セレネ、始まります!





「始まりません! エイプリルフールです! ルビー、取り消しなさい」
「セレネさん、いいじゃないですかー。ルビーちゃんは大歓迎ですよ? 夢と希望溢れる冒険ラブコメ魔法少女もの!」
「私は反対ですし、設定盛り過ぎです」
「では、セレネさん! 行きますよ!
 魔法少女プリズマ☆セレネ 第3話!『もう何も怖くない』!」
「勝手に進めない!
 スリザリンの継承者‐魔眼の担い手‐第79話『もう何も怖くない』、始まります!」
「え~、題名同じならいいじゃないですかぁ~」
「ちっとも良くない!!」






79話 もう何も怖くない

 見間違えるはずもない。

 いま自分を支えているのは、明らかにシリウス・ブラックだった。

 

「どうして、あなたが? 私のこと、嫌いなのに?」

 

 セレネは唇を動かして、なんとかそれだけ尋ねる。

 なぜ、ここにシリウス・ブラックがいるのか、まったく理解できなかった。しかも、自分の記憶が正しければ、シリウスは首の骨を折り、戦線に復帰するのは難しい状態だったはずである。

 けれど、いま自分を支えている男は、身体能力に問題を抱えていないように見える。少なくとも、セレネが切り落とした腕がない以外は、ごくごく普通の魔法使いと変わらないように感じた。

 

「ん、嫌いに決まってるだろ? でもよ――……」

「シリウス、先走り過ぎだ」

 

 ぬぅっと草の影から人が現れる。

 武骨な杖をつき、ぎょろぎょろ怪しげに動く青い義眼を持った男――、アラスター・ムーディが不機嫌そうな顔で立っていた。

 

「ムーディ、先生?」

「先生と呼ばれる資格があるかは、分からん。お前が、セレネ・ゴーントだな?」

 

 ムーディの青い義眼、魔法の眼がセレネを見据える。セレネは僅かに頷いた。

 

「わしらはスネイプからの要請で、お前の救援に来た」

「スネイプ先生が?」

「詳しい話は後だ。いそげ、奴に見つかる前に森を抜けるぞ」

 

 ムーディは短く言うと、すぐに背を向けて歩き始める。

 

「ま、待ってください。まだ……お父さんが……」

 

 セレネはその後姿に向かって、声を絞り出した。

 落下してから、義父の安否をまだ確かめていない。そうでなくても、ヴォルデモートが今も上空を旋回しているというのに、こんな森に残して行くわけにはいかなかった。

 

「まだ、この森のどこかに――……」

 

 セレネがそこまで言った時だった。

 森を貫くような悲鳴が轟いた。セレネは弾かれたように悲鳴の方向を見る。その悲鳴は、聞き間違えるはずなどない。セレネはシリウスの腕から逃れると、悲鳴が聞こえてきた方角へ走り出そうとする。だが、足が地面に着いた途端、視界が揺れた。足がゴムになったみたいに、まったく力が入らず、前から倒れ込んでしまった。

 

「シリウス」

「了解!」

 

 ムーディが鋭く言うと、シリウスが獣のように悲鳴の方へ走り出した。シリウスの後ろ姿は、すぐに夜の闇へ消えていく。ムーディはそれを見届けると、コートの内側から小瓶を取り出した。

 

「ゴーント、これを飲め。これを飲んだら、まっすぐ森を抜けろ。わしらは、お前の義父を助けに行く」

 

 それだけ言って小瓶を押し付けると、シリウスの後を追いかけていく。

 夜の森には、セレネだけが残された。暗いくらい森の中に、凍えるような風が吹き渡る。

 

「……ちくしょう……」

 

 セレネは地面を掻くように拳を握りしめると、小瓶に入った薬を一気に飲み干した。吐き出しそうなくらいの苦みと喉が焼けるような痛みが一気に押し寄せてくる。そのくせ、鼻から抜けるような涼やかさもあるのだから、たまったものではない。不快感の塊である。戻したい気持ちを堪え、無理やりすべて飲み込むと、体の内側が燃えるように熱くなってきた。

 

「……なるほど、魔法界のエナジードリンク、ね……」

 

