どうしようもない一つの事実として、私は死ぬ。
余命僅かな少女とミュージシャンを目指す少年の話。

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Knockin' on Heaven's Door

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 聞き慣れたポップソングが鳴り響いていた。

 邦ロックというのだろうか、音楽プレーヤー越しに流れるそれは、型に嵌めたみたいにどこまでもありふれた曲でしかない。歌声もリリックもメロディも、どこかで聞いたような既視感に溢れたものだ。

 ――私の人生も、そんな風で良かった。

 二百円のガチャガチャに入れられた大量生産の既製品みたいに、チープに生きて平凡に死ぬ。そんな穏やかで当たり前な生涯を追い求めていた。

「そんな人生、ロックじゃないだろ」

 と、佐々木は言いそうだけれど。

 それこそ音楽性の違いというものだろう。目を見張るような鮮烈さも、劇的な変化も要らない。格別語ることのない、当たり障りのないような人生でも、私のとっては満足に足るものだった。

 そしてその人生も、恐らくは、もうすぐ終わりを迎える。

 そう遠くない未来。私は、病院のベッドで死ぬ予定だ。

 

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 塵一つない清潔な病室は、標本箱を連想させる。それらは切り取られた箱庭のように、世界から断絶して、孤立している。

 変化のない病床は、まるで時が止まっているかのようだ。ベルトコンベアーに運ばれる荷物と同じ。ただ流されるままに、昨日と同じ単調な日々を繰り返すしかない。

 とはいえ私は、その停滞が嫌いではなかった。希望に満ち溢れた何かがあるわけではないけれど、同時に絶望に蝕まれることもない。この安定した閉塞は、私にとって望むべきものだった。

 そんなことを考えていると、ふと、胸に強い痛みが走った。

 突き刺すような痛みだ。堪え切れず、私は心臓に手を当てる。

 いつものことだった。でも、この頃は随分と頻度の多い。多分もう身体がダメになっているのだろう。穴の開いた風船は破裂することを待つしかない。

 本来なら、ナースコールを押すべきなのだろう。でもそれを押すことは、何だか酷く躊躇われた。看護師さんが来たところで痛み止めが処方されるだけだ。痛みは辛く苦しいけれど、でもそれを感じることは、まだ私が生きていることの証明でもある。それさえ取り払われてしまえば、本当に、生きている意味すら見失ってしまう。

 身体を丸めながら、私は、標本箱に留められた蝶々のことを考える。朽ち果てた停滞の中にいる彼らは、果たして幸せなのだろうか? 分からない。けれど、不幸という気はしない気がする。それから私は、一人の少年のことを思い浮かべる。それはきっと、幸福になるべきだった少年だ。

 やがて、胸の痛みが一層大きくなり、そんなことも考えていられなくなる。混濁する意識の中で思い浮かんだのは、今から八年も前の出来事だった。

 小学四年生の、遠足の日。その日に想いを馳せながら、私の意識は暗転した。

 

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 眠りから醒め、真っ先に考えたことは、『また死ななかった』だ。

 死に目の苦痛を味わうのも、もう何度目かも分からない。死にたいわけじゃないけれど、それでも未だに生きているのは、いっそ不思議ですらある。人という生き物は思いの外頑丈に出来ているらしい。

 目尻から零れた涙を拭う。少しばかり、懐かしい夢を見ていたようだ。あの時はまだ、学校へも通えていたし、遠足で泉ヶ岳へ登ることだって出来た。

 今から四年前――つまり、私が中学二年生だった頃――から、私はこの病院に入院している。生まれつき身体の弱かった私は、血液に関する重篤な病を患い、以来この病床にかかりきりだ。

「おはよう」

 と、唐突に声をかけられ、振り向く。主治医の佐藤先生だ。いつの間にか、部屋へ入っていたらしい。

「お、は、よ、う」

 寝起きで反応が遅れる私に、先生は、一言ずつ言葉を区切りながら笑いかける。

「えっと、おはようございます。今日って回診日でしたっけ?」

「いいや、違うとも。でもここなら、仕事をサボっていてもバレない」

 そんな風に言いながら、先生はまた屈託なく笑いかける。そんな笑い方も出来るのに、どうして意味もない嘘を付くのだろう? 痛みで意識が飛んだときは、大抵、私は酷い声でうなされている。

