七月の終わり。梅雨は終わって、ジメジメとした毎日とおさらば。と思いきや待っていたのは灼熱。
学校もとっくに夏服を解禁して、周りはみんな半袖になっていた。
そして、アイドル活動を初めて一ヶ月が経った。
レッスンには慣れてきて、体力もついてきた……と思う。まだ難しいダンスは踊れないけれども、基礎的なものはできるようになった。トレーナーさんも上達を認めてくれたのか、別の教材をくれた。
平日のレッスンは短く、すぐに終わってしまうけれど、今までよりずっと長くみんなと一緒にいられるのだから、不満などない。
今日はプロデューサーさんから呼ばれていたため、みんなと一緒に帰ることはできなかったけれど、それでも毎日楽しいし、歌もダンスも楽しい経験ができている。
「小糸おつかれ」
「ぴゃあっ!?」
事務所の居間――事務机とソファーが置いてある場所をそう呼ぶことに決めた。その居間にプロデューサーさんがいなかったため、探していると背後から声をかけられてびっくりした。
「ごめん、驚かせちゃったかな」
「い、いえ……」
プロデューサーさんは頭を掻くと、申し訳なさそうに続ける。
「この前の書類、ありがとうな」
「は、はいっ……あの、何か間違ってましたか……?」
プロデューサーさんから書いてくるように頼まれた書類。同意書とか、親の確認書類とか。
もちろん、親に言うわけにもいかず、自分で書いた。筆跡が分からないように、自分のものとは分けて、少し崩して。判子を押す場所はお母さんがいない間にこっそり押した。
いけないことをしている自覚はあったけれども、だからといっていまさら引くこともできない。
「いや、不備はなかったよ」
それを聞いて一安心。したのもの束の間、ではなんで呼び出したのかという疑問が浮かぶ。
「でも、一応ちゃんと挨拶しておこうと思ったんだけど……やっぱり難しそうか?」
「…………はい」
プロデューサーさんにはお母さんは仕事で忙しくてほとんど家にいないと説明している。半分嘘で、半分は本当。なんなら今から家にいけばいるだろう。
「まあ、同意書も出してくれてるし、また機会があれば教えてくれ」
「は、はい……」
最近、嘘をつくたびに息が苦しくなる。
アイドルを始めてよかったとは思っているけれども、純粋に楽しんだり喜んだりができない。そういう感情が湧き上がるたびに、嘘をついているという事実が心を抑え込む。
「それと……」
それに、最近プロデューサーさんに疑われている……気がする。気づいているなら書類をそのまま受け取ったりしないだろうし、直接言ってくるだろう。
だから、プロデューサーさんが次に何を言い出すのか、どうしても警戒してしまう。
「こんなオーディションが今度あるんだけど、受けてみるか?」
そう言って事務机から取り出してきた紙には、でかでかと「番組オーディションの案内」と書かれていた。
紙を受け取って詳細を見てみると、ラジオ番組でエンタメ界の新人を取り扱う番組らしく、その選考……オーディションがあるようだ。日付は今週末の土曜日。
「本当は四人で出てほしかったんだけどな。流石に断られたよ」
いつか来るとは思っていた。でも、こんなに早いとは思っていなかった。
アイドルなのだから、人気が出ればテレビに出たりすることも増える。そうなれば親に知られるのも時間の問題とは思っていた。でも、それくらい人気になればお母さんもきっと認めてくれると思っていた。
小さな仕事でも、その危険を負うことになるとは想像していなかった。
かといって、断るわけにはいかない。人気を出すためにはきっと必要なことで、通らなければならない道のはず。ラジオ番組ならお母さんが聴くこともほぼないだろう。
それになにより、プロデューサーさんに選んでもらったことが嬉しかったから。その期待を裏切りたくなかった。
「は、はいっ。任せてください!」
プロデューサーさんに気づかれないように、みんなと一緒にいるために、自信を持ったふりをした。
