主人公の歪んだ内面の本質が詳しく描写される回。
後々の布石以上に、関係性や構図の暗喩がいっぱい散りばめられてる。
どうか感じ取ってくれぇーーっっ!!
「(見せ物か何かだな、これは)」
目と鼻の先にあるのは弓を射る騎士達。そして、周りから非常に浮いている場違いな子供。
それを後ろから眺めている一つの眼差しがあった。壁に背を預け、眉毛を顰めながら覗く不機嫌そうな青年。だがその青年——ケイの姿を視認出来た者はその場にはいない。
林檎の刺繍が施された白いマントを頭から被っている彼は完全に透明となり、他者からは視認する事が出来なくなっていた。
「(気持ちの悪い弓だ)」
その子供の弓が酷い出来な訳ではない。むしろ格段に上手だと言ってもいい。だからこそ気持ちが悪かった。
的のど真ん中に当てようという気概は感じ取れない。ただ空虚に射ったら的に当たっている。そんな印象の弓。それを幾度と繰り返している。
さらに、弓に対する姿勢よりも際立って浮くのがその姿だ。その子供と相対するのは初めてだったが、周りの騎士達に交じった姿を見るとその異質さが際立つ。
——あまりにも小さ過ぎる。そして細い。
その子供が大きく万歳をして腕を真上に伸ばそうとも、ランスロット卿やガウェイン卿の口元に、手が届くかどうかといったところだろう。
そんな小さい体躯で、成人男性用の長弓を引き絞っている。
強靭なイチイの木から作り出されたロングボウの弓力は数十kgに及ぶのだ。まず子供が引き絞れるものではないし、おおよそ見た目通りの膂力ではない。
自らの父親、エクターを倒したという情報が、誇張でもなんでもないのだろうと理解させられる。
「(…………気持ち悪い……)」
弓を引くその様子だけではなかった。
その子供———少女の姿が酷く気に障る。事前に少女だと言われた影響なのか、恐らく幻惑がかかっているだろう姿を見ていると、耐え難い吐き気がして来る。
いや、それだけではない。
脳をそのまま揺さぶれているのでは、と錯覚してしまいそうな程の、尋常ではない強烈な違和感。少女の後ろ姿を見ているだけで、頭の記憶に何かが侵食して来ている様な感覚。
思わず目を逸らしたくなるが、同時に絶対に目を逸らしてはいけないという焦燥感に駆られていた。
「(………疲れてんのか……)」
マントを被ったまま目を擦る。
思わず頭を振りかぶりたくなったが、このマントは姿を隠してくれるが音までは隠してはくれない。ケイは気付かれない様に静かに目を擦った。
「(……………………)」
一度、その少女から視線を外し、ケイは周りの騎士の様子を確認する。
周りの騎士がその子供を見る視線は様々だが、概ねは一致している。畏怖や憂懼。そして見た目から来る僅かな軽視の視線。もしここに清廉な雰囲気と蔑視を覆す程の清々しさを備えたら、騎士王のカリスマのそれに近くなるかもしれない。
だが——絶対にそうはならないだろうという確信があった。
彼女の佇まいは蔑視を覆す清々しさと呼べるものではなく、その超然とした雰囲気は冷徹さのそれに非常に近い。
今でこそは、周りの騎士程度の範疇で済んでいるが、周囲を意に介さない態度は周りとの亀裂を大きくしてもおかしくなかった。彼女の無表情に向けられる畏怖や憂苦は理解者を遠ざけ、僅かな蔑視は内心の嘲りに繋がる可能性を秘めている。
だがもし、それでも尚、他者を惹きつける何かを持っていたとしたら。
———それは陶酔や狂気といったもので纏め上げ、駆り立てる、暴君の如きカリスマを獲得するだろう。
己の何もかもを捧げてしまうような、狂気にも等しい忠誠。そして最悪な事に、その兆しは既に起きているかもしれないのだ。円卓に罅を入れるに足るレベルのものが。
「(というか周りも周りだ。少しくらい異質さを感じ取れないのか?
