土曜日の昼過ぎ、梅雨入りもしたけれど今日は運良く晴れていた。とはいえ、レッスンを屋外でするわけでもないのであまり天気は関係ない。
レッスンシューズは事務所で調達するとのことだけれども、すぐには届かないのでそれまでは体育で使用しているシューズを使用することになった。
時間より少し前にレッスンルームに行くと、すでにトレーナーさんが待機していた。
それからすぐに透ちゃんも円香ちゃんも雛菜ちゃんもやってきたため、時間通りにレッスン開始となった。
「そうね、みんな初めてにしてはいいんじゃない? 樋口さんは経験者?」
「いえ、まったく」
最初はストレッチと、ウォーミングアップに鬼ごっこのような簡単な遊びをしてから、ダンスレベルを見るからと振り付けを真似するように言われた。
「そう。市川さんは動きはちゃんとできてるけど、アレンジ加えすぎね。アイドルとしては必要なときもあるかもしれないけれど。浅倉さんも悪くはないけれど、もう少し動きに緩急をつけれるともっとよく見えるわ」
それから、とこちらを見るトレーナーさん。
「福丸さんは、体幹を鍛えましょう。体が小さいから、大きく動く必要があるからね」
振り付けを真似している途中、思いっきり転んでしまった。動きは見て覚えられたけれども、体がまったくもってついてこなかった。
勉強はできるけれども、体を動かすことだけはずっと苦手だったのが、こんなところで足を引っ張ることになるとは思わなかった。
「まあ、最初だから課題として言っているけど、悪くないのは本当よ。……まあ、この事務所の子、ウォームアップで限界だった子がいるくらいだから、それに比べたら……」
完全に乾ききった笑いとともに、虚ろな表情をしていた。ちょっとしたトラウマのような気がしたので、あまり触れないでおこう。
「それじゃあ次は歌を見ましょうか。その前に二十分くらい休憩をとりましょう。休むもよし、レッスンするもよし、外へ出るときは一声かけてね」
トレーナーさんに返事をしてから、透ちゃんと雛菜ちゃんはレッスンルームの壁を背に座り込む。
「あの、外に出てきます。時間までには戻りますので」
「はーい。気をつけてね」
円香はといえば、レッスンルームを出ていってしまった。何をしに行ったか気にならないといえば嘘になるけれども、今は円香ちゃんについていくよりもやらなければならないことがある。
「あ、あの」
トレーナーさんはバインダーに何かを書き込んでいたので、声をかけていいか少し悩んだけれども、それでもやはり大事なことだと思った。
「どうかした?」
「えと、ダンスの教材みたいなものってありませんか?」
今の自分は、ダンスに疎すぎる。そう思った。
疎いなら、勉強しなくては。
「どこか不安なところがあったなら……」
「あ、えと、あるんですけど……」
ちらっと透ちゃんの方向を見る。今ここで教うのは間違いだ。
透ちゃんたちと一緒にいるために頑張っていることは否定しないけれども、頑張りは見せたくない。恥ずかしいとかとは違って、上手く言葉にはできないけれども、それは嫌だった。
「ああ、そういうこと」
今の言葉から何を受け取ったのか分からないけれども、トレーナーさんは小さくため息をつくとスマートフォンを取り出した。
「そうねえ、福丸さんの場合はダンスの基礎と体幹が同時に鍛えられるといいから……」
そう言ってスマートフォンの画面をこちらに見せる。
「この辺がいいんじゃないかな。本当はダイエット向けなんだけど、著者は元ダンストレーナーなの。ダンスに関して間違ったことは書いていないわ」
「あ、ありがとうございます」
本のタイトルは覚えた。表紙も覚えた。帰りに本屋に行って買っていこう。
「福丸さんがよければあげるわよ。学生さんだし、お金も大変でしょ」
「ええっ、いいんですか?」
願ってもない申し出だった。
家の事情もあってアルバイトも許可されていないため、正直所持金はあまり多くない。
「ええ、尊敬してる人だったから買ったけれど、よくよく考えたら私にはいらないものだったのよね」
