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なお、本作は執筆がギリギリになってしまって世界観の導入が非常に雑です。なので、異能力が普通にある世界だという程度に前もって理解していただければ幸いです。
「.........え? これで終わり?」
呆気なさすぎる、と少女は思った。それはあまりにも早すぎた。命を懸けて手に入れた対価がそれはもう尋常ではない速度で、それこそ一瞬で溶けたという事実を彼女は未だに受け入れられずにいた。
そこは汚部屋というに相応しい惨状を呈した場所。床という床はアルコール缶と散乱した空の弁当やら惣菜の容器で足の踏み場もないと言ったところ。一人暮らしが極まった成人男性か、或いは激変した環境に病んだ新社会人もかくやといった感じのその部屋はしかし、未だうら若き少女の部屋であった。
彼女は平日のだ真っ昼間というのにカーテンを締め切った薄暗く不潔な空間の一角に陣取って、ストロン〇ゼロを片手にスマホの画面を食い入るように覗き込んでいた。
馬券なるものがあるというのは前々から知っていた。それはもうパチスロじゃ比較にならないくらいに一発がデカいと噂のソレは、あまり労力と時間をかけず楽にお金が欲しいと考えていた少女が目を付けるには十分すぎる。そのうち競馬場に足を運んでみるのも吝かではないと考えてはいた。
しかしながら普段から物臭さが目立つ少女が思い立つ時はなかなか訪れない。どうしたものかと思い悩んでいた少女はあるとき風の噂で耳にした。
『馬券ってネットで買えるらしい』
乗るしかない。このビッグウェーブに。
足と違ってスマホを触るときだけはよく動く指である。瞬く間にサイトを調べあげ即座に入金した。
ぶっちゃけ馬のことはよく分からなかったので直近の結果が良好でよさげな馬を選び、有り金を全部ぶち込んだ。世の中には馬ごとのレース結果の統計を取り、最近イケイケと噂の機械学習を使った競馬予想AIを組み上げて荒稼ぎする猛者もいると聞くが、彼等のようにちまちまと賭けてリスクヘッジを取るやり方はナンセンスだと彼女考える。
漢なら一球入魂。それがギャンブル。それがロマン。
それがこのザマである。
賭け金ざっと5万弱。たかがレース時間1-2分の刹那に、それだけの大金が少女の手元から蒸発したのだった。
なかなか消耗が激しい4パチだってまだ保つ。
もはや異次元。
果たしてそもそも金は本当にそこにあったのか?
疑わざるを得ないほど呆気ない幕切れであった。
「.........ヤべーわね。今月もうお金ないわよ」
いつぞや玄関のポストに挟まっていた電気料金の明細を胡乱気に眺めながら「どうしたものか」と少女は悩みはじめた。
当然の如く、この少女は定職には着いていない。時たま纏まった日銭を稼いで暫くそれで生活するという刹那的な生き方をしている。
最初からそんなだったわけではない。社会に出たての頃は零細の印刷会社の事務員をやっていたこともあった。
が、やめた。半月くらいで。
要は致命的にまでに社会人が向いていなかったというだけの話である。
ともかく、直ちに金が要る。つまりは仕事をするときがようやく来たというわけだ。
思い立ったが吉日。床に転がっていた携帯を手に取る。
「あ、来須さん? わたしわたし。ちげーよ詐欺じゃなくて奈黒よ。お金なくなっちゃったから何か仕事ちょーだい。あと朱里江貸してくれる? なにかと便利なのよあいつ。んじゃそういうことで」
一方的に捲し立てて一方的に切る。いつものことだ。これだけ雑に要件だけ伝えてもちゃんと準備してくれるのだから律儀だなと思う。
まあ、この業界にはロクな奴の方が珍しいからそれだけ鈍くなければ異能者向けの斡旋業なんてやってられないのかもしれない。
そう少女___甘髪 奈黒は結論付けた。
「さて、ひっさびさのお仕事よ。張り切らないとねぇ」
*
男は荒神会という世間一般でいうアングラな組織の実働部隊として働いていた。