 枯渇していた体力が、徐々に湧き上がって来る。

 否、身体に残存していた最後の力を一か所に集め、一時的に増加させているだけに過ぎない。この薬が切れた瞬間、明日の分までの体力を使い果たし、本当に動けなくなってしまう。

 だから、ムーディは「森を抜けろ」と撤退を命令したのだ。

 戦っている途中で薬効が尽きたり、森を再度抜ける過程で倒れられるわけにはいかない。文字通り、何もできないセレネはお荷物になってしまう。

 

 しかし――

 

「見捨てられるわけ、ないじゃない」

 

 セレネは歯を食いしばると、地面を思いっきり蹴った。

 目指すは当然、義父の苦し気な悲鳴が聞こえた方角だ。もう声なんて、全く聞こえない。その代わり、呪文が飛び交うような火花に近い音が聞こえてくる。

 セレネは速度を上げた。足がもつれるように、走り続ける。

 

 体力が尽きて、お荷物になっても構わない。

 死ぬのは途方もなく怖い。あの『』に落ちるのは絶対に嫌だ。だから、賢者の石造りに励んだし、死なないように魔法も勉強も頑張ってきた。

 だけど、今は違う。

 セレネは義父と一緒にいたい。ずっと、傍にいてほしい。

 それでも、義父が助かるのであれば、最悪……自分が死んでも構わない。

 

 

 だから、走る。

 夜の闇に目を凝らし、木々や下草、いたるところに死の線が張り巡らされた世界を走り続ける。

 

「――、シリウス! 間接的に無力化しろ!」

「ああ、分かってる!!」

 

 必死な声が聞こえる。

 セレネは木々の合間から飛び出すように、少し開けた空間に出た。その中央で、シリウスとナギニが戦闘を繰り広げている。呪文の通じない蛇に向かって、縄を出したり炎を出したりと間接的に傷つけようとしているが、なかなか上手くいかないらしい。

 そこから少し離れたところに、ムーディが座り込んでいた。足元に倒れる何かにむかって、呪文をぶつぶつ呟き続けている。その何かは――……

 

「おとう、さん……?」

 

 セレネは目が釘付けになった。

 蒼白な顔をした男性が首から大量の血を流し、ぐったりと倒れ込んでいる。額にも噛み痕が見られ、とくとくと血を流し続けている。胸元が微かに動いているので生きていることは分かるが、辛うじてに過ぎない。

 ムーディが治療魔法を使っているが、効果はあまりみられなかった。

 

 セレネは、さあっと血の気が引いていくのを感じた。

 義父の肌の白さが、母の尋常離れした肌の白さと重なり、くらりと視界が揺れた。

 

 自分の足元が微かに震えている。

 

 空で義父の手を離したとき、クッション呪文、落下速度軽減の魔法、そして盾の呪文を施していた。おそらく、義父は無事に着陸できたのだろう。しかし、そこに待ち構えていたのは、ヴォルデモートの蛇だ。魔法の効かない蛇相手に、盾の呪文がどれくらい役に立ったのだろうか。

 

 答えは明白だ。語るまでもない。

 

「よくも……!」

 

 セレネは歯を食いしばった。

 最善を尽くしたつもりだったが、こんな結末になるとは思わなかった。あまりにも満身の力を込めて食いしばったせいだろうか。ぎしり、と奥歯にひびが入る音が耳の奥から聞こえてくる。自分の髪が逆立つのを感じながら、セレネはナギニを睨み付けた。

 

「よくも……お父さんを!!」

 

 セレネは駆けだした。

 魔眼は、ナギニだけを捉えていた。魔法の効かない蛇だが、所詮は蛇だ。寿命からは逃れられない。その証拠に薄らだが禍々しい死の線が視えた。

 

『ホムンクルスか……来い! 私たちを殺せるなら、殺してみろ!』

 

 ナギニが大きな口を開けて、毒牙を剥き出しにし、襲いかかってきた。セレネの前腕あたりを狙った一撃を、セレネは辛うじて躱した。けれど、蛇の尾がセレネの腹を強打する。空気が腹から押し出されるような感覚と猛烈な痛みに、セレネは唸り声をあげた。息が止まり、倒れ込みそうになるが、ぐっと足に力を込めて堪える。

