ジャン「人類を救うために恋のキューピッドになる」 作:三木えーっと
ジャンが訓練兵団に残るとは思わなかった。
それどころか教官補佐にまで任命されるなんて……キース教官は密告の手紙を信じなかったのかもしれない。それか、私の調査不足が原因か。
訓練兵舎の裏にある石造りの井戸で、アニは水を汲みながら思案に暮れていた。
今は理由なんてどうでもいい。
問題は、ジャンが何を考えているかわからないってこと。
今日はミカサと出掛けているみたいだけど、まさか呑気にデートってことはないはず。
開拓地送りの処分取り消し、立体機動教官補佐――前代未聞が二つも重なるなんて、おかしい。何かあると考えるべきだ。
私たちの作戦を実行するにあたり、ジャンの存在は大きな懸念点になっている。
「おい。聞いてんのかよ?」
突然、男がアニの肩に触れた。
その感触にハッとする。
慌てて笑みを浮かべ適当に相槌を打ってやると、男は満足そうにマシンガントークを再開した。
くだらない。
死ぬほどつまらない話。
よくもそんなに楽しそうに喋れるなと感心するぐらいなのに、未だに離れない男の手からじんわりと伝わる熱は不快ではなかった。
水汲みの当番は、持ち回り制だ。
だから運悪く休暇と被ることもままあって、地味に時間のかかる仕事にアニが顔をしかめていると、陽気に手伝いを申し出たのがこの男だった。
男の名前はよく覚えていない。
たしかジル……いや、ギルなんとかだったか。
たった200名ちょっとの同期。
なるべく関わらないように、会話もしないように努力してきた。
だからといって、三年間も訓練を共にしたのに、名前すら覚えていない自分にちょっと笑えてくる。
「え、今の面白かった?」
「ああ、最高だよ。アンタっておもしろいね」
話も聞いてないのにそう返すと、男はヘラヘラ笑った。
顔はそこそこ整っていて、その笑顔は客観的に見れば素敵の範囲内に入るんだろうと思えた。
上滑りな会話が続く。
アニは口角を上げて頷いていると、ふと男の視線を感じた。
値踏みするような視線だった。
その視線が、自分の体――胸のあたりに集中していることもわかっていた。
こんなに簡単なのかと、アニは思う。
わかりやすい下心は良い。
気まぐれに踏み躙っても、お互い様な感じがするから。
男の魂胆と、私の魂胆。
どっちが汚いんだろう。
秋の空は青く晴れて、うろこ雲がところどころに漂っていた。
鳥たちが群れをなして町の方へ飛んでいく。
九月の空は、壁の内側も外側も関係なく綺麗で、地上のどこにいたってアニを惨めな気持ちにさせてくれた。
これは、努力の証だ。
我ながら涙ぐましい努力の賜物。
名前なんて、絶対に覚えてやらない。
「今度、町に行きたいな」
「マジかよ⁉︎ いいのか⁉︎」
オーバーリアクションで驚く男に、アニは綺麗に笑いかける。
「うん。その代わり、楽しいところに連れてってよ」
有頂天になった男が返事をする前に、穏やかな声が二人の邪魔をした。
「話の最中にごめん。アニに話があるんだ」
いつのまに近寄ってきたのか。
男の背後から、ベルトルトが気の弱そうな笑みを貼り付けて現れた。
無駄にデカいくせに妙に気配を消すのが上手い。
アニが舌打ちをする。
「悪いけど、席を外してくれるかな」
ベルトルトが言うと、
「あ? 邪魔すんなよ」
と男が凄む。
その威圧をベルトルトは意に介さず、今度は低い声で「どいてくれ」と静かに告げた。
一瞬で、男が怯む気配がした。
安い捨て台詞を吐いて立ち去る男の姿を見えなくなるまで見送ると、ベルトルトはふうっと肩の力を抜く。
そして気遣わしげな視線を、アニに向けた。
「あんな軽そうな男に……君らしくもない」
ずいぶんと抽象的な指摘に、アニは冷笑する。
「私らしいって何? 愛想悪くて、可愛げなくて、いつも怖い顔で睨みつけてれば私らしいってこと?」
「アニは、エレンのことが好きなんじゃないの?」
真面目な顔で、ベルトルトが尋ねた。
一番触れられたくない話題だった。
無遠慮に切り込まれた荒い傷口から憤怒が溢れ、アニは無言でベルトルトを睨みつけた。
たまらず半歩引いて石化するベルトルト。
額に汗を浮かべてはいるものの、引く気はない様子で、健気に踏ん張っているところが余計に腹立たしい。
まるで調整役みたいな顔が気に入らない。
他力本願のヘタレなくせに。
フォローでもしてるつもり?