彼らは昨今世間を騒がせる異能者と呼ばれる超常の能力を持つ人材をヤクザやマフィア、カルテルに切り売りしている中国発祥の新興組織であり、男はその目玉商品。訓練を受けた異能者の傭兵である。
その日は派遣先のアングラ組織が執り行う取り引きの護衛として付き添っていた。任務自体は大したものでもない。自分以外にも大勢の取り巻きがいるし、取り引き相手も規模も、さして変わりはない。
大事は起きない。そう思っていた。
「ねえ、そこのデカブツはいつまで突っ立ているつもりなの? あくかかって来なさいよ、どんくさいったらありゃしないわねー」
目の前の少女がその平穏を全部ぶち壊して行った。
突然だった。取り引き場所の廃ビルの一角に表れた彼女が、その存在を周囲の人間が近くする前にあろうことか武装した大勢目掛けて突っ込んできた。
そして、一瞬で壊滅させた。一瞬でだ。姿すら見えなかった。人間の速度じゃない。なんらかの異能者であろうことは、十分に見て取れた。
「ねえ、なんもしてこないなら見逃してやるからどっか行ってくんない? 私が用あるのはそこのケースなのよ。そいつ置いてくならアンタは別にいいわよ」
強い。正面からやり合えば或いは自分よりも。そう確信できる人外じみた戦闘だった。
「こいつのことか?」
「そうそう、それ。それ置いてけば___」
「だが断る」
しかし、それが裸足で逃げ出していい理由にはならない。それがプロの自負であると男は思っていた。
へぇ、と少女___奈黒が感心した声をあげた。中々どうして、チンピラの中にも根性の座ったヤツがいるものだと内心拍手していた。
「お前、名前は?」
ぶっきらぼうに男が聞く。
「私? 私は甘髪奈黒。そっちは?」
「企業秘密だ」
「人に聞いといてそりゃないでしょ!?」
声を荒らげる奈黒に鼻を鳴らしながら、男は無遠慮に堂々と歩いて距離を詰める。奈黒はそれに反応すらしない。それどころか、両腕を未だに下げて自然体のまま。
余裕か、あるいはそれ自体が構えなのか。男には判別かつかなかったが。
「御託はいい。いくぞ甘髪」
自分にはこれしかないと、男は右拳を振りあげそのまま直線に吶喊した。
デカい。
大振り。
素人くさい動き。
とはいえ、男の巨躯から生み出されるであろうその威力は脅威だ。防御しても、奈黒の細腕ではへし折られかねない。当然、まともに受ければ死んでもおかしくない。
まともに受ければだが。
ぱぁん、と鞭で撃ったかのような乾いた音が響いた。
男の巨腕が弾かれる。
添えるようにして当てられた奈黒の左の掌が、正確に男の右手首を撃ち抜いていた。
内掛け受け。左腕の肘関節を軸に前腕部を身体の内側へ弧を描くように回転させる。空手における受け技の基本形の一つ。
速い。男は思った。そして痛い。打たれた皮膚にじわじわと広がる浸透性の痛みが残っていた。
ただの受け技でこうはならない。ギミックは勿論ある。それは奈黒の身体の使い方にこそある。
奈黒は自身の肉体を動かすとき、単一ではなく全身の筋肉を連立させている。肩の三角筋や背筋、腰、足。それらの関節駆動を一動作ごとに総動員して能率的に動かしている。使用する筋肉が増えればそれだけ馬力は高まる。だから速い。だから重い。だから、強い。
それは何度も何度も、繰り返し鍛錬を積み重ねてきた末に手に入るモノ。
無駄を削ぎ落とし、より効率を求め、肉体の真の機能を追求し続けてきた者のみが会得する武の極致。その片鱗。
とはいえ、男はまだ左を残している。
弾かれ逸れた右を引き腕にして反動をつけ、再び左の大振り。巨体の躍動に空気がうねった。
奈黒の回避。後ろではなく前へ。
半身になってその矮躯を更に丸めながら、男の厚く大きな胸板に飛び込むようにして肩からぶつかっていく。
男は腕の内側に入られ打撃が出せない。
ゼロ距離。否、更に奈黒は踏み込む。
ファイティングポーズを取るために大きく開かれた男の両足、その間。そこに少女の右足が差し込まれる。
そして___爆発にも似た衝撃が男の胴体に走った。
