白銀家は家計が厳しい家である。父親の職の失敗により多額の借金を抱えており、その上で2人の子供の学費を含めた3人分の生活費が求められる。父親の現在の職業は不定。収入があるのは事実だが、決して安定したものとは言い難いのが実情だ。
家の間取りは1LDK。ひとり暮らしを想定したもので、2人での生活もできなくはないかといった程度の広さ。私室をブラインドカーテンで仕切ることで、御行の部屋と圭の部屋が擬似的に確保されている。父親に部屋はなく、寝る時に布団をリビングに敷いている。
そんな生活をしている白銀家にゲームといった娯楽類は無縁に近い。御行は生徒会室で時偶石上と遊ぶ程度。圭も似たようなものだ。家計簿をつけている圭も倹約家で、漫画も基本的に買わない。
「うぅっ……」
そんな圭が漫画をまとめ買いした。最近話題になっている少女漫画を買ってきた。事前にあらすじや試し読みをしてからの判断。衝動買いではないという建前を用意したが、衝動買いに近かった。陽の退院もあり、気が緩んだのだろう。
それをリビングで読んでいた圭が、涙をぽろぽろと溢しながらテーブルを見つめる。
「どうした圭ちゃん!? 学校で嫌なことあった!?」
そんな妹の姿に当然兄の御行は反応する。自身の経験上、秀知院という場所の悪い面も知っているから、そこを心配せずにはいられない。
しかし見当違いだ。いじめはなくなっているし、生徒会のガードが硬い。
「違う! この漫画がもう泣けて泣けて」
「なんだ漫画かよ」
「馬鹿にするなら読んでみなよ! お兄も泣くから!」
「俺もう高2だぞ」
あまり漫画を読まない。しかし漫画が嫌いなわけじゃない。好きな部類ですらある。現実的であれ、非現実的であれ、キャラたちはそこで生きているのだ。世界観に引き込まれることもある。
反抗期でもある圭は、兄に泣き顔を見られたことに思うところがあったようで、漫画の1巻を押し付けて部屋に移動した。これから風呂に入るために、着替えを取りに行く必要があるから。
(……圭ちゃんがああなるぐらいだし、読んでみるか)
愚かな行動とはどういうものか。いくつか挙げられるだろうが、御行は「知ろうともせずに決めつけること」だと考えている。底知れぬ努力家である御行の最大の武器は学業面。それは言わば知識。知識を武器にするものにとって、未知のままにして遠ざかるという選択肢はあまり取れない。生理的に受け付けないものは例外だが。
圭が風呂場に行くのを背中越しに気配で感じながら、渡された漫画を読んでいく。『今日はあまくちで』というタイトルの漫画だ。少女漫画というジャンル。恋愛面に注目して書かれることが非常に多い。組み合わせとしては、青春学園モノが多いか。
(こういう話か。ふむ……)
読むスピードは速い。高等部の生徒会の仕事量は殺人的。それを1年間捌き切り、時折ある校長の無茶振りも達成してきた御行の速読は、常人では理解できない速さだった。周りからすれば、パラ読みにしか見えないだろう。
読み終われば次の巻に手が伸びる。それも読んだらまた次へ。
見事なまでに御行の心は『今日あま』にハートキャッチされていた。慢心王も一瞥するくらいには鮮やかなハートキャッチである。世界観に引き込まれ、次の展開を考える余裕もなく没入していく。その手は止まることを知らない。
だが、ある箇所から読む速度が遅くなった。
そしてついにその手が止まる。
「うわぁぁぁぁん!」
「ほれ見たことか! 泣いちゃうでしょ!」
「アホお前こんなん泣くわ!」
「恋……したくなっちゃうでしょ?」
「したくなっちゃうわ!」
御行の反応に満足した圭が、浴室のドアを閉める。髪を洗ってる途中でドアを開けるなとか普段なら言いそうなものの、『今日あま』に沼った御行はそれどころじゃなかった。
(恐るべし少女漫画……! これをなんとか活用して……ん?)
