蒼き瞳とナガレゆく   作:秋野ハル

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2-10 食らいつく者と手を伸ばす者

 涼やかな緑の草原に、燃えるような茜色が少しずつ混じっていく。

 静かに暮れていく空の下、1人の少女が立っていた。しかし彼女は誰がどう見てもぼろぼろであった。

 少女の衣服は、地面を転がり過ぎたせいでところどころが擦り切れていた。その端正な顔や綺麗な髪だって今は土や草、そして擦り傷にまみれている。

 膝はがくがくと震えて、両腕も力なく垂れ下がり、時折げほげほとえづいていて、誰がどう見ても満身創痍であるが……それでも、彼女の蒼い瞳だけは爛々と輝いている。ただ一点だけを見つめている。

 その中心。

 そこに立つ少年――レイズは、未だに無傷であった。

 

「ぶっ倒れるまで付き合うって言ったのは俺だけどさ……」

 

 だが傷はなくとも疲労はかなり溜まっている。頬を伝ってぽたぽたと垂れている汗がその証拠であった。

 

「いい加減腹が減ってしゃあないんだ。それに避けるだけってのも、案外疲れる……」

 

 と、少女がいきなり口を開く。

 

「当てやすくなって、丁度いい」

「マジかよ……」

 

 レイズはその執念に呆れながらも、心中では冷静に算段を立てていた。

 

(あと一発小突いたら終わるな、確実に)

 

 その一方で少女――ニルヴェア自身も、それを自覚していた。

 

(体が、重い。なんで立ててるかも、分からない)

 

 なにをやってもかわされ続けて幾星霜、とまではいかないが……すでに数時間は経っている。しかも時折(スライムグローブ越しにだが)反撃だって受けていた。

 すでに全身の痛みも、体力も、そして心も限界ぎりぎりだった。あるいはもう、限界なんてとうに過ぎているのかもしれない。

 

(次動いたら、もう終わり。殴られても、避けられても、当たっても、当たらなくても、同じ……同じ?)

 

 もはや思考すら覚束ない脳味噌に、しかし一筋の閃きが走った。

 

(当たっても、当たらなくても、同じ)

 

 閃きの上からばちばちと閃きが交わり、重なる。

 

 ――格上狩り(ジャイアントキリング)

 

(格上。普通に戦っても勝てない相手。普通にやっても駄目なら、普通にやらなきゃいい。普通は喰らっちゃ駄目。なら今は喰らってもいい。喰らっても、喰らいつけば)

 

 思考が定まっていく。ただ、一点に。

 

「なにがなんでも、喰らいつく」

 

 ニルヴェアは踏みだして、そして駆けだした。それは誰がどう見ても最後の力を振り絞った、一度きりの特攻であった。

 一方それに相対するレイズは、舌打ちをひとつ。

 

「ちっ。まだ走れんのかよ」

 

 そして祈る。

 

(いい加減、倒れてくれよ)

 

 祈りながらも、しかしレイズは構えを解かなかった。満身創痍の身で迫ってくる少女に向けて、そっと呟く。

 

「ごめんな」

 

 そして、右の拳を振るった。

 スライムグローブに包まれた拳はいとも簡単に、ニルヴェアの顔面へと直撃した。あまりにもあっけなく、まるで吸い込まれたかのようにど真ん中へ――その瞬間、レイズが気づく。ニルヴェアの突撃、その真の意図に。

 

(そういう、ことか!)

 

 拳が当たったのと同時に、ニルヴェアの両腕がぐわっと伸びてきたのだ。

 つまるところ、玉砕覚悟のカウンター。ニルヴェアは、レイズが放ったパンチをあえて受けた上でその腕を掴もうとしたのだろう、が。

 

「っらぁ!」

 

 彼女の手が届くその前に、レイズの拳がさらに加速した。

 半ば倒れ込むように全身を捻りこみ、一気に拳を押しだす。すると拳は放物線を描くように、ニルヴェアの顔面を地面へと持っていく――ぐわんっと、ニルヴェアの全身が大きく波打った。

 レイズの拳が、ニルヴェアを地面に叩きつけたのだ。

 するとすぐに彼女の四肢は弛緩、大の字を描いてぐったりと倒れた。そしてそのままぴくりとも動かなくなった。

 レイズは息を荒げながらも、ニルヴェアの顔面にスライムグローブを押しつけたまま語りかける。

 

「はぁっ、はぁ……カウンター自体は悪いことじゃねーが、いくらなんでも無謀過ぎだ。だからこいつは授業代……って、聞こえてんのかこれ?」

 

 ニルヴェアは動かない。

 文字通りぶっ倒れるまで付き合って、ようやく決着がついたらしい。

 そう理解したレイズは、ニルヴェアの顔からグローブを引き抜こうと……

 

「ん?」

 

 グローブが、動かない。まるでなにかに固定されたかのように……ミチッ、ミチッ。

 

「!?」

 

 異変に気づいたその瞬間、ブチブチッ! なにかが引きちぎられていく。その異音の発生源はグローブの下に、

 