……それにトリスタンもだ、分かりやす過ぎるんだよ。視線を誤魔化せないのか、クソが)」
トリスタンの様子を見て、彼は嫌な事を思い出した。
妹が王としての道を歩み出した時の記憶。王の神秘性を讃え上げつつ、心の奥底では子供に王は務まらないだろうと、蔑まれていた頃の話だ。
妹自身は大して気にしていなかったが、自分はそうではなかった。
気に食わなかった。
更に気に食わないのが、そこに異常性を見出さず、また感じ取れもしない無辜の人々が。
そしてその侮蔑はトリスタン卿にも向いている。
無論、円卓の騎士の中で良い印象を持っている人物は存在しない。しかし、トリスタン卿に向けるものはその中でも飛び切り悪い。
トリスタン卿が時折、王へと向ける失望の視線。そして不満。分かりやすいのだ、トリスタン卿は。
———そして今もそうだった。
一応、体裁は整えられてるが見る者が見れば明らかに挙動不審である。
あえて例の少女に視線が集中しないようにして、視線が天井や床に向いている。しかし部下への指示や会話の終わり際に、自然と視線がその子供の方へと向いてしまっていた。後は歩法だとか、利き手である右手の爪をしきりに気にしているとか。
彼の心が大きく乱れている証拠だった。
周りの騎士達と違ってその少女に負い目がある分、今からトリスタン卿が弓を射ったら悲惨な事になるかもしれない。その少女に弓で負ける程に。
「(才能の塊だな……今はまだ荒削りだが、年齢から考えると将来有望どころの話ではないぞ、これは)」
例の少女は黙々と弓を放ち続けている。
もうすぐ日が暮れる時間になるが、既に百近い矢を放っていた。最初の50本はほとんど的に命中しており、更にその中の数割がど真ん中に命中している。
ただ、後半の50本程は外れるのが増えて来た。
集中が切れて来たという訳ではないのだろう。その少女の集中力は周囲の空気を張り詰める程のものだった。そしてそれは未だ乱れていない。
ただの疲労か。しかし、その割に疲れは見せていないし、腕も震えていない。
強烈な違和感は、未だに頭を蝕んでいる。
何か——別の理由か。
「上手ですね、ルーク……」
「ありがとうございます。トリスタン卿にそう言わしめたと素直に誇ろうと思いません。ですが、少々疲れました」
背後からトリスタンに呼び止められ、その少女は構えを解いた。言葉とは裏腹に消耗したという様子はない。
……何か、歪な声だ。
少女は複数の声が重なり合っているようで、酷く耳に障る。
不協和音を聞いているような気味の悪いものを感じ取りながらも、ケイは二人の会話に耳を傾ける。
「どうでしょう、このまま弓の道に進むというのは。貴方なら十分やっていけると思いますが」
「もし我儘が許されるのなら、私は剣を習いたいですね。いえ、別に弓が嫌いという訳ではなく、剣もやりたいという話なのですが」
「……そうですね。貴方には、未来がある。それを無闇やたらに狭めてしまうのも良くはありませんか……」
徐々に、トリスタン卿の表情にボロが出始める。
トリスタン卿は腹の探り合いが出来る方ではあるが、向いている訳ではない。負い目があるなら余計に。やはり、こういった出来事に向いている円卓は僅かしかいないのだと理解させられる。
「……あぁ、すみません。もう時間のようです。もし、また機会があれば……どうでしょうか?」
「是非。と言っても、私の処遇については何も決まっていないのですが。もしかして、私はトリスタン卿の部隊に配属されるのですか?」
「いえ、まだ何も決まっていません。
これも、別に貴方の実力を見定めようと言った思惑がある訳でもなく、ただの交流の一環ですよ」
「——そうですか」
既に太陽は傾いており、夕日が窓から差し込んでいた。
周りの騎士は二人の様子を気にしているが、会話には入ってこない。その子供と会話するタイミングを逃したのもあるが、子供の雰囲気が近寄り難いものである影響が強いのだろう。
距離感を測り倦ねているその様子は、モードレッドが騎士になったばかりの頃のそれに近かった。
「すみません、トリスタン卿。もう少し私はここに残っていても良いですか」
トリスタン卿の指示で周りの騎士が修練を終了させていく中、その子供は弓を腕に携えたままだった。
「どうかしましたか……?」
「いえ、私にはやる事がないのでもう充分だなと思えるまで弓を射ろうかと。必要以上に修練を行うのは意味のない行為だと理解はしていますが、少し一人になりたいので」
その発言にトリスタン卿は思案するふりをしながら、ほんの一瞬だけ——明確に此方に目線を向けて来た。
まぁ……流石にバレてるのだろう。僅かな心音すら把握出来るトリスタン卿なら、見えていなくてもほんの僅かな心音で此方の位置を把握出来る。
そもそもトリスタン卿に指示を出したのは自分だ。
例の子供、その少女に接触させるのにあたってトリスタンと多少揉めたうえ、アルトリアとも一悶着あったが強引に納得させた。
此方は常に後手に回り続けているのだから、次は先手を打つ必要があると。トリスタンなら弓を教えるふりをして反応を探れるし、処遇の件についてもこじつけやすい。
少女の方の精神面を二の次にしているが、決定的な場面で動けなくなるよりかはまだマシな筈だと。
「———…………分かりました。今日はもうこの場を使用する者は居ませんし、貴方の好きに扱っても構いません」
「我儘を聞いて貰って申し訳ありません」
「いえ。私も若い頃はがむしゃらに弓を続けていたものですから」
おおらかな微笑みの表情を貼り付けながら、トリスタン卿はその少女に告げ、そして修練場から出て行く。