 

『どうした、この程度か?』

 

 ナギニの嘲笑うような声が聞こえた気がする。

 セレネは左手で腹を抑えながら、ナギニを強く凝視した。

 

『まさか!』

 

 口の中に鉄の味がした。

 こんなところで、負けを認めるものか。絶対に、義父を傷つけた報いは受けてもらう。必ず、あの蛇だけは殺す。恩情もなにも一切無用で、絶対に殺してやる。

 

『絶対に、あんただけは殺してやる!』

『いや、私たちは殺せない。絶対に、私たちを殺すことはできない』

 

 蛇は高らかに叫びながら、セレネを押し潰そうと足元から絡みついてくる。

 遠くの方で、シリウス・ブラックが『レラシオ‐放せ』と叫ぶ声が聞こえてきた気もするが、ナギニに効果は見当たらない。セレネの身体を重くてぬめぬめした蛇が滑りながら、締め付けてくる。シューシューと唸る熱い吐息が、頭の方へと近づいてくる。

 

『いえ、あんたは私に敵わないわ』 

 

 セレネは口元を歪ませると、足元から絡みついてくる不快な蛇に向かって杖を降ろした。

 

『あんたの利点は、呪文が効かない程度のことでしょ?』

 

 否、正確に言えば、蛇に絡みついている死の線を杖先で絶つ。

 

『生きているなら、なんだって殺せるもの』

 

 胴体に巻き付こうとしていた蛇は、その言葉を聞き遂げたのか。それは分からない。なにしろ、セレネに線を絶たれ、痛みで悶絶していた。ナギニが足元を締め付けていた力が緩んだので、セレネは蛇について線を蹴り切り、脱出する。

 

『私は……私たちは、こんな、ところで……』

 

 蛇は仰け反ると、金色の瞳を空に向ける。

 普通ならもう死んでいそうなものだが、なにしろ、蛇に張り巡らされた線は多すぎた。まるで、一つの生物に複数の生き物が混在しているかのように、多重に張り巡らされている。

 セレネはその中でも最も線が密集した場所を、一気に杖先で切り裂いた。そのまま、蛇の首に走った線をなぞり切る。蛇の頭と胴体は切り離され、ぽとんと地面に落ちた。

 

『……トム……クリーデンス……私……は……』

 

 ナギニの口元が微かに動いたが、その言葉を最後まで呟くことなく、目から完全に光が消えた。

 

「――、おい、スリザリンの小娘! 早く走れ!」

 

 シリウスの焦ったような声が聞こえてきた。

 ムーディがぐったりとした義父を担いで走り出している。

 

 そこで、気づいた。 

 

 ヴォルデモートが大切にしている蛇は死んだ。正確には殺された。

 もし、セレネにとっての義父が殺されたら、死に物狂いで敵を見つけ出して殺す。

 つまり、ヴォルデモートが大切にしている蛇が殺されたら、死に物狂いで殺した相手を殺しに来る。

 

「分かってます!」

 

 ヴォルデモートが蛇の死体を見つけるまで、どれくらいかかるだろうか。

 それを考えている時間も体力の温存も、気にしている余裕なんてない。いまはこの森から抜け出し、ヴォルデモートの魔の手から逃れ、義父を病院へ連れていくことが先決だ。

 

 セレネは、生き残るために全力で走り出した。

 

「……はぁ……はぁ……」

 

 ところが、自分の想いとは裏腹に、速度が低下していくのが分かる。

 一時的に増強された体力は、すでに枯渇し始めていた。背後から迫ってくるであろうヴォルデモートを考えれば、これ以上、速度を落とすわけにはいかないというのに、足が言うことを聞いてくれない。

 

「おい、早く走れ!」

 

 前を駆けるシリウス・ブラックの声が聞こえてきた。

 指摘されなくても分かっている。分かっているが、これ以上早くは走れないのだ。

 ここで足を止めてしまえば、激昂したヴォルデモートに追いつかれてしまうのは時間の問題だ。ヴォルデモートは蛇みたいに殺せない。生きているのに、分霊箱が残っているせいで殺せない。

