ジャン「人類を救うために恋のキューピッドになる」 作:三木えーっと
クリスタは緊張した面持ちでブレードの柄を握りしめ、始まりの時を待っていた。立体機動装置がいつもよりずしりと重く感じる。慣れ親しんだ訓練場の森もどこかよそよそしく、飲み込まれてしまいそうだ。彼女は立っている自分を確かめるように地面を踏みしめた。
金髪碧眼の美少女――クリスタ・レンズ。みんなから好かれて、誰にでも優しくて、真面目で、いい子で、成績優秀だけど、立体機動は少し苦手だった。兵士として最も重要な科目がなぜ苦手なのか――単純な理由を言うなら、怖かったからだ。他の科目と違い、立体機動は他者を巻き込む事故が多い。それも即死亡に繋がる重大な事故だ。もしも他の人とワイヤーが絡んだら、空中で衝突したら、振りかざしたブレードが当たったら――。恐ろしいもしもが心臓に絡まって、自然と体が縮こまってしまう。
でも、怖がるのは終わりにしなきゃ。一生懸命教えてもらったんだもん。結果を出さないと――!
唇を強張らせて、クリスタは空を見上げた。彼女の思いとは裏腹にからりと晴れ渡り、数匹の鳥が遊ぶように飛んでいく呑気な空。その空と木々の境目を、瞳が乾くほど凝視する。打ちあがる信煙弾を1ミリでも早く視界に入れようと、自然と背筋が伸びる。そして、開始の合図を告げる信煙弾が空に上がった。
訓練用にカスタマイズされた森は、時折巨人型模型を抱いている以外は同じような景色だ。行手を遮って伸びる枝葉。無数のアンカーの跡が刻まれた木肌を晒す大木が、ひっきりなしに目の前に現れる。飛んでも飛んでもちっとも進んでいない気がして、クリスタは焦った。
立体機動長距離飛。
約10kmの森を立体機動で飛ぶ時間を競うという、実にシンプルな試験内容だ。その分、実力差が出やすい。タイムを縮めるためにはギリギリでガスを使い切る計算や立体機動の技術が必要になる。
落ち着いて! 大丈夫。いつも通りやれば――あんなに練習したんだから!
歯を食いしばってワイヤーを巻き取る。焦れば焦るほど、前のめりになってどんどんリズムが狂っていくのが自分でもわかった。わかるのに、直せない。直せないからまた混乱して、体が強張っていく。
『くだらねぇ。本当に怖いことは、何の成果も出せず仲間を死なせることだ』
脳内で、ジャンの声が響いた。それはクリスタの悩み――立体機動への恐怖心を聞いた時、開口一番に彼が言い放った言葉だった。
『最悪なことばかりを想定するから、最善を見抜けねぇ。だから判断が遅い。ビビってる暇があるなら、最善を尽くすことに頭を回せ』
わかってるよ。でも最善って……そんなの私には見つけられない!
目の前に現れる枝を、ブレードで立ち切って無理やり進む。
『肩の力を抜け。もっと視野を広げろ。最短ルートを探すんだ!』
巻き取ったワイヤーを再び射出。無事にアンカーが刺さったところを見届ける。
『視線の置き場がちげーんだよ! アンカーが刺さったかどうかなんていちいち確認すんな! すぐに次の射出場所を考えろ!』
そうだ。ジャンに言われたんだった。視線は常に前方へ。最短ルートを探して、複雑なところは細かく、開けたところは大胆に、アンカーを刺す!