鉄山靠。右足を踏み込みながら右肩を内側へ巻き込み、背面から敵へ体当たりを仕掛ける。拳を振り抜けないほどの近距離でも十全に威力を発揮出来る八極拳の術の一つ。
しかし打撃技としては威力が低い。体当たりというのは体全身でぶつかるという性質上、打撃点が大きくなりがちでどうしても衝撃が拡散されてしまう。勝負の決め手とするにはどうしても弱い。しかも奈黒のような小さい体で打ってもたかが知れてる。
それでもしかし、男の巨体は揺らめいた。
バランスを崩し、それを御することも出来ずによろめいて、地面に引き倒される。
鉄山靠の本領は打撃ではない。その技の構造、『踏み込んだ足を敵の足へ引っ掛けながら体当たりする』という部分にこそある。
どちらかというと投げ技に近い。腕を使わず体捌きのみで敵を転ばせる。
それでも、身構えてさえいればこうも無様に転ばされることはなかった。何度も言うが衝撃自体はそこまでのものではない。来ると分かっていれば対応のしようはあった。
それでも駄目だったのは、初見だったというのもあるが、なにより奈黒の動きが早すぎたからだ。
奈黒は男の一撃を避けるため前に踏み出しながら、体を捻って鉄山靠の構えを取っていた。
つまり回避と次の技の準備を一度に行っている。だから速い。起こりがない。動きが見えない。瞬く間に技が繰り出される。
熟練。
男とは動きの質がまるで違う。いくら腕力があろうが体格差があろうが、技術で勝らなければどうにもならない。攻撃は当てなければ意味は無いのだ。
そんなことは男も分かっていた。
「あ?」
奈黒の身体が今まさに倒れんとする男に引き寄せられる。
驚きを孕んだ目で自分の体を見やる。
掴まれていた。
男の胴体から伸びた腕が、奈黒の服の裾を掴んでいた。
最初から男はこうするつもりだった。
奈黒は強い。先の戦闘を眺めて、体術では全く敵わないであろうことを男は理解していた。下手に殴りかかったところで容易に捌かれるであろうことは当然考えていたし、付け焼き刃でフェイントをかけても必ず見破られて対処されるとも思っていた。
真っ向から挑んでも返り討ちにされる。だから体術で勝負するのを男は諦めた。
故に、自身が優れている部分で勝負をすると決めた。
すなわち勝負の土台を力比べに持っていくこと。それが男の狙いだった。取っ組み合いになれば、如何に技量が高くてもそれを発揮出来ない所まで勝負を持っていけば、体格に優れる自分が勝つ。
そのために最初から奈黒を掴んで引き倒すことだけを念頭に動いていた。
ただ、露骨に自分の狙いを試みれば悟られる。そうなれば奈黒はもう安易に近付こうとしない。捉えることはほぼ不可能になるだろう。
だから馬鹿を演じた。馬鹿みたいに殴り掛かって返り討ちにあう演技をした。そうして奈黒が油断して近付いたところを狙う。果たしてその目論見は成功した。
きっと、奈黒の動きに合わせて掴みかかろうとしても上手くはいかなかった。奈黒の動きは本当に速い。見てからではまず間に合わない。ハナからそれを目的に動いていたからこそ、彼女を捉えることが出来た。限りなく偶然に近い好機。
その事実に、一瞬面食らう奈黒だったが。
「甘ぇんだよ!!!」
次の瞬間には自分から倒れにいった。引き寄せられる力に身を任せ、更に上体を前のめりに折りながら凄まじい勢いで。
先に倒れんとする男の身体に覆いかぶさるように奈黒が追いつく。そしてそのまま、男の胸を両腕で押し込んだ。
腰よりも先に男の上体が沈む。地面にぶつかる。
「ぐっ」
短い呻き声。息が詰まった 。
ごん、と。鈍い音が男の脳内に響く。同時に、頭蓋骨が砕けんばかりの衝撃。個形状の痛みが脳味噌を襲う。
受け身も取れず、更に奈黒に押し倒された結果、男のアタマは思いっきりコンクリートに叩きつけられていた。
死んでもおかしくないぶつかり方。最低でも脳震盪は確実だと奈黒は思った。その隙を逃すわけがない。
握り込みが緩んだ右腕に今度は自分から組み付く。腕を股で挟み込み、胸に埋めるように抱き寄せる。腕十字固め。
へし折る!
