「あ、どうも、シュルツです」
「ふぇ!?」
目の前の子は慌ただしく辺りを見回している。
ふわふわの白いパジャマを着た中学生の少女だ。
「なにここ!? どこ!? どゆこと!?」
頭を抱え、床を叩き、振り向き、再び床を叩き。
置かれた状況が状況のため、無理もないとは思うが、なんとも活発な娘である。
この空間――つまりは四方を真っ白な壁に覆われた、窓もドアもない個室だが――において絶対的な支配力を持つシュルツは、こほんと咳払いし、目の前の少女をなだめすかすためのマニュアルに沿った話術を展開する。
「えー、このたびはおめでとうございます」
「えっ、なにがなにが?」
「あなたは乙女ゲーのモニター係に選ばれました」
「どゆことー!?」
黒猫を前に目を回す少女は、見ていてなかなか愉快なものはあったが、このままでは話が進まない。
「えーっと、石蕗明日葉さん?」
「は、はい」
「ボクが未来から来たって言ったら、笑う?」
「???」
小ネタを挟んでもだめだった。おかしいな、これがこの時代のトレンドだったはずなのに。
まるで関係はないが、アニメ『時をかける少女』は2006年公開である。ミレニアム近辺チルドレンである明日葉に求める基礎教養という点では、いささか無茶というものだ。
シュルツの前にいる少女は、石蕗明日葉と言う。
オトナではないのは間違いないが、コドモであると頭ごなしには決めつけづらい。そんな中学生の少女だ。
恋愛力は人並みであり、愛くるしい見た目はしているが決してビッチというわけではないので、このゲームの被験者に選ばれ、乙女ゲー空間に引きずり込まれたわけだが。
「まあ、笑われても仕方ないんだけど、未来から来たんです。ボク、シュルツ。
実はキミに未来の乙女ゲーのモニター係になってもらいたくてね」
明日葉はとりあえず、事情をわかっているらしきシュルツと会話を試みることを決めたようだ。意を決したような顔で、ゆっくりとうなずいた。
「お、乙女ゲーって……あの、ああいう、乙女ゲーだよね?」
「まあたぶんその乙女ゲーです。女性向け恋愛ゲームね。
知っているなら話が早いよ。
今はとりあえず色んな世代にアンケートを取っている段階でね。
ひとりでも多くの子から感想を持ち帰らないといけないんだ」
「ふーん、そうなんだ……」
「というわけで、協力してくれると嬉しいんだけど……だめかな?」
「えっ、あ、あたし?」
「うん、キミ」
「う、うーん……」
明日葉は首を傾げる。
じろじろと値踏みされているのを感じるシュルツは、意味もなく「にゃあ」などと鳴いてみたりする。そんなことで警戒心が解けたとは毛頭も思わないが、明日葉はなにやらひとり納得した模様だった。
彼女は妙に冷静さを取り戻し、つぶやく。
「なるほど、こういうこともあるのかなあ」
「ずいぶんと物分かりがいいんだね?」
図らずとも悪役っぽい言い方になってしまい、シュルツは微妙に後悔したものの、明日葉は人見知り気味に曖昧な笑みを浮かべた。
「えーっと……近くにすごい人がいるから、そのせい、かも」
「ふーん?」
適当な相槌を打つシュルツ。さすがに被験者の交友関係までは把握していない。
次の瞬間、彼女以上に物分かりがよく、シュルツの言うことをなにもかも信用し、初対面だというのに完全にこちらに心を委ねていたような黒髪の少女の幻影が脳裏に浮かんだが、慌ててそれをかき消す。
一体なんだろう。意味がわからない。この時代の人間と会うのは明日葉が初めてのはずだ。シュルツは多少混乱しながらも、説明に移る。
「じゃあ、とりあえずゲームをプレイしてもらおうかな」
シュルツがパチっと指を鳴らす仕草をする――ぬいぐるみなので当然鳴らない――と、部屋の壁が一瞬にして書き換わってゆく。
「お、おわぁー……?」
明日葉が感嘆の声をあげると、そこに映し出された風景は、とある学園の校門前であった。
「あっ、あれ!?
あたし、いつのまにセーラー服に!?