四宮かぐやにこれを読ませることで、少女漫画脳にさせることはできないか。すぐに作戦の組み立てへと思考を切り替えているのは流石の一言であり、それによって先程の妹の様子に引っかかりを覚える。
恋というワードを出した時、妙に恥じらっていたように見受けられた。年齢を考えれば、思春期が始まっている頃合い。恋愛という存在自体への認識が、高校生の自分とは違うということも考えられる。性差による捉え方の違いもあるかもしれない。
それを踏まえたとしても、プライドの高い妹がだ。反抗期である妹が、あのようなピュアな様子を見せるだろうか。
「パパきた産業」
「変に間違えて使うなよ」
「どうした御行。いつもより辛気臭い顔して」
「失礼な親父だなぁ! いや、ちょっと気になることがあって」
「生理か」
「ちげーよ! 俺男だぞ!?」
「男にも生理はあるぞ」
女性ほどしんどいものじゃないため、全く気づく事なく日常を送れているだけだ。
「いや、ちょっと圭ちゃんがな」
「ようやく気づいたか」
「っ! 親父は気づいてたのか」
「当然だ。お前たちの父だぞ」
子供たちのことも当然気にかけている。共にいる時間こそ少ないが、だからこそ些細な変化も見逃さぬようにしている。
父親は御行と向かい合うように座り、ゲンドウポーズを取って真剣な顔をする。御行もそれに合わせた。真剣な話し合いとなるとこうなってしまうのは、親子の血の宿命だろうか。
「圭は反抗期だ」
「……」
チラッと風呂場を気にしながらそう言った父親に、御行は豆鉄砲を食らったような顔をした。
父親の言葉が脳内で反芻し、正しく噛み砕き、理解する。
「知ってるが!?」
噛み合ってなかった。父親は分かっていなかったようだ。
「そうじゃなくて! 圭ちゃんに好きな子ができたかもしれないって話なんだよ!」
「ほう。ということはあれだな。娘は渡さんってやつができるな」
「なんでそれを期待してるんだよ……。楽しそうだなぁ!」
「父親になったらやってみたいイベントの1つだろう」
授業参観だったり、入学式やら卒業式やら。学校イベントは主だが、それ以外だとやはり恋愛面になる。彼氏の壁になったり、結婚式だったり。親にならないとできないことはあるし、それが楽しみだったりしている。
「まず、何をもってそんな話になってるのかだが……、少女漫画か。それで繋げるとは影響受け過ぎじゃないか?」
「……でも圭ちゃんの反応がさ」
「圭が出てきたら聞けばいい。それで分かることだ」
そんな直球で聞けるわけないだろと言いかけたが、それがギリギリ喉のところで止まる。この親ならそれくらいやるんだろうなという嫌な信頼感があったから。
「圭を待つとして、この漫画そんなに面白いのか?」
「うん? あぁ、俺も疑ったんだが、読んでみると思いの外面白かったな。圭ちゃんが薦めてくるのも分かる」
「ほう」
「親父も読んでみたらいいんじゃないか?」
「これを読んで過ぎ去りた青春を思い出しながら妻のことを想えと? 生憎だが他の女性が付け入る隙間は用意してないな」
「そんなこと誰も言ってねぇよ!」
今でも1ミリの隙もなく別居中の妻のことが好きらしい。一途と言えば聞こえはいいが、妻の方からは離婚届けを送られてきている。判子を押さないからまだ離婚していないだけだ。
「何を騒いでるのかと思えば、帰ってきてたんだ」
入浴が終わり、寝間着を着た圭が声をかけた。無視しようかとも思ったが、夕飯はこれからだ。どのみち顔を合わせるなら少しくらい声をかけるというもの。それが父親に用意された罠であるとも知らずに。
「圭。好きな男でもできたのか?」
「は……はぁ!? 何言ってんの!?」
「この反応はどっちだ」
「怪しい方だな」
「少女漫画読んだからって変な干渉して来ないで」
「干渉というか疑問なんだが……」
「男ができたなら連れてきなさい。どんな子か見てみたい」
「だからそういうのじゃないってば。あとパパには絶対会わせたくない」
会わせたとしても、変なことを言い出しかねない。想像してみただけでもなかなかに強烈な絵面が出来上がってしまった。結婚とかになれば、もちろん相手には挨拶に来てほしいとも思うが、その時は覚悟を決める必要がありそうだ。
単刀直入に聞いてみたが、取り付く島もない。少し怪しい気もするが、これ以上の追及は控えるべきだ。部屋の中へと消えていく圭に、父親はやれやれと首を振った。
「駄目だったな」
「そりゃそうだろ」
「圭が言ってこないなら俺も触れないが」
お前はどうするのだと視線で問われた。御行は少しだけ考える。
気にはなるが、周りから変に関われるのが鬱陶しいことに理解もできる。身内ともなれば尚さらに。
だが、白銀御行は家族想いの男子である。シスコンとまではいかないが、妹のことは当然好きだし、だからこそ母親代わりに口煩くなることもある。
考え抜いた結果、圭にバレないように軽く探る程度に留めることにした。
「会長が漫画持ってくるなんて珍しいですね」
「妹に薦められてな。思いの外面白くて、せっかくだからみんなもどうかと思ったんだよ」
「なるほど」
翌日、自分の作戦と並行して圭の周りを探るために行動。かぐやに『今日あま』を読ませることは簡単ではない。そこで、周りの人が読んでいたら、かぐやにも簡単に話を触れると考えた。
漫画やゲームが好きな石上が、御行に薦められたものを読まないわけもなく、パラパラと読みすすめていく。石上もまた、速読ができる人間である。
