産まれる前のことである。私はわだつみに出逢ったことがある。
※
そのとき、見渡す限りの黒い水の中を、私は彷徨っていた。感覚はおおよそおぼろげだったが、わかったこともある。その場所は酷く冷たく、とても静かで、見当もつかないほど深く、そして何より圧倒的に重たかった。一天地六すべてを閉ざされて、けれども私は不思議と安心の中にあった。時は完全に静止していた。私も含めて、そこに生命は一切存在しなかった。魚影さえない。何もかもが曖昧で、長閑で、だから思うまま私は寛げた。
思い患うことは何もない。
そのまま思考することもなく私は存在し続けた。退屈に倦むことも静寂を苦にすることもない。まだ生れ落ちていないのだから、そうした苦吟とは無縁である。
水底に流れはなく、停滞と浮遊は同義であった。私は澱の一部としてそこにいた。恐らく永遠にそうであることを疑いもしていなかった。
それが単なる妄想でしかなかったことは、程なく理解できた。
どんなときだったかは知らない。何が起こったのかも分からない。突然であった。前触れは何もなかった。唐突に、一色だった世界にひび割れが走った。水に動きが起きた。殻を割るように歪な線が遥か遠くで滅茶苦茶に軌跡を刻んで、私の知らない色が何条も迸った。その後に奔流があった。ただ停滞することしか知らなかった私は初めて知る力のベクトルになす術もなく流された。
そのとき、眼にするもの全ては趣を変えつつあった。歪んだ白色が幾重にも綾なして温度のある光を水の中に落とした。かと思うと大量の泡沫が群れを成して水中に屹立し、海溝全てに響き渡るのではないかというほどの震えを起こした。
それは力だった。たぶん暴力と名付けられてしかるべきものだった。そして私は、そんな概念を知らなかった。存在が始まってからその時に至るまでの情報量全てを上回る入力に晒されて、私はされるがままになった。間断なく訪れる衝撃に揺られ、流され、ついには自分が元いた場所さえ見失い、光に誘引された。
光と衝撃に近づくにつれ、そこには水以外にも忙しなく動くものがあることに気がついた。それが命であることと、根本的に私とは形質を異にするものであることにも気がついた。それらが何か身振りをするたびに、泡が何重にも水中に軌跡を刻んだ。大きな震えを作って回った。私がここにいることにも、私の心の安寧を打ち砕いたことにも、それらはまるで頓着していないようだった。
私はもしかしたら憤懣を覚えたのかも知れない。だが感情の銘さえ知らない身で、怒りを顕すことなど出来ようはずもない。文字通り手も足も口もない存在では、ただ視ることしかできない。私はひたすらそれらを視続けた。すると、ほどなく色々なことに気がついた。それらは単なるものではなく、ばらばらに存在し、存在同士はふたつの群れに分かれているようだった。ふたつの群れは互いに威力を交換し合っていた。互いに互いだけを見つめていた。
争っている、と私は感じた。
群れは個により形成されていた。その個は私が時おり見る息絶えた魚影とはまるで違う形をしていた。あるいは似ている箇所もあったのかも知れないが、同じ存在には思えなかった。とにかく魚とは違う。であれば、何なのか。私は知りたいと思った。心から願った。
惹かれた。
そう感得した瞬間に、私は自意識を得た。『私』が急速に象られ始める。私は『体』を得る。私は『個性』を持つ。私は分散し、たゆたう私ではなくなる。私に繋がる無数の根の存在がふいに感ぜられた。急激な知識が私の中に忽ち流れ込んだ。目前で相争う
海の深くから来た彼女らは深海棲艦といい、
海の向うから来た彼女らは艦娘という。
※
「選べ」という声がする。
※
私は彼女に同期する。
※