なにこれー!」
同じように、明日葉が着ていた衣装も変化している。真っ白なパジャマは色を変え形を変え、未だ見ぬ高校の制服となっていた。
理解不能のマジックを見たように目を丸くし、自分の姿を見下ろす明日葉に、シュルツは「まあまあ」と気休め程度の声をかけた。
「これが未来のテクノロジーってやつなんだよ」
「ふぇぇ……、
ミライヴギアをつけているみたい。
なんかすごく変な感覚ぅ……」
明日葉はぼんやりと感想を述べた。もしかしたら、夢を見ているのだと思っているのかもしれない。
まあそれもそうだろう。こんな現実をいきなり受け入れられる人がそう何人もいるわけがない。
その瞬間、再びシュルツのこめかみがズキッと傷んだが、なにやら嫌な予感がしてたまらないのでそれを無視した。
「では、キミには今からこの学園に通って、様々な恋をしてもらいます」
「……ふぇ?」
「いや乙女ゲーだし、そういうものってわかってたでしょ? 恋ですよ、恋」
「恋かあ」
しかし意外。この女子中学生、落ち着いているのである。
胸に手を当てて、一家言あるような口ぶりで語る。
「まあね、うん。
あたしのお目にかかる人がいるなら、恋しちゃってもいいけれどねー」
「ボクたちが心血を注いで作ったゲームだから、きっと気に入ってくれると思うよ」
「といっても、あたしの初恋はちょっとトクベツだったもんね。
オトコの人を見る目はあると思うよ?
果たしてあたしを惚れさせられるような人がいるかなあ?」
「おっと、それはボクのゲームに対する挑戦状と受け取っていいんだね」
余裕ぶった態度の明日葉に、シュルツもまた不敵な笑みを浮かべた。
その影に、なぜか初対面の男に惚れて死亡する謎の女子高生の幻影が見えてしまったのもやはりパラレルワールドの記憶の影響なのだが、それについてこの世界のシュルツが気づくことはおそらく一生ないだろう。今だけは良い夢を見るが良いのだ。
そんなことより、シュルツはさらなる説得を試みる。
「ま、それじゃあ誰かひとりを攻略したら、元の世界に戻してあげますから。
もちろん、それなりに報酬も支払うからね? ね?」
「え、報酬?」
首を傾げて問いかけてくる明日葉に、シュルツは揉み手しながら近寄る。
「うんうん、良いデータが取れたら、キミの時代のお金で三百万円。
それでどうかな? かな?
アルバイト気分でちょっとやってみないかな? かな?」
「うっ、三百万円……も!?」
「そうだよ、ナロファンの課金剣なら2500本買えるよ」
「そんな贅沢な使い方をする人絶対にいないと思うけどー!」
ゲーマーのご多分に漏れず、シュルツも当然VRMMOはプレイしてきた身だ。
ナロファンというのは、正式名称『ナロー・ファンタジー・オンライン』のことである。
確か今の時代のVRMMOは、ナロファンともうひとつぐらいしかなくて、その中ではナロファンは知名度があったほうのゲームだ。ゲームバランスとか色々と問題も多かったが、ヘッドギアタイプの装置『ミライヴギア』を頭にかぶってダイブするその感覚は、世界を大いにざわめかせていた。
明日葉がナロファンプレイヤーであるということは、リサーチ済みだ。
だからこそ、乙女ゲーのバーチャル空間にも『バーチャル酔い』せずに、問題なくプレイをすることができるだろう、というのが上の――シュルツをけしかけた営業部長の――見解であった。
「うーうー、でも三百万円か、うーうー」
明日葉は頭を抱えながら苦悩している。
「で、でもゲームをするだけでお金をもらえるなんて、
そういうのなんだか真面目に働いている人たちに悪い気が……」
「一応仕事なんだけどなあ」
シュルツはぼやくが、明日葉の気持ちもわからないでもない。
14才の中学生である彼女が持つには、あまりにも多すぎる金額なのだ。300万など。
そう考えるとやはりあの黒髪の女性は高校生のくせにいともたやすく300万を受け入れたから常人ではないわけで、いや、やめよう。黒髪とは誰かのことか。この世界にはいない。なにもいないのだ。
「ね、お願い、ボクを助けると思って」
そんな風に黒猫のぬいぐるみの愛らしいモーションを武器にシュルツが頭を下げると、明日葉は最終的には納得したようで、小さくうなずいた。
「でも、三百万円はやっぱりすごいから、三万円ぐらいで……」
控えめに三本の指を当てて申し出てくる少女は、見事なまでの小市民ぶりであった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