 

 つまり、勝ち目はゼロだ。

 

 立ち止まれば、間違いなく殺される。

 

「――っく、仕方ない! 私が運ぶ!」

「え?」

 

 セレネに驚いている暇はなかった。

 シリウスは有無言わさずセレネを抱え上げると、再び走り出した。抱える、というよりも、担ぐに近い。セレネの腹の辺りがシリウスの固い腕に当たり、少しだけ痛みを感じる。

 

「な――な、んで!?」

「ハリーの友だちを置いて逃げられるか!」

 

 シリウスは森を駆ける。

 足場が不確かで乱立する木々の合間を、シリウスは唯一残された片腕を塞がれたまま走り出す。わずかに速度は落としてしまっているのだろうが、大して問題にならないほど速かった。いつ地面に足をとられてもおかしくない中を、まるで風になったみたいに走り抜ける。

 

 この速度なら、なんとかなるかもしれない。

 少し希望の光が見えた、その時だった。

 

「――ッ!!」

 

 背後から咆哮が貫いてくる。

 それと共に、後ろから巨大なダンプカーが襲い掛かってくるような強大な威圧を感じた。

 

 ヴォルデモートだ。

 ヴォルデモートが、最愛の蛇の死に気付いたのだ。それが誰の仕業なのかは、推測するまでもない。

 

「ヴォルデモートめ、もう気づいたか!」 

 

 シリウスが憎々しそうに呟く。

 少し先に、街灯の灯りが見え始めていた。森の出口が近い。アスファルトの地面が見え始めている。先を走っていたムーディが黄色の灯りに照らされたアスファルトの地面に足を踏み入れ、くるっと回転して消えるのが見えた。

 

 目測、残り50m。

 10秒もあれば、街灯の下へたどり着ける。

 

 それなのに、その10秒が果てしなく遠い。

 振り向いた瞬間、黒い影がいっぱいに広がっているような恐怖がある。肌を貫き殺すような激しい怒りが、すぐ後ろに迫って来ていた。シリウスが足を緩めた途端、死の鎌が襲い掛かってくる。

 

「シリウス・ブラック!」

 

 残り5メートル。

 セレネが呼びかけるが、彼は何も答えない。

 その代わり、さらにスピードが上がった。彼もこの危機的状況を理解しているのだろう。何も言わず、全身全霊を込めて奔ることに専念しているようだった。

 

 背中に押しかかるような不安と恐怖から目を背けるように、セレネは前だけを見つめた。

 

「――ッ、はぁ、はぁ――ッ!!」

 

 残り4メートル。

 シリウスの息が上がる音が、とても近くに聞こえる。激しい呼吸音で、彼が精いっぱい走っていることが強く分かった。

 

「―――ッ!!!」

 

 残り3メートル。

 すぐ背後から煩い怒鳴り声が聞こえてくる。誰の大声なのか、考えたくもない。

 

「がんばれ、シリウス!」

 

 残り、わずか2メートル。

 怒鳴り声をかき消すように、セレネは叫んだ。

 無論、返事は帰ってこない。その代わり、ぐんっと速度が一段階上がった気がした。一歩、一歩を跳びはねるように駆け進み、ムーディが消えた街灯の下に滑り込む。

 

 黄色の暖かな光の下、くるりとシリウスは回転した。

 緑色の呪文が耳元を奔る。目の前でヴォルデモートの白い顔が怒りで歪んでいるのが最後に見える。そして――……

 

「――!? ――!!」

「―――!! ――!」

 

 気が付くと、セレネは白い空間に立っていた。

 辺りは騒がしく、悲鳴に近い叫び声に満ちている。

 一難去って、また一難なのだろうか。

 セレネが身構えたとき、ライム色のローブを着た魔女が駆け寄ってきた。

 

「さあ、あなたはこちらへ。すぐに治療をします」

「……へ?」

 

 セレネは素っ頓狂な声を出してしまった。

 シリウスから床に降ろされ、セレネの身体は倒れ込むように魔女の胸へと落ちる。

 