「まさか、こいつ」

 

 ぶちゅ! ニルヴェアの口元で、スライムの”中身”が突如飛びだした。粘性の高い液体がびちゃびちゃとこぼれて、彼女の顔面を盛大に汚していく。

 

「おわぁ!?」

 

 レイズは慌ててグローブから手を引っこ抜き、たたらを踏んで後ずさった。

 

「うーわ……マジかお前」

 

 レイズは顔を引きつらせた。その目の前で、ニルヴェアがゆっくりと起き上がってきた。すっかり中身を吐きだして萎んだスライムグローブを顔面に貼り付けたまま。

 やがて彼女が立ち上がった、と同時にグローブがべちょりと落ちて、粘液塗れの顔が露わになった。元々顔中が土で汚れていたところに粘液が混ざったことで泥と化し、もうぐちょぐちょのべちょべちょであった。

 

「ひっでぇ顔だな」

 

 レイズはついそんな感想を漏らしてしまった。だがニルヴェアはそれに一言も返さず、その代わりに「ぺっ」と口からスライムの皮を吐き出した。レイズは、心の底から呆れた。

 

「食用じゃねーんだぞ、それ」

「不味いなこれ。おかげで目が覚めた」

 

 蒼の眼光は未だ潰えず。

 真っ赤な夕焼けの下、顔中に滴るスライムの隙間から、ニルヴェアの双眸がレイズを睨みつけて離さない。

 

「武器は奪った」

「いや、べつにグローブは武器じゃ……」

「これがあれば何度でも殴れる。そういう前提だった。だったら、これがなきゃ、殴れないってことだろ」

「な……!」

 

 レイズは絶句した。絶句せざるをえなかった。

 なにせ、なんか知らんうちに勝手な前提を作られて、なんか知らんうちに勝手に喰い破られていたのだ。

 

(間違っちゃいねぇ。間違っちゃいねぇけどよ……)

 

 実際、中身がなんであれ女子を素手で殴るのは気が引けた。だからこそのグローブではあったのだが、それにしたって。

 

「馬鹿か。馬鹿だろ……」

 

 すると馬鹿が問答無用で1歩踏みこんできた。そして、宣言。

 

「勝負だ」

「っ……!」

 

 たった一言で、レイズの全身がぞわりと泡立った。彼は反射的に身構えて、

 

「……?」

 

 すぐに異変に気付いた。

 ニルヴェアが、動かない。

 レイズが気づいた直後、彼女の体はふらりと傾いた。

 そんでそのままうつ伏せに、どさっと倒れた。

 残されたレイズはただ呆然とした。

 ……………………やっと一言、呟く。

 

「馬鹿だ……」

 

 それからちょっと困ったように頭を掻いて。

 

(ま、ここら辺が潮時か)

 

 そう考えたあと、1歩を踏み出そうとして、

 

「あっ」

 

 気づいた。己の足が、1歩だけ後ずさっていたことに。

 

「ふはっ」

 

 レイズは笑った。それから歩き出した。未だぶっ倒れているニルヴェアの下へ。

 

「生きてっかー?」

 

 果たしてニルヴェアを見下ろせる位置までやってきたのだが、彼女からの返事はない。

 だからレイズは屈んで、両手を使って、ニルヴェアの体をごろんと転がしてみた。

 

「にゅあっ」

 

 ニルヴェアは変な声を出しながら、無抵抗のまま仰向けに寝転がった。

 彼女の顔を覗き込んでみれば、彼女の方もうっすらと目を開けてレイズを見ていた。しかし先ほどまで爛々と輝いていたはず眼光は、今やすっかりぼんやりしている。

 

「やーっと止まったよまったく……しっかしひでー顔してんなぁ」

 

 土とスライムが混ざった泥でぐちゃぐちゃになった、その上からさらに土や草が張り付いて、最早端正もくそもない。はずなのに、

 

「ほんとにひでーや……でも」

 

 なんとなく、ずっと眺めてしまうのは。

 

「なんだろうなぁ」

 

 レイズの頬がふわりと緩んだ。

 それは彼が間違いなく――油断した、証だった。

 ぺちん。

 頬に1発、なにかが触れた。

 

「え」

 

 レイズが自らの頬に視線を向けると、視界の隅でなにかが落ちていった。見下ろしてみれば、そこには泥にまみれた手がひとつ。ニルヴェアの手であった。

 だからニルヴェアの顔へと視線を向けた。するとニルヴェアは、にへらと笑って。

 

「ひっさつ、しんだふり」

 

 ――1発でも当てられたら認めてやるよ

 

 レイズは自分で言ったことを思い出した。

 

「は、ははは」

 

 思い出して、喉を震わせて、それから大きく口を開いて。

 

「は~~~~~~~~超! 疲れた!!」

 

 ニルヴェアの隣で、全身を大の字に広げてぶっ倒れたのであった。

 

「あーもう負けだ負け! 俺の負けだー!!」

 