その後、『恋をすると死ぬ』というゲームシステムを説明する際にも一悶着があると、シュルツは思っていたが。
『えー、そうなんだー。やだなあ。うんでも、わかったよ』などと、明日葉は眉間にシワを寄せただけで、たやすくうなずいた。
どうやらナロファンにおいても、死は身近にあるものだと理解しているらしく、バーチャルな臨死体験に対する恐怖は、もはやあまりないようだ。
これがいまどきの若者か……とシュルツは微妙に引いたのだが、それはそうとして。
いよいよやってきた、ファーストコンタクトである。
学園の前で鞄を手に立ちすくむ明日葉の後ろからゆっくりと近づくのは、赤髪のイケメン、三島優斗だ。
なぜだかシュルツは緊張に身を固くしてしまっていた。
普通に考えてみれば、ただ挨拶をするだけのことだ。
それだけで死んでしまうような、恋をする少女がいるはずがない。
そう思って、そう信じているはずなのに、汗が止まらない。
この体の震えは一体なんだろう。
かつて、とてつもなく恐ろしい経験をしたような気がして、シュルツは生唾を飲み込んだ。
まさか彼女も、彼女も死んでしまうのか。
一声かけられて、あっけなく、
口から血を吐きながら、『モルスァ!』と。
いやしかし、だが、しかし――。
「おいおい、明日葉。ひとりで勝手にいくなって」
「え?」
デジャヴだ。
彼に声をかけられて、明日葉は振り返る。
そこには背の高い赤髪の、美形の青年が立っていた。
気軽に近づいてくる彼に対して、明日葉はびくっと震える。
「だめだろ、お前方向音痴なんだからさー。
転校初日なんだから、一緒に行こうぜって誘っただろ。
ったく、あんまり俺に世話かけんなよー?」
優しげな笑みを浮かべる優斗に対し、明日葉は――。
「あ、えと、ご、ごめんなさい」
なんと、気弱そうに縮こまり、頭を下げた!
まさか、そんな、普通!
普通!
すっごい普通!
明日葉はムンクのような顔をして固まるシュルツを見て、小さく首を傾げる。
「ネコさん、どうしたの?」
どうしたもこうしたもないのである。
「まさか、話しかけられて死なないだなんて……!」
「えー……?」
驚愕するシュルツの前、明日葉は顎に指を当て、斜め上に視線を転じ、シュルツを一目見て、再び斜め上を見上げながら、つぶやくような声で漏らす。
「……話しかけられただけで、惚れちゃうような人なんて、どこにもいないと思う」
「……」
いるんです。
初日。
優斗との出会い。椋との出会い。
そして樹との衝突、凛子の衝撃――。
信じられないことに。
途方もない事実であるが――。
それらをこの、目の前の明日葉という少女は、あろうことか、
一度も死ぬこともなく突破していた――。
「ばかな……キミは感情のないロボットか……!?」
「なんかすごい失礼なことを言われている気がするっ!」
叫ぶ明日葉にも構わず、シュルツはがくがくと震えていた。
「愛を忘れてしまった愚かな子どもなのか……?
人からの思いやりを知らず、人口培養された赤ん坊は、
カプセルの中で研究者たちによって育てられ、感情を失ったのか……?」
「なんかもっともっとすごいことを言われてるー!」
悲鳴があがり、がちゃりとドアが開いて「んだよ、うるせえな」と弟が顔を覗かせた。
そう、ここは初日の学校を終えた自宅。自室であった。
セーブした日記を抱きかかえるようにして持ち、明日葉はベッドに腰掛けている。
シュルツは机に寝そべりながら、まだあうあうとつぶやいていたが。
「ま、まあ、うん、いいこと、いいことだ……。
これは素晴らしいことだよ……。
でもいいのかな、こんなに早く初日をクリアーできて……」
「初日って、別に大したことなにもなかったよね……?」
「そう、そうなんだ。おかしいな、ボクは一体なにを言っているんだろう。
こんな初日で10万字かけて、それでも突破できない人がいるはずないのに」
確認するように問いかけてくる明日葉に、シュルツは猛烈な勢いでうなずく。シュルツのゴーストが囁くのだ。これは甘い夢だと。こんな都合の良い現実はないのだと。悲しすぎる。
「もしそんな人がいるんだったら、すごい惚れっぽい人だよねー」
「惚れっぽ……クレイジーサイコビッ……うっ、頭が……!」
「えっと」
なにやら不穏な空気を感じたために、明日葉は口をつぐんだ。
普段は大人しくて、とても丁寧な物腰の黒猫のぬいぐるみだが、ふとした瞬間にまるで悪夢を見ているような顔をするので、そこはすごく心配な明日葉である。事実は逆なのだが。
「それはそうとして、こんな感じでゲームを進めていけばいいんだよね?