「これを飲みなさい。いまのあなたは生命維持に関わるほど、体力も魔力も不足しています。まずは、休息が必要です」

 

 ライム色のローブの魔女は、澄んだ水のような液体の入った瓶を口に押し付けてきた。薄ら漂う花のような匂いから、「眠りの薬」であることは明白だ。セレネは最後の力を振り絞るように、瓶を押しのけ、口を開いた。

 

「お父さんは……? ここは、いったい?」

「ここは聖マンゴ魔法疾患傷害病院だ。安心しろ、お前の父親は緊急治療室に運ばれて行った」

 

 コツ、コツという杖の音と共に、ムーディが誰かが近づいてくる。

 

「だから、その薬を飲んで休め」

「でも――……うぐ」

 

 セレネが反論する前に、瓶が口に押し付けられる。無理やり薬が喉を通り、とろんと視界が歪み始めたのが分かった。鉛のように重い瞼が落ちてくる。

 

「お父さんは……無事、ですか……?」

「まだ生きています。今治療中です。あなたは、しばらく眠りなさい――……」

 

 その言葉を最後に、セレネの視界は幕が下りるように暗くなっていった。

 

「……まだ、って……」

 

 まるで、もう死にそうみたいだ。

 途轍もない不安の波に襲われながらも、魔法の眠りには勝てない。

 暗い闇に包まれる視界。意識までもが深い闇に落ちて、落ちて、落ちて―――………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「起きたかのう、セレネ」

 

 気が付くと、目の前に白い髭の老人がいた。

 

「ダンブルドア、先生?」

 

 眼鏡をかけてもらっているのか、おぞましい線は全く視えない。重たい身体を持ち上げ、身体を半分起き上がらせる。薬品の臭いと清潔なシーツ。見間違えるはずもない、ホグワーツの医務室だった。

 

「私は……」

「今まで眠っておった。途中、聖マンゴからこちらへ移送されたがのう。いまの君にとって、こちらの方が安全じゃ」

「聖マンゴ……移送?」

 

 セレネは寝起きの頭を働かせようとした。

 異様なまでにぼんやりした思考は、なかなか答えを導き出してくれない。セレネが困っているのを見ると、ダンブルドアは静かに口を開いた。

 

「ヴォルデモート卿と体力が擦り切れるまで戦ったのじゃ。無理はせんで良い」

「ヴォルデモート……? あっ!!」

 

 その単語を呟いた瞬間、記憶が洪水のように押し寄せてきた。

 ヴォルデモートが義父を襲い、命からがら逃げ延びたかに思ったのに、ナギニに最愛の義父が襲われて――……ここまで思い出したとき、セレネは身体が強張り、凍るような寒気に襲われた。

 

「先生、義父は……クイール・ホワイトは無事ですか!?」

「もちろん、生きておる」

 

 ダンブルドアの言葉に、セレネは両手で顔を覆った。

 安心で力が抜けていくのが分かる。心の底からの安堵で、もう一度眠りにつきそうになった。

 

「アラスター・ムーディ曰く、セレネ……君が蛇を倒したおかげで、早急にその場を脱することができたそうじゃ。

 素晴らしい闇払いになる素質があると、褒めておった。

 じゃが――……」

 

 ダンブルドアの言葉に辛そうな色があることに気付き、セレネは両手を下げた。ダンブルドアの青い瞳は悲しみに染まっていた。

 

「あの蛇の毒は、マグルである御父上にとって残酷に働いた」

「……なにか、後遺症があるのでしょうか?」

「うむ。実はあれから丸二日経過しているが、いまだに目が覚める見込みがない。

 魔法使いならば、持ち直すことができたじゃろうが、悲しいことに、わしら魔法使いとマグルとでは体のつくりが違う。

 癒者の見立てでは、もしかすると、このまま目が覚まさないかもしれんし、目が覚めたところで脳へのダメージも酷く、記憶を失っている恐れもあるそうじゃ」

「……そんな……」

 

 セレネは自分の心が、空白になった気がした。

 

「今は聖マンゴに入院しておる。落ち着いたら、お見舞いに行きなさい」

「……」

 