"後は頼みました……ケイ卿"
修練場から出て行く直前、その少女にバレない様に、そして此方を見る事なく、口の動きだけでそう告げていたのが見えた。
トリスタン卿に続いて、部下の騎士達が修練場を出て行く。何人かの騎士達もまた、その子供に幾ばくかの挨拶や称賛を告げ、出て行った。
騎士達による矢を放つ音と、矢が的に当たる音はなくなった。先程までの騒々しさは何もない。その場にいるのは例の少女だけ。
端的に言って非常に都合が良い展開だった。多少気が引けるが、此方に気付かれていないこの状況は心内を探るのに使える。
「あぁ、疲れた……」
天井を仰ぎ見ながら、その少女は嘆息をもらす。
しかし、両腕の筋肉の解すという動作はせず、そのまましばらく佇んでいるだけだった。先程、トリスタン卿に言った様に肉体が疲れたという訳ではないが、精神的に疲れたという事なのだろうと推測出来た。
ランスロットの報告書にある姿ではなく、また先程までの様子とも違う。恐らく彼女の表の顔。彼女の本来の表情と思われるものが、表側に噴出していた。
「何でトリスタン卿は……まぁ、疲れたから後でいいか……」
頭をガシガシと掻きながら、投げやりな口調で呟いていた。
———何か悪態を吐く訳でもなく、一人になった瞬間、負のオーラを放出する訳でもなく。
……正直言って、想定外だ。
想像を絶するものだった訳ではない。想像以下だった。
頭の中で思い浮かべていたイメージとはどれも一致しない。状況から見て、どう考えても素の顔なのに、その少女の反応はあまりにも温く、また穏やかだった。
ただ単に、怒りの使い所を完璧に把握しているのか、もしくは切り替えが異常な程上手いのか。
だが、どれもそうは思えない。混乱した思考のまま、ケイは彼女の様子を見る。
弓の構えを解き、ただ的の方向を向いていた。
「何故上手くいかない……イメージは出来てる。忘れる訳がないし鮮明に想起出来るのに、精度が良いだけで完璧ではない。過程が同じなら、結果も同じになる筈…………でもならない」
口元に手を当てながらボソボソと喋る姿は、とても人間味に溢れている。
不気味な人形の様には、とてもじゃないが見えなかった。
「私のやり方ではダメだと……なら本当に全く同じじゃないと、類似しただけの何かにしかならない。
私の勘違い……? そんなまさか、出来る筈だ。アレを再現出来るだけの集中力があれば……」
いっそ露骨な程に感情に溢れていた。
彼女は弓を持っていない方の手を腰にやりながら、再び天井を仰ぐ。
誰でもやる様な、ありふれた動作。明らかに、何かを思い悩んでいる様子だった。
「身体の全て。内臓から指先、爪の一ミリ。髪の毛の一本に至るまでをイメージする。回路を身体の奥にまで通す。
…………イメージは、焼けた鉄の棒を外側から背中へ突き刺す。比喩でもなんでもなく、火箸を作り出して身体の奥底まで刻み込み、同調させる。あぁ、やっぱりコレ狂ってる……」
天井を仰ぎ見ながら、頭の中の何かを思い返している。
少女自身が呟くその言葉のほとんどを理解する事は叶わなかったが、常軌を逸した何かをやろうとしている事だけはかろうじて分かった。
それこそ、つい悪態を吐いてしまうくらいの事を。
「………………」
静寂が戻った。
少女は姿勢を正し、呼吸を整え始めた。手足を弄る事はなく、身体を揺らす事もない。身体の奥底から脳に至るまでの何かを切り替えている様な錯覚が彼女から放たれ始めた。
空間に少しずつ染み渡る様に、少女の集中が場を満たしていく。
その様子は、稀に円卓の騎士達の様な人物が戦場などで見せる、思わずゾッとする様な佇まいと酷似していた。
思わず固唾を呑んでしまうのを抑えながら、その少女の様子を見定める。
数秒か、もしくは数十秒か。その静寂を破る様に、少女の大きな息遣いが聞こえた。
大きく心臓を動かす様に、空気を自身に取り込む様に大きく息を吸い、そして吐き出す。呼吸を整えつつ、身体の全てのリズムとバランスを同調させるが如き、深い、深い深呼吸だった。
「——
音を聞いた。
いや、本当は聞こえていない。その少女の声以外の音など聞こえていない。聞こえる筈がない。ただの錯覚だ。
その筈なのに———燃える鉄に金槌を鍛ちつける様な音が、確かに響いた気がした。
何故か魂を揺さぶられている様な驚愕をよそに、少女は弓を構える。
見た事のない射法だった。
似た様なものは見た事がある。しかし、今彼女の行なっている射法は明らかに今までの人生で見た事がないものだった。先程の少女が行なっていた弓の射法とも違う。
素人でも分かる。
弓の重心が違う。
身体の重心が違う。
弓構えの位置が高い。
矢を引き絞り過ぎている。
射法が細か過ぎる。
その射法はどう考えても、射程よりも衝撃力を引き出す為の構造をしているロングボウでは不向きだった。
なのに——何故かその撃ち方こそが正しいように思える。何より完成度が尋常ではない。いや、もうどうしようもない程に完成されている。何十年と鍛え上げ、研ぎ澄まされたが如き一つの極地がそこに有った。
一つ一つの動作が断絶される事なく、流れる様に行われた六の射法。
そして今、最後の七つ目が完了した。目元までではなく、耳よりも後ろまで引き絞られた矢は空を切り裂き、導かれる様に的を射る。
当たり前の様に的の中心を射抜いた。
少女はその手応えに喜ぶ事もなく、矢を放った姿勢をしばらく保ったままだった。そうして、改めてその少女の姿を見て気付く。
——何かの文様が肉体に浮かんでいた。
衣服や鎧の上からでも分かる、何かの線。