教えてもらったように、その、
攻略対象キャラの誰かひとりとのエンディングを見ればいいんだよね?」
「あ、はい、そうです。そうしていただけると当方としてもありがたいです」
「なんで急に敬語なんだろう! うん、でもわかった」
なにかに怯えるようなシュルツ――具体的には平和な今におびえているのだ。しかしおびえることはない、シュルツよ。これはキミにとって都合の良い世界の都合の良い夢でしかないのだ。目覚めれば再びクイーンオブビッチが待っているのだから――を前に、明日葉は決意を新たに表明する。
「こんなこと、全然余裕だよ。
パパっとクリアしちゃうから、任せてね」
「ああ……」
その輝かしい笑顔の前、シュルツは浄化されそうだった。
今だけはそんな幸せを噛みしめるシュルツである。
かくして。
当然のように二日目もスムーズに終わり。
ゴールデンウィークの優斗とのデートイベントもこなし。
特になんてことはなく、5月を過ぎてゆき。
様々な行事を楽しみ、乙女ゲー世界に馴染んで。
明日葉はあっという間に――夏休み前まで、到達していた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「あはは、乙女ゲーって楽しいなあ!」などと笑顔を浮かべるのは、シュルツである。
気のせいか毛並みもツヤツヤし、自慢の黒毛も輝きの中で光を放つようであった。
黒猫のシュルツ、絶頂期である。
「ふー、とりあえずこのまま進めて、
優斗さんとのイベントを発生させればいいんだよねー?」
「ああもう、明日葉サンの好きなようにやってください。ね、どのようにも。
ボクは横から見ているだけで満足なんで」
「そ、そっか。うん、わかった、けど」
「ハハッ、お仕事ってチョロいモンですね。
他人の遊んでいるゲームを見守っているだけでいいとか。
こんなんでお給料もらえていいんですかねえ、マージーでー。ハハッ」
悪い顔で笑うシュルツに、若干引く明日葉。
しかしそれも仕方ないものだろう。泥水をすするような暮らしをしていた貧乏人が、一夜限り大金持ちになった夢を見ているようなものだ。今ばかりは皆でシュルツの幸せそうな姿を見守ってあげようではないか。
ともあれ、明日葉のプレイは快調であった。
女子力高い女子にありがちな、『えー、でもこっちの人も素敵だしぃ、こっちの人もカッコいいし、結局あたちどっちも選べませ~ん(T_T)www』なんてことはなく。
とりあえず攻略するのは優斗に決めたらしく、椋や樹、虎次郎、光たちのお誘いをズバズバと断っている。
選択肢でもあまり悩まず、攻略を進める明日葉のプレイは明朗快活であり、それに付き合うのは非常に楽しかった。
これこそが非常に自然なプレイヤーのあるべき姿なのではないだろうか、とシュルツが膝を叩くようなスタイルだ。
そんな風に、いつも通り凛子とお喋りしつつ――もちろん年上の凛子相手にも最初は相当人見知りしていた明日葉だが、最近ではようやく打ち解けて、親友キャラの面目躍如といった感じである。間違っても彼女を苦しめるような真似はしていない。当然だ。そんなことをするようなプレイヤーがいるとは考えにくいが――放課後、帰ろうかとしていた明日葉の前に、ひとりの男性が現れた。
学園の堂々たる生徒会長にして、我が道をゆく帝王。
「こんな時間までまだ学校に残っているんだ?」
ずいぶんと遅い登場だが、彼もまた攻略対象キャラのひとりである。
――その名も大石蕗一朗(オオイシ・フキイチロー)。
「あれ、どこかで見たことあるこの人! どこかで見たことある!」
「えー?」
思わず叫ぶ明日葉を前に、シュルツは手元のウィンドウを操作する。
そうして気づく。ほー、なるほど。
「このキャラ、昔アイドル歌手だった人をモデルにして作ったみたいだよ。
シナリオ担当者さんが熱心なファンだったんだって。
そういえば明日葉サンと似たような感じの苗字だねー」
「……」
気楽にそんなことを言うシュルツは、徐々に眼の色が変わってゆく明日葉に気づいていない。
