ジャン「人類を救うために恋のキューピッドになる」 作:三木えーっと
『俺は調査兵団に入る――人類を救うのはお前じゃねえ、俺だ』
思い出す度に胃がムカついてくる。
ジャンはことあるごとに噛み付いてくる駄犬のような男だった。恥ずかしげもなく、ただ生きることだけに執着する。今夜の残飯が昨日よりほんの少し多いならいい。肉の欠片でも入っていれば上等だ。ボロ雑巾のような布が薄汚れた毛布に変わる。それだけで満足そうに眠れる。他のクソ共が自分よりも粗末な暮らしぶりをしてれば最高だ。志もないくせに吠えることだけは得意で、首輪や鎖に疑問を感じたこともない。そんな男だった。
よりにもよってお前が言うのかよ。誰よりも憲兵団にこだわってた腰抜け野郎のお前が。
『たしかに俺は間違ってたけどな。そりゃお前も同じなんだぜ、エレン』
俺が間違ってるだって? 何を言ってやがる。巨人は駆逐すべきなんだ。この憎しみは奴らをぶっ殺すまで終わらねえ!
ジャンに宣戦布告された日から、エレンの頭は怒りでいっぱいだった。巨人の恐怖も知らない男に、積年の恨みを否定された。目の前で母親を喰われた恨み。自由を奪われた憎しみ。燃える憎悪がエレンの頭を溶かし、時間をかけて灼熱のマグマとなった。決して冷めることはない。
ジャンに理解できるはずがない。たった一晩で熱した決意にどれほどの価値がある? どうせまた一晩経てば、元の駄犬に戻るだけだ。エレンはそう思っていた。
しかし、その予想は大きく外れ、ジャンに対する怒りすら吹き飛ぶことになった。
ジャンの変化は驚異的だった。立体機動も対人格闘技も座学も――全てにおいてまるでレベルが違う。身体能力や格闘経験の差が響き、超えられない壁と言われていた三強――ライナー、ベルトルト、アニを置き去りにする成長ぶり。数週間も過ぎれば、ジャンがミカサに次ぐ二番であることを疑う者はいなかった。元来素直な性格のエレンは、ジャンの快進撃に感嘆せざるを得なかったのだ。
すげえ。こんな短期間で変わるのかよ。こいつの決意は本物で、それが爆発的な成長に繋がったってことか? 信じられねえが、そう思うしかない。
ジャンの決意を認めると同時に、エレンの中で対抗心が燃え上がった。
意思の力で強くなれるなら、俺が負けるはずがねえ!
そう思いながら、エレンは以前より一層訓練に力を入れていた。ジャンに負けたくない一心だった。
なのに、当の本人は――。
「最近、おかしいよな……」
思わず漏れた心の声。パンをかじろうとしていたアルミンはぽかんと口を開けたまま、エレンの言葉に首を傾げた。そして、少し考えてから「ああ」と頷く。
「そうだね。なんかわざと手を抜いてるって感じがする」
「……わざと? なんでそう思うんだ?」
「だって変だよ。さっきの立体機動の試験も、獲物を見つけるまでは先導するのに、いざ目の前にすると減速してた。まるで先に行けって言ってるみたいだ。立体機動だけじゃないよ。馬術や座学も不自然に成績が下がってるしね」
「へえ。よく見てるんだな」
「はは。まあね。良くも悪くも、ジャンって目立つから」
その言い方に、エレンは少し引っ掛かりを覚えた。
「悪いって何だよ?」
「えっ……あーちょっとね」
アルミンは困ったように笑う。何か誤魔化す時に、彼がよくやる
「エレン。食事が冷めてしまうから早く食べて。それに噂話はよくない。アルミンが困っている」
「なんだよ、ミカサ。お前は関係ねーだろ」
ミカサの眉間が微かに動いた。
「そんなことはない。エレンよりは私の方が理解している。答えは簡単。ジャンは成績の操作をしている。それだけ」
「ちょっとミカサ!」
アルミンが慌てて声を上げるが、もう遅い。
エレンは不愉快そうに、
「はあ? 自分の成績が落ちてるのに、不正してるってのか? 意味わかんねーよ」
「ちがう。成績が上がっているのは、ジャンと一緒に行動している人たち。ジャンの成績が下がるのと反比例して、彼らの成績は上がっている。どうやっているのかは、わからないけれど」
ミカサの言葉に、エレンはハッとした。反射的に射るような視線をジャンに向ける。一人きりの背中。大して広くもない食堂で、浮き出るようにジャンの周りには誰も座っていなかった。
何で気付かなかった? 言われてみりゃ確かにそうだ。最近ジャンとつるんでる奴ら――開拓地送りになりそうだった落ちこぼれ組。さっきの立体機動の試験も、ジャンは奴らと同じ班だった。
「何のためにそんなこと……」