「……タールの匂い。また煙草吸ってたんですか? 身体に悪いって言ってるのに」

「本能を我慢する方が身体に悪い。寝ることや食べることと同じだ。だから本当は、病院食にもハンバーガーやコーラを提供すべきなんだ」

「それなら私は、オレンジジュースが飲みたいです。果汁百パーセントのやつ」

「いいね。今度乾杯しよう」

 今度。何気ないその言葉が、居心地悪く胸に引っかかる。今度というのは、一体いつのことだろう? その時まで私は生きていられるのだろうか?

 多分、私の命は、もう一月ももたない。去年の四月ごろからずっと、発作を繰り返している。病状は日に日に悪化の一途を辿り、次の発作で命を落としてもおかしくないほどだ。先生も看護師さんも口には出さないけれど、何となく態度で分かる。それ以前に自分の身体は、自分が一番熟知している。私はもう、そんなには生きられない。

「――そうですね。その時はぜひ、ご一緒させてください」

 上手に嘘を付く方法は、相手を騙すのではなく、自分自身を騙すことだと聞いたことがある。私は自分すら騙せるくらいに、強く頷いた。――内心では、酷く顔を顰めながら。

 別に、死ぬこと自体は、さして問題じゃない。世界原初の皇帝だろうが、生涯無敗の剣豪だろうが、人はいずれ死ぬものだ。私はそれが少しばかり他人より早いだけで、残り少ない寿命に関しても、概ね納得している。

 それよりも、先生に気を遣わせてしまうことが、何だか申し訳なかった。優しさというものは、時に暴力的だ。うまく受け取らなければ、相手をも傷付けてしまう。

「そういえば」

 と、先生は話を続ける。

「見舞い客が来ているんだ。今もロビー待たしている。通しても構わないかな?」

「構いませんけども、一体誰が?」

 本当は、誰かなんて分かっていたけれども。

「ボーイフレンドだよ。君の」

 やっぱり。この時間に来る見舞いなんて、アイツ以外に心当たりがない。……それはそうとして、酷い誤解をされているようだけれど。

「彼氏じゃありませんよ」

「うん?」

「佐々木は、私の彼氏じゃありません」

「……ふぅん」

 先生は、どこか判然としない面持ちとなる。でも、本当に違うんだからしょうがない。

「腐れ縁ですよ、ただの」

 というのは、嘘だ。厳密には嘘ではないけれど、でも、正鵠を射ているわけでもない。

 ――でもそれ以外に、説明のしようなんてないでしょう?

 どうしようもなく、肩をすくめる。

 私と佐々木の関係なんて、そんなの、私自身が知りたいくらいだ。

 

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 入院というシステムの欠点の一つは、曜日の間隔を狂わせることだ。実をいえば、午前九時――つまり、平日なら授業中の時間帯――に佐々木が見舞いに来るまで、私は今日が休日ということにすら気が付かなかった。