「ありがとう。頑張ろうな!」
◇◇◇
翌々日。オーディション当日。
オーディションは昼からだけれども、朝にプロデューサーさんと最後の打ち合わせを行うことになった。
行きはプロデューサーさんの運転で連れて行ってもらう。帰りは一人で。
ディレクターさんはオーディションでも面白い人だから気軽に話すといいということ。
初めてのオーディションだから、合格することよりもどんな雰囲気かを見に行くつもりでいようということ。
でも、きっと最初で失敗したら、ずっと成功できない気がする。
そんな不安を抱えたまま、お昼ごはんを食べて、ラジオ局へとやってきた。
「それじゃあ、帰りは一人で大丈夫だよな?」
「だ、大丈夫ですって!」
最初の面接のときからなんとなく思っていたことだけれども、プロデューサーさんはやたらと子供扱いしてくる気がする。そりゃあ、プロデューサーさんみたいな大人からしたら高校生なんて子供なんだろうけれど、この心配はいくらなんでも、だ。
「はは、ごめんごめん。それじゃあ、いってらっしゃい」
いってらっしゃい。
その言葉を聞いたのは、何年ぶりだろう。
お母さんからは……もう随分と聞いていない言葉だった。
だから、違和感があって。でも不快なわけではなくて。
なんて返せばいいのか分からないまま、プロデューサーさんの車は行ってしまった。
それから「いってきます」と返せばよかっただけのことだと気づき、恥ずかしくなる。
恥ずかしさを紛らわすために、首を左右に振って気持ちを入れ替える。
「えっと……」
振り返ってただただ広いエントランスを見て、頭が真っ白になる。
プロデューサーさんは帰りのことばかり気にしていたけれど、こんな場所に来るのは始めてで、どこにいけばいいのか……。
「あ、受付……」
エントランスの一角に受付を見つけて、胸をなでおろす。多分ここで聞けば教えてくれるだろう。
「あの!」
「はい……ああ、オーディションの子?」
「そ、そうです!」
プロデューサーさんに教えてもらったように、とにかく元気に。受付の人が相手だろうと、ここにいる人はアイドルの福丸小糸なのだから。
「えっと、そこの突き当りを右に曲がると案内があるから、そこで待っていてくださいね」
「は、はい! ありがとうございます」
◇◇◇
「福丸小糸さん」
控室で待つこと十数分。控室の中には数人の人がいて、アイドルばかりかと思っていたら、お笑い芸人らしい人がネタ合わせをしていたり、ずっとトランプをシャッフルしている人がいたりと、ちょっとだけ驚いた。
その人たちもいなくなって、新しい人も入ってきてと、いろいろな人が見れて退屈はしなかった。
「は、はい!」
手を上げて立ち上がる。
「こちらにお越しください」
もう何度目かの定型文。何人もの人がこの言葉とともに出ていった。
そして、ここから先は知らない。
控室を出て、少し歩いたところで案内のお姉さんが止まる。
「こちらです」
お姉さんに一礼してから、扉の前に立つ。控室と同じ扉のはずなのに、なんだかすごく大きい気がした。その扉を、二回叩く。コンコンと軽い音が響いて、どうぞと声がしてから中に入る。
「よ、よろしくお願いします!」
中にいたのは二人のおじさん。
「はいよろしくね。えっと……283プロの福丸小糸ちゃん」
向かって左のおじさんは眼鏡を外して書類を読んでいる。
「えっと……ああ、アイドルなんだ」
「は、はい!」
「あはは、オーディションはこれが初めてなんだって? 緊張しなくていいからね」
右の人からかけられたその言葉に、胸の中の不安が広がっていく。
緊張しなくていいと言われる。つまりは、緊張していることが相手に伝わってしまっているということ。
それはきっと、素人っぽく見えたり、経験不足に見えているということ。
だから、できるだけ隠そうと思っていたのだけれど、一瞬で見破られてしまった。
「趣味は読書で……特技は勉強、ね」