「アンタには関係ないでしょ」
アニは怒気を込めて言った。
ベルトルトは宥めるように、必死に訴える。
「いいよ。エレンを好きなら好きで。僕たちは戦士だから……使命さえ忘れなければ、アニの意思は尊重するよ」
「……やめて」
気持ち悪い。
吐きそうだ。
ベルトルトが「戦士」と口にする時の、光のないビー玉のような瞳が恐ろしかった。
表では兵士として仲間と過ごし、裏では同じ口で戦士だと語る。
それも全ては自分の意思ではなく、あくまでライナーの後をなぞるという体裁。
狡猾な自己保身だ。
慣れたと思っていたおぞましさに、アニは身震いした。
同時に、自分の醜さにも気付かされる。
こうして線を引いて、仲間を軽蔑したがる私は何様なのか――その薄汚さに眩暈がした。
「ギルバートとは、親しいの?」
「……ギルバート」
「さっき話してた彼だよ」
ベルトルトは平然と男の名を明かした。
「お節介かもしれないけど、やめたほうがいいよ。彼は悪い噂しか聞かないから」
「悪い噂って?」
「それは――」
「いろんな女と寝ることが、悪いこと?」
「……知ってるじゃないか」
「あいつが悪い男なら、アンタは大悪党だね」
おもしろい。
これはおもしろいジョークで、ククッと喉を鳴らして笑ってしまった。
ベルトルトは笑わない。
こういう時に、ノリが悪いところも嫌いだ。
まともぶって心配そうに話すところは、もっと嫌い。
「どうしたんだよ、アニ。僕は別に恋愛するなって言ってるんじゃないんだ。エレンを好きなら、変な男の相手をするのは――」
「好きだった女が尻軽だと、気に入らない? ずーっと好きだった女に振られて、次の日には別の女と付き合って、毎日嬉しそうに腰振ってるアンタに説教する資格があるの?」
ギルバート。
ああ、覚えてしまった。
言われなくたって、もう深く関わることなんてできない。
本当は長い髪に憧れていた。
引っ詰めたお団子頭じゃなくて、女の子らしくストレートにおろした髪に。
たまには友達同士で同じ髪型にして、お揃いの髪飾りをつけて。
デートの時には、好きな人の――エレンの好みに合わせたりしたかった。
ずるい。ずるいよ。
アンタたちだけ、楽しそうに。
友達作って、恋愛までしちゃうなんてさ。
そんな幸せなことが許されるなら、今までの私の我慢は何だったの?
積年の胸をえぐる痛み。
その痛みと上手く付き合う方法を、やっとアニは悟った。
つまり、全てに意味はない。
どんなに胸を痛めようと、罪悪感に苛まれようと。
結果は変わらない。
壁内を地獄に落とし、大勢の人間を殺す――その使命から逃れることはできない。
それなら、思い悩み苦しむことに何の価値があるんだろう?
その時が来るまで割り切って、楽しく過ごす方が利口な生き方に決まっている。
アンタたちにできるなら、私にだってできる。
好きに生きて、戦士として使命を全うする。
だけど、覚えておいて。
私はアンタたちとは違うから。
その時が来ても、無様に被害者ぶったり謝ったりなんかしない。