大石はポケットに手を突っ込みながら、微笑を浮かべている。
その佇まいは、かつて隆盛を極めたツワブキ・コンツェルンの御曹司そのものと言っていいほどに似ていた。肖像権が心配になるほどの完成度だ。
高校生と呼ぶには洗練されすぎている雰囲気だが、それもまあ許容範囲内ではあるだろう。
「あ、あの……イチに、じゃなくて、その、
お、大石先輩、きょう一緒に帰りませんか?」
「あれ?」とシュルツは少しだけ違和感を覚えた。少しだけだ。
これまでどちらかというと恋愛に対して消極的であり、優斗とも近所の幼馴染という縁からか、男女の付き合いというよりは単なるお友達という位置付けをしていた明日葉のはずだったが。
その彼女が自ら進んで新キャラに絡みにいったのだ。少しだけ、ヘンだ。
まあゲームに夢中になってくれているのなら、良いことだが。
そして、生徒会長の彼はこう言う。
乙女ゲーのキャラクターというAIが支配する思考であり、もちろん本物ではないにしろ、そっくりの顔、そっくりの声、いかにもナンセンスと言い出しそうな口で、こう言うのだ。
「ナンセンス。僕はまだこれから生徒会があるのでね」
言った。
しかしそれだけに留まらず、彼は肩の高さに手を挙げて、涼やかな微笑みをたたえながら。
「ああ、でも君が手を貸してくれたらいいなって、少しだけ思っている。
もし手伝ってくれるなら、歓迎してもいいんだけど」
「お手伝いしますっ!」
明日葉は一も二もなく手を挙げた。
そのとき、彼女のドキドキメーターはこのゲームをプレイして初めて――三桁の大台に乗ったのであった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「あたし、イチ兄……じゃなくて、その、大石先輩を攻略します」
「あ、そ、そう?」
「はい!」
その燃える目になんだか前世の苦痛がよぎり、思わずシュルツはこめかみを抑えてしまったが、まあそれはいい。
明日葉は語る。
「なんかあの人をひと目見た瞬間に、ビビっときちゃったんだもん。あの人はイケメンで頭がいいし、自分に対してすごく優しいと思うし、お金も持っているからモテて、運動ができて、手先が器用で絵がすごく上手くて、楽器の演奏も歌も上手いし、センスもいいし、買い物に付き合ってくれたら似合う服をたくさんみつくろってくれるような素敵な男の人なのできっとオトナなあたしと、すごくばっちりぴったり似合うと思う」
「お、おう」
恋する乙女だ。恋するモードだ。
明日葉に指摘すればきっと顔を真っ赤にして否定するだろうけれど、でもマジモンだ。
そう、乙女は爆弾のようなものだ。どんな乙女でも恋心という爆薬を抱えており、それはちょっとした少しのことで起爆し、辺りに被害を撒き散らすのだ。
果たして明日葉のこれから先は一体どうなってしまうのか。
それはきっと、きっと、すごく幸せな未来なのだろう――(※シュルツと違って)。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
とまあ。
夢見る時間は終わりを告げたわけで。
「……」
目覚めた明日葉は、ベッドの上でゆっくりと起き上がる。
彼女の中にあるのは、なぜだか自己嫌悪の念だった。
ここはもちろん自分の部屋で、眠っていたのはもちろん自分のベッドで。
つまり今までのはもちろん夢だったわけで。
乙女ゲーの中に入るだなんて、そんなの夢に決まっている。
夢の中で夢とは認識できなかったにしても、問題は、その内容だった。
うなる、うなることしかできない。
「う~~~……」
中学生になってオトナになった明日葉が、いまさらこんなコドモっぽい夢を見るなんて。夢を見ることに自分の責任はないのかもしれないが、しかし夢は無意識の願望と言うし……。
頬が熱を持ってゆくのがわかる。明日葉はベッドの上で、しばらく身動きができなかった。
というのも。
「……」
楽しかったのだ。