 セレネは何も答えることができなかった。

 

「……辛いじゃろう、まずは心を落ち着けることが先決じゃ」

 

 ダンブルドアが杖を振ると、たっぷり水の入ったゴブレットが現れた。ダンブルドアに押し付けられた水を、セレネは促されるまま黙って口に含んだ。レモン水なのだろうか、少しだけさっぱりした感覚が鼻を抜けていく。

 

「セレネ、少し落ち着いたかの?」

「……まだよくわかりません」

「そうじゃろうのう……辛いことじゃ。今の君には酷じゃろうが、君に1つだけ聞きたいことがある。ヴォルデモートに関することで、最も大事なことじゃ。

 アラスター・ムーディから君がヴォルデモートの蛇、ナギニを倒したと聞いた。

 君とナギニが何か話しているようだったと言っておったのじゃが、なにを話していたのか教えてくれないかの?」

「…たいしたことを話していませんよ」

 

 セレネは静かに答えた。

 

「あの蛇が義父を傷つけたので、私が倒すことを宣言しただけです。

 蛇は『私たちは絶対に殺されない』と言っていました」

「私たち?」

「ええ、蛇は一匹なのに不思議ですよね」

 

 セレネは何も考えず、ダンブルドアに請われるまま話した。

 

「他には……ああ、そうだ。死の直前、何か名前を呟いていました」

「名前?」

「ええ。トムと……たしか、クリーデンスという名前を。トムはトム・リドルのことでしょうが、クリーデンスとはいったい誰なのか、私には分かりません」

「間違いなく『クリーデンス』と言っておったのじゃな?」

「はい」

 

 セレネが答えると、ダンブルドアは考え込むように目を伏せた。随分と長いこと目を瞑っていたので、眠ってしまったのかと思ったが、セレネが声をかける前に、ダンブルドアは顔を上げた。

 

「セレネ、教えてくれてありがとう。

 いまの君は、家へ帰るより、ここにいた方が安全じゃ。今年の冬は、ホグワーツに残りなさい。御父上もいまは聖マンゴにいるから安全じゃ。新学期が始まるまで、ここで傷を癒し、ゆっくりすることじゃ」

 

 ダンブルドアはそれだけ言うと、長いローブをはためかせ去ろうとした。

 だが、ふっと思い出したように足を止め、セレネに優しそうな眼差しを向けてきた。

 

「フローラとヘスティア・カロー嬢が、スネイプ先生に素早く君がパーティを抜け出したことを話してくれたおかげで、騎士団が動くことができた。二人とも君のことを酷く心配しておった。休暇が明けたら、お礼を言っておきなさい」

 

 ダンブルドアはそれだけ伝えると、医務室を立ち去ってしまった。

 あたりは、しんっと静まり返る。生徒たちの賑やかな声も、ゴーストの囁き声も聞こえない。ただ窓の外には、しんしんと音も立てずに雪が降り続いている。

 セレネは後ろに倒れ、枕に自分の頭をうずめた。

 

 

 

 不思議と、涙は出なかった。

 ただただ、心の中に空虚さだけが広がっていく。

 

 

 以前にも、この気持ちを感じたことがある気がした。

 メアリーを本当の母だと信じていた時だ。

 灰色の空の下、くすんだ色の墓前に佇んでいた時、今のような気持ちだった。今思い返せば、クイールは自分の手を優しく温かく握りしめながら、静かに涙を流していた。きっと、あれは義父の優しさだった。

 

 だけど、あの時はそんな当たり前のことに気づかなかった。

 あれからクイールから与えられる惜しみない愛に気づくまで、セレネの世界はずっと灰色だった。

 母親だと思っていた女は自分を見捨て、あまつさえ殺そうとしてきた。

 結局、一度たりとも母に認めてもらえず、心にぽっかり空いた空虚のあまり涙さえ出なかった。

 

 

 そして、今も――……世界は再び灰色に染まっている。

 

 

 それから、クリスマス休暇が明けるまで、何事もなく過ぎていった。

 ほとんどの生徒は、家へ帰ってしまっているのだろう。退院しても、スリザリン寮には人っ子一人、見当たらなかった。

 

