まさか、小糸が中学受験を失敗するなんて思っていなかった。
私は中高と成績はそこそこ、大学も普通の国立大学を卒業して、そこそこ大きい企業に就職した。そこで今の夫と出会い、寿退社。
二人の子供を授かって、夫は子供が小さい頃から海外に単身赴任することになってしまったけれど、幸せな家庭を持てていたと思う。
姉の小糸は随分とやんちゃな子供だった。一緒に遊んでいた子たちの影響もあるのだろうけれど、きっと親離れも早いのだろうと思っていた。
あの日、中学受験の合格発表日までは。
あの日のことを、忘れられるわけがない。普通なら、普通の子供ならば、不合格だったと分かればきっと泣きながら帰ってきただろう。けれど、小糸は違った。
小糸は何も言わずに、どこを見るでもなくただただ虚ろな瞳のまま自分の部屋へと戻っていったのだ。
その表情を見た瞬間、不合格だと分かった。もし合格だったなら、嬉しそうに、自慢げに語りかけてきただろう。私自身もその姿しか想像していなかった。
だからだろう。帰ってきた小糸に声をかけてあげることができなかった。
これまで一緒に遊んでいた透ちゃんや円香ちゃんがその中学校に行っていたのは知っている。だから小糸が同じ中学校を受験しようとしていることも知っていた。それ故に、受験に落ちてしまったショックは大きかっただろう。
当分はその話題には触れないであげようと思った。
中学に入ってから一ヶ月。小糸は酷く落ち込んだままで、学校に行くことに対してひどく消極的だった。
それも時間が解決してくれると思っていた。中学で友達ができればいいだろうし、休日なら透ちゃんたちとも遊べるだろうと思っていた。
けれども、いつの日が境目かは覚えていないけれども、気がつけば狂ったように勉強をするようになっていた。
狂ったように、という比喩は間違っているかもしれない。あれは、明らかに狂っていた。
学校での勉強は当たり前として、家に帰ってきても勉強、休日はもちろん一日中勉強。買って欲しいと頼まれたのは少女マンガではなく問題集。とてもではないが今どきの中学生とは思えないほど勉強に没頭していた。
今思えば、このときに止めてあげるべきだったのかもしれない。しかし、このときはまだ熱中できるものを見つけられたのだと、勝手に前向きに思っていた。
これがおかしいと気づいたのは、小糸が二年に上がった頃。小糸が欲しいと言ってきた教材が三年生の分野だと知ったときだった。
それはつまり、一年生のうちに二年生の内容を終わらせていたことに他ならず、それほどまでに勉強に熱中していれば他のことは何もできていないことくらい想像がつく。
なによりも、その事実から目を逸らして、小糸が落ち込んでいるのは時間が解決してくれるだとか、熱中するものを見つけられただとか、言い訳をしていた自分が情けなかった。
しかし、二年もまともに話していない娘相手になにを話していいか分からなかった。
どうやって切り出せばいいのか、どういう話をしたらいいのか。
絶対に話した方がいいと思っていた。ただ、自分が口下手なのは知っていたし、下手に話して誤解させてしまってはいけないとも思っていた。
そんなことを悩んでいるうちに、一年が過ぎていた。
私ができたことと言えば、学校の教師に呼び出されて小糸のいないところで難関高校の受験をしてほしいとの提案を断ったくらいだ。
三年ともなれば、小糸が仲良くしていた透ちゃんと円香ちゃんが進学した高校は分かっていたし、小糸がその高校を目指していることも知っていた。だから教師の提案は断ったし、理由も伝えた。
そのときの教師の目は、きっと一生忘れない。キラキラと輝いていたのだ。
きっと小糸が志望している高校も知っていて、小糸にはもっと大きな可能性があることも知っていて、きっと悪気もなかったに違いない。
ただ、そんな教師でさえ小糸の思いを汲んでやろうとは思わなかったのだ。小糸をまるで道具のように、自分の評価を上げるための切り札のように切り捨てようとしている目。
その日、学校から帰った私はしばらく鏡を見ていた。
二年間も小糸に寄り添うこともできずに、小糸の話を聞こうともせずに、小糸が欲しいと言ったからという理由だけで教材を買って、それを良しと思っていた私は、もしかしたら同じ目をしていたのかもしれない。
何時間見ていたのか分からない。なにせ自分の目を見てもあのキラキラはなく、かといってそれが自分の目だからなのかどうかは分からないのだから。
「お母さん?」
突然背後から声をかけられて肩が跳ねる。
振り向くと、小糸……ではなく、紗織が心配そうにこちらを見ていた。
「紗織……」
よかった、小糸では――
「お姉ちゃんじゃなくて、安心した?」
まるで心を見透かしたような紗織の言葉に、思わず表情を伺ってしまう。
「お母さん、お姉ちゃんのこと、応援してあげてね」
