家の居間。いつも朝食も夕食も食べているテーブルには、珍しくお茶が三つ置かれていた。
「突然訪問してしまって、すみません」
まさか、ちゃんと話そうと決めたその日に、その足で家に来るとは思っていなかった。
心の準備はまだできていないし、心臓の音は外に漏れているのではないかというほど大きく鳴っている。
「それに、勝手に娘さん……小糸をアイドルとしてスカウトしてしまったことも。すみません」
「ご、ごめんなさい……」
謝罪の言葉に、お母さんは深いため息をつく。やはり、きっと怒っている。きっと次には嫌な……厳しい言葉をぶつけられる。
震える手を押さえようとテーブルの下で拳を握り、歯を食いしばる。
「でも、まず小糸と話して欲しいんです。どうか小糸の話を聞いてあげて欲しいんです」
しかし、次に聞こえた言葉は自分に向けたものではなく、さらにお母さんから放たれたものですらなかった。
ゆっくり顔を上げると、隣でプロデューサーさんが両手を机について、頭を深く下げている。
「小糸がここまで頑張ってきたことと、これからしたいこと。聞いてあげてください」
そう言うと、プロデューサーさんは椅子から立ち上がって、もう一度お母さんに深くお辞儀をする。
「小糸、大丈夫。ちゃんと、伝わるから」
肩にのせられたプロデューサーさんの手は、とても温かかった。その手が離れて、だんだん遠くなっていく。
「……」
プロデューサーさんが出て行ってしまって、居間は一気に静かになってしまった。
膝が震えている。
まだお母さんに話すのは怖いけれども、肩に残った温もりが、プロデューサーさんがくれた勇気が、そっと背中を押してくれる。
大きく息を吸って、吐く。
顎を上げて、前を……お母さんの目を見る。
「あ、あのね……お母さん」
お話を、ちゃんと聞いてもらわないと。だから、ちゃんと目を見て話さないと。
「わたし、中学受験に落ちてから、ずっと……透ちゃんたちと一緒の学校行くために頑張ってたの」
話し始めると、お母さんの視線がゆっくりとこちらに向いてくる。
その表情から何を考えているのかは分からない。あの日から、いつもこうだった。興味がないような、常に不機嫌なような。
でも今日だけは、今だけは気にしていられない。そのために、プロデューサーさんに背中を押してもらったのだから。
「きっかけは……透ちゃんだったんだ。透ちゃんが……アイドル始めたって言うから、わたしもって。でも、今はちがうの。みんなと……一緒にいられることも嬉しいけど、それだけじゃなくて」
気がつけば、膝の震えは止まっていた。高鳴っていた心臓の鼓動はそのままだけれど、その鼓動は怖くない。ちゃんと、知ってもらいたいから。知ってもらえないほうが、ずっとずっと怖いから。
「知らないことがいっぱいあったんだって気づいたんだ。トレーナーさんも透ちゃんたちも……プロデューサーさんも、いろんなことを教えてくれて、新しいことを覚える度に楽しくって。この前、オーディションにも受かったんだよ」
結構喋った気がするけれども、お母さんはまだ黙ったまま。それでようやく、お母さんが話を聞いていてくれていることに気がつく。聞いていないなら、話している途中でも止めてくるはずだから。
ちゃんと聞いていてくれるから、この言葉を言える。一番、伝えたいこと。一番、知ってもらいたいこと。
「まだどんなアイドルになりたいとか、どんな大人になりたいかとか、そういうのは決まってないけど……わたし、アイドルを続けたい。もっと、知らないことをいっぱい知りたい!」
椅子から立ち上がって、机を回り込んで、お母さんの横に立つ。
両足の踵を合わせて、手を指先までまっすぐ下に伸ばして、背筋もまっすぐ。
おしりを突き出さないように、腰を折り曲げて、深く頭を下げる。
「お願いします……アイドルを続けさせてください……!」
すぅ……と、息を吸う音が聞こえた。お母さんの表情が見えないから、何を言われるのか想像もつかない。断られるのか、分かってくれるのか。
深く、とても深いため息が聞こえた。
その音にゆっくりと顔を上げると、お母さんは右手で目を覆っていた。そのあと、ゆっくりと首を横に振る。
「小糸」
その姿勢のまま、お母さんは呟くように言った。その声は、いつもより少しだけ……ほんの少しだけ優しく思えた。
「さっきの人を呼んできて」
◇◇◇
「アイドルとしての活動を許可します」
お母さんの言葉が、ここまで嬉しく思えたのはいつぶりだろうか。
階段で妹の紗織と話していたプロデューサーさんを呼んで、居間に戻って、お母さんのこの言葉を聞くまではずっと心臓がうるさいくらいに鳴っていて、手も震えていたほどなのに。
この瞬間に、泣きそうだったはずの表情が一気に笑顔に変わったと思う。自分で自分の顔を見ることはできないけれど、見なくても分かる。だって、それほどまでに嬉しかったのだから。
「ぷ……」
プロデューサーさんにこの嬉しさを伝えようと横を向くが、プロデューサーさんの表情はあまり変わっていなかった。
