ジャン「人類を救うために恋のキューピッドになる」 作:三木えーっと
朝一の訓練は立体機動からはじまる。
ずっしりと根付く大木。重なり合った枝葉が青々と茂る。朝靄の中を突き抜けて飛ぶと、肌がしっとりと濡れ、風に冷やされて気持ち良い。鼻を通る清涼な空気も、地上で吸うものとはどこか違う気がする。
巨人も敵対する人間もいない森の中は、ジャンにとっては久しぶりの環境だった。すっかり戦いの道具と化していた立体機動装置は——実際にそうではあるが——訓練兵時代、何よりもジャンを解放してくれる相棒だった。日々の訓練の鬱憤も、宙を飛んでいるうちに霧散して消えていく。今思えば、ちっぽけな自尊心を満たしているにすぎなかったのだろうが。それでも楽しいことには変わりない。
「ジャン! ちょっと待ってくださいよ!」
切羽詰まった叫びが背後から聞こえて、ジャンは手近な枝に降り立った。しばらく待っていると、朝靄の中から飛び出した影が隣に着地した。サシャだ。
「もう! 単独作戦じゃないんですからね!? 準備運動から飛ばしてどうするんです⁉︎」
ぷりぷり怒り出すサシャに、ジャンは眉尻を下げた。
「悪りぃ。気付かなかった。つい、な」
「というか、なんかめちゃくちゃ早くなってません? 全然追いつけませんでした。こんなに霧が出てるのに……」
お前が遅くなったんだろといつものように返そうとして、ジャンはすんでのところで飲みこんだ。
ジャンには四年分の実戦経験の記憶がある。四年前の身体だから感覚が違って多少やりにくいが、それでも訓練兵のサシャと差が出て当然だろう。
つーか、何純粋に楽しんでんだよ。
浮かれる頭をブンと振って、ジャンは気合を入れ直した。ついさっきエレンに啖呵を切っておいて失敗は許されない。人類を救うためには少しの時間も惜しかった。まずは恋のキューピッド作戦を軌道に乗せなければ。
アニとはほとんど喋ったことねえし、まずはライナーとベルトルトだ。あの二人に惚れてるっつー女子がいれば、話は早いんだがな。そういや考えたこともなかったが、あいつらなんでモテねーんだ?
「なーサシャ。ベルトルトって地味な顔してっけど、長身で足は長げーしめちゃくちゃスタイルいいよな。ライナーだって、ガテン系でいい体してるじゃねぇか」
「いいですか、ジャン。なんの話かわかりませんが、その発言は誤解しか生まないですよ」
バサリと頭上で葉のぶつかる音がすると、まもなくアニが近くの枝に降り立った。
「何の話? 今、ライナーとベルトルトとか聞こえたけど」
「ああ、アニ。聞いてくださいよ。ジャンが——」
「バッカ! 何でもねーっつの!」
思わずサシャの頭をブレードの柄で叩くと「なにするんですか!」と、サシャは涙目で抗議した。
自分から聞いてきたくせに、アニはさほど興味もなさそうに「あっそ」と話を終わらせた。伏し目がちの目元に、霧のせいで少し湿った束のブロンドが落ちる。アニはその前髪を指ですくって右耳にかけると、何事もなかったように黙り込んだ。
いつもと変わらないアニの様子に、ジャンはホッとした。
危ねぇ。不用意な発言は控えねーと。あいつらの名前もなるべく出さない方がいいな。どこから疑われるかわかんねぇ。
その時、立体機動特有のワイヤー音が近付いてきた。今日の訓練で分けられたチーム——フォーマンセルの最後の一人だ。小柄な影が霧のベールをまとって、アニの隣に着地した。
「遅くなっちゃってごめんなさい! 思うように進めなくて……」
眉尻を下げて、クリスタが言った。
「問題ねェ。これから本題に入るところだ」
チームメンバーが揃ったところで、ジャンが指示を出す。
「作戦を確認するぞ。まもなく訓練用の信煙弾が打ち上がる。それを元に巨人型模型を狩りつつゴールを目指す。先頭はアニ。次にサシャ、クリスタが続き、俺がしんがりだ」
この訓練はゴールへの到着時間と巨人型模型の討伐数が相対的に評価される。立体起動訓練は点数が高いため、訓練兵たちは高得点を狙ってくる。
「何体狙う?」
アニが短く聞いた。
「信煙弾を見てから、距離も考慮して判断する。高得点を狙うなら最低三体はいきてェ。霧もあるし、昨日の雨の影響でここらの木肌は滑りやすいからな。ゴール時間はさほど稼げねーだろ。討伐数で勝負するしかねェ。とにかくアニは手近の模型に向かってくれ。細かい指示は後で出す」
無表情のアニが「了解」と呟く。
「サシャは遠目が利く。アニのフォローを頼む」
「了解です」
「クリスタは全力でサシャについて行け。俺がフォローに回るから、離されても焦るなよ」
「了解!」
緊張した面持ちでクリスタが頷いた。
ほどなくして、訓練開始を告げる信煙弾の音が響いた。四人が一斉に空を見上げる。左右に赤い煙の筋が現れ、中央の奥の方に仄かに緑色が見えた。霧のせいで三本しか見えない。
ジャンは舌打ちをして、