そう意気込んで力を込めようとした時だった。
目が、あった。
頭を打って昏倒しているはずの男が未だに理性の光が灯ったその双眼で奈黒を見ていた。
いつの間に持っていたのか、空いている左手で鉄の塊を握り込みながら奈黒が逃げられない体勢になるのを待っていた。
それは人を殺傷するという行為に於いて最も簡略化された工程を備えた凶器。
即ち、銃。
その仄暗い銃口が奈黒の顔面を見据えていた。
突きつけられた殺気に奈黒の身体の芯が一瞬で冷え込んだ。
それまで余裕綽々だった奈黒の表情が初めて焦りに歪む。
熟練の武術家でも、超常を操る異能者でも共通する事実がある。即ち、銃弾を喰らえば死ぬ。
勿論、能力によってはその防御性能によって銃撃くらいはなんとかなるかもしれない。それでも、その異能を除けば彼女らの肉体は一般人のそれとなんら変わらない。撃たれれば死ぬし、斬りつけられても死ぬ。
銃器は異能が蔓延るこの世でも確かな脅威として実在し、状況によれば異能にも優る兵器だ。ましてや容易にそれを避けられぬこの状況、最悪と言ってもいい。
具体化した死への恐怖とその危険性に、奈黒の身体が反射的に飛び退こうとした。
「逃がさんッ!」
奈黒が動き出す刹那、彼女が抱え込んでいた右腕で上から押さえつけるように縫い止める。
腹部を押し潰すその感触に、奈黒が呻いた。
「ガキがァ! 離せコラ!!!」
唾を飛ばしながら、駄々を捏ねるように男の顔面を足蹴りする。顔面を押しのけられながらしかし、男は既に照準を定めていた。
引き金に力が込められる。
空気を劈く、発砲音。
それは奈黒の胴体を撃ち抜く___ことはなく、彼女の頬を掠めながら虚空へとその弾丸を吐き出した。
その一瞬を逃さず、拘束を抜け出した奈黒はゴロゴロとコンクリートの床を転がりながら距離を取る。
拳銃相手に距離を取る、一見馬鹿らしく思える思える行動であるが奈黒にとってそれは最善の動きだった。なぜなら、距離さえ空いていれば奈黒の速さなら見てからでも避けられる。
「ちっ」
対して獲物を狩る絶好の機会を逃した男は悔しげに眉を顰めていた。
本当に、本当に惜しかった。ここを逃せば後がないかもしれない、そんなチャンス。それを取り零した。
だが、その致命的な失敗は男の不手際で起きたものではなかった。
(今のが、甘髪の能力か? 突然手が痺れて手元が狂った)
銃撃を浴びせんとした刹那、突如として男の肉体は硬直した。感覚としては冬場のドアノブに触れたときのものが近いか。静電気、それによる筋肉の硬直。
結果、握りが浅くなって引き金を引く反動を御せずに銃身がブレた。ついでに押さえつけも弱くなって拘束が緩んだ。
断定するには些か早いが、奈黒の能力は電気に由来するものだと確信した。
(俺のと相性が悪いが、今の接触で殺しきれない辺り出力は低い。それを知れただけでも手のうちを晒した甲斐があった)
ならば十分に勝機はある。
そう拳を握り締める男の前で、ようやく奈黒は立ち上がった。額から派手に飛び出る血をTシャツの裾で拭いながら、ヘラっとした調子で喋りかけた。
「危ねーわね、そんなナリしてそいつに頼るなんざ思ってなかったわ。顔に似合わず随分とみみっちいことすんじゃないの」
「使わないとは言ってない。お前の勝手な思い込みだ」
「はっ。ガキだねアンタも」
「もう四十だ、ガキじゃない」
「そういう負けず嫌いなとこがガキだつってんのよ」
まぁそういうの嫌いじゃないけどね、などと宣いながら奈黒はぐるりと男の周りを歩き始めた。両手を背に隠しながら。探るように。測るように。
「アンタの能力、身体を硬くするヤツでしょ。さっき体当たりついでに鳩尾に肘入れたんだけどね、逆に痛めちゃった。腕固めようとしたときもそれで手間取ったし、多分殴る蹴るとかじゃ全然効かないのだと思うんだけど、どう?」
「............」
的を得ているが、答える義理はない。わざわざ相手に確信を与える必要は無いし、かといって否定する気にもならなかった。
寧ろ、ペラペラと考察を垂れ流す奈黒を不審に感じた。わざわざ情報のアドバンテージを晒す意味がないからだ。ただの馬鹿だという線は捨てきれないが、なにかしらの意図があるのではと男は思った。
「だんまりこいてないで返事くらいしなさいよ、つまんない男ねー。アンタ全然もてないでしょ」
「.........................」
答える義理は、ない。
ないが、こいつはただの馬鹿だと男は確信した。自分がどう思われてるか露知らず、奈黒はペラペラと続ける。
「別に珍しいチカラでもないわ。私も何度か相手にしたことがある。ところでさ、そんな体術じゃ分が悪い連中を私がどう処理してきたか、知りたくない?」
「.........どうするんだ?」