まるで、お母さんの言葉に続きがあることを知っていたかのよう。
「難しいと思うけど……」
――ああ、そっか。
たったの十数分話をした程度で、お母さんからの評価が変わるわけがない。
歌もダンスも全然できない状態でアイドルを始めたのだから、難しいだろうとは自分でも思う。でも、それでも始めてみたアイドルは楽しかったし、知らないことがたくさん眠っているアイドルという場所は、素敵な場所だと思う。
たとえお母さんに期待されていないとしても、アイドルを続けてもっともっといろんなことを学びたい。
「門限は設けます。八時までには家に帰ってくること。仕事でどうしてもという場合は一週間以上前に連絡すること」
本当は、この門限についても嫌だと言いたい。けれどお母さんの目は、ここが最低限のラインだと言っている。これが守れないなら、アイドルはやらせないと。
「はい、ありがとうございます!」
プロデューサーさんは椅子から立ち上がって深く頭を下げる。
「あ、ありがとうございます!」
いろいろと気に入らないことはあるものの、ひとまずアイドルを続けられるようになったのだから、許可してくれたお母さんにはお礼を言っておかなければ。
顔を上げると、お母さんがこちらを見ていた。
「小糸、少しだけ席を外して」
お母さんの表情を見てみるが、やはりどこか怒っているように思える。許可は出してくれたものの、今まで嘘をついて活動をしていたことは事実。
もしかしたら、プロデューサーさんを監視役にして、もっといろいろと制限をかけられるかも知れない。そんな不安を抱えながらこれからも活動を続けるのは……正直嫌だ。
「ここから先は、大人同士のお話だから」
「…………はい」
いまお母さんに逆らうことが、どういう結果を招くかくらい想像できる。
だから、ここは従う以外に選択肢はなかった。
プロデューサーさんの表情を伺うと、お母さんの方を向いていたプロデューサーさんの瞳がこちらを向く。そして、小さくため息をつきながら、頷く。
プロデューサーさんもお母さんも、なにか分かり合ったような様子なのだが、それが理解できない。けれども、いまはプロデューサーさんを信じるしかない。
あまり音を立てないように椅子から立ち上がり、椅子をしまって居間の外へ出る。
「小糸のことですけれど……」
お母さんが何かを話し始めたけれど、ドアを閉めるとその言葉は聞き取れないくらいに小さくなってしまった。盗み聞きしようかとも考えたけれど、目の前にいた人がそれを許さなかった。
居間を出てすぐ、二階へと続く階段に紗織が座っていた。
「あ、お姉ちゃん。お話終わった?」
「う、ううん。まだ、プロデューサーさんとお母さんが話してる」
あまりそこには興味なさそうに、足を上下に揺らしている。
紗織は三つ下の妹で、いまは中学に入学したばかり。勉強もできて、部活は陸上部。中学はわたしと同じ中学校に入学した。
「紗織は……プロデューサーさんと、何話してたの?」
先ほどプロデューサーさんを呼び出したときに、紗織はプロデューサーさんとなにか話していた。紗織はわたしと違って友達も多く、知らない人相手でもすぐに仲良くなれるのでプロデューサーさんと喋っていること自体に疑問はない。けれども、その内容にはとても興味がある。
「ううん、特になにも。あの人がお姉ちゃんの自慢するのをずっと聞いてただけだよ」
その細かい内容も気になるのだけれども……。
「でも、あの人ってお姉ちゃんのことすっごいたくさん知っててびっくりしちゃった」
プロデューサーさんとはまだ出会って一ヶ月しか経っていないけれども、レッスンはよく見に来てくれているし、レッスンの前後に世間話をすることもしばしば。
「アイドルって大変なんだよね? って聞いたら、大変だけど、お姉ちゃんは頑張ってるって言ってたよ」
アイドルをしていたことは、もちろん紗織にも隠していた。だからきっと驚いたに違いない。紗織は優しいから、隠していたことに対して怒ったりしない。
「うん……大変だけど、楽しいよ」
「いいなー」
「紗織は、スカウトされなかったの?」
身内自慢ではないけれども、紗織の容姿は大分いい方だと思う。中学一年生なので、小宮果穂ちゃんより一つ年上だし。それこそ、アイドルだったり、読者モデルだったりにスカウトされてもおかしくないと思っている。
「ううん、ぜんぜーん。わたしもお姉ちゃんと一緒にやりたいなって気持ちはあるけど、お姉ちゃんはもう透ちゃんたちと一緒にやってるんでしょ?」
どうやらプロデューサーさんはそこまで話していたようだ。もう、隠す必要がないことだけれども。
「う、うん。みんなすごいんだよ。ダンスも歌も、すぐ覚えちゃって」
「ふーん」
そして再び、興味をなくしたような返答をする。質問を投げかけてくる割りには、興味を示すときと示さないときがあって困る。
一回目はお母さんとプロデューサーさんが話していると言ったとき。二回目は、透ちゃんたちの話をし始めたとき。アイドルに興味がない、ということはなさそう。
「でも、わたしは応援してるよ」
