ジャン「人類を救うために恋のキューピッドになる」   作:三木えーっと

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十九話

 子供の頃は恐ろしいものなんて腐るほどあった。悪さをすれば烈火の如く怒り出すババアは鬼に見えたし、ベッドに潜り込んで明かりを消すと必ず聞こえる物音に震えていた。けれど、それらは歳を重ねる毎にいつのまにか克服しているものだ。口煩いババアは息子を心配する母親で、夜に聞こえる物音は家鳴り。なんてことはない。正体を知れば、その程度の恐怖だった。正体を知ってもなお恐ろしい、いや知ってからこそ震えるような恐怖はもう身に染みている。

 

 ジャンは木造りの長い廊下を黙々と歩いた。予算の少ない訓練兵団の扉はどれも同じ形状で、木の板に安っぽい鉄のドアノブがあり、それらをいくつも越えていくと、ジャンは目当ての扉の前で立ち止まった。訓練兵だった頃、この扉だけは魔界に続く入り口のように思えて、足が震えたことをよく覚えている。

 

「入れ」

 

 空きっ腹に響く、テノールの低音がくぐもって聞こえた。ジャンは「失礼します」と声をかけ、扉を開く。

 

 思えば、いつもこの部屋は緊張感に満ちていた。分厚い書物が壁一面に突き刺ささるようにあって、やたらとデカイ机は権威を見せつけるように主張し、そこには部屋の支配者が着座していた。

 

 昔の俺は「この威圧感は巨人レベルだろ!」なんてビビりまくってたな。無駄に背筋伸ばして、目が合わないように斜め上を見ていたもんだ。だが、なんてことはない。ただの老いぼれが座っているだけだ。

 

 ジャンは敬礼し、挑むように見据えた。キースが椅子を軋ませて立ち上がる。ゆっくりと歩み寄り、頭二つ分も上の高みからジャンを見下した。

 

「どうだ。独房にぶち込まれて三日間。己の愚かさを少しは自覚できたか」

「はい。成績の操作により、罰を受けたことは理解しています」

「ほう。認めるか」

 キースは教え子の頭を踏みつけるように威圧した。

「しかし、わからんな。自身の成績を上げるのならともかく、なぜ周囲の手助けをした。貴様は利己的な人間だと思っていたが。そのくだらん行為のせいで、訓練に支障をきたしている。どんな高尚な理由があったのか説明してみろ」

「全ては人類のためです」

 

 眉一つ動かさず、ジャンは言った。

 

「……そうか。答える気はないか」

 キースは冷めた目を細め、

「感謝しろ。巨人の餌になるよりも、よほど重要な仕事に就けるんだからな。とっとと荷物をまとめて開拓地に移れ。話は以上だ」

 

 そう言って、キースは背を向けた。その背中に向かって、ジャンは静かに言う。

 

「いえ、開拓地には行きません」

 

 キースは踏み出した足を置いて止まると、一呼吸吐いて振り返る。

 

「何?」

「私には人類を救う使命があります」

 

 臆せず、よく通る声で。ジャンは真っ直ぐに前を見つめて言い放った。途端に重くなる空気。キースが大股で歩み寄ると、あっという間にジャンの横につく。そして地を這うような声が、ジャンの鼓膜を揺らした。

 

「なまじ優秀だったばかりに、勘違いをしているらしい。いいだろう。最後に教えてやる」

 キースは鼓膜を破らんばかりの大声で怒鳴りつける。

「貴様のような虫ケラは誰一人救えない! いざとなれば怖気づき、仲間を死なせるだろう! 貴様が殺すも同然だ! ジャン・キルシュタイン……貴様にできることは大人しく開拓地に移ることだけ――それが人類のためだ」

 

 ジャンは答える。

 

「お言葉ですが、教官。勘違いをしているのは、あなたの方ではないですか。エレン・イェーガーを陥れたことが間違っていたように」

 

 キースの気配がピタリと止まった。

 