喋ってくれる分には徳しかないので好きにさせる。よしんば時間稼ぎが狙いだったとしても、時間が経過して有利になるのは男の方とて同じだ。
それに実際興味がある話題でもあったから、先を促す。
「こいつを使うのよ」
口角を歪めながら奈黒は隠していた両手を、誕生日のサプライズを披露するかのように大袈裟に広げて晒す。
握られていたのは刃渡りもデザインも全く異なる二対のナイフ。
「その辺で転がってる連中から拝借したモンだから趣味悪いけどね、まぁ使えりゃなんでもいいわ。硬化能力といっても硬められる部分には制限あるんでしょ? 関節ごと全身硬めちゃ動けないからねぇ」
ヘラヘラと口元は笑っていたが、目は笑っていなかった。
漆黒だった。明確な殺意を孕み、そしてそれをただ事務的に完遂せんと図る目。明日を捨てた人間の目。
「さっきは乙女の顔に傷付けやがって。安もんのステーキを柔らくするみたいに全身滅多刺しにして刻んでやる」
宣言。そして、先に動いたのは男の方だった。足下のケースを両手で掴むと、抱え込んで走り出した。脱兎のごとく、出口の方へ。
予想だにしていなかった男の逃走に、ナイフを構えながら一瞬呆ける奈黒だったが。
「逃がすか」
呟くと同時に地面すれすれに疾駆する。
逃げること、それ自体はどうでもよかった。勝算がない戦いで、かつ戦闘行為自体にそこまで利点がなければ逃走も十分に立派な戦術の一つではある。
しかし、逃げようとしても男より奈黒の方が速い。機動力で勝らなければ撒くことなど到底不可能だし、寧ろ背中から敵の追撃を負うリスクを考えれば悪手と言わざるを得ない。
だけれども、そもそも奈黒は男がただ逃げ出したところで追うつもりはなかった。
依頼の目的は男の運んできたケース、その中のブツの確保。それさえ置いていって貰えれば男と戦う理由などないのだ。命をかけずに済むのでその方がいいとさえ思っていた。
だが男はしっかりとケースを持って逃走を図った。このアクションのせいで奈黒は追いかけなければならなくなった。
なんでだろ、と奈黒は思った。彼我の機動力の差は男とて承知のハズなのに。なんでわざわざ背を向けるようなことをしたのか。
違和感。地を這うように駆けながら思考の片隅で凝りのようなソレが奈黒を悩ませる。
経験上、それはヤバい橋を渡るときの信号。命を賭ける死闘の合図。死の予兆。
そしてそれは的中する。
「あん?」
男は出口に辿り着くまでもなく足を止めた。つられて、奈黒も足を止める。そして男の狙いに得心がいったと眉を顰めた。
男は廃墟の柱を背に、ゆっくりと振り返る。そして強い口調で告げた。
「来い」
要するに、男は逃げ出した訳ではないということだ。奈黒を迎撃するために、背後から攻撃を受けない場所に移動しただけ。ケースは移動後、戦いを放棄して依頼目的を優先した奈黒が持ち去る可能性を考慮して確保した。
つまるところ、男の方は自身の命や目的を度外視して奈黒を殺しにきている。
男はハナから奈黒を生かして返す気はなかった。こんな小娘に荒神会の幹部直属の異能者である自分がおめおめと負けて逃げ帰るなど許されないと考えていた。
組織にとって、舐められるということは即ち存続の危機に繋がる。それを男は理解していた。
アウトローの世界ではメンツとは何より大切なものだ。明確で遵守すべき法がない以上、暴力による抑止力でこそ取引は成り立つ。だからこそ、舐められてしまえば終わる。不当な取り引き。脅迫。そんなものに晒されれば組織は立ち行かなくなる。
荒神会は今が大切な時期だ。その重鎮である自分の敗北は確実に組織の瓦解に繋がる。火種は産んではならない。
だから殺す。一分の隙もなく。完璧に殺し尽くす。自分を拾ってくれた恩人に対する仁義を通すために、命をかけて。
男の気迫は奈黒にも伝わってきた。隠す気もない殺意、背水の陣を敷いたその覚悟と状況。それらは奈黒に死の予感を抱かせるには十分だった。
男が敷いた布陣。まずもってこれが曲者だった。なにしろ、奈黒の機動力をほぼ完全に封じている。
本来その圧倒的アジリティを最大限活用した四方八方からの超高速ヒットアンドアウェイによる分からん殺しこそが、奈黒の基本戦術であり、最強の戦術であった。それが柱を背にすることで、攻撃を前方からのものに縛った。どこから攻撃が飛んでくるかさえ分かっていればカウンターはとれる。加えて男は硬化能力を持っているので一撃でキメるのは難しい。無闇に突っ込むのが危険だ。
かといって、手をこまねいているわけにはいかない。なぜなら男は増援を呼んでいる。人が増えれば奈黒は不利になる。仕事で来ているため逃げ出す訳にもいかない。
四面楚歌。状況、事情、思惑。それらが全て奈黒を死に追いやろうとしている。
土壇場。分が悪すぎる展開。しかし、仕損じれば死ぬ。
死ぬ。
だからなんだ。
「上等。舐めんじゃないわよ」