「巨人型模型を二体狩って、最速で到着地点へ向かう! 左からだ!」
ジャンの言葉を合図に、三人は「了解!」と返事をすると立体機動にうつった。
****
未来から来たんだからこの訓練は二回目のはずなのに、まったく記憶にねェ。以前はどうやって訓練を終えたんだっけな。記憶にねぇぐらいだ。好成績は残せなかったんだろう。多少成績が上下したところで未来に影響があるとも思えねーし、適当にやっときゃ大丈夫か。
ガスを節約するために遠心力を利用する。ジャンは振り子のように身体を大きく振って、重なる葉の切れ目になんとか身体を寄せて、赤い信煙弾が伸びる先を確認した。
「アニ! もうちょい左だ!」
前方に声をかけると、彼女は手をあげてジャンに合図をしてから左方修正した。しばらく進むと「見えました!」とサシャが叫ぶ。
アニが巨人型模型の右足首——腱にあたる部位を削ぐ。次いで、サシャが左の腱を。クリスタは
間髪入れずアニは力強く木肌を蹴って反動をつけると、方向転換した。それに皆が続く。
二体目はここからかなり右に逸れることになる。だが、隊の進行方向を示す緑の信煙弾——ゴール地点には近付く。悪くないペースだ。
キラキラした金糸のような髪をなびかせるクリスタの横顔を、ジャンはちらりと盗み見た。桜色のぷっくりした唇をきゅっと結んで、何かに耐えているみたいな顔。一生懸命で、小さくて、かわいくて、優しくて——天使みたいな女の子。それが同期の男たちの共通認識だろう。誰もが一度は、彼女を巨人の手から守る痛々しい妄想をしたことがあるはずだ。かつてはジャンもその一人だった。だが、今は彼女の本来の姿を知っている分もどかしい。
未来のクリスタ——ヒストリアは女王として立派に務めを果たしていた。心ない民衆の陰口にも、社会から外れた孤児の薄暗さにも耳を傾け続ける強さ。彼女はまやかしの優しさではなく、信念を手に入れた。
ヒストリアは言っていた。
「あの頃の私は、良い子になろうって必死だったの。みんなに好かれるクリスタ・レンズを演じてないと、不安で不安で仕方なかった。誰かに必要とされたかった。私って、空っぽだったんだよ」
正直、ジャンには彼女の不安を理解できなかった。なぜなら、不特定多数に好かれたいと思ったことなど人生で一度もなかったからだ。嫌いな奴もいれば、好きな奴もいる。それが人間として当たり前だし、誰からも好かれるなんて不可能だ。第一、偽った自分で好かれたって意味がない。偽物の関係しかできず破綻は目に見えている。けれど、少しだけヒストリアに共感できる部分もあった。嫌われるのは別にいいが、ダサい奴だと馬鹿にされるのは嫌だ。そういう意味では、彼女と同様、ジャンも他人の目を気にしてるんだろう。
二体目の巨人型模型を発見する。先ほどと同じようにそいつを片付け、ゴール地点へ向かった。討伐数で点数を稼げない以上、高得点を狙うにはタイムを縮めるしかない。自然、皆のスピードは上がっていく。ぐんぐん進んでいくアニとサシャ。さすが成績上位組だけあって、スピードを上げるためのガスの吹かし方も体重移動もなかなかのものだ。それに比べて、クリスタはどうにも危なっかしい。彼女も成績上位ではあるが、立体機動のレベルは訓練兵として及第点。いくら霧が出ているからってアンカーを刺す場所も悪いし、何より判断が遅い。これでは実戦で巨人から逃げきれないだろう。
問題なのはクリスタだけじゃない。調査兵団として実戦経験を経たジャンから見ると、同期の訓練兵はレベルが低すぎる。超大型巨人の二回目の襲撃の際、多くの同期が巨人に喰われたのもこれが原因だろう。
最低でも巨人から逃げ切れるレベルにはなってもらわねーと。俺がタイムリープしたことで変わる未来もある。運が悪けりゃ、クリスタも何かの拍子で巨人に喰われるかもしれねェ。
クリスタの後ろ姿を観察しながら、ジャンはそう考えていた。
その時、向かい風の突風が吹いた。突き飛ばされるみたいに押し戻される身体。四人の体勢が大きく崩れる。鋼鉄製のワイヤーがギュルギュル悲鳴をあげた。急に霧が立ち込め、目の前にあるクリスタの姿が白いモヤに消える。両腕で顔を庇いながら、ジャンは声を張り上げた。
「いったん止まれ! 近くの枝に——」
「きゃあああ!」
クリスタの悲鳴がジャンの声をかき消した。反射的に声の方に目を向ける。深い霧の切れ目から小さな身体が落ちていくのが見えた。
「クリスタ⁉︎」
サシャが叫んだ。ジャンの視界の端で、青ざめて振り返るアニとワイヤーの射出装置をクリスタに向けるサシャ。
ダメだ。アニは遠すぎる。サシャは霧のせいで、狙いをつけられないようだ。悔しそうにサシャが顔を歪めた。ジャンは逡巡する。
どうする。サシャの射撃の腕は並みじゃない。一か八か。いや、ダメだ。万が一、当たりどころが悪ければクリスタが死ぬ! そうなれば取り返しがつかねェ! 未来が変わっちまう!