クリスタを待ち構えていたかのように、枝葉が入り組んだ木の壁が前方を塞いだ。クリスタは一呼吸浅く吸って、止めて、思い切って体を平行に――空中でスライディングをするみたいに壁の直下をすり抜けた。
『ガスを吹かすタイミングが違う! 何度も同じこと言わせんな!』
そう! このタイミングで少しガスを吹かせて、腰を捻って少し巻き取って、アンカーを引いて、体勢を立て直す時は――
『体の軸ブラすなよ! 腹に力入れろ!』
クリスタは形の良い唇をきゅっと引き結んだ。瞳の色は濃く、その光は徐々に輝きを増していく。
どんどんスピードに乗っていくのがわかる。顔にぶつかる風の圧も、耳元で鳴る風の音もぜんぜん違う。こんな感覚ははじめてだ。
『よし、いいぞ』
ジャンの声が穏やかに言う。
『最後に、立体機動で一番大事なことを教えてやる』
彼はふっと息だけで笑って、
『イメージするんだ。今やるべきことを考え、最善を見つけ、それを完璧にこなす自分の姿を。だからお前もカッコつけて飛べよ、クリスタ』
導かれるように、行手にぽつぽつと木漏れ日が光る。そして、一番奥の方に眩い光の塊が現れた。クリスタはその光の塊に向かって、飛び込むように小さな身体を空へ投げ出した。
余計な力の抜けた、怯えのない空中姿勢。
かわいい天使から、美しい女神への転身。
彼女の背に真っ白な翼が生える。
キース教官が待つゴール地点へ、クリスタは砂埃を上げて着地した。
「クリスタ・レンズ――5分55秒!」
教官の大声が響くと、固唾を飲んで見守っていた同期の女子がワッと沸いた。
「すごいですよ! 6分切るなんて!」
「さすが私のクリスタだ! やるじゃねぇか!」
「わわ! やめてよユミル!」
駆け寄ってきたユミルとサシャに、クリスタはすっぽり抱きしめられた。ユミルに乱暴に頭をなでられてぐしゃぐしゃになった髪のまま、クリスタは嬉しさがこぼれるようにあどけなく笑った。そしてきょろきょろあたりを見回して、お目当の人物を見つけると小さくピースサインを送った。
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同期一の美少女が自分だけに合図を送るというのは悪くない。というか、かなりの優越感だ。
好成績がよほど嬉しかったのだろう。ジャンがピースサインに片手を上げて応えると、クリスタはますます嬉しそうに笑った。
……なんか今の俺、めちゃくちゃカースト上位だな。
「おいおい。どういうことだ? 俺の目が悪くなけりゃ、天使が馬に微笑みかけているように見えるんだがな!」
逞しい腕がジャンの首を拘束して締め上げる。その腕をタップして、ジャンが叫んだ。
「いってーな! マジで締まってんだよ! 放せよ、ライナー!」
「いいや。放すわけにいかねーな。お前とクリスタが、一体どういう関係か白状するまではな!」
「何にもねーっつの!」
「ほう。モテ男気取りとはいい度胸だ」
ライナーはチョークスリーパーを決めたままのけぞる。ジャンの体重で上手いことバランスを取って、ほぼ90度に曲がっているところが素晴らしい。感心した様子のコニーが、プロレスの解説者のようにマイクを向けるジェスチャーをした。
「おお〜っ! 良い技決まってんな。さすがライナーだぜ! ちなみに技名はなんですか?」
「キルシュタイン・クラッシャーだ」
「クーーーーーール!」
「ぶっ殺す。今すぐやめねーとぶっ殺す」
酸素不足で真っ赤になったジャンがようやく解放された。
この糞ゴリラ! 誰のために俺が苦労してると思ってんだ! 別にお前のためじゃねーけど!
痛む喉を抑えて、ジャンは言った。
「本当にクリスタとは何もねーよ。立体機動のレベルがあんまり低すぎるから、練習に付き合ってやっただけだ」
「そんなデカい声で言うなよ。睨まれてるぞ」
「そうかよ。自分でも心当たりがあるんなら、まだ救いようがあるぜ」
実際、クリスタの立体機動の成績は悪くはなかった。訓練兵としては及第点。つまりクリスタ以下の腕前の奴らが、うようよいるということだ。一部の同期から胸糞悪い視線を感じて、ジャンは歯噛みした。
俺の嫌味ぐらいでイラついてるんじゃ話にならねェ。近いうちに巨人に喰われることも知らねーで、どいつもこいつも腑抜けてやがる。
未来を知っている者と知らない者の温度差。過去のジャンがそうであったように、巨人と真っ向から戦う日が来るとは、誰も本気では思っていないのだ。しかし、このままではダメだ。ライナーたちの説得が失敗に終わった場合、犠牲者が多数出ることは避けられない。なんとか104期全体の立体機動レベルを底上げしなければ。しかし、クリスタ以外の誰がジャンの指導についてこれるだろう?