死の恐怖。それ自体はある。だからといって身体が竦むことはない。慣れた。奈黒は恐怖を慣らしてる。
覚悟はしてる。したからこんな無情な世界にいる。だから、死ぬことなんて大した問題じゃない。
無論、奈黒はこの場を投げ出して逃げてもいい。依頼は未達となるが、それでも命には代えられないというなら、そういう道もあるにはある。
ただその場合は失うものが二つある。
一つは信用。
どうしても果たさなければならないものを外部に依頼する場合、雇う人間に最も求められるものは能力やスキルではなく、実績だ。即ち、依頼を確実に最後までこなしてくれると思わせるだけのチカラと責任感を持っていることの証明。
定職がないフリーランスにとって、それらが齎す信用は仕事の有無に直結するので命綱ともいうべき守らなければならないイメージだ。
それを失えば、二度と仕事を任せられなくなる。食い扶持がなくなる。この業界では死んだも同然になる。
だから受けた依頼はどんな形になろうと最後まで果たさなければならない。最後の最期まで。
しかし奈黒にとって、それすら二の次に過ぎない。彼女が守りたいものはただのひとつ。
それは、プライド。
奈黒は舐められるのが嫌いだ。侮られるのが嫌いだ。自分を下に見る目で見てきた奴は一人残らずぶちのめした。理由はない。ムカつく。それだけ。それだけが彼女の行動原理。
赤の他人が見ればくだらないと思うかもしれない。自分でもそう思う。だがこの胸に走るマグマのような怒りは理性なんかでは止められない。この疼きを抑えるくらいなら死んだ方がマシだ。
だから命を賭ける。何においても。
この自分に勝てると思い込んでふんぞり返ってる男のその巫山戯たアタマをぶたなけりゃ気が済まない。だから退かない。
一瞬の瞑目。そして、
「行くぞ」
疾走。
男が目に捉えたのはその瞬間が最後だった。それからは文字通り、奈黒の姿が掻き消えた。それを認識した次の瞬間に、
「熱っ」
全身を熱が襲った。
物体を斬るということ。その原理を突き詰めれば、刃物で表面をなぞった際に発生する摩擦熱によって分子間の結合を緩ませ、そこから浮いた分子を削るということになる。
男の能力は硬化能力。つまりは結合を強めることで硬度を高めているので皮膚ですら切れることはない。だが摩擦熱の影響は当然受けており、切り裂かれた男の全身には無数の細長い一本線の火傷がスーツが破けた跡から覗いていた。
熱い。痛い。
とはいえ、言ってしまえばその程度。命には届かない。
問題はそこじゃない。全身を切り刻まれているというのに男は未だに奈黒の姿を捉えることが出来ていない。ナイフで切り付けているので確実に周囲にはいるはずで、しかも柱を背にしているため攻撃は前からしか来ていないというのに。
単純に、奈黒が速すぎる。目に見えないほど高速で移動しているため、姿を目の端で捉えても次の瞬間には消えている。追えない。
その速度は奈黒が如何に武に長けていて、身体操作が異質なものであったとしても異常であった。故にそこには彼女の能力が関わっている。
電子操作能力。それが奈黒の能力。といっても出力はほぼ無い。精々数万ワットが限界で、静電気程度の電流しか発生させられないような能力。強度としては国連が定めた基準でいうDランク程度のものでしかない。
が、微弱故にその操作精度は驚くほど精緻なものだ。彼女はそれを利用して、肉体にある仕掛けを施している。
人間の四肢の反応速度は0.1秒と言われている。これは脳から発せられた筋肉を動かすための電気信号が人体を通るのにそれだけかかるためだ。よく言われる雷の速度が時速200kmであることを考えるとあまりにも遅すぎるスピードだが、これは落雷が進む空気中と比べ人体の電気伝導率が極端に低いためである。
その限界を彼女は自身の能力で突破する。彼女は自身の筋肉に能力で以て直接電気信号を叩き込んでいるのだ。
思考と運動の狭間に存在していたタイムラグをほぼ完全に排除した能力使用時の彼女の反応速度は最早想像を絶する。今の彼女は例え脊髄をへし折ったとしても止まることは無い。
(予想通り、この速さについて来れてない。でもコイツも想像以上に硬いわ。ホントに硬化能力なら関節周りはフリーな筈なんだけど、そんな感じでもない。首から下、全身あらかた削ってるのに漏れ一つないなんて異常だわ)
機動力では勝っているとはいってもだ、決定打を与えられなければしょうもない。かすり傷を蓄積していっても男が倒れることは無い。ゲームじゃないのだ。
肉体を全力で動かしている都合上、その間も奈黒の疲労は蓄積していく。このまま男の硬化能力を抜けなければジリ貧になるのは彼女の方だ。
忙しなく駆動する奈黒の脳裏に焦りが生まれる。そのときだった。
(? そういえばなんでこいつ頭守ってんの?)