彼女は息を止める。熱を殺す。意を消し身を伏せる。そして耳を済ませる。願えば鼓動さえ停まる。そう信仰する彼女は胸の奥底にある恐怖を忘れない。先任の艦艇は彼女に言った。臆病さを決して忘れず飼いならすことが生き残るコツだ――冷え切った体の最も深い部分に、誰にも感知し得ない火が宿る。凍りつきそうな水底で、その熱の無い火は彼女にとっての道しるべになる。
水上では既に砲雷撃戦が開始されている。激戦である。彼女自身も会戦と同時に魚雷を放ち、即座に潜行した。追跡は振り切った自信があった。けれども油断は出来ない。緩んだ意識の間隙に死神は潜んでいる。この冷たく暗い海底で、仮に一撃を受ければ二度と日の目を見ることは出来ない。完全な隠行を期しながら、彼女はひたすらに出番を待つ。止め続ける呼吸に苦はない。必要なら彼女はいくらでも息を排することができて、そんな自分に少し呆れるときもある。ただ今は何も感じない。考えない。彼女はただ機を待つ装置になる。それでいて変に応じる人でもあり続けなければならない。待つことを退屈に感じる感性は一時的に陸に置いてきた。
彼女は、今や完全な潜水艦である。
だが、誰もが最初から完全な潜水艦であるはずもない。この日の旗艦がまさにそれだった。鯨のため息すら聞き逃すまいと神経を研ぎ澄ます彼女の聴覚が、方位130度に騒音を捉える。胸騒ぎに襲われ、しかし静かに回頭する。
彼女は目を瞠る。
騒音の主は友軍であった。今日の作戦において旗艦を務める後任潜水艦である。水中にあって視覚はほぼ用を為さないが、動きのぎこちなさから彼女は後任の状態をすぐに悟った。後任はすでに手傷を負っている。開幕早々の雷撃後、離脱に遅れて一撃を貰ったに違いなかった。それはまだよい。だが今もってなお音を殺しきれていないのはいかにもまずい。潜水艦にとって装甲などあってないようなものである。だからこそ一撃離脱と速やかな潜行、しかるのちの隠行が必須の技術となる。だが後任のシークエンスはまだ完了していない。五月蝿いというほどではないが、後任はこの地獄のように静謐な海中において少しばかり音を立てすぎている。
――
感、
を捉えると同時に怖気が背筋を走り、彼女は後任に向けて動き始めた。頭の中で機械的に数字を刻み始める。(いち、)敵性艦からの
届く。
敵の雷撃も届く。彼女は接近に目を剥く後任の襟首を捕まえる。泳ぎきった余勢を駆って目視できようはずも無い魚雷の影を睨みやる。彼女の経験則に裏打ちされた
衝撃が、まず前方で弾ける。鼓膜が莫迦になる。中耳が揺れ見当識を失う。海中で唯一用を為す感覚器である耳を失うことは、ほぼ両手足をもがれることに等しいことを彼女は知っている。それでもただ本能だけで足を動かす。腕を動かす。
それが裏目に出る。
次は直撃だった。左腕にまともに衝撃が伝わった。痛みよりもそれは痺れに近かった。だが痛みに意識を割けば、次は痛みを感じることもできなくなる。意識を繋ぎとめる痛痒を僥倖として、彼女はただ祈るように水中を往く。雷撃は次々と彼女を追う。左、左、右、右、右、左、右、と彼女は拍子を取る。
同時に観測を続け、友軍に通信を続ける。
(……、
断続的な致死の水雷の気配を避ける。もはやまともに回避が出来ているのかどうかも解らなくなる。この痛みも恐怖も勇気も何もかも朽ちた己が水底で見る夢だとしても不思議ではない。肺から引き絞った苦悶が泡になって溶けて消える。(あ、だいじょぶだ)と彼女は思う。(わたしいきてる)と思う。空元気を振り絞る。五体のいずれかが動くうちは決して生存を諦めない。それが彼女が幼い肢体の髄まで叩き込まれた
いつしか、雷撃の雨が止む。状況はわからない。電信が奏効してしつこい敵を友軍が沈めたのかもしれない。敵艦が彼女を見失ったのかもしれない。あるいは彼女はとうとう轟沈したがそのことに気付いていないだけかもしれない。
彼女は海底に身を伏せる。