それは、アイドルに応募するときにとりあえずで書いてあったもの。だからといって他になにかあるわけではないけれど、改めて言われるとなんの変哲もない、面白みのない内容だなと思ってしまう。
きっと本当はここで趣味や特技のアピールをするべきなのだろうけれど、何をすればいいのか浮かばなかった。
「ああ、ごめん。僕は構成作家の白鳥です。で、こっちの怖そうなのがディレクターの小島さん」
向かって右のおじさんが紹介を始めてくれた。助け舟を出されたようで少しみっともないとも思ったけれど、心の不安は少しだけ紛れた。
「怖そうって、白鳥くぅん。……やっぱり、そう見える?」
「ぴ……い、いえっ」
最初の印象は怖かった。あまりこっちを向かずに難しそうな顔をして書類とにらめっこしていたから。
でも、今の一言で印象は変わってしまった。怖そうに見えると言われて本当に悲しそうな顔をするものだから。
「はは、よかった。強面だからよく怯えられちゃうんだよね」
そう言うと小島さんは再び書類に目を落とす。
「実は僕も小島さんも、君と同じくらいの子供がいてね。どっちも勉強が大嫌いで」
「そ、そうなんですか?」
そう言う白鳥さんの横で、小島さんがうんうんとうなずいている。
「まあそういうわけで、勉強が特技っていうのはちょっと気になるんだよね。問題出してみていい?」
「は、はい!」
そう言うと、白鳥さんは部屋の横に置かれたホワイトボードを引っ張ってきて、何やら書き始めた。
「じゃあ白鳥くんが問題を書いている間に簡単な質問いいかな?」
「は、はいっ、大丈夫です!」
「小糸ちゃんは、アイドルをしてから一ヶ月ってことみたいだけど、どう? 楽しい?」
「はい!」
それだけは、即答することができる。
別に準備していたわけではないけれど、否定したくないし、否定されたと思われたくもない。
「みんなと……えと、ノクチルのみんなと一緒にいられるのは楽しいです。それに、レッスンも知らないことだらけで、毎日新しいことを教えてもらって、とっても楽しいです!」
言い終わる頃には、白鳥さんは席に戻ってきていて、うんうんと頷いてくれていた。
「うんうん、それならよかったよ。うちもそういう楽しんでる子を紹介したいからね」
ということは、回答としては間違っていなかったようだ。
それから小島さんは、ホワイトボードに目を向けて、ぎょっとする。
「ちょっと白鳥くん~」
ホワイトボードに書かれていたのは方程式。
その下には、グラフを描けと、いかにも問題っぽく書かれている。
「これ三年生の内容。小糸ちゃんまだ一年生だよ? もー、そういういたずらするのやめてあげなってー」
「あはは、ごめんごめん、勉強が特技なんてあるから、つい――」
解けた。
席を立ち上がって、ホワイトボードに向かう。
「え、あれ……?」
なにか声が聞こえた気がしたが、あまり気にならない。今はこの問題を解けばいいのだから。
数学はやり方だけ覚えてしまえば解ける。三年生までの内容は、もう終わっているから。
幸いそれほど難しくない。三次方程式のグラフ。
微分式を書いて、増減がゼロの場所……極値を調べる。それから極値の両端、その間での増減を調べれば、あとはそのとおりに描いたら完成。
「こりゃあ……」
問題を解き終わって振り返ると、小島さんも白鳥さんも表情が固まっていた。
「え、えと、あってます……か?」
「あ、ああ。ごめん、あってる……あってるよ。すごいね君」
「この特技は本物だわ」
解答があっていたことに安心すると同時に、褒められたことが嬉しかった。
「うん、ありがとう小糸ちゃん」
小島さんが立ち上がって言うと、白鳥さんも立ち上がる。
「結果は追って事務所に連絡するよ」
――あ、あれ。なんというか。
褒められて嬉しかったけれども、さっきまでの柔らかかった空気がなくなってしまった。
「は、はいっ!」
――なんだか、終わりの雰囲気……?