「……なぜだ。なぜそこでエレン・イェーガーが出てくる」

「お忘れですか。立体機動の適正判断の際、エレンの使用したベルトが破損していました。おかげで奴は危うく開拓地送りになるところだった。ベルトに工作し、エレンが兵士になることを阻止しようとしたのは、キース教官。あなたですね」

 

 ジャンは淡々と話す。が、内心では自身の心臓の違和感を慎重に探っていた。

 

 ……よし。思った通り。ここまではセーフだ。

 

 あの痛みが訪れないことに、ジャンは安堵した。

 

 未来の知識は話せない。その判定基準は知っているかどうか、だ。未来で明かされるキースの独白は、エレンの両親と旧知の仲であったこと。そして、自分は特別ではなかったという諦念に留まった。キースの話を聞けば、エレンに対して複雑な感情を抱いていたことにはすぐに気付いた。しかし「エレンのベルトに細工をした」という話は、本人から直接聞いたわけではない。あくまでジャンが予想した――つまり、ただの推測にすぎない。推測は推理であり、知識とは異なる。

 

「面白いことをいう。脅しているつもりか? なぜ私が一人の訓練兵を陥れる必要がある? 当然、証拠はあるんだろうな」

 

 証拠なんざねーよ。それが分かってるから、テメェはふんぞり返ってられるんだろ。

 

 あれから約3年。証拠隠滅なんて、とっくの昔に済ませているだろう。だから、ここからは駆け引きの勝負になる。

 

 ジャンはさも当然のようにさらりと言った。

 

「それは、あなたが前任の調査兵団団長だったことに関係しています」

「――なぜ知っている?」

 

 さすがに動揺したか。眉をピクリと動かして、キースは聞き返した。しかし、ジャンは答えない。

 

 沈黙を味方につけて、想像を煽るんだ。

 

 あの夜、サシャに頼んだことは二つあった。まず一つ目は、書庫室から本を持ってくること。その本とは調査兵団壁外調査報告書。

 

 調査兵団は壁外調査から帰還した後、報告書を作成することが義務付けられている。ただし、それが重要視されるようになったのは超大型巨人の二度目の襲来以降。つまりエレンという切り札を手に入れ、世界の秘密が次々と明かされるようになってからだ。エレン・イェーガーの巨人化実験、知性巨人、敵の目的――内容は濃く、報告書は厚い。それに比べて、平和だった100余年の報告書は薄かった。一度の壁外調査につき、たった一枚の紙切れで足りる。そこに何を書くべきかは、決まっていた。出発時の編成人数、死亡者数と致死率、そして最高責任者――調査兵団団長の署名だ。成果のない報告書は一冊にまとめられ、訓練資料として書庫室の片隅に置かれていた。

 

 ジャンはそれを読んだ。視界に入れた。調査兵団団長「キース・シャーディス」の署名を。

 

 焦るな。ここが肝心だ。

 

 たっぷりと間をとってキースが痺れを切らすころ、ジャンはゆっくりと口を開いた。

 

「エレンの父親はグリシャ・イェーガーという名で、街でも評判の医者だったそうです。母親は、カルラ――昔は居酒屋の看板娘だったとか。……私が何を言いたいか、理解して頂けますね?」

 

 ついにキースが息を呑んだ。

 

 ジャンの心臓は痛まない。なぜなら、キースが調査兵団前団長だということも、エレンの両親についても既に未来の情報ではないからだ。

 

 サシャに頼んだ二つ目は――エレンに質問をすることだった。彼の両親の名前とかつての職業を。それらは、訓練兵時代のジャンは知らない情報だ。知らないことは話せない。だが、逆を言えば知ったことなら話せるということ。ジャンは未来という結果だけを知っていて、そこに至るまでの過程がすっぽり抜けている状態だった。

 

 それなら、過程を埋めてやりゃーいい。未来の結果に繋がる証拠が俺には必要だった。

 