赤い稲妻の様な線が両腕から首元まで広がり、バイザーに隠された目元まで走っていた。そして、その線から小さな火花の様なものが周囲に放出されている。
自分の妹が戦闘時に放つそれとは、似て非なるもの。
術という技を以って周囲に放出される、魔力の残滓。
「——————」
その残滓に目をくれる事もなく、少女は再び矢を弓に番える。
集中力を一切損なわず、構えられた弓には寸分の震えもなく、研ぎ澄まされた射法は、まるで時間を巻き戻して同じものを見ているかの様に違いはなく。
あぁきっと、この弓が外れる事がないのだろう。たとえ外れたとしても、放つ前に外れると分かってしまう。そう確信させる程に、その弓は——恐ろしかった。
また新たに放たれた矢は、一射目の軌跡をなぞるように、再び同じ軌道を飛ぶ。
過程が同じなら結果も同じ。弓を射る時の動き、筋肉の繊維一つ一つから身体の動かし方まで、何もかもが同じなら、勿論矢は同じ場所に命中する。
——的に矢が突き刺さった。
本当に一切のズレなく同じ軌道を飛び、最初に刺さった矢を、末端から二つに割いて破壊しながら。
「…………すげぇ……」
「———ッ…………!!」
見惚れていた。
思わずあらゆる疑念が吹き飛び、何も考えず口から言葉が溢れ落ちる。
そして極限の集中状態にいる少女が、音一つ響かない空間に響いたそれを見過ごす訳がなかった。
「何だ……誰かいるな、答えろ」
肉体に浮かんでいた赤い線は即座に消失し、少女の雰囲気が一変する。
急にその少女の存在感が膨れ上がった様な感覚と、剣の切先を向けられているかの如き殺気。いや、実際に命に関わる脅威を向けられていた。その少女は音がした方に向けて弓を構えている。
「なっ……! まて……まてやめろ! こっちに弓を向けんな!」
「——————……は……ぁ……は? いや……ケイ、卿……?」
実際に矢を放たれたらたまったものじゃないと、ケイは姿隠しの外套を脱ぎ捨てる。
後の事は何も考えてない。考えてないが、バレてしまった以上どうしようもない。
「……何を、しているのですか」
「あ? 別にお前が弓を射る姿を見ていただけだが。
なんでもお前は、最近騎士になったばかりの期待の新人らしいじゃないか。だからどんな奴か確かめてやろうと思ってなぁ?」
「……それで、普通に相対するよりも姿を隠してこっそりと監視した方がより探れるだろう、と。なんとも趣味の悪い事ですね」
「勝手に言ってろ。自分の親父を一撃でのした奴と普通に相対したいと思う奴があるか? それに監視されていたとしても、期待の新人であるお前が困る事でも何かあるって言うのか? むしろ、円卓の騎士達から目を向けられているのだと喜ぶ所だろうさ」
「…………………」
一瞬だけ動揺した感情を表す様に乱れた口調は、段々と凍り付き始める。
構えていた弓を下げて、黙り込んだ横顔から感情は垣間見えない。返す言葉がなくなったから黙り込んだのではなく、此方の言葉の真意を探っている為に、黙り込んでいる様に思えた。
「というか、なんで俺の名前を知っている。いや、別に名前はいい。なんで名前と顔が一致する」
「———不機嫌そうな顔」
「あ……?」
少女は呆れかえるようにボソッと呟いた。
「円卓の騎士という立場に居ながら、良くも悪くも回る口と不機嫌そうな顔、それに粗暴な態度から周囲の受けは良くない。いや良くない所ではなく、嫌われている。
それも一部の騎士からは、優れた武勇は無いのに"何故か"アーサー王と仲が良かっただけで円卓の騎士になれた騎士、とすら陰口を吐かれる始末」
「………………」
「あぁ……これ以上、監視という名の覗きをする騎士に相応しい人物がいるのでしょうか。
いえ、別に私はケイ卿の事を、武勇のない騎士などとは思っておりません。口先一つで巨人の首を切り落とし、火竜すら呆れて飛び帰る。そんな武勇を持つ者など、円卓の騎士を含めてもケイ卿しかいないでしょう。
それに周囲の受けは良くないと言われますが、その優れた容姿から女性の受けは良いとも聞きます」
「……………………」
今度は此方が黙り込む番だった。
慇懃無礼を隠す事なく、むしろ押し出す様に目の前の少女は語る。
少女の口元に浮かぶ僅かな微笑は、此方への嘲りと意趣返しを秘めているのにも等しかった。
あぁ……これはランスロットが弄ばれる訳だな。
率直な感想はそれだった。
極力自分の隙は見せず、相手が隙を見せたら一気に叩く。相手に隙がないなら会話のペースを握って弱味や隙を作り出す。感情を乱し、相手にペースを握らせない。
その会話の運び方は、アグラヴェインにそっくりだ。
しかも単純に此方から相手の情緒を読みにくい。
目は口ほど物を言うというが、その目元がバイザーに隠されていてはどうしようもない。
顔どころか身体全てを、いつも赤と白銀の鎧で隠している円卓の騎士が一人いるが、目の前の少女は、その騎士——モードレッドの様に分かりやすいものでは到底なかった。
「それで、私はケイ卿がイメージしていた通りの人物でしたか?」
「あぁ、予想通りの……いや、予想以上のクソガキだったさ」
「そうですか、まさかケイ卿の御眼鏡に適う事が出来るとは思ってもいませんでした」
敵意を煽る笑みはそのまま、慇懃無礼を消さずに返答してきた。もしもアグラヴェインと腹の探り合いをしたら良い勝負をするだろう。
下に見られて舐められてはいけないと、一切隙を見せないのだから。
「じゃあ、もう宜しいのでは?
もう直ぐ日も暮れるので今日は帰って休んだ方がよろしいかと。私も後一時間もしない内に弓はやめるので」
「ほう……? まるで隠し事があるかさっさと帰って欲しいかの様だな?