「わからない。何にせよ、関わるべきじゃない。エレンまで悪い噂がついてしまう」
ミカサは長い睫毛を伏せた。
「ので、あなたは別の話をすべき。噂話がしたいなら、いい話がある。……私もさっき聞いたのだけれど、愛の伝道師という人がいるらしい。愛し合う男女を結ばせるという、素晴らしい活動を」
突然、エレンが立ち上がった。アルミンの静止の声も聞かず、和やかな食堂を突っ切ってジャンに近付くとジャンの胸ぐらを掴み上げる。ちょうどスープを飲んでいたジャンが、その衝撃に頭からスープをかぶった。一拍置いて、怒声が響いた。
「テメェェェェエエエエ! 何すんだよ死に急ぎ野郎が! ビッチャビチャじゃねえか!」
「今はスープなんてどうでもいいだろ!」
「まだ午後の訓練があんだよ! 次は馬術の試験がある! 巨人以下の脳味噌しかないテメーに言っても仕方ねえが、いつもと違う臭いが付けば馬に嫌われんだろーが! ふざけてんじゃねえぞ!」
ジャンが激昂した。自ら言い出した試験の話題に、エレンは低く唸った。
「ふざけてんのはテメーの方だろ、糞野郎」
「あ?」
「わざと手を抜いてるくせに、何が試験だ!」
ジャンは一瞬目を見開いた後、ふんと鼻で笑った。
「言いがかりはやめろよ。俺は一生懸命やってるんだぜ。それとも、証拠でもあんのか?」
「それは……」
予想外の反応に、エレンは不意を突かれて言い淀む。
こいつは何を考えてる? 憲兵団を捨て、成績を捨て、その先に何があるっつーんだ。
混乱するエレンを押しのけて、ジャンは言い捨てた。
「吠えるのはいいが、俺の邪魔だけはすんなよ」
吠えてんのはお前の方だろ!
言い返したかったのに、なぜか言葉が出てこない。まるで噛みつこうとするのを抑えるように、エレンはギリギリ歯を食いしばっていた。
*****
猪突猛進バカのエレンにまで気付かれるとは思わなかった。正直、肝が冷えたぜ。
ジャンは手汗を洗い流し、そのまま頭を蛇口の下に持ってくる。ひんやりと冷たい流水。塩っぽいベタつきと、糸のような野菜が流水の勢いに乗って排水溝に消えていく。ガシガシと頭を洗い流し、ジャンは犬のように頭を振って水滴を飛ばした。
作戦は順調だ。何もビビることはねえ。バレても、尻尾さえ掴まれなけりゃ問題ねーんだからな。
キュッと蛇口を閉めて、鏡の中を睨みつける。ギラギラ光る双眼が自信たっぷりにジャンを見返していた。
約一ヶ月前。人目を忍んだ倉庫裏。ジャンは落ちこぼれ組のリーダー格、アイザックを呼び出していた。ジャンの話を一通り聞いた後、アイザックは驚愕に叫んだ。
「はあ⁉︎ 成績を売るだって⁉︎」
「ああ。俺はもう憲兵団に行くつもりはねえ。だから成績にも興味がない。売ると言うよりは、点数稼ぎに協力するって言ったほうが近いか」
「協力って……どうする気だよ?」
「やり方はいくらでもある。立体機動試験なら獲物を譲るし、座学ならレポート書いてやるよ」
「けど、そんなことして教官にバレたら……」
「大丈夫だ。成績の操作なら、すでに水面下でやってる奴もいる。そう難しいことじゃねえよ。見返りは十分だろ? 頼む。力を貸してくれ」
ジャンがアイザックにそう答えたのは、ハッタリじゃなかった。104期で成績の操作があったことは、兵団卒業時の成績上位者を見ればわかる。
――10番、クリスタ・レンズ。
まさかの番狂わせだった。たしかにクリスタは優秀だったが、10番以内に入るのはユミルだと誰もが思っていたからだ。
ユミルはクリスタを憲兵団に行かせるために、成績を操作したんだろう。それ自体は別にいい。彼女のクリスタに対する執着を見ていれば、容易に想像がつく。問題は、誰の目から見ても不自然な順位だったことに、教官方が何も言わなかったことだ。つまり、キース教官はユミルの不正を黙認したことになる。
疑わしきは罰せず。証拠を掴まれなけりゃ、問題ねえってことだ。
ジャンは鏡の前で大きく息を吐き、両頬をパンと叩いた。気合を入れてから馬小屋へと向かう。
次の試験は馬術。さっきエレンとの小競り合いで余計目立っちまったからな。無難に30位以内ぐらいに入っときゃいいか。
まだ試験まで時間はあるのに、そこそこの数の訓練兵が準備に取り掛かっていた。ジャンも挨拶がわりに、愛馬のブーフヴァルトの鼻をなでる。彼は満足そうにブフンと鼻を鳴らして、手のひらに擦り付いてきた。似ていると言われるわりに、あまり懐かれたことのなかった愛馬。馬術に関しては、タイムリープする前よりも上達した気がする。これも天使のおかげだなと考えていると、ふと鋭い視線を感じた。