「やめろ! 俺が行く!」
そう怒鳴ると同時に、ジャンはクリスタを追って木肌を蹴った。驚愕に満ちたサシャの悲鳴が聞こえる。ジャンは霧が目に張り付いてくるのも構わず、両眼を大きく開いてクリスタの姿を探した。
クソ! 霧が深くて何も見えねェ!
記憶を頼りに、片方のワイヤーを地面付近の木に射出する。確かなアンカーの手応え。手元のレバーを押して、ワイヤーを一気に巻き取る。数倍速で地面に近付く肉体。死の予感にギリギリと心臓が軋んだ。にわかに霧を抜けると同時に、ジャンの瞳が金髪の少女を捕らえた。瞬時にアンカーを前方上部に射出。一気にガスを噴出する。無理やり背を押された振り子のように、ジャンは突進した。目の前でクリスタが急降下していく。もう地面が近い。
間に合うか⁉︎
「クリスタ!」
喉が裂けるほど怒鳴ると、のろのろとクリスタはこちらを向いた。その瞳は虚だ。頭にカッと血が昇り、ジャンは夢中で怒鳴った。
「バカヤロー! 手伸ばせ!」
まるで夢から覚めたようにクリスタはハッとすると、戸惑いながらも両腕をジャンに向けて伸ばした。すんでのところで彼女の細い腕を掴み、胸に引き寄せる。ぐんぐん迫る地面。ジャンは両腕でクリスタを抱え直して、アンカーを抜いた。受け身を取りながら二人は地面をゴロゴロ転がり、そのまま藪に突っ込んだ。衝撃に、一瞬意識が飛びかける。
「クッ……いってぇーな」
ジャンが呻き声をあげた。
「クリスタ! ジャン! 無事ですか⁉︎」
いつのまに降りてきたのか、血相を変えてサシャが駆け寄る。アニは言葉を失ったように真っ青な顔でこちらを見つめていた。二人の顔を見た途端、緊張の糸が緩む。ジャンはため息混じりに「まあな」と返して片手をあげて見せると、二人の顔もほっと緩んだ。
腕の中で、クリスタが小さく身動ぎをする。
「あれ、私……」
「生きてるぜ。残念ながらな」
「え? あ……ジャン! 血が!」
クリスタは慌てて身体を離し、枝葉に擦られてあちこち傷だらけのジャンを見ると、大きな瞳を潤ませた。
「たいしたことねーよ。怪我してんのはお前もだろ」
「でも! ごめんなさい! 私のせいで——ッ!」
「後で聞いてやるからちょっと黙ってろ」
自分でも思ったより冷たい声色だった。クリスタの肩がビクリと震える。それに気付かないフリをして彼女を助け起こし、ジャンも起き上がった。
「サシャ、アニ。先に行け。二人だけなら制限時間内に到着できる。班員が欠けてるから減点されちまうが、0点よりはマシだろ。俺はクリスタの怪我を見てから行く」
「でも——」
「今朝のエレンとのやりとり聞いてたろ? 俺は本当に成績とかどーでもいいんだ。気にすんな」
なおも食い下がろうとするサシャの肩に手を置いて、アニが「わかった。行くよ、サシャ」と促した。サシャは心配そうに何度も振り返りながらもアニの後をついて行った。