事務所の上には、小さな体育館のようになっていた。
マンガで読んだバレエのレッスン場のような、大きな鏡が一つと、丸椅子がいくつか。
入り口で靴を脱いで、来客用だろうスリッパに履き替える。
「こんな場所でごめんね。他に場所がなくてさ」
「い、いえ。……えっと、みなさんはここでレッスンとかしてるんですか?」
プロデューサーさんは丸椅子を二つ持ってくると、部屋の真ん中に並べる。
その片方に座ると、反対側に座るように手を出す。
「どうぞ座って。うん、みんなここでレッスンしてるね」
言われたとおりに、鞄を椅子の横に置いてから椅子に座る。
始まるのだと思うと、緊張で息が止まりそうだった。
心臓の鼓動が強くなっていくのを感じるし、プロデューサーさんが話し始めるまでのたった数秒がとても長く感じられた。
「さて、福丸小糸さん。で合ってるよね」
「は、はいっ!」
真っ直ぐな背筋をもっと伸ばして答える。
それに、プロデューサーさんは先程のはづきさんと同じようにくすくすと笑いながら返す。
「緊張しなくても……って言っても難しいよね。そうだな……透とか円香とは知り合いなのかな?」
「は、はい。透ちゃんとも円香ちゃんとも、雛菜ちゃんとも小さい頃から一緒で……いつも一緒に遊んでた仲なんです」
話している間、一瞬だけプロデューサーさんの目つきが変わった気がした。
怖かったわけではなくて、むしろ少しかっこいいと思うようなものだった。
それもほんの一瞬で、すぐに最初のような柔らかい笑顔へと戻った。
「へえ、そういえば円香が君の……小糸のことを話していたな」
円香ちゃんが、私のことを?
「え、えと、どんなことを言っていたんですか?」
「『新しい子が来てるなら早く行ったらどうですか?』ってね。どうやら僕はあまり好かれてないみたいで……」
円香ちゃんは顔立ちと普段の表情から厳しそうな雰囲気はあるものの、話してみたら優しいことがわかる人。
円香ちゃんがそんな辛辣なことを言うとは思えないけれども……プロデューサーさんの表情を見る限りは本当に困っていそうだ。
「えと、円香ちゃんがなんでそんな厳しいことを言うのかは分からないですけれど、優しい人なんです。わたしにもよくお菓子を持ってきてくれて、気配りもできて……」
「そうなんだ。小糸はみんなと仲がいいんだね」
「そう見えますか!? みんなとはいつも一緒で……」
そこで言葉が止まる。
いつも一緒だから、これからも一緒とは限らない。
その証拠に、中学は別れてしまったではないか。
それに、大学に進学するとなれば、また同じ大学に進めるとは限らない。
「うん、四人でやっていけたら面白そうだなって、俺も思ったよ」
止まった言葉を紡ぐように、プロデューサーさんは言った。
「それじゃあひとつだけ質問だけれど、小糸はどんなアイドルになりたい?」
「どんな……?」
どんなと聞かれても、どんなアイドルがあるのかも知らない。
「そうだな……元気にしたいとか、注目されたいとか。そんなざっくりした感じでもいいよ」
プロデューサーさんは助け舟を出したつもりなのかもしれないけれども、余計に分からなくなる。
透ちゃんも円香ちゃんもクールだし、雛菜ちゃんはほんわかした感じ。
でも、それをまねすることなどできない。
「……」
何も、出てこない。
みんなと一緒にいられるならそれでよくて、それ以上を望んだりはしていない。
でも、この答えは間違いな気がした。
「じゃあそうだな、それを探すのを、最初の課題にしようか」
「へ?」
最初の課題……?
最初ということは、次があるということ?
「これからよろしくね」
よろしく。
その言葉が意味するところを、確認せずにはいられなかった。
対面してからまだ数分しか経っていないはずで、質問もそんなにされていない。
「あ、あの……それって」
こんなに軽くていいのかなんて思ってしまう。
もっと、何回も面接をして、いろいろな粗を探して、それらを回避して掴み取れるものだと思っていたから。
だから、騙されているのではないかと。
何かを試されているのではないかと。
その懸念は、プロデューサーさんの一言で消え去ってしまう。
「ああ、合格だよ」
まるで、靄がとれたように、視界が、目に映るもの全てが鮮やかになった。
吸い込む息が心地良い。
吐き出すのがもったいないと思うほど。
「あ、えと、こ、こちらこそよろしくお願いします!」
どこかへ飛んでいきそうな気分を胸の奥に押し込んで、挨拶は忘れずに返す。
「うん、いいね」
プロデューサーさんはなぜか満足げに頷いているのだが、その理由までは分からない。
「一応まだ学生だから、親御さんの許可はもらってるかな?」
親の許可。
その言葉がこんなにも重みに感じたことはなかった。
考えてみれば当然。
まだ子供なのだから、親の許可なしにアイドル活動をさせて、あとあとからトラブルになるなんて事務所もよしとはしないだろう。
親の許可など、取れるはずがない。
中学受験に落ちたあの日から、お母さんとは禄に話していない。
挨拶しても、必要な教材をお願いしても、返ってくるのは機械的な対応ばかり。
遊びも、勉強には関係のない習い事も断られ続けて、ここに来て夢みたいな話を許可するはずなどない。
でも、こうして掴んだチャンスを手放すのは嫌だ。
「だ、大丈夫です。ちゃんともらってます!」
嘘をついた瞬間、急に息苦しくなった気がした。
胸の奥を何か大きい針で縫われたような感覚。
肩がぐっと重くなって、背中が曲がってしまいそう。
「そっか、ならよかったよ」
どうやら、騙せたようだ。
でも、こんなに苦しくなるくらいなら、騙さなければよかったかもしれない。
ううん。
きっと有名になって、結果を残せるようになれば、お母さんだって認めてくれる。
それまでは、この嘘を貫き通して、なんとかしてアイドルを続けなければ。
人一倍……いや、それじゃあ足りない。
二倍も三倍も頑張っていかないと。
「合格、とは言ったけれども、そんなすぐに活動が始められるわけじゃないんだ。多分一ヶ月はダンスや歌唱レッスンをしてもらうと思う。それから宣材……みんなに見てもらうための写真を撮る。そしたら、ようやくアイドル福丸小糸としての活動が始まるんだ。ここまではいい?」
「は、はい」
胸につっかえた何かはまだ取れないけれど、アイドルとして活動を始めるまでに、まだ少しかかるという話だと思う。
「うん、じゃあレッスンの日を決めようか……と思ったけれど、他のみんなも一緒のほうがいいよね。調整してから、また連絡するよ。多分、明日か明後日になると思う」
そう言うと、プロデューサーさんは椅子から立ち上がる。
「少しバタバタする日々が続くと思うけれど、俺も精一杯サポートするから、一緒に頑張っていこう!」
一緒に、という言葉が嬉しい。
一人じゃなくて、プロデューサーさんと。
これから先はまだ不安でいっぱいだけれど、今は今できることを精一杯。
「は、はい! 一緒に、ですね!」
立ち上がって椅子をもとの位置に戻してから、走り出す。
これから始まる、新しい居場所での新しい人生が。