 誰もいない談話室で、マグルのロックを流しても、いつもより心に響かない。

 マグルの試験対策の勉強をするには絶好の静けさだったが、まったくもって身が入らず、数日が経っても問題集は白いままだった。

 

 数度、両面鏡越しにグリンデルバルドと話した。

 だが、なにを話したのか、あまり耳に入ってこなかった。

 

 分かったことは、アルバニアの森には何かを隠してあった痕跡はあったが、なにかは既になかったこと。

 そして、ナギニは分霊箱だったのではないか、ということだけだった。

 

『私たち、というところが肝だ』

 

 鏡の向こうのグリンデルバルドは旅装に身を包んだまま、静かに考察を述べる。

 

『私だけではない何かが肉体に共存している、ということになる。そして、普通の魔法が一切通用しない……そうなると、もう分霊箱以外考えられない。喜びたまえ、フロイライン。君がナギニを殺したことで、分霊箱がまた一つ破壊された』

「……そうですね」

『暗くなることはない。

 それから、ナギニが最後に呟いていた人名だが、これも気にすることではない。クリーデンスについては、語ってもいいが……今はその時ではない』

「……」

 

 セレネが黙っていると、グリンデルバルドがわずかに眉を顰めた。

 

『君は義父を守れなかったことを後悔しているな』

「……当たり前です」

 

 セレネは右手で左腕を強くつかんだ。ぎゅっと爪の後がつくくらい強く握りしめる。

 

「私がもっと策を講じれば、もっともっと力があれば……それに、もう、義父は……植物人間状態です。これは、助けられなかったことと同じです」

『君は諦めず、最後までベストを尽くした。嫌悪することではないし、むしろ、誇りに思うことだ。それでもなお後悔があるなら、どうすればいい?』

「……失敗を反省して、次に活かします」

『その意気だ。このまま励みたまえ、フロイライン』

 

 グリンデルバルドはそれだけ言うと、通信を切った。

 それ以来、特に話したいこともなく、通信をこちらから入れることはしなかった。 

 

 他に特別なことは起きなかった。

 しいてあげるのであれば、マクゴナガルが茶会に誘ってくれたことくらいだろう。薬草学のスプラウトやマグル学のチャリティー・バーベッジと一緒に紅茶を飲んだ。

 このチャリティー・バーベッジ教授には、大変世話になった気がする。

 なにしろ、義父の見通しのつかない長期入院に伴う休職の手続きを手伝ってくれた。彼女は大変マグルの社会の仕組みにも精通していて、『私の祖先は、マグル界で有名な数学者なの』と誇らしげに語っていたが、それも頭のどこかを通り過ぎていった。

 

 

 そうこう過ごしているうちに、いつの間にか年が明けて、ぞろぞろと生徒たちが戻ってきた。 

 どうやら、セレネがヴォルデモートに襲われ、マグルの義父を救い出し、愛蛇を倒したことは預言者新聞によって世間に知れ渡っていたらしい。これで、ヴォルデモートの魔の手から逃れたのは幾度目になるだろうか。セレネは廊下を歩くと、尊敬の眼差しや崇拝の眼差しを感じた。

 あまり良い心地とは言えないので、教室を行き来するときは裏道を使い、授業以外大半を時間を「秘密の部屋」で過ごした。

 誰もがヴォルデモートを退けたことを第一に褒め、第三くらいに義父の様子について尋ねてきた。あの、ダフネ・グリーングラスでさえ、その法則に当てはまっていた。

 当然である。預言者新聞のどこにも、義父が植物状態で入院しているなんて書いていなかったのだから。

 

 一向に義父が回復した知らせは入ってこず、秘密の部屋にいても何もする気になれない。

 賢者の石の研究はもちろん、分霊箱の調査も、試験の勉強も、呪文の開発も、何もする気になれなかった。 

 

「セレネ!」

 

 魔法薬学が終わり、そのまま秘密の部屋に籠ろうとした時だった。

 ハリーが袖をつかみ、ハーマイオニーと一緒に「ちょっと話があるんだ」と人気のない中庭に連れ出した。

 

「実は、昨夜、ダンブルドアの個人講義で――……」

 

