ジャン「人類を救うために恋のキューピッドになる」 作:三木えーっと
つまるところ、教官という職に執着がなかったのだろう。
「エレンへの行いを密告する」というジャンの脅しに、キースの心臓は動揺の一つもしなかった。
それが何よりの証拠だ。
しかし、その事実はキースにとってさほど意外なことではなかった。
調査兵団団長を自ら辞した後、流されるままに行き着いた居場所。
目の前に並ぶ若者を、兵士として使い物になるように鍛えてやるだけでいい。
自ら考え、選択し、いたずらに兵士を死なせてきた仕事と比べれば、なんと楽なことか。
特別じゃない、無価値な自分を諦観した。
空っぽな自身を教官の職務で埋めることは、彼の精神を安定させていた。
言い換えれば、キース・シャーディスは教官を演じることで、自身を慰めていたにすぎなかった。
問題は、なぜジャン・キルシュタインの処分を取り下げる気になったのか。
本来ならば、早急に開拓地送りにすべき事案だった。
一発退場に相当する不正行為。
独房に入れる必要もなく、とっとと追い出してやれば済んだ話だ。
それが教官として当然の判断だった。
けれど、そうしなかった。
しかも、訓練兵たちがジャンのために画策していたことを知った上で、彼らの準備を待つかのようなタイミング――。
そういった一連の行動を、キースは自分でも上手く説明できそうになかった。
どれだけ思案に暮れていたのだろう。
万年筆の先端――金色のステンレスが光り方を変えたのを見て、キースは顔を上げた。
早朝の陽が、執務室へ差し込んでいる。
ああと思って、ランタンの灯を吹き消すと、今度は思ったより暗くて書面が読めなくなった。
男は眉間に皺を寄せ、もう一度灯をつけようかと逡巡する。
時計の針は、4時30分をさしていた。
コーヒーでも飲んでいる間に、日も昇りきるだろう。
湯を沸かし、挽き立てのコーヒー豆をドリップする。
豆の香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。
マグカップを片手に窓辺へ寄ると、太陽がようやく半分ほど顔を出したところだった。
執務室で夜を明かしたのは、久しぶりだ。
愚か者が夜な夜な悪さをしないように当番制の見回りはあったが、それ以外に仕事と呼べる残業はなかった。
もちろん探せば、やるべきことはあるだろう。
だが、それほどの熱意を抱いたことはなかった。
104期訓練兵は、まもなく卒業する。
彼らは生き残れるだろうか。
訓練兵を怒鳴りつける度に、キースは枯れた心臓で問いかけていた。
「お前はどんな風に死ぬのか」と。
――ジャン・キルシュタイン。
昇りゆく陽を薄く見つめていると、彼の名が浮かんだ。
数ヶ月前までは普通の、才能ある若者だった。
優秀ゆえに器用貧乏で、利己的な性格は憲兵団向きであった。
だが、彼は変わった。
その急激な成長は、才能云々では説明のつかない境地にまで達しているように思えた。
普通の男が、ある日突然「特別」に変化するなど有り得るのだろうか。
あの日の私のように、呪いにかかっただけではないのか。
一晩中、そんなことばかりをまんじりと考えていた。
コーヒーを飲み干して、朝日が昇り切った頃、ようやくキースは決断した。
まだ日が照り始めたばかりの早朝。
少し涼しくなった初秋の風に吹かれながら、104期訓練兵――総勢218名が整列した。
「ジャン・キルシュタインについてだが……開拓地送りの処分は撤回することになった。よって、別の処分を言い渡す」
訓練兵たちの気配がさざめく。
104期の中に埋もれる爛々とした眼光を見据えて、キースは宣言した。
「貴様を、立体機動教官補佐に任命する。教官の真似事をしたいなら、願ってもない話だろう。その指導力、存分に人類のために捧げろ」
奴の鋭い目が揺らぎ、驚愕に開かれた。
キースは続ける。
「もちろん訓練兵としても今まで通り従事してもらう。成績上位10番以内に入らなければ、卒業は許さん。その時こそ、貴様は開拓地送りだ」
男は瞳を輝かせ、「ハイッ!」とスタッカートの返事をした。
この男は、特別な人間に変われるだろうか。
それとも、私と同じように呪われただけなのか。
わからない。
少なくとも、それを判断するのは私ではないのだろう。
****
「好き嫌いはしないで」
ミカサが言う。
「朝食はしっかり食べないと、訓練に障る」
「お、おう」
スプーンを片手に、ジャンは頷いた。
「口元にソースが付いている。こっちを向いて」
ミカサが身を寄せたので、ジャンは慌てて避けようと、
「いいって! それぐらい自分で――」
「ダメ。私に任せて」
気付けば、至近距離に綺麗な顔があった。
頭が沸騰して、ジャンは魔法にかかったようにピシリと体を硬直させる。
彼女にされるがまま。
クリーム色のハンカチで、口元を優しく撫でられた。
こんなに幸せでいいんだろうか。
圧倒的僥倖。
幸せすぎて怖い。
幸せすぎて死ぬ。
あ? そういや俺って一回死んでるんだっけ。
そうか天国か夢の世界なのか最高じゃねえか。
俺はきっとこの瞬間のために生きてきたに違いねえ。
食堂は、騒然としていた。
同期たちは食事をするのも忘れ、信じられない光景に見入っていた。