いや、それとも見られたくないものを見られたから、一人にして欲しい。と言った所か?」
「ええ、この様に痛くもない腹を探られるのが煩わしいので、出来れば早く帰って欲しいですね」
「おお良かったじゃないか。今、疑いの目を晴らす絶好のチャンスだぞ? 何故正しくあろうとしない?」
「疑いの目? 私は一体どんな疑いの目を向けられているのでしょうか」
「…………さぁ、そこまでは知らないな。そもそも疑いの目以前に、お前がどんな人物なのか確かめたがっている奴はそこらじゅうにいるしな」
「…………………」
感情を良いように乱されて口論の熱が上がってしまったら、ついつい要らない事まで口にしてしまいそうだった。
無言のまま、読めない表情で此方を見る様子は、正直言ってアグラヴェインよりも不気味だ。
「はぁ……そうですか。まぁ別に私は隠し事をしている訳でもなければ、今さっきのも隠す気もなかったのですが。
そもそも隠し通せるとも思ってませんし、いずれ知れ渡るなら丁度良かったのかも知れません」
無感情に淡々と告げるその様子から、嘘は感じ取れない。
演技だという可能性は否定出来ないが、弓の事に関しては本当にどうでもいい事なのだと思っている様だった。
「へぇ……じゃあさっきの肉体に浮かんでいた線はなんだ? 普通の人間は身体に赤い線なんて浮かばないんだが」
「———
「……あん?」
少女は先程と同じ言葉を言祝ぐ。
その言葉と共に、再び身体に稲妻の様な赤い線が浮かんで来た。
「別に大した事もない強化の魔術です。
……いえ、これは魔術と称するのは失礼かもしれません。ただ魔力を肉体に通しているだけで、基礎ですらない、初歩の初歩です。この線も、ただ肉体の魔術回路が表に出て来ただけです」
「……さっきの呪文は」
「呪文というものでもありません。ただの自己暗示。自らの意識を変革させるだけのもの。言葉に出した方がイメージしやすいだけで、別に言わなくても出来ます」
「それを誰に教わったって言うんだ?」
「別に誰にも教わっていません。正直言って、魔力を通すという過程が術の形をしているだけで、魔術という程の物でもありません。
言うなれば、剣に鞘を被せているようなイメージです。そんな事に教わる余地などないでしょう?」
「…………………………」
「小さい子供が大の大人に勝利し、鍛えてもいない身体で弓を引き絞れる理由を理解して貰えましたか?」
笑顔でそう告げる少女に、反論を用意する事が出来なかった。
花の魔術師を師匠とする妹なら何か追及出来たかもしれないが、自分は魔術に関してはからっきしである。諸国漫遊時代の頃、マーリンが多少魔術を使用した場面を見た事はあるが、その少女の魔術とは一切似付かない。
それにこれ以上追求をしても、決闘試合の時に妹に告げた様に、後天的に力に目覚めましたと言われたら終わりだ。表面上の矛盾点はない。
——それでも違和感が拭えなかった。
意図的に、大した事はないものだと認識させられている様な感覚。
確かに嘘は言ってないのかも知れない。ただ、全てを語っている訳ではない。
「……で、まだ何か?」
弓を持ってない方の手を腰に当てながら、少女は鬱陶しそうに口にする。
……何だ、この違和感は。いや違和感だけじゃない——思考を誘導されている様な感覚が取れない。そうだ。まだ話は終わってない。
「別に用はないさ。たださっきの弓を射る姿が目に焼き付く程に気になってな。その年であんな精度の弓を撃てるなんて将来有望じゃないか」
「そうですか、恐れ入ります。そろそろ帰っては如何ですか?」
「なぁおい。なんでそこまで一人になりたがるんだよ、会話しようぜ? 会話。
相互理解は大事だろ。協調性を持たないとこれから先やってけないぜ?」
「あぁ、どうしてそこまで二人になりたがるのでしょうか、距離を取りませんか? 距離。
距離感覚は大事でしょう。引き際を見誤ると碌な目にならないのでは?」
その言葉に一瞬だけ硬直する。
引き際、という言葉が何かの暗喩ではないのかと一瞬思考し——そして直ぐに思考の端に追いやる。
「あぁ、分かった! 分かったよ。静かにしてればいいんだろ?
ただお前が弓を射る姿を見ているだけだ。そしてお前は俺の事なんか気にしなければいい。他人の事を気にせず行動するの得意そうだろ?」
「…………はい……?」
会話のボルテージは、お互いに上がり続けている。
彼女は僅かにだが、不機嫌さを表面に出した。引き際など知らない。ここで引いては結局最初に逆戻りする事になる。会話のペースなど握らせはしない。
「弓を射る時に、周りに気になるものがあると集中出来ないという話ですが」
「——あぁそうだな。ところでお前、具体的な日程は決まっていないが、いつかは前線に出るだろう?」
「……は……? いや、まぁそうでしょうが、それが今どうしたと」
「前線で周りに気になるものがない状態で弓を射るなんて出来るのか、なあ?
