「そんな話は聞いていませんが……」
小糸のお母さんと初めて話したとき、失敗したと思った。
小糸は母親が忙しくてなかなか連絡後つかないといっていたから、ダメ元で電話してみた。
小糸のことを信じてやれなかったことにも後悔したし、小糸が嘘をつかないといけないような状況のまま、アイドルとして活動させていたことにも後悔した。
確かに親の話をするとき、小糸の反応には違和感があったけれども、小糸が大丈夫だと言うから大丈夫なはずだと、勝手にそう思い込んでいた。
これはきっと、俺が口を挟んでいい問題ではない。反射的にそういう思考になっていた。
「先にあなたが小糸と話してください。小糸の話を、ちゃんと聞いてあげてください。私には……できなかったから」
だから、その言葉を聞いたとき、どうすればいいか分からなかった。明らかに家庭の問題で、俺が口を出してしまえば状況は更にややこしくなると、そう思った。
でも、小糸を信じなければならないのと同じように、小糸のお母さんの言うことも信じなければならない気もした。
『そうやって、今までどれだけ損をしてきたんだ?』
俺が、語りかけてきた。
無駄にお人好しで、嘘がつけなくてバカ正直な性格で、今までどれだけいいように使われてきたことか。
たとえそれが自覚できても、直せるようなものではない。けれど、意識を向けて回避することはできる。
『家庭の事情には、口出しできないので』
そう言うだけで、この明らかに複雑な問題とはおさらばだ。
「……はあ、馬鹿だなあ」
だって、知ってしまったのだから。知ってしまって、知らないふりをできるほど器用な人間ではない。
それが損だったとしても、それが自分のためにならなくても、誰かのためになるのなら。
「分かりました。ただ、お家には今晩伺います」
「……はい」
自信のなさそうなお母さんの返事は、やはりどこか小糸に似ていた。
◇◇◇
小糸の家について、一通りの謝罪を済ませ、二人きりにしてきた。
責任を放棄したわけではない。他の誰でもなく、小糸本人の口から伝えなければならないことで、そこに俺がいるのは邪魔だったから退散したまでのこと。
と、部屋を出てきたはいいものの、どこで時間を潰そうか。他人の家を勝手に探検するわけにもいかないし、外で待っているというのも少し離れすぎている気がする。
「おーじさん」
廊下の向こうから声がして、視線を向けると、小糸と同じような、少しだけ青が混ざった髪の毛の女の子が、階段で座っていた。
「ってより、おにーさん?」
「の方が、俺は嬉しいかな」
そういえば、小糸には妹がいると聞いたことがある。しかし、この子がそうだとして、随分と小糸とはイメージが違った。
小糸が子猫だとして、この子は元気に駆け回る犬といったところか。出会ってたったの数秒だったけれど、それほどまでに違う印象を受けた。
「紗織っていうの、よろしくね」
そう言うと紗織ちゃんは階段の端に寄った。隣に座るよう催促されたと判断して、隣に座る。どうせ立っていても行く場所はないのだから。
「ね、ね、お姉ちゃんのどこがいいと思ったの?」
隣に座るや否や、身を乗り出して、目を輝かせながらそんなことを聞いてくる。
「紗織ちゃんは、小糸のことが大好きなんだな」
「え、分かる? 分かっちゃう?」
照れて頬を掻きながら嬉しそうに答える紗織ちゃん。
「頑張り屋さんなとこでしょ、しっかり結果を残せるとこでしょ、まんまるな顔でしょ、ちょっと癖がある髪でしょ、たまに強引なとこでしょ……もう、全部! 全部大好き!」
「はは、ほんとに好きなんだね」
少し怖いくらい、というのは伏せておく。
でも、それくらいに元気で、明るくて、聞いているだけで楽しくなってしまう。もしかしたら、この子の方がアイドルに向いているかもしれない。
「おにーさんは違うの?」
純粋そうな眼差しを向けられたけれども、瞳の奥に、少しだけ揺らいでいるものが見えた。