「ジュースを買って来たんだ」

 と、佐々木はビニール袋を掲げる。その中にはオレンジジュースと、目に悪い色の清涼飲料水が入っていた。

「どっちが良い?」

 はぁ、と小さく嘆息する。

「それ、ほとんど選択肢がないでしょ。そんな健康に悪そうなのよく飲めるね」

「悪そうだから良いんだろ。ロックって感じがする」

「意味わかんないし。ていうか、ロック関係ないし」

「分かってないな。落ちる林檎を見て万有引力を発見したニュートン然り、一見関係のなさそうなものにこそ意味を見出すのが、つまりはアーティストだ」

「ニュートンはアーティストじゃないでしょ」

「でも、ロックな奴だろ」

「佐々木ってロックを何か便利な言葉だと勘違いしてない?」

 ま、どうでも良いけれど。

 昔からこういう奴なのだ、佐々木って奴は。

「うん、おいしい」

 と、私は手元のオレンジジュースを飲む。果汁のたっぷり入ったそれは、甘いけれど、ちょっとだけ酸っぱい。残り少ない人生みたいな味だ。

「そのオレンジジュース、さっきコンビニで買ったんだけどさ」

清涼飲料を飲みながら、佐々木は言う。

「百六十円もしたんだよな、それ。昔はもっと安かったよなぁ」

「あーどうだろ。百三十円くらいだったかな? 百五十円でお釣りが来た気がする」

「だよなぁ。もっと前は百円くらいだった気もする。これも時代の流れかなぁ」

「うーん、それはどうでも良いけど」

「けど?」

「ジュース代を気にするのは、あんまりロックぽくないよね」

「言ったな」

 喉を鳴らして清涼飲料を飲み干しながら、佐々木は言う。あれほど身体に悪そうなのに、その所作を見ていると、なんだか美味しそうに見えるから不思議だ。存外、病院で食べるハンバーガーやコーラも、そこまで悪くはないのかもしれない。

「そのうち二百円とかになるのかなぁ。そしたら一日一本でも一月で六千円だぜ? 新聞配達六時間分だ」

「新聞配達、まだやってたんだ」

「部活も辞めたしな。朝練で早起きにも慣れてたから、小金稼ぎには丁度良い」

「軽音部だっけ。前から続けてたのに、もったいない」

「部活じゃなくてもギターは弾けるし、歌だって歌える。音楽ってのは自由なんだ」

「それはちょっとロックっぽいかも」

「だろ?」

 と言いながら、佐々木は一本のUSBメモリを取り出す。

「そういえばさ、新曲を作ったんだよ。PC借りて良いか?」

「うん。聞かせてほしい」

 病院という施設は、娯楽がとても少ない。テレビの視聴にだってテレビカードの購入が必要だ。生きていくうえで必要ないものが極限まで削ぎ落された病室という空間は、やはりどこか非現実めいていて、持ち込んだPCや音楽プレーヤーだけが辛うじて生活感を作り出している。

 ノートパソコンにUSBを挿し込んで、MP3のフォルダを解凍する。聞こえてくるのはやはりチープな、星の数ほどあるようなありふれたポップソングだ。

 ありきたりなメロディ、ソング、リリック。でもそれが何だか心地よい。周波数が合っているという感じがする。

 そうして昼になるまで、どこにでもあるようなその曲を、どこにでもいる友達みたいに二人して聞いていた。

 

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 十二時を少し回る頃、佐々木は病室を出ていった。味の薄い病院食を食べながら、私は、音楽プレーヤーに転送した佐々木の歌を聞いていた。

 入院中はとにかく退屈な時間が多い。食事と睡眠くらいしか楽しみがないのに、こうも薄味の病院食では、どうも気が滅入ってしまう。暇つぶしにSNSでも始めてみようかな、なんて考えもするけれど、それもあまり気が進まない。死後もアカウントが残り続けるというのが、なんだか未練がましくて気持ちが悪い。

 そんなことを考えながら、ほとんど色の付いていないスープを口に運んでいると、ふと、ノックの音が聞こえた。

「邪魔するよ」の声と共に入って来たのは、佐藤先生だ。「どうぞ」の一声も待たずにドアを開けるのは、いかにも先生らしい。取り込み中だったらどうする気だったのだろう?