紗織はいったいいつから気づいていたのだろう。小糸が狂ってしまったことに。
それは今でも分からないけれども、少なくとも私よりも先に気がついていたことは間違いない。
そして小糸は主席で高校に入学した。
当然だろう。自己採点とはいえ、全教科満点だったのだから。
そしてその事実を、妹である紗織からしか聞き出せないまでに、小糸との距離は離れてしまっていた。
高校に入って、小糸に笑顔が増えた。だからだろうか、小糸に距離を置かれていることに寂しさを感じるようになっていった。
ちょうどその頃……お盆が明けて少し経った頃。知らない人物から電話がかかってきた。
283プロダクションなどという怪しげな芸能事務所からだった。その人の話によれば、小糸はアイドル活動をしているらしい。
「そんな話は聞いていませんが……」
「えっ……でも、小糸からは親権者同意書を出してもらっているんですが……」
先方は少しだけ間を空けてから続ける。
「まさか……いや、そうか……」
少し間が空いたことで、私も考える時間ができた。もしかしてと思い、受話器を耳にあてながら貴重品を入れている棚を空ける。
私の認印の位置が、いつもとは違っていた。それに、その周辺にある物の位置もところどころ違和感がある。
受話器から声が聞こえた。
「すみません、一度お会いしてお話しできないでしょうか? できるだけ早く……今晩、七時にでもお邪魔させていただけないでしょうか」
本来なら、勝手に印鑑を使ったこと、それを黙っていたこと、相手に嘘をついたこと、そのすべてに対して怒るべきなのだろう。本来なら怒りの感情が湧き上がるべきなのだろう。親としてそうあるべきなのだろう。
しかし、私は親として、もっと先にしなければならないことがある。
「分かりました。その前に、ひとつお願いが……」
「なんでしょう?」
私のために、小糸のために。
「先にあなたが小糸と話してください。小糸の話を、ちゃんと聞いてあげてください。私には……できなかったから」
こうして……ここまでしてようやく、私は小糸の話を聞くことができた。
◇◇◇
「小糸」
「ぴゃあっ!?」
家に帰ってくると、お母さんに声をかけられた。
お母さんから声をかけられたのはいつ以来だろうか。普段から互いに話さないように生活しているので、わたしから話しかけることもなければ、お母さんから話しかけられることもない。「いただきます」「ごちそうさまでした」「いってきます」くらいしか話さない。どれも返事はなく、一方的な言葉となっていた。
この前プロデューサーさんが家に来たときに何年ぶりかに話した。そしてそのあとまたお母さんとは話していなかった。必要最低限のことを言って、返答がないまま過ごしていた。
それに、最近はわたしがお母さんを避けていたこともある。門限の時間ギリギリに帰ってきていることが多いこともあり、もしかしたら門限を厳しくされてしまうかもしれないという不安があった。だから、お母さんから声をかけられたときにはもしかしたらと不安に駆られた。
「少しお話ししたいのだけれど……いい?」
「は、はい……」
やはり、最近門限が近すぎることに関してだろうか。どちらにせよ、わたしに拒否権はない。
玄関からそのまま居間へと入り、お母さんが座った椅子とは反対側の椅子に座る。
「小糸」
トーンの低い声に震えていると、お母さんが話を続ける。
「最近、帰るのが遅いけれど……」
やはり、その話のようだ。きっと、門限を短くされてしまうのだろう。
「やっぱり……難しかった?」
しかし、お母さんの言葉は予想外のものだった。というか、なんの話をしているのか分からなくなってしまった。
難しかったとは、なにに対してだろうか。いまの話からして、帰るのが遅いことに対してだと思うのだけれど、それに対してなにが難しいのかが分からない。
「え、えっと……」
分からないから、どう反応したらいいかも分からない。
「その、時間……守るの、大変?」
大変かと聞かれれば、もちろん大変だ。
もう少しレッスンができる時でも、門限があるから帰らなければならない。みんなが帰ったあとに居残りもできないし、プロデューサーさんに送ってもらっているので、プロデューサーさんは気にしないでいいと言っていたけれども、きっと迷惑をかけている。
しかし、それを正直に言っていいものか。なにかを試されているような気がして、どうしても警戒してしまう。
『難しいと思うけれど』
突然脳内に流れたのは、間違いなくお母さんの言葉。
あの日、プロデューサーさんが家にやってきた日。お母さんがアイドルを続けるときに放った言葉。
あの時は、アイドルをすることに対して言われていたのだと思っていた。わたしなんかに務まるはずがないと、そういう意味だと。けれども、いまの流れから察するに、あの時の言葉は門限に対して言っていたのではないだろうか?