「先に君に会ってたら、君をスカウトしたかもね」
その瞳に何を映していたかは分からないけれども、その質問に込められた意図は感じ取れた。
試している……というよりも、不安なのだろう。大好きなお姉ちゃんを誰とも分からない相手に任せていいのか。
「でも、今の小糸を見ているから、それはない。今、二人のうちどっちを選ぶかと言われたら、迷わず小糸を選ぶよ」
「なんで?」
紗織ちゃんの瞳の中で揺れていた何かはもう見えなくなった。そうして残ったのは、ただただ純粋な、歳相応の無垢な視線だけ。
「まだ、分からない。けれど、時折パッて光るんだよな……って言っても分からないよな」
首を傾げる紗織ちゃんを見て、思わず苦笑してしまう。
「うまく言えないけどさ、こう、綺麗なんだよ。普段はなんともないのに、その瞬間だけは見惚れちゃうんだ。それで、もう一度だけ、もう一度だけって、何度も求めちゃうんだよな」
「じゃあ、ずっと見惚れてる私の勝ち~」
いや、勝ち負けではないと思うけれど。
そう言おうと、苦笑いのまま、嬉しそうに笑っているはずの紗織ちゃんの表情を見た。笑っていると思っていたはずの表情は、今までで一番不安が表に出ていた。
「その、ありがと。高校に入ってからも、なんとなく元気なかったけど、アイドル始めてから、少しだけ昔のお姉ちゃんに戻った気がするんだ」
俺は、昔の小糸を知らない。どうして今の小糸になったかも知らない。けれど、アイドルになることが小糸にとって何かいい方向に向かっていたなら、向かっているなら、一人のプロデューサーとしても安心できる。
「お母さんとは、不仲ってわけじゃないんだよ。でも……」
「大丈夫」
きっと、そうなのかもしれないと思っていた。
小糸みたいな素直な子が、理由もなく嘘をつくとは思えない。それこそ、すぐに知られてしまうような嘘であればなおさら。小糸は頭の回転はいいのだから、それが分からないような子供でもない。
親の話をしたときだけ、違和感があった。だから、親となにかあるのだとは思っていた。不仲ではないと気づいたのは、お母さんからの電話をもらったとき。
「ただ、噛み合ってないだけだもんな」
ただ、二人のコミュニケーションが取れていないだけだと、すぐに分かった。
もし親が嫌いなら、小糸がそれなりの態度を見せるだろうし、お母さんだって仕方ない様子を見せるはず。
アイドルをしたい小糸と、それを拒否はしていない親。その二つの中で、小糸が嘘をつく理由は一つだけだったから。
「うん……ありがと」
二度目の感謝の言葉は、受け取ることができない。
「俺はもう、何もしないけどな」
「えっ?」
「言っただろ、噛み合ってないだけだって。俺が下手に手を入れるより、ゆっくりと合わせていった方がいい。だから、あくまで小糸に近づいていってほしいんだ。俺はその手助けをするだけさ」
自分に保険をかけているだけだと、そう言われればそれまで。偽善者だとか、半端に首を突っ込んでいるだけだと蔑まれるかもしれない。けれど、将来を見たときに、一人で立っていられる小糸になってもらいたいと、そう願っているから。
「……はあ、びっくりしたあ」
「はは、ごめんごめん」
「なになに? 芸能界ってこんな人ばっかなの? なら私はやらなくてもいいやー」
驚かせるつもりはなかったのだけれども……これは嫌われてしまったかな。というか、もしかしてアイドルをやるつもりだったのだろうか。
突然、ガチャリと音を立てながら、目の前のドアが開く。中からは、不安そうな表情のままな小糸が出てくる。
「ぷ、プロデューサーさん、お、お母さんが話したいって」
「うん、分かったよ」
流石に、一度機会を設けた程度では、あとは手放しでというわけにはいかないようだ。
それでも、小糸ならなんとかなると、そう願わずにはいられなくなっていた。
◇◇◇
「小糸のことですけれど……」