攻撃することに専念しすぎて頭が回らなかったので気付かなかった。両腕で覆うようにして頭部を守る男の姿勢。
考えてみれば本当に完璧な硬化能力を持っていたとして、それが防御姿勢を取る意味は全くない。必要ないからだ。それなのに守りを固める意味。それ即ち。
「みィつけた」
男の弱点。硬化能力の隙。そして頭部にあって他にはない外観的特徴。それは粘膜の有無である。それさえ分かればあとはどうとでもなる。
まずは頭を覆う腕を剥がす。その剛腕を支える肩周りの上腕をナイフで2本とも一息に切り付ける。迸る紫電。
男の持つ硬化能力は勿論ナイフの刃を通すことはなく、精々が火傷の蚯蚓脹れを残す程度の傷を入れることしか適わなかったが、しかし電気自体は通る。
ナイフ越しに伝わった微弱な電気はそれでも男の筋肉の脈を一瞬狂わせ、弛緩させる。
ほぼ一瞬の出来事。
力なく落ちていく男の両腕。堅牢な守りを失ったそこには事態を把握出来ていない男の顔面と、そこに備わった双眼。奈黒の目標。死穴。
そこで漸く奈黒は止まった。男と奈黒の身長差から生じる高低差から、彼女が男の頭部に仕掛ける際に下から直線上に振り上げる必要がある。
それは奈黒にとっても隙となる瞬間。自分から仕掛けたので先制こそ取れるものの、殺し損ねれば逆に自分が窮地に立たされる。
だが問題はない。ここで決める。不発はない。そんなヤワな鍛錬は積んでいない。確実に当てる。貫く。ここが勝負所であると直感していた。
張り詰める。思考。
過剰速度で過敏になった神経が更に研ぎ澄まされてゆく。瞼が落ちれば防がれる。その前に眼球を居抜き、そこから繋がる脳を掻き回す。そのための集中。
その一瞬だけ、彼女は全てを振り払う。雑念も。恐怖も。誇りも。あらゆることを忘れて、手にしたナイフと一体化する。
その姿は引き絞られてゆく弓矢に似ていた。今まさに発射せんと張り詰め、狙いを定める凶器となって刹那の一瞬を研ぎ澄ませる。そして、
..................今!!!!!
跳ね上がる、少女の肉体。
雷迅めいた爆発的な速度でナイフを下から振り上げた奈黒の肉体は爪先から指先までピンと一直線に男の眼球目掛けて伸びた。
能力。肉体運用。それら全てを総動員した一撃。奈黒の集大成ともいうべきその一矢は寸分の狂いもなく、瞼を閉じる暇すらなく、完璧な速度と精度を以て放たれそして___
「悪いな」
鋒は男の眼窩を貫くことは無く、その角膜すら突き破れずに終わるという結果で終わった。
男の能力はただの硬化能力などではない。衝撃によって体表を硬化させる。ダイラタンシーと似たような性質を持つ硬化能力。故に彼の能力に関節周りの障害はなく、また眼球にすらその異能は適用される。
腕で守っていたのはポーズ。そこに弱点があると見せかけるための罠。そして奈黒は物の見事にそれに引っ掛かった。
奈黒の身体に電流が走る。逃げろ、と全力で肉体に命令していた。
しかし動かない。完全に身体が伸び切っていた。戻るのにほんの一瞬時間がかかる。そしてようやく生み出したこの隙を待ち焦がれていた彼が逃がすわけがない。
突進。
100kgを超える巨大な肉の塊が奈黒に衝突する。腹の中で爆弾が爆発したような衝撃を感じて、奈黒の息が詰まった。勢いのまま胃液が口から噴出する。
だがその程度では止まらない。終わらない。男は少女の腰周りをしっかりホールドすると、レスリングめいた動きで奈黒を地面に引き倒した。倒れる際、両腕で後頭部を守ったのは流石の反応速度ではあったが、それだけだった。
組み敷くように、奈黒の腹に腰を落として男はマウントポジションを取る。
この体勢に持っていきたかった。下手に抱きついて組み伏せようとしても、奈黒のスタンガンじみた電気ショックによって拘束を振りほどかれる可能性があった。だからこうして筋力ではなく、質量で拘束できる体位に持っていきたかった。
この体勢を脱する手段は奈黒は持っていない。勝ち。それを確信する。
「.........俺の勝ちだ。死ぬ覚悟はできたか?」
安堵。か細い勝機を掴んだ達成感が男に僅かな気の緩みを齎したのか、男は奈黒にそんな言葉を投げ掛けた。哀れんだのだ。
アングラな世界にいるとはいえだ、そこにいるのも人間だ。未だに男は常識という感性を捨てきれていない。そんな彼が、もし居たとすれば自分の子供くらいの年齢の少女にその手の感情を抱くのはおかしなことじゃない。