 今日初めての大声を上げてみれば、なんだか胸の内がとてもすっきりとした。

 しかも見上げた大空は果てしなく、どこまでも透き通ったような茜色で。

 

「もうこんな時間かよ。ったくなにやってんだか……」

 

 全身がずっしり重く、しかしどこか心地の良い疲労感が満たしていった。

 

(くっそ疲れてんのに妙に清々しい。久々かもな、こういうの)

 

 ふと、そよ風が流れてきて草原を揺らした。レイズは体中の汗をゆっくりと冷やしてくれる心地良い風に身を任せて、空を眺める。

 

「まぁ我流の考え方なんだけどさ……格上に勝とうってんならまずは絶対諦めず、最後まで考え続けることが大前提になる。だって相手は普通じゃ勝てないんだ。どっかで諦めるくらいなら、最初から挑むなってことになる。そうだろ?」

 

 ニルヴェアがレイズの方へとゆっくり顔を向けた。一方のレイズは、まだ空を見上げながら語り続ける。

 

「細い勝機かもしれない。そもそもあるのかすらも怪しい。それでも全力で手繰り寄せて、ないなら無からでっち上げてでもまかり通す。そういう気概が必要で……お前は本当にでっち上げてみせた。馬鹿でも無茶でも、きっとまずはそこからなんだ」

 

 レイズは上半身だけを起こして、ニルヴェアへと顔を向けた。

 少女の蒼い瞳の中に、少年のニカッと明るい笑みが映りこむ。

 

「一発当てたら認めてやる。そういう約束だったよな」

「それじゃあ……もしかして……」

「合格だ。つーか、これで認めない方がかっこわりぃ……あ」

 

 レイズはひとつ、閃いた。

 

「かっこ悪く足掻いてでも、かっこ良く生きるのがナガレの流儀。お前、案外ナガレ向きかもな」

「ぁ……」

 

 少女の口がぽかんと開いて、なぜかそのまま固まった。

 

(……あれ?)

 

 レイズとしては褒めたつもりだったのだが、しかしニルヴェアの瞳は……じわじわと、潤っていった。さらにその潤いは夕焼けをきらりと反射して――すぐに大粒の涙となり、ぽろりとこぼれた。

 

「え!?」

 

 レイズがびっくりした。それを合図に少女の目からぽろ、ぽろぽろ、ぽろぽろぽろ。次から次へと涙が溢れて零れていく。

 しかし彼女の腕にはそれを拭う力すら残っていないようで、結局は四肢を大の字に広げたまま、くしゃりと顔を歪めて静かに泣き続けていた。

 

「も……もしかしてナガレに向いてるって、そんなに嫌だったか!? かなり忘れてたけど、そういや貴族だもんなお前!」

 

 しかしニルヴェアは首を横に振った。だからレイズは余計に分からなくなった。

 

「じゃ、じゃあどうしたんだよ……」

 

 問いかけてみれば、ニルヴェアの口がゆっくりと動いていく。

 泣きじゃくって、喉も詰まって、なにかをぐっと堪えて……それでもやっと、たったひとつ。本当に微かな声で。

 

「ありがとう」

 

 だけど、どんなに微かな声でも……届くべき所には、ちゃんと届いていた。

 その証拠に、レイズはぱくぱくと口を開け閉めしていた。なにかを言いたくて、だけど。

 

「あ……いや、えっと……べつに……」

 

 もにょもにょと。

 

「あー、礼とかいきなり……むしろ、こっちが、やりすぎっつうか……」

 

 もにょもにょと。

 

「いや、なんだ。お前も、その……」

 

 もにょもにょと、頭を掻いたり、あちこち視線をやったり、挙動不審を極めた挙句。

 

「ほんっと、お前といると調子が狂う!」

 

 ついにキレながら立ち上がった。それから堂々言い放つ。

 

「泣くな!」

 

 力強い一言と共にニルヴェアを見下ろして呼びかける。

 

「まだ始まったばっかだろ! これからの旅がどうなるのか、鍛える時間がどれだけあるのか。まだなにも分かんないけどさ……お前が諦めない限りは、こっちも全力で付き合ってやるから」

「……うん」

 

 ニルヴェアはまだ涙目だったが、しかしその瞳はしっかりとレイズを見据えていた。だからレイズも少し屈んで。

 

「早速ひとつ目の特訓だ。限界超えてもあと1回だけ踏ん張る練習。泣きたいなら立ち上がったあとで好きに泣けばいいから、今はしっかり立ち上がれ!」

 

 レイズはそう言ってから、ニルヴェアに手を差しのべて――脳裏を過ぎった。路地裏で、差しのべた手を拒絶された記憶が。

 

「……!」

 

 レイズはすぐに手を引っこめようとした。が、むしろいきなり引っ張られた。

 小さくぼろぼろな少女の手が、それでもぐっと力を振り絞って、レイズの手を握り返したのだ。

 繋いだ手と手の温もりに、気持ちが少しだけほころんだ。

 

「……ほんと、ろくでもねーやつだな」

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