われわれのまわりには善の秘跡と同様に悪の秘跡があり、わが信じるところでは、われわれは未知の世界、すなわち洞窟や薄明に棲むものどもの存在する場所で、生を送り活動をおこなっている。人間がときに進化の径を逆光することもありうるし、悍ましい伝承の知識いまだ滅びずというのが、わが信念に他ならない。
アーサー・マッケン
*
隣接する大きな川のおかげか排気の煙が雲と棚引く街の中、小さな木々が根より恵みを受け群生し一軒のカフェを汚染された外気から護る様に囲んでいる。樹海の仲間という名前のカフェは今日も子連れやカップル客によって賑わっていた。その中で唯一場違いな雰囲気を醸し出し、喫煙席で煙草を吸う二人の男がいた。有害な煙草の煙のせいか彼らの周囲は空席が目立つ。しかし誰もそんな事を気にせずある者は注文の品を心待ちに、ある者は料理に舌鼓を打ち、ある者は恋人と共に甘味を楽しんでいた。
「なあラル、お前が優れたオカルティストであり詩人であり作家であるのは知ってる。もちろんオタクという事も」
ヘビースモーカーなのだろうか男は注文してから6本目のタバコを吹かしながら向かいに座る友人に言った。友人ラル・ハグナは男の吐き出した煙草の煙に顔をしかめ、手でかき消しながら言葉を返した。
「それをいうなら君は臆病なオカルティストでありゲーマーでだろう。もちろん君のオタクだという事も知ってる」
ククっと指摘された男シャロート・ルディンは笑った。そして店員が料理を運んできたのを視界の端に捕らえると6本目の煙草を消し、「ありがとよ嬢ちゃん」と店員に軽口を叩いた。シャロートはハンサムでは無いが、実年齢より少し老けて見える仏頂面の大男だ。カフェというよりバーでブランデー片手に一人、酒を楽しんでいる方が余程似合うだろう。一方ラルは店員が去るまで終始沈黙の誓いを通していた。彼の属する宗派において沈黙こそ最大の感謝であり敬意だからである。少なくともそんな習わし日本では生きにくいだけだろうとシャロートはお節介にも指摘してくるが。
「よし飯も来たんだ、本題に入ろう」
シャロートが腰を掛け直し首を捻る。視界の端で若い女性店員が"本題"という単語にビクリと肩を震わした事に気付き小声に切り替える。シャロートは店内を見回し、誰もこちらに意識を向けていない事を確認してから口を開いた。
「俺に小説の書き方を教えてくれないか!」
もし先程の店員が彼の嘆願を聴いていたら何を思うだろうか。仏頂面で危険そうな強面な大男が、自分より背が低くほっそりとした男に小説の書き方をご教授願っているのだから。その構図が少しばかりおかしくて笑ってしまうだろう。
「いやだ...といったところで無理なんだろうな良いだろう」
優れたオカルティストであり詩人であり作家であるラル・ハグナは和風パスタを食べる手を止め、紙ナプキンで口を丁寧に拭くと語り始めた。
「小説というのは書くものじゃない。これは私の神学にして作品に対する哲学だが、我々小説家というのは物語を作るのではなく見て聞いて語っている...いや我々人間でもわかりやすい様に翻訳しているんだ。己の感性を戦場で唯一生き残った神聖な古強者であると信仰し、ただ感じたままに文章に書き起こす」
ふん...と唸りシャロートは難題という単語を顔に張り付かせ熟考を始めた。ラルは再びフォークを手に取り、和風パスタに入っているきのこに苦戦しながらも控えめな味付けに他の客同様、舌鼓を打った。
「つまりあれか...すでに"物語の素"となるものは存在していて、それをレーダーみたいな感性を使い感じとり文章にしていると?」
「君もオカルティストなら言葉を選びたまえよ。しかし解釈は間違っていないな。異世界の様に夢の中でしか見えないものもあれば、白昼夢の様に現れるものもある。他にも...机の下で這いずっているものとかね」
ガタンッとシャロートが机から飛び出し離れる。ラルはその友人の慌てっぷりに思わず笑いが漏れた。シャロートは自分たちを遠慮がちに見ている周囲の客を一瞥してから席に戻った。
「すまない。そんなに驚くとは思っていなかったもので」
「クソッ
原初の恐怖。それは人間が最初の抱いた感情は恐怖であるとう箴言から生れた概念で、暗闇や机の下など見えないところに何か潜んでいるのでは?と恐怖心を抱く一連の現象を指す言葉だ。言わばすべての恐怖の母であり父ともいえるこの概念は中世ヨーロッパ、プロビデンス期に多くの画家によって描かれた。なんでもほとんどの芸術家が机や物陰から伸びる触手を描いていた。それは人間が持たず海という未知の領域に住まうものたちが持つ触手という異様な器官からの連想だと評論家たちは語るが、オカルティストたちは太古に沈み死を超えて眠る邪悪な存在の念波を感じたからだと固く信じられている。その証拠に1926年にこの類の絵は全てアメリカに在るある海神を崇拝するカルト集団によって買収されてしまった。
「時に私が降霊術士と呼ばれている事は知ってるだろう?」
「あぁ降霊術師ではなく降霊術士だったな」
自分のことをよく知っている友人にラルは満足げに頷き、いちごパフェを追加オーダーしてから続けた。
「私は幽霊を降ろせても亡霊は降ろせないのだよ。だから降霊術士...見習いという意味だ」
「あ?ちょっと待て幽霊と亡霊って違うのか?」