それに、鍛錬と違って本番だと動く相手に矢を当てる必要があるんだぜ? ベストコンディションの調整をするのはいいが、戦場でずっとベストコンディションを維持出来る訳がないよなぁ?」
「—————……………」
「俺一人がいるかいないか程度で乱れる集中力じゃあ、前線に出したくはないんだがなぁ」
「…………………………」
ようやくだが、今確実に失言を引き出した。
黒いバイザーの所為で表情は読み取れないが、恐らく思いっきり眉間に皺を寄せているだろう。その証拠に、若干だが唇を噛み締めていた。
「………………」
「………………」
互いに静寂が走る。
互いに互いが牽制しあい、一手も間違えられない緊張の中、心の中で睨み合っていた。
「…………はぁ……好きにすれば良いんじゃないですか。どうぞご勝手に」
互いの沈黙を破ったのは、少女の深い溜息だった。
少女は此方から視線を外し、弓を射る為の姿勢を整える。狙っているのは何も突き刺さっていない新しい的。少女の肉体には、再び赤い線が浮かんでいた。
「そういえば、お前なんでそんなに弓が上手いんだ?」
「……………………………さぁ、才能じゃないですか」
長い沈黙の後、投げやりに答えられる。
その沈黙が、静かにしてると言った癖に黙らないのかという意味合いなのか、もしくは聞かれたくない事を聞かれたからなのか。
ただ、一応は返事を返すという事は——まだ聞き込める。
「才能ねぇ。しかしお前の弓は才能溢れた弓というより、凡人がひたすら愚直に磨き上げた弓。そんな印象がするんだけどな」
「…………………」
「……いや、違うな。印象が変わったんだ。今さっきの弓とトリスタン達がいた時とは、何となく種類が違う。手加減してたって感じもしない、別人が弓を撃ってるみたいだ。
——実はお前二重人格だったりするのか?」
「…………………」
返事はない。
「おい、聞いているんだが」
「発想の飛躍が面白くて笑ってしまいそうです。もちろん愉快という意味ではなく」
吐き捨てる様な言葉と共に、矢が放たれる。
当たり前の様にど真ん中だった。
「…………気持ち悪りぃ……」
「そうですか。ありがとうございます」
淡々と語る少女だったが、言葉から鬱陶しさが滲み出ていた。
間違いなく集中は阻害されているだろう。
——なのに、外れない。彼女のやる弓はいっそ不気味に感じる程に、何故か外れない。
その様子を見て、まるで絡繰人形が動いている様だとケイは感じた。
人間には心があるが、絡繰人形に心はない。同じ動きしかする事のない人形なら、矢は同じ位置にしか当たらない。人形そのものの仕組みが根本から揺らぎでもしない限り、この弓が外れる事はないだろう。
およそ人間がやっている弓のようには思えない。
「……馬鹿らしいな。そこまでして、お前は一体何がしたいんだ?」
「…………………」
返事はない。
少女は矢筒より矢を引き抜く。
「正直言って、十にもならない子供なんざ、そこら辺の野原でも駆けずり回ってる方が性に合ってるだろう」
「…………………」
返事はない。
少女は静かに、矢を弓に番えた。
「……そういえばお前。村を、焼かれたと言っていたらしいな。蛮族に」
「—————………………」
———返事は、なかった。
ギリギリと、弓が引き絞られる音が辺りに響く。
「———復讐でもしたいのか? お前」
放たれた矢が———外れた。
「…………ッ……」
その光景を見て、思わず声が漏れた。
外れる事を知らない弓が——外れる後など想定されていない弓が、外れたのだ。明らかな異常。本来なら起こり得ぬ不具合。
放たれた矢は大きく上にずれ、的の端から拳一つ分上に突き刺さっている。矢を放つその瞬間、身体が強張った証拠だった。
「………………………………」
弓を放った視線を保つ残心を行う事もせず、ただ直立したまま、少女はただぼーっと、大きく外れた矢に視線を向けている。
不気味な程、静か。虚無的な佇まいが彼女を支配していた。
かかった。かかったが……少しまずいかもしれない……
明確に言葉にして仕掛けたとはいえ、その様子はあまりにも気味が悪かった。
見てはいけないものを見た感覚。見ていたら引き摺り込まれる暗い穴を覗き込んでしまった様な感覚が身体を襲う。
黙したまま、ただ遠くを見据える少女の姿に焦燥はない。
静かに佇むその姿は、神聖な空間の様に犯し難かったが、その様子とは裏腹に、限界まで高まった緊張と嵐の前の静けさが辺りを包んでいる。
「———そうかも、しれません」
数瞬の沈黙の後、少女はそう呟いた。
「……………………」
「私は騎士になった。でも、私は別に、何か崇高な目的がある訳でもなければ、尊い理想がある訳でもない」
「……まぁ、大抵の奴はそうじゃないか」
「一般的な人間とは違い、名声なんてどうでもいい……成し遂げたいモノもない。夢なんて見てない。かと言って、現実を見ている訳でもない。
私が騎士になった理由に、誇れるものなどありはしない。私は不純だ」
「………………」
「復讐……えぇそうでしょう。そう表するのが何よりも相応しい」
あまりに冷たい声だった。
己の感情の全てを、強引に、そして無理矢理押し殺さなければ、きっとそんなに冷たい声は出せないだろう。
何も浮かんでいないが故に読み取れないのではなく、あまりにも黒く染まり過ぎて、一体幾つの感情が含まれているのか分からなかった。
「何もかもが奪い去られ、そして消えていった。
たとえどれほど努力しようと、そして、たとえ己の全てを捧げようと、それが帰って来る事はない。奇跡を望んでも、帰って来る事はないでしょう」