そして彼もまた、御行のように轟沈。
「あー! 今日あまだー!」
そんなことをしていると、生徒会の抱える核弾頭こと藤原千花が、かぐやと共に生徒会室に入ってくる。かぐやは漫画のことに触れながらも、御行の様子が少しだけいつもと違うことを見抜いた。
「会長。どこか具合でも悪いのですか?」
「いや、いたって健康だが」
「そうですか。では何か悩み事でも?」
「悩み事……というのかは微妙だが」
圭がかぐやから下の名前で呼ばれるようになったことは、圭本人から聞いている。ならば、かぐやに話を聞いてみるのもありかもしれない。思い返せば、石上も中等部に足を運んだことがある。そちらの生徒会とは面識があり、何か思い当たるものがあるかもしれない。
問題は千花だ。圭との関わりが、御行の次に長い人物であることは事実。何か知っているかもしれない。だがそれが藤原千花という少女であることが、御行の判断を悩ませる。
「藤原書記。席を外してくれないか?」
「えぇー! なんでですかー! 私だけ仲間外れは嫌ですよ!」
「お言葉ですが会長。藤原さんはこれでも口が固い人です」
「これでも?」
「私が友人と言える数少ない人ですから、信じていいと思います」
「……四宮がそう言うのなら」
「かぐやさんありがとうございます~! これ絶対面白い話だから仲間外れは嫌だったんですよー!」
擁護しなければよかった。かぐやの目がありありとその心境を物語る。しかしもう撤廃はできない。腹を括るしかないのだ。御行と石上は、今後自分の事で何かあれば、千花に悟られないようにしようと断固たる意志も固めた。
「中等部の方で気になることがあってな」
「事件がありましたからね。被害を受けた子は退院したと妹から聞いてますよ」
「そこは一安心なのだが、それが起きた事自体異常というか……」
「被害を受けた小野寺くんですが、高い人気を持ちつつ、嫌われる相手からはとことん嫌われるようで。積もりに積もった不満が今回の件に発展したのではと見られていますね」
「うーん、僕も彼とは面識ありますし、四宮先輩の言う面も否定できないって印象でしたね。いい人ではあると思いますけど」
「あれ? もしかして俺以外面識ある?」
部活連での会議に御行が出席している間に、御行と伊井野以外のメンバーは顔を合わせている。かぐやは夏休み中も会っており、石上は一度中等部に呼ばれて足を運んだ。
「皆さん何の話をされてるんですか?」
「ミコちゃんお疲れ様~。今ね、中等部の生徒会長の話ししてるんだ~。ミコちゃんは会ったことある?」
「えっと、たしか小野寺陽くんでしたよね。はい、面識あります。ブラックリストの1人です」
「ブラックリスト!?」
「彼は娯楽部という部に入ってまして、それが風紀委員としては相性が悪くてですね。廊下も走ったりしてましたし」
「TG部に近いものを感じるな」
「私たちは廊下を走ったりなんかしませんよ!」
「そうですよ! 藤原先輩たちはギリギリに際どいところを付いてくるから厄介なだけです!」
「ミコちゃん?」
話がTG部へと変わっていきそうなところで、一度話を切る。どうやら伊井野も面識があるようで、やはり会ったことがないのは御行だけのようだ。今のところ想像できる人物像があやふやである。
「生徒会長としては優秀な子ですよ。去年度の体育祭と文化祭が例年以上の盛り上がりをしたそうですし」
「そうなのか?」
「たしかに盛り上がってましたね。体育祭だと文化部の人間とかが忌避しがちですが、そこの人たちですら楽しめてましたから」
「凄いな」
「そういうとこだけは良いんですよ。そういうとこだけは」
「伊井野とは相性悪いのか……」
「会ってみますか? 会長」
ここでかぐやがファインプレーを見せる。御行の目的は、圭が惚れているかもしれない相手の特定及びその調査。だが、それを焦る必要はない。中等部で生徒会長をしている人間なら、同じ生徒会にいる圭のこともより知っていると見ていい。会う価値は高い。
「頼めるか?」
「はい。少々お待ちください」
かぐやが鞄から徐ろに携帯電話を取り出し、全員の視線が集まるのを首傾げながらアドレス帳を開く。あ行の欄の一番下にある名前を選び、迷わずに発信ボタンを押した。
「かぐやさん連絡先交換してたんですか!?」
「え、えぇ。彼は一時期別邸に住み込みで働いていたので」
「どういう状況!?」
(四宮と同じ屋根の下だと……!?)
知らなかっただとか、風紀の乱れやらと騒ぎ立てられる中、電話相手である陽の声がかぐやの耳に入った。向こうも生徒会室にいるようだ。圭や萌葉の声も聞こえてくる。
「小野寺くんお久しぶりです」
『お久しぶりです。先日はお世話になりました』
「いえいえ。大したことではありませんよ。お体の調子はどうですか?」
『完治はまだ先ですが、日常生活を送る分には問題ないです。体育ができないのは残念ですね』
「あなたにはいい薬でしょう」
早坂の調査結果はかぐやも聞いている。今が骨休めとなることだろう。
『今日はどういうご用件で?』
「実は、うちの白銀会長が小野寺くんと会ってみたいそうで、そのセッティングを私がしているのですよ」
『……なるほど?』
電話をしながら陽は気づかれぬようにチラッと圭を見た。反抗期である圭が、自分と兄の会合をどう捉えるか。直感的に察せられてはいけないと気づき、そのスリリングにニヤッと笑った。
次回に続きます