小糸が居間から出ていって、お母さんと二人きりになってしまった。
大人の話し合いということだけれども、そう言われてしまうと身構えずにはいられない。
「父親は、いないんです」
「えっ」
少しだけ予想外で、けれども一応考えてみれば、そうかもしれないといったところだった。
とっさに出てくる嘘というのは、大抵真実が織り込まれているもので、お父さんは忙しくてあまり帰ってこないだとか、そういう状況を考えていた。
「あっ、えっと、その……」
この慌てる仕草はなんとなく小糸に似ているな、なんて思った。
「いないというのは、国内にということ……えっと、家にはほとんど帰らないんです」
海外の単身赴任ということか。これはこれで予想外というか、しかしながら考えていた状況には限りなく近いようだ。
「なので、えっと……あなたには、小糸の父親になってほしいんです」
「はい?」
思わず声も漏れる。ここに来るまで色々な展開を予想して、それに対する回答も用意してきた。けれども、この展開は予想していない。というか、予想しろという方が無理がある。どんな性癖の持ち主なんだ俺は。
「えと……そ、その、違って……」
「すみません、俺も取り乱しました。落ち着いてからで結構です」
漏れてしまった声が、高圧的だったかもしれない。そんなつもりはなかったけれども、そう受け取られてしまっても仕方がないとも思う。
少しだけ間を空けて、数回の深呼吸のあとにお母さんは続ける。
「父親となる人がいなかったんです。だから、代わりに私や夫ができなかったことを、やっていただきたいんです。……都合のいい話だということは承知しています」
「すみません、それはできないです」
小糸にも、お母さんにも申し訳ないけれども、それはできない。
独身で今まで生きてきた俺に、父親としての器量はないし、それ故に代わりを務めることなどできない。俺はあくまでもプロデューサーであって、それ以上のなにかにも、それ以下のなにかにもなれない。
「でも、アイドルとしての小糸を見てやることはできます」
俺が、もうやめておけと語りかけてきた。これ以上何かを言うのは自分の首を絞めることになると、そう言ってきた。
「一人の子供の人生を預かっている身です。親として立ち回ることはできませんが、近くに寄り添える大人として、できることはしていこうと思っています」
その言葉は、想定なんてしていなかったし、考えてもいなかった。だからうまく纏まっているとは思えない。
そんな言葉を放って、最初に感じたのは後悔だった。
わざわざ言わなくても、プロデューサーとしてみんなのことを見守る気ではいた。けれども言葉にはしてこなかった。言うことで逃げ道がなくなってしまうから。あくまで自分に保険をかけて、失敗したときに言い訳をして、自分を押し潰してしまわないための保険だった。
けれども、言わずにはいられなかった。たとえそれが自分を苦しめる選択だったとしても、相手を苦しめるよりはマシだと思ってしまったから。
お人好しだと、自己犠牲がすぎると、内心では苦笑しているけれども、そうやって今まで生きてきたのだから。そうやって生きてきたから、283プロに入れたのだし、透や円香、雛菜や小糸と出会うことができた。
だから、これからもそうやって、不器用に、苦しい選択をしながら生きていくのだろう。代わりに、たくさんの幸せを得られるはずだから。
「ありがとう……ございます」
「でも、ゆくゆくはお母さんの方から、小糸に話してあげてくださいね」
自分よりも年上の相手なのだけれども、そのときだけはどこか幼い印象を受けてしまった。言ってから、偉そうなことを言ったかもしれないと不安になったが、お母さんの表情からして、その心配はいらないようだった。
「それで、小糸のこれからの活動についてですけれど……」
他人の家の階段って、すごい傾斜がキツく思えますよね