 ここまでは順調だ。だが、すべてのカードは切られこれ以上未来の情報は使えない。なぜなら、現在手に入る情報はココが限界だからだ。キースとエレンの両親が旧知の中であったことを明らかにするには聞き込みでもする必要があるし、たとえ上手く聞き出せたとしても、キースの胸中にある葛藤なんて本人に語ってもらうほかない。

 

 だから、決定的な証拠なんてない。ほとんどハッタリでこれは賭けだった。

 

 心臓に押し当てる拳は、自然と硬さを増した。敬礼を緩めることなく、ジャンは男のデカくてちっぽけな背中を睨みつけていた。キースはゆっくりと机に向かって歩き、ため息と共にドカリと椅子に沈み込む。

 

「どうやって調べたかは知らんが、たいした好奇心と観察力だ」

 

 そう言ったキースの表情には、教官としての厳格さは消え失せていた。

 

「そうだ。あの日、私がエレン・イェーガーのベルトに細工をした」

 

 ――ッよっしゃあああああ!いま、認めたな⁉︎ 認めたよな⁉︎

 

 勝利を確信し、興奮で上擦りそうになる声を抑えて、ジャンはまくし立てる。

 

「それでしたら話は早い。今の話を密告すれば、あなたは責任を取って教官を辞することになるでしょう。そこで取引です。開拓地送りの処分を撤回して頂けるなら――」

「その必要はない」

 

 キースが遮る。といっても、いつもの辛辣な物言いとは違い、穏やかな声色だった。

 

「言いたければ、言えばいい。貴様の処分は変わらん」

 

 ジャンは絶句し、声を詰まらせた。落ち着き払った様子のキースに、思わず語気を荒げる。

 

「ただの脅しだとお思いですか⁉︎」

「そうではない。私にとってはどちらでもいいのだ。脅しだろうと、本気だろうとな。……簡単な話だ。己の正義に従えばいい。その密告によって、私は教官の職を辞し、貴様は予定通り開拓地に送られる。ただそれだけのことだ」

 

 キースはあの時と同じ傍観者の瞳をしていた。

 

 クソが――ッ! 己の正義だと⁉︎ そんな矮小な話じゃねえんだよ! 人類の未来がかかってんだぞ⁉︎ 畜生ッ――何が傍観者だ!

 

 ジャンは拳を震わせながら、敬礼を解いた。こんな男に――自分の出番を諦めて傍観者を気取る野郎に、必要ないと思えた。命を捧げる覚悟を示す――敬礼は必要ないと。ジャンは耐えるように自身の前髪を掴む。

 

「そうか。それがアンタの答えかよ。――なら、俺の考えを言わせてもらうぜ。よく聞けよ? 俺はアンタとは違う。俺は運命に選ばれたんだ。こんなマヌケな理由で、リタイアなんてできねえんだよ――俺の目を見ろ、わかんだろ⁉︎ この目に見覚えがあるだろおが! 地獄を見てきた目だ! 腐っても調査兵団前団長だろ⁉︎ そんなことも見抜けねえのかよ老いぼれが!」

 

 自分が何を言いたいのかもわからず、口先にのぼる言葉を次々とぶつけていく。

 

「成績なんていらねえ! 憲兵団なんてどうでもいい! まだやるべきことが――ッ使命があるんだよ、俺にしかできねえんだ! テメェには何も求めてねえ! 助けも理解も必要ねえ! ただ黙ってりゃいいんだ――なのに、クソ……俺の邪魔してんじゃねえよ!」

 

 散々怒鳴り散らして、呼吸は荒く肩を揺らした。頭の中は真っ白なまま。そして、キースの色のない瞳を見た瞬間、自分の失敗を悟った。キースは冷酷に処分を言い渡す。

 

「もう一度言ってやろう。ジャン・キルシュタイン――今すぐ荷物をまとめて、開拓地に移れ。そこが貴様の居場所だ」

 

 

 

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