少女は、弓を持っていない片手を見ながら、悲しげに語った。
まるで何かを確かめる様に、幾度となく、その拳を開いては閉じる。
「…………私は別に、何が何でも、この手で殺してやりたい者がいる訳ではないんですよ……?」
「————何?」
何故か、己の罪を告白するかの様に囁くその声を、ケイは確かに聞いた。
「意味なんてない。何も返って来ないし、何も変わる事なんて、ない。
…………そう、何の……意味もないんだ」
「お前は……何が、したいんだ」
愚問を問う。
何も考えてない、ただの呟き。駆け引きも何もない、愚かな質問。
しかし、それに彼女は律儀にも反応を示した。
「私は別に、何かを成し遂げて欲しいと託されてはいない…………復讐なんて望んでいない。望んでは、いない。でも、それでも——」
段々と、紡ぐ言葉が早くなる。
何かに追い詰められている様に語る少女の姿は、まるで幽鬼そのものだった。
「———許せなかった。許せないモノが存在した。絶対に認められないモノが、認めてはいけないモノが、あそこにはあった」
そう告げた少女の声は低く、僅かに震えていた。
魂の底から滲み出す様な、深い憎悪と呪詛が言葉と共に吐き出されている。
それは、見ている者を芯の底から凍てつかせながら、何よりも深く燃える黒い炎の様だった。
少女は自分の拳を深く握り締め、天井を仰ぐ。
想像し得ない膂力によって、深く握り締められた拳は大きく震えていた。
バイザーで見えないが、きっと何かを睨み付けているのだろう。その憎悪を生む程に許せなかった——何かを。
「……そういう点で言えば、私は復讐を望んでいるのかもしれません。きっと、これを醜いモノだと理解していながら、私は死んでも許せない」
だが、それも長くは続かなかった。
ふっと力を抜き、疲れ切った様子で少女は呟く。
——目の前にいるこの子供は、一体何なのだろう。
常人に浴びせれば、それこそ呪い殺せそうな狂気と呪詛を心の内側に持ちながら、同時に、この少女には逆に歪に思える程の一般的な道徳と理性を、矛盾したまま保有している。
そうとしか思えない。だからこそ、何もかもが一致しない。あまりにも相反するものを持ち過ぎている。
「ケイ卿は誰かに、笑って欲しいと思った事はありますか……?」
「…………いや……は?」
「真面目に答えて下さい。真剣な話です」
今までにない程真剣な様子で問われる。
茶化す雰囲気でもなければ、誤魔化しが効く様子でもなかった。
「まぁ……あるな、うん。普通に……ある」
「………………」
別に珍しい事でも何でもない。自分にだって幸せを願っている人物はいる。
だが——その人物は決して自分の為には笑わない。その人物はただ、人々が幸福である事を見て"嬉しそうに"笑うのだ。
「ええ、そうでしょうね。度合いの強さは人物によって変われど、何か極めて特殊な感情と言う訳ではない」
「ああ……それで?」
「……ケイ卿はその人物の為に、何かをしたとか、何かの助けになったとかは、ありますか」
「いや、な…ぃ……あー、そのだな……まぁある、な」
言葉に言い淀んだ。
まったく何もしてない訳ではないかもしれないが、かと言って自分だからこそ助けになったなんて場面が見つからなかった。
いたら助けになるが、いなかったとしてもそこまで致命的な事にはなってない様な人間。
「……で? それが何なんだよ」
己の自己嫌悪を振り払う様に問いを返した。
——何も考えず。それが、如何に短慮な考えだったのか思い至る事もせず。
「じゃあケイ卿は———
決して、安易に覗いてはいけないものを、見る事になるとも知らず。
———その人物だけは、絶対に笑っていなければならないと、そう思った事はありますか?」
そう聞いて来た少女の声が、およそ人間が喋っているものとは思えなかった。
深い激情を無理矢理押さえ付け、噛み殺した声。しかし、それを抑えきれていない。
ゾッとする程に冷たく、しかし次の瞬間には荒れ狂い、狂乱する竜を幻視出来る程の恐怖を、目の前の子供に覚える。底の見えない暗闇を覗いてしまった様な鳥肌が止まらない。
「どれだけ努力しても、自らの才能の全て、自分の生涯の全てを懸けても絶対に辿りつけない場所にいる"人々"が、どれだけ手を伸ばしても届かない場所にいる"人々"が、もしも笑わなかったら。幸せの頂点にいる人間が、その幸せを正しく享受しなかったら、その下にいる"人々"は一体何なんだと。一体どうすればいいのだと」
「たった少しだけ、一回の選択分、運が良かったというだけ。たったそれだけの幸福を噛み締めるだけでも、まだ良かった。たったそれだけでも、確かに報われる人達がいるというのに、それすらしない。いや、そもそも知りもしてなかったし、理解もしていなかった」
「——許せなかった。
アレは、あそこにあった、あの光景は絶対に許す事が出来ない。それでも、あの光景が崩れさるのだけは容認してはならない。あの人々は、死ぬまで幸福を享受し続けなけれならない。
……………………それ程までに許せないものが……貴方には、ありませんか」
何かに追い込まれている様に語る姿には、感情を覆い隠す蓋など存在しなかった。感情を読み取らせなかった筈の、絶対零度の声は激しく震え、そして燃えている。
まともな生涯では獲得する事など到底出来ない、怨嗟と憎悪が言葉の節々に現れている。
「理解は、しているんです。これはただの嫉妬だと。ただの醜い感情。終わりのない子供の我儘。幸せを願いながら、その幸せを妬んだ愚かな矛盾の塊。