クリスタの場合、命の恩人というアドバンテージを使って、かなりスパルタに立体機動の技術を叩き込んだ。いくら命の恩人といえど、ヘトヘトになった訓練後、同期に上から目線で指図をされて素直に従える者はそういない。文句も言わずについてきてくれたのは、クリスタの人柄があってこそだ。普通の同期じゃ途中でキレられるのがオチだろう。
俺の技術は調査兵団で培ったもんだ。素直に言うことを聞いてりゃーレベルアップは確実なんだが……。奴らにしてみれば、ただの同期が偉そうにと反発するに違いねェ。つーか、俺の好感度が低すぎんだよ! せめてもう少し人望があれば――!
八方塞がりの事態に、ジャンは密かにため息をついた。
まあ、それはそれとして……だ。
ちらりと横目で見ると、ライナーは「喜んでるクリスタは格別にかわいいな」と真顔で呟いていた。
ライナーに関しては今晩にでも第一の手を打つ予定だ。が、せっかく来た流れ……ちょっと踏み込んでみるか。
ジャンは慎重に言葉を選んで、ライナーに話しかけた。
「そんなにクリスタが好きなら、デートでも誘ってみりゃいいじゃねーか」
「いや、今はそういう空気じゃないだろう」
「そうだぞージャン。それぐらいバカな俺でもわかるぜ」
「どういう意味だよ?」
ジャンはライナーに尋ねた。
「周りを見てみろよ。訓練兵も今年で終わりだ。もうすぐ三年間の結果が出る。いわば追い込みの時期ってやつだな。呑気に恋愛できる雰囲気じゃないだろう」
「最近すげーピリピリしてるもんなあ」
コニーが相槌を打ち、ライナーが頬を染めて続ける。
「まあな。もう少し良い空気があれば、俺だってなあ……」
思春期の頃。思考を左右するのは、何よりも周囲の環境だ。みんなが持っているモノはとりあえず欲しくなり、流行っている言葉は使いたがり、カッコいい斬撃姿勢があれば無意味にくるくる回ったりする。そして、恋愛もまた然り。友達に彼女ができれば羨ましいが、そうでなければ意外とどうとも思わない。むしろ恋愛をしない空気の中で、自分だけが浮かれるのはとてつもなく恥ずかしく「別にあいつのことなんか好きじゃねーし!」と強がるのが定石だ。恋人など作ろうものなら、どこぞのバカ夫婦のように冷やかされるだろう。
なるほど環境か……考えたこともなかったぜ。つーことは? こいつは恋愛OKな雰囲気がないと何もしねーってことか? どんだけめんどくせーんだよ繊細ゴリラ!
「ああああクソが!」とジャンが崩れ落ちる。
雰囲気ってなんだよ⁉︎ 恋愛ムード漂うハッピー訓練兵団でも作れってか⁉︎ 無理だろ! ふざけんな! 俺は一体何人のキューピッドやりゃいいんだよ! まだ誰のキューピッドにもなれてねーっつのに! ……だが、これはライナーだけの問題じゃねぇ。ベルトルトやアニの今後にも大きな影響を与えるはずだ。可能性なら早めに手を打たねーと……。
ジャンが苛立ち紛れにガシガシと頭をかきむしった。すると、わざとらしい大声が耳に入ってきた。
「成績上位のジャン・キルシュタインは、余裕があって羨ましいよなあ。恋バナなんてしちゃってよ」
「成績なんてどうでもいいとか言ってたくせに、今回の試験も二位だろ? 何のアピールだよ」
いつ開拓地送りになっても不思議じゃない、落ちこぼれ集団。訓練兵時代、何かと鼻につくジャンを憂さ晴らしの対象にして、よく突っかかってきた面倒な奴らだ。いつもならスルーしていた安い挑発も、太陽光の似合わない薄暗い顔ぶれを見て、ジャンの頭にふと光が灯った。
「あんな奴ら相手にするなよ。――って、オイ!」
制止するライナーを無視して、ジャンは一直線に向かった。悪人面をニヤつかせて近付くと嫌な予感がしたのか、奴らが後ずさった。ジャンは飛びつくように肩を組んで、リーダー格らしい二人を捕まえる。
「何すんだよ!」
「まーまー、今までのことはお互い水に流すってことで」
「はっ⁉︎ 馴れ馴れしいんだよ! テメーのそういうところが嫌いなんだ!」
「俺の話を聞けって! お前らにとってもかなり良い話だと思うぜ?」
そもそも正攻法で行こうとするから無理が出るんだ。運命に逆らう気なら、ちょっとばかしズルい手も使わねーとな。