ラルから向けられた冷たい視線を受け目を泳がしながらもシャロートは続きを促した。
「幽霊は気質そのものであり、亡霊は魂魄そのものだ。魂魄は君も知っての通り魂が天に還る霊であり、魄が地に還る霊だ。特に魄は実際、物質的なものが発見されているのが面白いところだな。ピンと来ないなら後で家にこい"安斎随筆"を貸してやる。それで幽霊だが気質、最も多いのは人間産のものだな。高知県のいざなぎ流が扱う瘴気とかが良い例だ。いいか幽霊ってのは生者からも死者からも紡がれる一種の思念そのものだ。生者なら雰囲気や生霊、死者なら地縛霊といった代表例が挙げられるだろう。しかしその中で...」
ちょっと待てとシャロートが手を出し制止を促す。まるで年老いた教授の長い話にうんざりしたような様子で、シャロートはいちごパフェを持ってきた店員にチョコパフェを注文する。店員は一瞬戸惑いながらもすぐに厨房へ戻っていった。ラルの話を理解するには圧倒的に糖分が足りなかった。
「OKOK取りあえずあれだな。幽霊と亡霊は別物って事だな」
半ば理解する事を諦めラルの顔を恐る恐る見る。ラルはシャロートの態度に悪態を付くわけでもなく、無言でいちごパフェを食べていた。少しの間沈黙が続きシャロートはラルに関する噂を想起していた。ある教会の司祭曰くラル・ハグナ氏は天使ミカエルより洗礼を受け、聖ヨハネに謁見されたと。ただの信徒を集めるためのデマだと思っていたが、実際ラルは旧約聖書及び新約聖書に精通しており詩作ではキリストをテーマにする事もあった。こいつ何者なんだ、とこの時はじめて疑問が浮かんだ。
*
シャロートは半ば後悔していた。来る前に約束した通りカフェの代金を払った後、ラルから提示された提案に乗った事にだ。夜桜を見に行かないか、という提案だった。シャロートと二人が向かったのは城の跡地を基に造られた公園で中央に西行妖なんて冗談めかして呼ばれるほど巨大な桜の樹が立っている。ただ近くに在る精神病院から悲鳴や奇声が響き不気味さを醸し出している。しかし美しい。その一言に尽きる。余計な言葉で飾るなど無粋すぎるが故に、死体を桜の下に埋めて欲しいと願う理由もわからなくはない。
「先程の話の続きになるが、桜の精の怪談を知ってるか?」
「あぁ知ってるよ。確か江戸の怪談だったか、桜の下に美しい女がいて夜な夜な男と精が枯れるまで情交するって話だろ?まあ童貞の俺らからすれば願ったり叶ったりだが、当時に人間からすれば跡継ぎを産めないって言うのは致命的なんだろうな」
ご高説ありがとうとラルは返し、桜ではなくシャロートを見やる。そしてゆっくり近づくと、囁き声で言った。
「今から話す怪談もそういった類のものだ」
シャロートは半ば後悔していた。ラルの怪談はその道に通じる人間であればある程怖ろしい。故に自ら地雷を踏みに行かされる。それをこんな人気のない妖しくも美しい桜の前で聞けとは少々難があると思う。
...
......
.........
「それって怪談というより今の俺たちの状況じゃないか?」
シャロートは普段の怪談より的外れな内容な話に驚きを隠せずラルの顔を見た。しかし夜も深く闇が沈殿しているためか、その表情を読み取ることは出来なかった。
「敢えて名付けるなら....名状しがたきもの ~La'lhugna hy xessl-t vyo~かな」
「なんじゃそりゃ...って1923年のラヴクラフト作品の題名か。というよりそれと差別化するためにサブタイトルを付けたのか」
ゾッとした。名状しがたきものでは墓場でランドフル・カーターとジョウエル・マントンが名状しがたきものについて議論し、遂に名状しがたきものに遭遇するがカーターとマントンは負傷させられて入院することになる話だ。それをわざわざ引用してきた理由。即ち...
「その通りだシャロート...もう彼女が"来てる"」
「.......ハハッ冗談キツイぞ」
幸か不幸かシャロートはラルから目を離す事が出来なかった。桜の樹がある方からメキメキと骨を折る様な、関節を外すような音が聞こえてきているのにも関わらず、見る事を拒んだ非常識な今この瞬間を拒絶した。しかしシャロートの腕にほのかに暖かい手が触れ、甘い匂いが鼻孔をくすぐると遂に触れられた方向、桜の樹がある方へ顔を向けてしまった。それは端女だった、恐らく桜の木の端女だろう。桜の樹同様に美しくはだけた胸元が...シャロートは気付くと端為女を抱いていた。求められ、与えられ、甘く溶けるような快楽に落ちていった。しかしラルだけがまるで最初からそうであったかの様に、目を固く閉じ風の音に耳を澄ましていた。途中端女がラルに対し妖艶な笑みを向けたが、ラルは応じずLa'lhugna hy xessl-t vyoと口ずさむだけだった。そして風がひと際大きく強く吹くと同時に何者かに後頭部を殴られラルは気を失った。
目が覚めたのは三日後だった。医師たちはシャロートの死をラルに伝え、続いて精神病患者に襲われて搬送されたのだと説明した。ラルは半ばどうでも良いと言わんばかりに右から左へ聞き流し医師たちが去ると、芳名帳をバックから取り出し良き友人で会った故人シャロート・ルディンの名前を書き記した。すると窓から舞い込んできた桜の花びらがシャロート・ルディンの名前の横に鎮座し、ラルはくすりと笑うとそのまま芳名帳を閉じた。
─完─