「あ、あの……もう終わり、ですか?」
その言葉に、白鳥さんと小島さんは顔を合わせて笑う。
そのあと答えてくれたのは、白鳥さん。
「あはは、話し足りない? まあ、次の機会に色々聞かせてよ」
その言葉は、もう終わってしまったことを意味する。
まだ全然アピールしていないし、きっともっと伝えないといけないことがたくさんあったはず。それを伝えずして終わってしまったということは……。
「あ、ありがとうございました……」
「うん、こちらこそありがとう。楽しかったよ。気をつけて帰ってね」
小島さんの言葉が、これが社交辞令というものなんだなと実感した。
そして数日後、事務所には番組オーディション合格のお知らせとともに、白鳥さんから謝罪の連絡が入っていたことをプロデューサーさんから聞いた。
「ついいたずらが過ぎちゃったね。また今度、打ち合わせで色々聞かせてね」
◇◇◇
事務所に来た直後に、透ちゃんも雛菜ちゃんも円香ちゃんも押しのけたプロデューサーさんに肩を掴まれた時にはさすがにちょっと怖かった。絶対に怒られると思ったし、怒られそうな要因はたくさんあったから。
先週末に行ったオーディションに合格していたらしく、その連絡を今日もらったらしい。
嬉しいには嬉しかったけれども、自分よりはしゃぐプロデューサーさんを見ていると、不思議と冷静な気持ちになれた。
「やるじゃん、小糸ちゃん」
透ちゃんに認めてもらえたような気がして、嬉しかった。
「小糸ちゃんおめでと~」
雛菜ちゃんに祝ってもらえて嬉しかった。
「……」
円香ちゃんは何も言わなかったけれど、その表情は穏やかなものだった。
いっそのこと、プロデューサーさんと一緒にバカ騒ぎしてもよかったかもしれない。
でも、やはりそんな気分にはなれなかった。
嬉しくないわけじゃない。あの対応で良かったんだと安心したし、褒められて嬉しい。認めてもらえたことも嬉しい。
けれどそれは、嘘の上に立った事実。
その嘘が、まるでネバネバとした液体のように体中にまとわりついてくる。
根本にこの嘘がある限り、ずっとこの感覚がなくならないと思うと、いっそのことすべて話してしまおうかと考えてしまうほど。
でも、それはできない。
この嘘を暴かれれば、プロデューサーさんは間違いなく家に来る。そしてお母さんに知られたら、そこまで。もうアイドルとしての福丸小糸はいなくなる。
きっとあと少しだから、あともう少しだけ頑張れば、後に引けないほど人気になれば、お母さんだって認めてくれる。
だから、今は。嘘の笑顔を。
「えへへ、ありがとうございます!」
プロデューサーさんは居間に戻ると、雛菜ちゃんと透ちゃんがその後ろを追いかける。
「雛菜ソファーもーらいー」
「あ、ずる」
ついこの間見たようなやり取りが、再び目の前でなされて、二人とすれ違うように戻ってきたプロデューサーさんの手には、一枚の紙が握られていた。
「えっと、収録は二週間後の金曜日。スタジオは前と同じ建物だな。昼過ぎからの収録だから、午前の授業が終わったくらいに迎えに行くよ。学校にはもう伝えてあるから安心してくれ!」
最後に親指を立てて自信満々なプロデューサーさん。
つまり、その日はみんなと一緒にご飯は食べられないんだな。そんなことをぼんやり思って、気がつく。
「ぴえっ!? 学校にですか?」
「ああ、さすがに何も言わずに抜け出すわけにはいかないだろ?」
それは確かにそのとおりだけれども。
つまり、学校にはもう、アイドルを始めたことを知られているということ。
そして学校というものは、親との関わりがとても深い。当然だ、学生はまだ子供なのだから、大人は大人同士で話を進めたいだろう。
学校に知られているのならば、お母さんに知られるのも時間の問題。
「あ、えと、その……」
「そういうの、本人の意思は聞かないんですね」
困るとも言えず、かといって返す言葉も、驚いたことを隠す言葉を見当たらないまま視線を動かしていると、円香ちゃんが呟いた。そして、大きくため息をついてから、続ける。
「日程が平日で、学校と被っているなら一度確認を取るのが常識では? それとも、これが業界での常識ですか?」
言葉はとてもきついものだと感じた……けれど、その言動に反して、不思議と苛つきのようなものは全く感じなかった。
「あ、ああ。すまん、そうだよな」
プロデューサーさんは一度視線を紙に落としてから、再びこちらを見る。
「この歳で嬉しくて舞い上がっちゃうなんてな」
はは、と愛想笑いを飛ばした直後。
「で?」
と、円香ちゃんの追撃が入る。
「うん。大丈夫そうか、小糸?」
そこまで言われて、ようやく円香ちゃんの言いたいことが分かった。
本人の意思に関係なく物事を決めるなと、そう言っているのだ。
でも、もう学校に知られた事実は変わらない。後になんて引けない。引いても、何もいいことはないから。
それに、せっかく選んでもらったのだから、期待に応えたい。
「は、はい。だ、大丈夫です。任せてください!」
今でも面接って苦手なんです。なんか距離を感じるんですよね。
諸事情で今度面接がありそうなんで頑張ります