…………それでも許せなかった。あの光景は、積み上げられたモノを全て等しく、有象無象の意味のなかったモノに、簡単に出来てしまう。
そうだと理解しているくせに……私の行為こそが、本当に意味のないモノだ。
………………本当に、矛盾している」
決して、安易に覗いてはいけないモノが、生半可な覚悟では踏み込んではならないモノがそこにはあった。
それは、この世の全てを呪うに足る狂気と慟哭、そして聞く者の胸を切り裂く悲しみと絶望を、矛盾したまま保有してしまった———少女の悲鳴だった。
「……………………」
「……………………」
そして、少女は再び黙り込んだ。
先程までと同じ、静かな佇まい。しかし、返事をするどころか、僅かな音を立てるのすら戸惑うほどに、その後ろ姿は、細く小さく、そして———あまりにも痛々しかった。
思わず、頭を抱える。
本当に、こんな事に関わりたくなかった。知りたくもない事を知らされ続けている。頭を回したくない。その少女が語った事について何も考えたくない。
でも——そんな事はもう出来なくなってしまった。
覗いてはいけないものを覗いてしまった以上、そんな事はもう許されない。
"多くの人が笑っていました——それはきっと間違いではないと思います"
何故、その言葉を思い出したのだろう。
何故、このタイミングで、多くの人々が笑えるならそれでいいのだと、己の運命の全てを置き去りにした少女の事を、思い出してしまったのだろう。
意味の分からない漠然とした不安に急かされ、顔を上げて、目の前の少女の姿を確認しようとする。
「—————————」
少女が振り返って此方を見ていた。
何も読み取れない。何も分からない。ただ口元を真一文字に深く結んで、此方を見ているだけ。目元は見えない。
でも、何故だか、その少女が———この激情をどうか理解して欲しいと、そう言外に告げている様で———
「まぁ……別にいいです。
答えを求めている訳ではありません。そもそも、もう答えは出ている」
少女は最初の冷徹さを取り戻し、まるで何もなかったかの様に、弓の的がある正面を向いた。
既に内側に秘めていた激情はそこにはなく、ただ、他者を拒絶する凍てついた情緒が彼女を覆っている。
「…………………」
「もしも蛮族を一人残らず殲滅したら、何か変わるのでしょうか? 出来るとは思ってませんが」
「……知らねぇよ。そんな事」
「そんな事とは酷いですね、私からすると結構重要な話なのですが。まぁ、何かが変わる訳でもないか」
きっと悪い夢だった。
そんな風に楽観的に思えたら、多分こんなに悩まなくて済むのだろう。でもそんな事はない。今さっきの、隠されていた筈の激情は本物であり、現実のものだった。
底なしの深淵を覗いてしまった様な感覚は、未だ身体を蝕んでいる。
——なぁアルトリア。お前は、コイツに一体何を与えたんだ? なぁモルガン。お前は、コイツの何を利用したって言うんだ? ただ凡人でしかない俺には分からない。一体、どこまでの仕打ちを受けたら、人間はこんなになれるって言うんだよ。
——なぁ。何でお前は、そんな激情を持ちながら、どうしてそこまで理性的でいられるんだ。なぁ、ちゃんと分かる様に教えてくれよ。さっきのアレじゃあ、全然分からねぇよ。
「…………………」
もちろん、そんな言葉は届かない。
此方の気も知らないで、少女は再び矢を弓に番え始めた。
少女の方としても、先程の事は一旦無かった事にして忘れたいという意思の表れなのかもしれなかったが、その急変は酷く気持ち悪い。
子供の姿をした何か。
そんな印象が取れないのに、あの一瞬、ほんの一瞬、確かに見えてしまった少女の姿は——迷子になった子供そのものだった。
「クソ……なんなんだよ」
「……………」
此方の呟きを無視して、彼女は弓を引き絞る。
既に凍りついた心を表す様に、弓を引くその姿には寸分の震えはない。
彼女を見ていると、酷く心を揺さぶられる。決して無視してはならないのに、痛々しく見ていられない。そんな相反する感情をどうにもする事が出来ない。
何もかもが歪。その弓、そのものでさえ。
しかし、一瞬だけ顔を覗かせた、何もかもを灰塵と還すが如き狂気とは似付かわず、むしろ反比例するかの様に、その弓を射る姿は———あまりにも美しかった。
「———あぁ、気持ち悪ぃ」
「褒め言葉ですか? ありがとうございます」
放たれた矢は、再び残像を残して同じ軌道を飛び、的の中心を射抜いた。
「あぁ、本当に気持ち悪い。気味が悪い。本当に、未来永劫お前の事を好きになれそうにない」
「奇遇ですね、私もそう思います。未来永劫、貴方の事を好きになれそうにありません。と言うか……話しかけて来ないで欲しい。更に言うなら視界に入らないで欲しいですね、調子狂うので」
「言うようになったな、クソガキ」
「言いますよ、嫌われ者のダメ人間」
「…………んだと、テメェ……」
「…………フン」
互いに罵り合い、己の苛立ちをぶつけ合う。
駆け引きなどない。相手のペースを乱してやろうという思惑もない。
ただ、互いにどうしようもなく苛立って仕方がなかっただけ。
「チッ。黙って見ていてやるから弓でもやってろ」
「…………はぁ、別にそのつもりでしたので良いんですけど」
捨て台詞を吐くように、少女を急かす。
日が完全に落ち切って深夜になるまで、その少女の弓を射る姿を黙って見守る事にした。
少なくとも——その弓だけは見事だったから。
それ以降、少女の弓は一度も外れなかった。