「何か用でしょうか?」

 と、呆れ気味に私は言う。鼻を突くタールの匂い。またどこかで煙草を吸っていたらしい。

「用というほど大したことでもないのだけれどね」

そう言いながら先生は、右手に持ったアルミ缶を掲げる。

「オレンジジュースを買って来たから、乾杯しようと思って」

「ああ、朝の」

 ただの口約束だと思っていた。普段はふざけているのに、変な所で誠実だから困る。

「それ、さっき飲んだばかりなんですよね」

「おや、迷惑だったかな」

「いえ、頂きます。好物は何杯でもいける口なもので」

「はは、オレンジジュースが好物というのも珍しいね。子供らしくて好ましいよ」

「先生から見れば子供かもしれませんけど、これでもれっきとした十七歳なんですよ」

「子供と言われるのを気にするのが、子供だという証拠だよ。年を取れば、子供や大人なんて尺度は気にもならなくなる」

「それが、大人になるということですか?」

「いいや。子供心を忘れるということだ」

 それらはどう違うのだろう? まるっきり同じことのような気もするし、決定的に何かが違う気もする。でもその違いを、上手く言葉にすることが出来ない。

「私には、よく分かりません」

「かもしれない。でも、いつか君にも分かるようになるさ。それこそ、君が大人になった時には」

 それは、希望に満ちた言葉だった。同時に絶望的な言葉でもあった。私はきっと、大人にはなれない。

 手に持ったオレンジジュースを口に運ぶ。舌いっぱいに広がったそれは、メーカーの違いだろうか、酷く酸味が効いていた。

「……酸っぱい」

「おや、あまり口には合わなかったかな?」

「いえ、そんなことはありませんよ。オレンジジュースは何であれ好きです」

 でも、もっと美味しいオレンジジュースだって知っている。佐々木の買った百六十円の見舞い品よりも、更に。

「先生は、世界で一番美味しいオレンジジュースを知っていますか?」

「いいや、知らないな。どんなジュースだい?」

「遠足の帰りに飲むオレンジジュースは、世界で一番美味しいんです」

「その話について、詳しく聞いても?」

「ええ、もちろん」

 それから私は、次のような話をした。それは、私と佐々木と、世界で一番美味しいオレンジジュースに纏わる話だ。

 

   5

 

 遠足という行事は、一種のヒエラルキーが可視化される行事だ。例えばバスの座席決め。所属人数が奇数人のクラスは、必ず一人の余りができる。

 つまりはそれが、私だった。当時から学校を欠席しがちだった私は、決定的にクラスとは馴染めず、いつも人の輪の外にいた。

 小学四年生の頃、泉ヶ岳にハイキングへ行った時もそうだ。仲の良いいくつかのグループで山を登る中、私だけが、一人下を向いていた。

 つまらないな、と子供心に思ったことを覚えている。今思えば、それはきっと違うのだろう。楽しみなんていくらでも見出せたのに、私自身の認識の方が、遠足をつまらないものにしてしまっていた。でも、今よりずっと子供だった私には、そんな風に考えることなんて出来なかった。

 だから、それはきっと、ただの気紛れだった。その行動がどういう結果を招くかなんて、深く考えもせずに。

 私は、遠足の列からはぐれて一人山の奥へ進んでいた。

 我ながら笑えるくらいに浅慮な話だ。当時の思考をトレースしても、何でそんなことをしたかなんて思い出すことも出来ない。でもその行動が引き起こした結果は、笑い話じゃ済まない。つまり私は、遠足の中一人迷子になった。

 当時の私は、今よりもずっと泣き虫だった。今だって自分が強い人間だなんて思ってはいないけれど、少なくとも当時は、人目もふらず泣くことに抵抗なんてなかった。

 迷子になったのだということに気付くと、私は大声でわんわんと泣いた。とんでもないマッチポンプだ。自分の軽挙が引き起こした自体で、私は泣いた。

 その時私の前に現れたのが、佐々木だった。――正確には少し違う。私の前に佐々木が現れたのではなく、私が佐々木の前に現れたのだ。

 佐々木の歌声に引き寄せられる形で。

 

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「つまり、彼が助けに来てくれたと? 迷子になっている君を探して」

 と、先生は言う。素直に解釈するのならそうなるだろう。でも、真相は少し違う。

「いいえ、そうじゃないんです。佐々木も迷子になってたんですよ、私と同じで」

 同じというには、随分と態度が違ったけれど。

 佐々木は歌を歌っていた。何の歌かも思い出せないけれど、陽気な歌だったことは覚えている。その姿に悲壮感なんて一つもなかった。あるいは佐々木は、自分が迷子になっていることにすら気付いていなかったんじゃないだろうか。ちょっとした探険、散策のような気持ちで。