奈黒からの返事はなかった。変わりに咳き込む音。明らかに先程のタックルのダメージを引きずっていた。
可哀想だとは思う。哀れだとも思う。だが殺す。自分のために、そして組織のためにこの少女の血が必要ならば喜んで殺すと決めている。その覚悟はさほども揺るがない。
「死ね」
慈悲なく。慢心もなく。ただ振り上げたそも剛腕を振り下ろす。
直撃の瞬間に硬化能力で威力を増すその剛腕は、男の怪力と組み合わさって絶大な威力を持つ。当たればほぼ確実に頭蓋を割る。致死の拳。
それが奈黒の顔面目がけて振り下ろされた。
ぐちり、と。水っぽい音が廃墟に鈍く響いた。
「覚悟ですって?」
殴りつけた拳の先、男の大きな手の甲に遮られ表情は見えないが確かに奈黒の声が響いた。
生きていた。拳の直撃を受けて。振り下ろされ、今まさにぶつからんとしたその瞬間に、奈黒は首の筋肉だけで上体を起こし、威力が完全に乗る一歩手前の眼前の拳目がけて頭突きを敢行していた。
それでも、意識が飛びかけた。伸びきる前の関節にいくらか衝撃を吸収されているとはいえ振り下ろし。それも硬化能力付き。額が割れ、血がとめどなく噴き出している。それでも死んでない。
「出来てるに決まってるでしょ。私も、アンタも、命を賭けるに値するだけのモノを背負ってるからここに居るんでしょうが。出来てて当然だろうが」
でも、と呟きながら奈黒は指を伸ばす。チカラの篭ってない弱々しい動きで。親指で男の胸に触れる。
「残念だけど、今日死ぬのはアンタの方よ」
感電死の一般的な死因は心室細動による心停止が主な原因とされている。心臓を動かす筋肉に電流が走ることで脈が狂い、それによって心機能が停止するのだ。
人間が感電死するのに実は電気の大きさはあまり関係ない。落雷で死なないこともあれば、充電ケーブルの線を走る微弱な電流で死ぬこともある。
だが共通する事項がひとつある。それは電流が心臓を通っていったか否かである。
ショック。奈黒の親指から放たれた微弱な電流が男の心臓を貫く。
動転して、男は後ろに倒れた。胸周りに覚えた違和感に思わず心音を確かめる。.........無い。心臓が、止まっていた。
「う、おおおっおおおおおおおおおおおおおおおおっぉおおお」
慌てて心尖部辺り目掛けて左拳で叩く。何度も何度も、何度も。心臓が起きるまで、心臓マッサージを行う。胸骨が折れんばかりに再度強打しようとして。
「させるか」
奈黒がその腕を払うかのように突き飛ばす。ついでに加えられた電流が、男の蘇生行動を阻害する。
諦めず、なんとかしようと男が動く。なんとか心臓を叩こうと藻掻く。だが、心臓が停止状態にある男は酸欠状態にあり、頭では必死になっても身体は動かない。
「すまない。民、さん」
微弱になっていく男の動き。死にたくないと最後まで足掻くがしかし、今際の際で悟った男は最期にそんなことを口にして死んだ。
戦いの終わり。残ったのは頭から血を垂れ流し朦朧とした意識の中で男の死骸を見やる死に損ないの少女だけだった。
「おい、大丈夫.........ってそんなわきゃないか。お前ともあろうもんが派手にやられたな」
「しゅり、ちゃん。随分と遅い登場だったじゃないの」
「ちゃん付けすんな。悪いな、割って入れる場面がなかった」
そこへ現れたのは派手な金髪の少女だった。朱里江。奈黒が今回ヘルプ要因として呼んだ異能者だが、あまり出番がなかった。
そんな彼女は奈黒へと近づきながら彼女の傷を診てゆく。
「ひっでぇな。私じゃ直せん。病院に運ぶぞ、立てるか?」
「ん、肩貸してちょうだい」
「はいよ」
朱里江の肩を借りながらなんとか立ち上がる。チラッと見ると、反対側の方の腕に例のケースを抱えてるのが見えた。抜け目ないヤツ、と独りごちる。
それから最後に、動かなくなった男を見る。強かった。何より手強かった。引くに引けない男の執念がそこにはあった。独り身の自分とは違って、たくさん背負う物があったのだろうなと、なんとなく思う。
もしかしたら、自分なんかよりもよっぽど誰かに必要とされているようなヒトだったんじゃないかと。死ぬべきだったのは自分じゃなかったのだろうかと。
そこまで考えて、吐き捨てる。
「悪いわね。こっちも仕事、なのよ」
強ければ生き。弱ければ死ぬ。弱肉強食のセカイ。チカラが全てを肯定する無情の世界の上で、自分たちは生きているのだから。