思い出しながら、ニマニマできる程度に。
シュルツに大石蕗一朗を攻略すると宣言した翌日、明日葉は正式に生徒会に入った。
生徒会では様々な出会いや衝突、色々なイベントが発生したが、そのそばにはいつだって大石がいてくれた。ふたりは絆を育て、世間話をするほどの仲にもなれた。
そうして、ひたすらに大石先輩を追いかけた夏休みがやってくる。
一夏の思い出を作ろうと、明日葉は張り切った。これまで以上にバイタリティ溢れるスケジュールを組むその姿は、どこかの黒髪の誰かのようだったとシュルツがうつろな目で語っていた。
明日葉はたくさんのイベントを、大石とともに過ごした。
一緒に花火大会にいって、屋台で買ったたこ焼きをふたりで分けた。
浴衣姿の大石はとてつもなくセクシーで、その微笑みに明日葉はドギマギした。
二学期が始まり、まずは体育祭だ。
大石先輩と運営委員会を設立し、彼のサポートに回った。
生徒会長のワンマンっぷりに反発や悶着もあったけれど、明日葉はずっと大石の味方をし続けた。
その後の文化祭でも、もちろんだ。
楽しかった。
まるで、あの人と同じ学校に通えていたら、こんなに幸せだったのだろうか、だなんて。
そんなことが頭をよぎるほどに、明日葉は浮かれていた。
秋を過ぎ、季節は冬に移り変わり。
運命の日はクリスマス、12月24日。
大石先輩と一緒に、色々と、その、乙女ゲーっぽいことをしたり。
そこで明日葉は初めてドキドキメーター999を突破し、ころりと死んでしまった。
明日葉の死を悲しむ大石先輩の姿は悲しくも美しく。
そういえば、あの人の泣いている姿なんて見たことないなあ、なんて思ったりして。
突然、明日葉は気づいてしまった。
幽霊であった明日葉は、大石の過剰な演出を前に、気づいたのだ。
やっぱり大石先輩は、違う。
違うのだ。
本物ではない、ゲームのキャラなのだ。
明日葉はそれに気づいて、気づいてしまって、気づいた瞬間になんだか恥ずかしくなってしまった。
自分はなにを浮かれていたんだろう。こんな偽物の恋を相手に。
これはあくまでもゲームだ。ゲームでしかないんだ。ここでどんなに幸せになっても、それは現実じゃないんだ、って。
そうして、彼とのエンディングを見たけれど、あまり盛り上がらないまま――夢から覚めたのだった。
だけれど、正直に言おう。三度目だが。
やっぱり、楽しかったのである。
それが不覚であり、屈辱であり、みっともなくて。
だがしかし、それこそがまた、明日葉を動かす原動力になりえるものだった。
「……よっし」
明日葉はベッドから降りて、立ち上がる。
寝ぐせを押さえながら、姿見に向かう。
コドモからオトナへとあがった証として、10才(二桁年齢だ!)になった記念に、両親に買ってもらったものだ。
明日はパーティーがある。
そこで久々に会えるのだ。
「あたしだって、いつまでコドモじゃないってこと、見せないと」
綺麗なドレスで着飾って。
いつかは自分が、ドギマギさせられるように。
それに今は、明日葉にはやることだってある。
いつまでもイチ兄、イチ兄、言っていられないのだ。
彼と遊びたいのは、確かに否定しがたい事実ではあるけれど!
でも、それだけでもないのだ。
「……うん!」
拳をぎゅっと握り、明日葉は決意する。
今度はゲームではなく、現実で。
明日葉は向かい合ってゆくのだ。
いつかはこの夢を、現実にできると信じて。
明日葉はそうして、肩をいからせながら部屋を出てゆく。
枕元に置いてある、その封筒と――中に入った、三万円に気づかずに。
※オマケ
「あれ? 明日葉ちゃんは? 明日葉ちゃんはどこ?」
「え、なにを言っているんですか? シュルツさん?」
「いや、あの、ボク、さっきまで確かに、
明日葉ちゃんって子と一緒に、乙女ゲーを……。
していたはず、なんだけど、おかしいな、夢、かな……」
「いやですねえ、シュルツさん、えへへ。
ここには ほかに だれも いませんよ」
「まじナンセンスだわ……」