「とにかくそうして、私達は出会ったんです」

 正確にはそれも、少し違う。私と佐々木は同じクラスだったから、それまでも顔は合わせていたし、ちょっとした会話程度なら交わすこともあった。でもクラスメイトとしてではなく一個人として互いの人格を認めたのは、この時が初めてだった。

「それで、それから?」

「それで終わりです。一緒に山を降りた私達は、麓の自販機で百三十円のオレンジジュースを買った。それだけの話です」

 本当に、それだけだ。ただその時に飲んだオレンジジュースが、どうしようもなく胸に染みたことは覚えている。

「彼はまるで、ヒーローみたいだね」

 何かを懐かしむような響きで、先生は言う。

 ヒーロー。そんなこと考えたこともなかったけれど、確かにその響きは佐々木に似合っている。それになんだか、ロックって感じがする。

 きっと、あの時から、佐々木は私にとってのヒーローだったんだ。変身なんて出来ないし、特別な力も持っていないけれど、それでも。

「だから私は、佐々木には感謝しているんですよ」

 それに、純粋に尊敬もしている。こんなこと、本人の前では絶対に言わないけれど。

 酸味の利いたオレンジジュースを飲み干す。それは確かに美味しいけれど、世界で一番美味しいオレンジジュースには届かない。

 きっともう二度と、あのオレンジジュースは飲めないのだろう。

 

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「ヒーローってのはロックじゃないな」

 と、佐々木は言った。酸味の利いたオレンジジュースを飲んだ、次の日のことだった。

 その日の朝も、佐々木はお見舞いに来た。百六十円のオレンジジュースと目に悪い色の清涼飲料を携えながら。

 オレンジジュースのプルタブを開けながら、「どうして?」と私は尋ねる。佐々木の言葉は意外なものだった。正直私は、佐々木はロックを何か便利な概念くらいにしか考えていないと思っていた。

「だってヒーローってのは、民衆の味方をするものだろ? ロックってのはそうじゃない。世界に反抗するもののことだ」

「何それ。ただの迷惑集団じゃん」

「そうじゃない。反抗から切り開ける世界もあるってことだ。そうだな……例えば、ブラックミュージックって知ってるか?」

「ううん。どんなの?」

「人権もほとんどなかった、黒人奴隷の歌のことだ。かつてアフリカに支配されていた彼らは、自分たちが人であることを証明するため、歌を歌った。抑圧からの解放を叫ぶ歌だ。その魂は今尚受け継がれ、ゴスペル――つまりは、福音音楽の起源になったとも言われている」

「へぇ、詳しいね」

「ああ。何せ、ロックの起源でもあるからな。どころか、ブルースも、ジャズも、ヒップホップも、みんなブラックミュージックから派生していったものだ。反抗を謳う魂の叫びが、今の音楽形態を作り出したんだ。ロックだと思わないか?」

「うん、そうかも」

 奴隷解放を謳う彼らは、ヒーローというよりレジスタンスみたいだ。けれど彼らはロックだし、英雄的でもある。

 それから私たちは、色々な話をした。例えば理想的な食事について。例えば大人と子供の違いについて。他にも色々。

 未来についての話もした。

「佐々木は音大を受けるんだっけ?」

佐々木の夢は、ロックのミュージシャンになることだという。そのために音大へ入るのだと、嬉々として語っていたことを覚えている。

「ああ、その件か」

 右手で髪を掻きながら、佐々木は言う。

「それな、やめにした。やっぱ近場の大学を受けることにする」

「え?」

 一瞬、言葉の意味が理解出来なくて、息が詰まる。佐々木が自分を曲げたことなんて、これまで一度としてなかった。

「なんで、どうして?」

「前にも言ったろ? 音楽は自由なんだ。部活や大学なんて枠組みがなくたって、俺達は歌を歌える。楽器も何もない所から音楽を作り出した、偉大なるアメリカの先住民族みたいに」

「違う。そういうことを聞いてるんじゃない」

 知らず、声が震える。本当は、その理由は薄々分かっていたから。

 ここから東京は酷く遠い。音大へ通うなら必然的に向こうで暮らす必要がある。そうすれば私達は今みたいには会えない。

 笑って嘘を付けば良かった。そうなんだ、すごいね、ロックだね。どうせ私はもうすぐ死ぬのだから。そうすれば佐々木はここに留まる必要なんてなくなる。音大へだって行けるだろう。