「おい……誰か答えろ。私はまだ寝ぼけてるらしい。エレンはあんなに馬面だったか?」
ユミルが尋ねた。
「何言ってるんですか。エレンなら、あっちに座ってるじゃないですか。ほら、いつものようにアルミンとミカサが」
サシャは答えようとして、
「……おかしいですね。ミカサって金髪でしたっけ?」
と疑問形で投げ返す。
「何言ってるんだ。あれはアニだろ」
そう言ってから、ライナーは確認するように聞き返した。
「……アニだよな? ベルトルト」
「ああ。そうだよ、ライナー。あれは間違いなくアニだ」
ベルトルトは静かに肯定した。
「なあ……俺はバカだからわからねえが、ミカサは頭がおかしくなっちまったのか?」
「めずらしく冴えてるね。僕も同じことを考えてたよ」
コニーの言葉に、マルコは無表情で頷いた。
どうしてこうなったか?、なんて本人たちが一番理解していないだろう。
ジャンは思考停止でこの状況を楽しんでいる。
ミカサは彼の世話を焼きながら、「これはエレン。これはエレン。これはエレン――」と呪詛のようにぶつぶつ唱えていた。
あの日。
「エレンから離れろ」というジャンのアドバイスを受け入れたミカサは、限界突破をしていた。
やけくそ。やぶれかぶれ。そこまでやるなら、徹底的にやるべきという謎のスイッチ。
エレンが絡むと暴走しがちなミカサらしいと言えば、らしい行動。
偽装恋人の提案をしてきたのは、彼女の方からだった。
振り向いてくれない男の側を離れ、嫉妬を煽る――なかなか効果的な作戦だ。
脳内が花畑に染まっていく一方、ジャンは冷静に打算してもいた。
ミカサがエレンから離れることは、同時にアニのチャンスになるだろうと。
一足飛びで、さっそくアニに事情を説明すると、彼女は驚愕して「アンタなかなかゲスなこと考えるね」と言われた。
が、エレンの隣で嬉しそうにパンをかじってるんだから、お前も同罪だろと思う。
一番気の毒なのは、スープを啜りながら胃を押さえているアルミンだ。
エレンはどう思ってるのか。
アニと談笑する姿は、むしろいつもより楽しそうに見える。
糞鈍感駆逐野郎のことだ。
特に疑問にも思わず、ミカサの干渉がなくなったことに清々しているのかもしれない。
これは、もしかするともしかするんじゃねえか?
このまま上手くいって、エレンとアニが付き合うことになったら……ミカサが振られるってことだろ?
そんで、傷心のミカサを俺が必死に支える――つまり結婚⁉︎
ジャンの脳裏に走馬灯のごとく妄想が流れる。
失恋に落ち込み、涙を流すミカサ。
ジャンが必死に慰めても、なかなか立ち直れないミカサ。
一輪の花を渡すと、初めて微笑んでくれるミカサ。
初めてのデートでふいに手が触れてそのまま繋いで。
プロポーズは湖の水面に映る光を眺めながらサラッと言って、彼女は嬉しそうに微笑んで。
結婚式は、白いドレスがいい。
シンプルなシルクのドレスに、繊細な刺繍。
かすみ草のブーケは彼女の可憐さを引き立て、ベール越しの彼女は世界一綺麗だ。
最高かよ⁉︎
人類を救い、長い片思いを成就させる。
その気になりゃ、今の俺なら全部手に入るんだ!
食事を終え、ぽわんとした心持ちでふわふわ歩く。
いつもは気を引き締めてくれる立体機動のベルトも緩んでる気がして、ジャンは何度も皮のベルトを調節していた。
「ちょっといいかな? 昨日話してた班編成なんだけど、少しバランスが悪いような気がするの。ジャンの意見を聞きたくて……」
遠慮がちに声をかけてきたクリスタの表情は、緊張で強張っていた。
無理もない。
先日、キースから言い渡された異例の処分。
立体機動教官補佐。
一訓練兵に課すには前代未聞の責務だ。
といっても、当然だが全ての訓練指揮を任されるわけでもなく、あくまで補佐として訓練内容に提案をしたり、一部の時間をもらって指揮を取ったり、その程度のことだ。
本日の訓練から、ジャンはその責任を担うことになっていた。
もちろん表舞台で指揮を取るのはジャンになるが、今までの流れから自然とクリスタも手を貸すことになった。
補佐の補佐とでも言ったところか。
不安そうなクリスタに、ジャンは答える。
「昨日も言ったろ? 細かいことはお前に任せるって」
「でも……」
「あんまり緊張すんなよ。いつも通りやりゃーいいんだって! 教官補佐なんて大層な役職に聞こえるが、やることは今までの延長線みたいなもんだしな」
ジャンは立体機動装置の箱をカンと叩いて、ニヤリと笑ってみせた。
教官補佐――渡りに船とはこのことだぜ。
これで堂々と、104期の立体機動力向上に集中できる。
どういう意図の処分かは知らねえが、俺にとっては良いことづくめだ。
「頼りにしてるぜ、クリスタ」
ジャンは上機嫌に、ぽんと彼女の肩を叩いた。
「ジャン。そろそろ行こう。何か準備があるなら、私も手伝う」
迎えに来てくれたミカサに感動しつつ、ジャンは「おー」とわざと気の抜けた返事をした。
ジャンの隣に、ミカサが並ぶ。
肩が触れ合う距離で、体温が伝わる気がした。
ずっと彼女の隣を歩いていたかった。
この距離を知ってしまったら、後ろから指咥えて見てるなんてもう無理だ。
かつてなく、強く思ってしまった。
今度こそ彼女に選ばれる男になりたいと。