どういう話題を振ればいいのか思考をめぐらせていたら、突然放たれた紗織の言葉に驚かされる。
「お姉ちゃんかわいいから、絶対アイドルできるもん。テレビ出たりするんでしょ?」
「う、ううん。それはまだだけど……」
という返答に、今度は口をとがらせながら「えー」と反応する。
別に、紗織の機嫌をとるために話しているわけではないので、深く気にする必要はないのだけれど、紗織がどういった思いを持って話しているのかは気になってしまう。
「今度……来週の金曜日に、ラジオの収録があるんだ」
「えっ、ほんと!? 生放送?」
この話題には、いままでで一番興味を示した。うーん、やっぱり分からない。
とりあえず、紗織の質問に返すために記憶を探る。
先週プロデューサーさんから見せて貰った資料には、オンエア日時も書いてあった。
「えっと……うん、そうだよ。来週金曜日の、三時から」
紗織はスマートフォンを取り出して、何やら弄り始める。
「二一日の……三時……っと」
これは絶対に聞くつもりだろう。
「でも、紗織は部活あるでしょ?」
「多分ないからへーきだよー」
雛菜ちゃんみたいな返答をされてしまった。
初めての収録なのだから、変にプレッシャーをかけないで欲しいと思いながらも、聞いてくれる人が一人でもいるという事実が、少しだけ嬉しかった。
「ちゃんと部活やらなきゃダメだよ!」
「やーだー。だって――」
紗織の言葉を遮って、居間のドアが開く。
中からプロデューサーさんとお母さんが一緒に出てきて、一気に緊張感が増す。
「それでは、今日はありがとうございました。それに、突然すみませんでした」
「いえ、こちらからも……よろしくお願いします」
このやり取りからして、とりあえずアイドル活動は続けられるようだ。
「小糸」
安心して胸をなで下ろしたのも束の間、お母さんに呼ばれて肩が跳ねる。そして、なぜか後ろでは紗織がくすくすと笑っている。
「この人……プロデューサーさんを送ってあげて」
「あ……は、はい!」
プロデューサーさんは最後にもう一度玄関で深く礼をして、家を出た。ドアが閉まる寸前に、玄関から紗織がひらひらと手を振っているのが見えて、もしかしてと思いプロデューサーさんを見ると、今日一番気の抜けた表情で同じように手を振っていた。
プロデューサーさんの車は近くの駐車場に止めてあり、さすがにそこまでの位置が分からなくなるということはないはず。けれど、きっとお母さんのことだから万が一と思ってわたしに道案内を頼んだのだろう。
街灯に照らされた夜道を歩いていると、少しだけ悪いことをしている気分になる。こんな時間に道を歩いたのは随分久しぶりで、小学生のときに透ちゃんたちと花火をしに行った時以来だろう。そのときはもちろんお母さんも一緒についていたけれど。
「小糸」
思い出に浸りつつ、ちょっとしたわくわく感を楽しんでいると、プロデューサーさんに呼ばれた。見上げれば、プロデューサーさんは笑っている。
「頑張ろうな!」
「は、はいっ!」
うん、頑張らなくては。
せっかくプロデューサーさんの協力で手に入れたチャンスなのだから、失敗なんてできない。
「お母さんも妹さんも、いい人だな」
「そ、そうですか……?」
紗織に関しては、ほんとうによくできた妹だと思う。別に育てたわけではないので、威張るようなことではないけれども。
お母さんに関しては……個人的にはまだ少し苦手だ。
今日の態度を見ていても、お話を聞いてはくれたものの、興味は失ったままのように見えた。結局、中学受験に失敗したあの時から、何も変わっていないのかなと。
『難しいと思うけど』
アイドルを続けることを許可してくれたときのお母さんの言葉が、やけに胸に引っかかる。
そんなことない。そう即答したいのに。あの時だって、そうしたかった。でも、できなかった。
透ちゃんみたいなかっこよさは持っていないから。雛菜ちゃんみたいなかわいさも持っていないから。円香ちゃんみたいな度胸も持っていないから。そんな、才能なんてないから。
難しいことは十分承知している。
けれど、やっぱり……。
「ああ。俺もできる限りを尽くすから」
プロデューサーさんは期待してくれている。だから、いまはそれだけで十分。
「欲しいものとか、して欲しいことがあればなんでも言ってくれよな」
いまだけでも十分すぎるというのに、これ以上何を望めばいいのだろうか。プロデューサーさんはわたしに、透ちゃんと一緒にいる場所をくれて、その場所を守ってくれて。これ以上望むものなど、なにもない。
今度は、わたしがお返しする番だから。
「はい! わたし……頑張りますね!」
お返しするには、それしかできないから。
他のみんなも頑張っている。だから、その二倍も、三倍も頑張るしかない。才能と努力で結果が決まるなら、才能のないわたしは、その分努力すればいいだけなのだから。
それしかできないけれど、全力で返していこう。
プロデューサーさんからの期待に、応えるために。
あとがき
小糸が少し、眩しく思えてしまうこともあります