 ハリー曰く、ダンブルドアからの宿題で、スラグホーンからトム・リドルにまつわる記憶を提供してもらうように言われたらしい。

 

「ヴォルデモートは、スラグホーンから『ホークラックス』っていうことについて聞き出そうとしていたんだ。

 ホークラックスって知っている?」

「ホークラックス……ホークラックス……聞いたこともないわ」

 

 ハーマイオニーが低い声で言うと、ハリーはあからさまに落胆した。そのまま、期待を込めた視線をセレネに向けてくる。セレネは柱に背を預けながら、静かに答えた。

 

「分霊箱のことですよ」

「ぶん……なにそれ?」

「闇の魔術の一種です。ある種の延命魔法というべきでしょうか。……まあ、そんなところです。あの男が知りたがっても、不思議はありませんね」 

 

 話はそれだけらしいので、すぐにその場を立ち去ろうとする。しかし、今度はハーマイオニーに呼び止められてしまった。

 

「セレネ、大丈夫? とても顔色が悪いわ」

「ありがとうございます、ハーマイオニー。ですが、心配無用です」

 

 セレネは微笑みを作ると、足早にその場を立ち去ろうとした。

 

「セレネ。なにかあったら、僕たちに相談していいんだよ?」

 

 ハリーの心配そうな声を背中で受ける。

 

「僕たちは友だちだし、ヴォルデモートを倒す仲間じゃないか」

「……仲間、ですか」

 

 セレネは振り返ることはしなかったが、一度だけ立ち止まった。

 

「私には、もう、ヴォルデモートを倒す理由が……」

「え!? でも、セレネはヴォルデモートを強く憎んでいるんでしょ? だから、これまでも戦い続けてきたんじゃないの!?」

 

 ハリーの声が遠くから聞こえる。

 確かに、その通りである。リトル・ハングルトン村の墓場で、ヴォルデモートが自分の心を土足で踏み荒らしたとき、激しい怒りを感じたのは確かだ。

 あの身を焦がすような怒りすら、遠い昔の出来事のように感じる。

 ただ――……

 

「……そうですね。ヴォルデモートは嫌いです」

 

 義父が植物状態になり、記憶すら失われているかもしれない。

 そうなってしまった原因は、自分が完璧な保護対策を施していなかったからだ。もっと自分がしっかりやっていれば、義父は今も笑い、自分の名前を呼んでくれたかもしれない。

 

「正直、憎いです」

 

 空虚だった心に、一筋の炎が点火される。

 

 義父が植物状態になってしまった、根本の原因はヴォルデモートだ。

 ヴォルデモートさえいなければ、義父はああいう状態に陥らなかった。

 もっとも、ヴォルデモートがいなければ義父と出会うことがなかったかもしれないのも事実だが、やはりヴォルデモートが憎い。忌々しいまでに自分が悔しくて、それと同じくらいヴォルデモートのことが憎しみの炎が煮えたぎり、喉元を焦がすほど嫌いだ。

 

 この手で息の根を止めたいほど、大っ嫌いである。

 

 ヴォルデモートは、きっとナギニを殺した自分を許さない。

 身動きの取れない義父を攫って、盾にするかもしれないし、そのまま殺されてしまうかもしれない。

 

「ありがとう、ハリー・ポッター」

 

 セレネは前だけを見つめ、拳を血が滲むくらい強く握りしめる。

 

「私の進むべき道が見えました」

 

 グリンデルバルドにも言ったではないか。

 失敗を反省して、次に活かす。このまま空虚に沈んでいても、何も始まらない。無理やりでも顔を上げて、歯を食いしばって、義父のために進まないといけない。

 セレネは唇を噛みしめて、ハリーたちの視線を背中で感じながら城の中へと進んで行く。

 

 覚悟は決めた。するべきことも思い描いている。ヴォルデモートへの恐怖も、いまはこの心に燃える憎悪の前では無力だ。もう、何も怖くない。

 

「今度こそ、絶対にしくじらない」 

 

 セレネは自分に言い聞かせるように、灰色の世界で静かに呟いた。

 

 

 

 

 

 


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