ずっと、お母さんはわたしがアイドルをすることに対して否定的だと思っていた。
思い返してみても、お母さんがはっきりとアイドルに対して否定的な発言をしていたことはなかった。
「ううん、大変よね」
お母さんの顔を見ると、ちょうど大きくため息をついていた。
「お母さん、あのね……」
「まって」
もしかしてを聞こうと、間違っていてもいいから確認しようと思った。しかし、お母さんはそれを遮った。
「私の話を聞いてほしいの」
そして、お母さんと目が合った。
「小糸が……中学受験を失敗したとき、なんて声をかけてよかったのか……。それで、勝手に小糸が勉強に夢中になってくれたと思って……。気づいたときにはそれすら言えなくて……ごめんなさい」
中学時代はお願いすればなんでも教材を買ってくれた。なんなら、頼んでもない教材も買ってくれた。それはきっと高校受験を失敗することは許さないということかと思っていた。
話す機会は中学に入ってから一気になくなってしまった。それはきっとお母さんがわたしを避けていると思っていた。
アイドルのことも、否定的だと思っていた。
その全てが、勝手な勘違い。
「小糸は私のことを嫌いかもしれないけれど、私は小糸を好きだし……心配だし、応援してるから……」
お母さんのことを勘違いしてしまっていた。
わたしに興味がなくなっていたわけではなかったし、アイドルだって許可してくれたし、応援してくれてさえいる。
それなのに、お母さんはわたしに興味がないと決めつけて、嘘をついて、勝手に判子を使って。
いったい、なにをしているのか。
ちゃんと……ちゃんと謝らなければ。
「わたしこそ、ごめんなさい。ずっと、お母さんはわたしのこと……嫌いだと思ってた。お母さんのことを避けて、なにも言われないようにってしてた」
その全てが間違いだったなんて思わない。けれど、お母さんに対する態度は間違っていたと、そう思わなければ。
「アイドル、楽しいよ。いろんなこと教えてもらえるし、みんなと一緒にいられるし。門限は……お母さんとの約束を守るのは大変だけど、それでも頑張ろうって思ってるよ」
「うん、時間のことは……大変なら連絡してくれればいいから」
きっと、今日はこのことを言いたかったのだろう。ただそれだけを言ってしまっては、わたしもお母さんも誤解したまま。だから、お母さんはちゃんとお話をしようと考えてくれた。
「ありがとう、お母さん」
なんだか、体が軽くなった気がした。息苦しくないし、お母さんはまだちょっと怖いけれど、話せないなんてことはない。むしろ逆で、話さなければという思いが強い。
「今度の土曜日、テレビの……踊っていいとものオーディションがあるんだ。合格したら、次の日に放送だと思う」
頑張るからと、絶対に合格するからと、そう思いを込めて。
お母さんは目を泳がせてから、恥ずかしそうに、ぎこちない笑顔で頬を掻いた。
「うん、えっと……がんばってね」
前にも似たようなの書きましたね。あれとは少し変わっていますが、大筋は一緒です