斃れたのではない。牙を剥くための予備動作である。今度こそ、完全に存在を殺す。彼女は水であり、砂であり、闇そのものになる。自分を液体として捉え意識を溶かしていく。万雷の拍手のような音が左側で轟き止まない。鼓膜が破れているのかもしれない。体中に痛みのない部分はなく、それを彼女はかろうじて喜ぶことができる。痛みの中で、彼女は仲間の無事を、健闘を祈る。
実際的には数刻、体感的には悠久にも近い時間が過ぎる。
(――ソナーに)
深い、
長い、
(感あり――)
夜が来る。
彼女はその赤い髪を華のように水に咲かせて、稚い顔に似合わぬ獰猛な笑みを浮かべる。
そこでようやく、随伴する
「――仕留めるわ」
彼女が放つ火砲は水底からきれいな線を引いて、夜闇に赤い花を咲かせた。
※
「とゆーことがあったのです」
饗された茶を喫しながら、私は一通り語り終えた満足感に息をつく。得意顔で目の前のヒトを見やる。
「そうか」
と応じたこのヒトは、艦娘ではない。提督と呼ばれる存在である。艦娘ほど我々に近くは無いが、ただのヒトと言うほど遠くもない。微妙な位置にいるヒトであり、私にとっては面白い存在である。だが向うにとってはそうでもないようで、突如鎮守府に現れるや否や執務室を訪れ、茶を要求し唐突な自分語りに入った私をいわく言いがたい顔つきで見つめている。持て余しているらしい。
「察するに」
と、提督は言った。
「貴様が見たのは潜水艦の艦娘だな。それも相当な錬度と見た。残念ながら、この鎮守府にはそこまでの古株はいないぞ」
「ああ、それは心得ています。あれが未来だか過去だかはわかりませんが、あの出会いは一種の奇跡のようなものでしょう。このうえあの娘との再会を望むような欲目は抱きません」
「はあ」
提督は眉を寄せる。ますますワカランとでも言いたげだった。
「ではなぜ我が鎮守府に?」
「いや、せっかくこうして妖精と生まれたからには、近場のヒトに挨拶でもと思った次第」
「挨拶などされても困る」提督は直截的だった。「だいたい妖精など、突然湧いたり増えたりする無秩序で無節操な存在ではないか。建造したい艦艇も開発したい艤装も融通利かせてくれないし、そんなものだと諦めてもいる。彼らの中に貴様のようなものがいるというのも驚きだが、なんだ、私に何かを求めているのか」
「簡単なことです」
提督を真正面から見据えながら、私はいった。
「私をこの鎮守府で雇っていただきたい。艦娘の艤装要員として」
「なぜ、と聞いても?」
胸を張り、答えた。
「私もかんむすをリョナりたいから!」
目にも止まらぬ速度で、眼前の提督の腰から軍刀が引き抜かれ、光が閃いた。気がつくと私の顔面に触れるや否やというところに切っ先が静止している。白刃の冷たさはあの水底とは別種の、しかし恐ろしい冷たさを持っていた。
「妖精も切れば刀の錆になるのか、試してみようか」
「まあ待ちなさい。暴力に訴えたところで何も解決はしません」私は心から説いた。「提督、なにも私はいたずらに艦娘を痛めつけたいというわけではないのです。確かに泣き顔とかそういうのを見たい気持ちがないとはいいません。しかし何よりも、私は彼女らの持つ不屈の精神こそ尊いと思うのです。痛みに耐え、いよいよという段で踏み止まり敵を海に還すあの凄絶な色気が……ベリーエロい」
「貴様は頭がおかしい」
「わかってもらえず残念です」
「まあ、あの子らの教育上宜しくなさそうなので、死ぬかはわからんがとりあえず死んでもらおうか」
提督は改めて刀を振りかぶる。その目には紛うことなく本気が宿っている。あの海で私が深海棲艦と艦娘とに見出したのと同じ妥協の無い殺意である。ビューティフル。これにやられるのであれば、それも仕方ないのかもしれない。
「残念です」と、私はもう一度繰り返した。「少しは見返りもご用意できたのですが」
「そうか」と、提督はいった。「うたうだけ歌ってみろ。私の気も変わるかもしれん」
「羅針盤を操作できます」
「末永くよろしく頼むぞ、戦友!」
※
こうして私は、羅針盤妖精兼演習専用艤装妖精として、就職を果たした。