馬越しにさりげなく見やる。アイザックがこちらを伺っていた。
心配すんなって。わかってる。彼にだけ伝わるように、ジャンは合図を返した。
*****
実際、アイザック率いる落ちこぼれ組はよく働いた。成績を見返りに、立体機動訓練の参加と104期のカップル量産の手伝い。立体機動の方は、ジャンの厳しい指導にも反発せずについてきてくれた。それだけじゃない。手段はともかく、朝練に参加するメンバーを集めてくれるようになったのは有難い協力だ。
そしてもう一つ、嬉しい誤算があった。絶望的かと思われたカップル量産が、案外順調なことだ。同期の想い人を調査し、弱みを握って告白を強制させるというなかなかエグい方法。だが、きちんと手順を踏ませて、ストーリーを作り上げれば案外うまくいった。毎日の挨拶と会話を積み重ね、デートに誘って手を握るところまでいけば成功率8割。場合によって、ちょっとしたスパイス(三角関係や輩に絡まれるという仕込み)を加えてやれば、かなりの確率でハッピーエンドだ。
しかし、もちろん恋に敗れる男たちもいる。怪我の功名というべきか、失恋のおかげで彼らはより強靭な兵士となった。
ミカサに無謀な片思いを続けるジャンの言葉は、哀れな男たちの胸にまっすぐに届いた。
「人は何故恋をすると思う? ……好きな女と付き合いたいからか? ちがう! 好きな女と触れ合いたいからか? ちがう! 思い出せ! 俺たちはただ……好きな女の笑顔を守りたかっただけじゃねえのか⁉︎」
ある者は笑い、ある者は俯き、ある者は怒る。
「俺たちならできる! いや、俺たちにしかできねえ! 必ず守り通すんだ! この胸の苦しさに……心臓を捧げよ!」
そして最後には、嗚咽混じりの野太い歓声が響く――愛の伝道師、爆誕の瞬間である。
*****
「……どうかしたの? そろそろブラッシングしてあげないと、ブーフヴァルトの機嫌損ねちゃうよ?」
クリスタが肩口からひょっこり顔を出して、心配そうにジャンの顔をのぞき込んだ。途端に、ジャンはハッと我にかえる。
「いや、ちょっと考え事だ」
「本当かなぁ……もしかして体調悪い? 試験まで休んでた方がいいんじゃないかな。ブーフヴァルトのお世話なら私がやっておくよ」
青い瞳が気遣わしげに見上げる。クリスタの優しさに、ジャンは笑顔で対応した。
現時点で、104期の間には十分恋愛ムードが流れている。愛の伝道師に出会えば運命の人と結ばれる――なんてジンクスまで出回ってるぐらいだ。
何にせよ、条件はそろった。これでヘタレなライナーもクリスタをデートに誘うぐらいするだろう。余計な手間掛けさせやがって……! もう雰囲気ないから誘えねえなんて言わせねーぞ!
ジャンは唇を歪ませてニヤつく。
やっと運が向いてきたみてえだな。これでアニとベルトルトも良い方向に向かってくれれば――
そこまで考えて、ジャンはピタリと動きを止めた。視界の端で、ノッポとチビのセットが通り過ぎた気がしたのだ。声を潜め、ジャンはクリスタに問う。
「……俺の見間違いかもしれねーが、いま出て行ったのってアニとベルトルトか?」
「えーっとそうみたいだね。二人ともさっきまでいたのに、姿が見えないから」
「悪い。やっぱりブーフヴァルトのブラッシング頼めるか? ちょっと野暮用ができた」
ジャンは早口に言うと、クリスタの返事も聞かずに走り出した。虫の知らせか。とてつもなく嫌な予感がする。
どこに行った⁉︎ 二人で抜けるなら壁外の話かもしれねえ……ここから一番近くて、今の時間は誰も寄り付かないような場所――焼却炉⁉︎
ジャンは一足飛びに駆けた。第一倉庫、第二倉庫を大回りに走り抜け、雑木林の中を突っ切る。焼却炉が近付くと、ジャンは気配を消して木の影に身を寄せた。何か聞こえる……誰かが言い争っている声だ。慎重に顔を出して、確認する。そこにはアニとベルトルトの姿があった。
よっしゃ! 予想通りだ。さて、こいつら何の話を――。
「だから! 僕はアニのことが好きなんだってば!」
時が止まった。きっと104期の誰も聞いたことがないに違いない。ジャンも思考を忘れ、ベルトルトの大声に呆気にとられていた。そして、一拍遅れて正常な思考を取り戻す。
……この腐れ腰巾着超大型昼行灯野郎ォォォオオオオ!!! 何勝手に告ってんだよふざけんなアアアアア!!! 主体性のなさが唯一の長所だったろオオオオオ!!!