 無難な言葉でやり過ごすのは得意だったはずだ。でも気付けば、私の口は全く別のことを言っていた。

「やめてよ。私を理由に、何かを諦めないでよ」

 佐々木は表情を変えなかった。でも、指先だけが微かに跳ねていた。

「俺は何も、諦めてなんてない」

「嘘だ。佐々木は、色々なものを犠牲にしてきた。例えば、軽音部だって」

 佐々木が軽音部を抜けたのは、去年の四月だった。その頃は私の病状が安定せず、発作を繰り返していた時期だ。本人は頑なに抜けた理由を語らなかったけれど、でも、その原因は明白だった。

 優しさというものは、時に暴力的だ。でも私は、暴力的なそれさえ大切にしたかった。誰かを傷付ける可能性を孕んでいたとしても、優しい心から生まれた言葉が、間違いのはずはないのだから。にも関わらず、私の口は、ちっとも私の意志の通りには動いてはくれない。弱い私は正しく優しさを受け取ることさえできない。

「分かるでしょう? 分かってよ。私はそんなの、ちっとも望んでないんだって」

 言うべきではないことを言った。そう自覚した頃には、もう全ての言葉を吐き出し終えていた。

 佐々木は、何も言わなかった。ただ黙って、右手に持った清涼飲料を飲んでいた。

 やがて何かを考える素振りを見せると、一度だけ、控えめに口を開いた。

「また来る」

 佐々木は静かに立ち上がると、私に背を向けて、病室から出ていった。

 その背中は、迷子の子供みたいに寂しそうに見えた。

 

   8

 

「ベンナの十字架を知っていますか?」

 と、私は言った。佐藤先生は「知らないな」と答えた。

 その日は朝から回診日だった。検査を受ける間、私は色々なことを考えた。私のこと。佐々木のこと。他にも沢山。考えに考えて、最初に発した言葉がそれだった。

「ベンナの十字架。九八〇年代に作られた、金のキリスト像のことです」

「へぇ、興味深いな。一度見てみたいものだ」

「それが、もう見れないんですよ。溶かされちゃったんです。不信心な司教の手によって」

 ありふれた悲劇だ。どんなに神聖な十字架だって、外部から見ればただの金の塊に過ぎない。それがどれだけ尊い輝きを放っていたのだとしても。

「ずっと私は、佐々木のことを妬んでいたんです」

 きっと、最初から。世界で一番美味しいオレンジジュースを飲んだあの時から。

「佐々木は、私が欲しいものを全部持っていた。明るい未来も、眩い希望も。私は佐々木が、それらを一つも失わずに幸福になってくれれば良かった」

 ヒーローの本質は、誰にも理解されない所にあるのだと思う。憧れから理解は生まれない。きっと私は佐々木と理解し合えたことなんてなかった。だから私の知らない所で、勝手に幸せになってくれれば良かった。

「でも佐々木は、それらを全部捨てたんです。何もかも。何も持っていない私のために」

 どうしてそんなことが出来るのだろう? 佐々木が簡単に捨て去ったそれらは、全部、私が心から欲してやまないものだったのに。どうして当たり前みたいに、そんな簡単に捨て去ってしまえるんだ?

「そんな相手を、どうして恨まずにいれますか? 妬まずにいれますか?」

 だから、私は嘘を付いた。死ぬことなんて怖くない。明日死んだってかまわない。そんな風に。

 だってそれを許容しなければ、自分は不幸なのだと認めてしまうことになるから。私はもう死ぬのだから、佐々木なんて憎くない。そうすれば佐々木に感謝と尊敬の念だけを抱いて逝くことが出来る。

 でもそれも、全部嘘だ。薄っぺらな言葉で誤魔化して、自分自身すらも騙しているうちに、本当のことだと思い込んでしまっていた。

 ずっと昔から、私はこんなにも佐々木のことを疎ましく思っていたのに。

「それで?」

 真っ直ぐな目で、先生は言う。続きを促すように。その先にある言葉を引き出すように。

「それで君は、どうしたい?」

 どうしたい?

 私は、何がしたいのだろう? どうしてこんな話をしてしまったんだろう? 

分からない。私は、自分自身のことすら分からない。

「誰だって、その答えを探し求めているものだ。彼が来るまでにはまだ時間がある。その間に、ゆっくり考えると良い」

 回診を終えた先生は、それだけ言い残して病室を後にした。私は扉に背を向けて、ジオラマみたいな外の景色をぼんやりと眺めた。

 

   9

 

 佐々木がお見舞いに訪れるまで、私はアイツの作った歌を聞いていた。

 どこかで聞いたような、どこまでもありふれた曲だ。それでもどうしようもなく、理解してしまうことがあった。

 ――この曲は、私のために作られた曲だ。

 当たり前みたいにありふれた何かを、佐々木独自の感性で換骨奪胎し、私のために歌われた歌だ。自惚れでもなく、自然とそう理解できてしまう。

 ロックは反抗なのだと聞いたことがある。私もきっと、反抗すべきだった。死を易々と受け入れるべきなんかじゃなかった。

 年を取って人前では泣かなくなった。それが大人になるってことだと思っていた。でも違ったんだ。大人だって子供だって、悲しみの量が変わるわけじゃないのに。

 私はきっと、声を上げて泣くべきだった。馬鹿みたいに助けを求めるべきだった。それさえ出来ない私の弱さが、邪な感情を産んでしまった。本当の私は今だって、あの泉ヶ岳を迷い続けているんだ。

午後五時を少し回った頃、佐々木は病室を訪れた。いつもみたいな笑みで。いつもみたいにオレンジジュースと清涼飲料を携えて。

「昨日は、ごめん」

 佐々木が何かを言うよりも先に、私はそう言った。それだけで佐々木は、安心したような顔を浮かべた。

「俺も、ごめん。大切な何かを傷付けたみたいだった」

「違うよ。傷付いてなんかない。本当は私は、佐々木にずっと隣にいてほしい」

 考えた末に出た言葉は、それだった。

 今でも私は、佐々木のことを妬ましく思っている。その気持ちは誤魔化しようがない。でも同時に、佐々木のことを一番に大切な友人とも思っている。その感情は矛盾するわけでも相反するわけでもなく、とても自然に胸の中に同居している。

「退院したらさ、一緒にハイキングに行こうよ。山の頂上で佐々木は歌を歌って、私はそれを聞きながらオレンジジュースを飲むんだ。映画館や、遊園地にだって行きたい。私はまだ、生きていたい」

 そんなことは全部、不可能だと知っている。嘘みたいな、でも本当の話だ。逃れられない一つの事実として、私は死ぬ。

 それでも私は口にする。あまりにも暴力的で残酷な言葉を、出来る限りの優しさに包み込みながら。本心なんて一生伝わらなくても良い。そんなものには鍵を掛けて、引き出しの奥深くに仕舞い込んでしまえば良い。

 日が暮れようとしている。ああ、本当に終わってしまうのだと私は思う。物語のエピローグを迎えるみたいに。自然な形で、私は死を迎え入れつつある。

 幼い頃から私は、ずっと嘘を付いてばかりで、嘘を付き続けているうちに自分でも何が本当か分からなくなってしまっていた。あれやこれやと型に嵌めて、気付かないふりをしているうちに、その感情すら忘れてしまって。

 私はずっと、佐々木のことが好きだったのに。

 腐れ縁だからなんて嘯いて、関係性に名前を付けれないで、その想いを誤魔化し続けていた。本当はただ好きだったから、幸せになってほしかっただけなのに。間違いなくこれは、私の初恋だったのに。

 ずっと胸に秘めていた気持ちを、でも私は口にすることはせずに、優しさの中に包み込む。伝えなくても伝わらなくても、それが一番綺麗だから。一番美しい想い出の中に、残しておいていけるから。

 太陽が沈む。

「ロックだな」

 と佐々木は言い、

「そうだね」

 と私は答えた。


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