トレーナーさんは苦笑いしながら頬をポリポリと掻く。
「レッスン終わったあと、ちょっと事務所で待っててね。取ってくるから」
「あ、えと、次のレッスンのときでも」
本当は今すぐほしいくらい。でも、そのためにトレーナーさんの、他の人の労力を使ってしまうのは申し訳ないと思った。
「嘘はだめよ」
その言葉に、胸が痛む。
嘘……というつもりではなかったけれど、本心でないことを見抜かれてしまっている。
今こうしてアイドルを始められたのは嘘を貫けているから。でも、これだけすぐに見破られてしまうようでは、すぐに透ちゃんたちにも……お母さんにも……。
「初日からそんなこと聞いてくる子が急いでないわけないじゃない。頑張ってる子は応援したくなっちゃうのよ。だから……ね?」
トレーナーさんの言葉でなんとか嫌な思考を断ち切ることができた。
でも、胸の痛みは……引かなかった。
「さて、そろそろ再開しましょう。樋口さんも……戻ってきたわね」
振り返れば、円香ちゃんはもう戻ってきていて、透ちゃんたちも立ち上がっていた。
「はい、じゃあまた並んで。今度は歌を見るわね」
言われたとおり並ぶ。並び順はいつもお昼ごはんを食べているときや、一緒に遊びに行くときの並び。
「それじゃあ樋口さんから、私の声と同じ音をだして」
円香ちゃんは言われたとおり、トレーナーさんの「あー」という音と同じ音を出す。音は次第に高くなっていき、また低くなっていき。
「次、浅倉さん」
続いて透ちゃん、雛菜ちゃんと続ける。
トレーナーさんの満足そうな表情からして、及第点は超えていそうだ。
少なくともみんなの声を聞いている限りは嫌な感じはしない。トレーナーさんときれいに声が重なっているし、みんならしい声で歌っているという感じがする。
「次、福丸さん」
「は、はい! あー」
あれ?
なんというか、思ったような声が出ていない。
もうちょっと高い気がすると思って高くすると、今度はもうちょっと低いような気がしてくる。
なんというか、思ったところに音が合わない気がする。
すると、トレーナーさんが一つ音を上げた。同じように音を高くしてみたものの、やはりどこか合っていない気がする。
「あは~小糸ちゃんへたっぴ~」
隣の雛菜ちゃんの声で、確信する。やっぱり音が合っていない。
自分でも知らなかったけれども、音痴なのかもしれない。
音楽の授業は体育ほどではないけれどあまり得意ではなかったし、みんなみたいにカラオケも行ったことがない。
歌として歌うことなんて、これまでほとんどなかった。
「福丸さん、ちょっといいかしら」
「ぴゃあっ」
トレーナーさんが近づいてきて、怒られるのかと思いきや、腰とお腹に手を当てられた。
「息を吸うときに、思いっきりお腹を膨らませてみて。はい、吸ってー」
言われたとおりに、お腹を膨らませる。お腹に力が入って、お腹が張って少しだけ痛かったのでそこで止める。
「吐いてー」
それを合図に息を吐き始めると、トレーナーさんの両手に力が入る。お腹を押されて、お腹に溜めた空気が一気に口から漏れていく。
「はい、もう一度。吸ってー」
何をしているのかやはり分からないまま、言われるがままに息を吸うと、トレーナーさんの手も同じように広がっていく。
「次は声も一緒に、できるだけ大きな声で。あー」
その合図と一緒に、トレーナーさんの両手に力が入る。大きな声を出すと、トレーナーさんの出している音が分からなくなってしまうのだけれども、今は言われたとおりにしてみる。
「あー……ぴええっ!?」
思わず両手で口を塞いでしまった。
それは、自分の口から出た声が自分のものではないかのように思えたから。いや、今でも信じられない。しかし、周りを見回しても声を出しているのは自分一人しかいない。
「そうそう、その感じ。もう一回、あー」
「あー」
今度はびっくりしなかった。でも、やはり自分の声ではないみたいだ。自分とは別の声なのに、大きく出しているからトレーナーさんの声はほとんど聞こえないのに、音が外れていないことが分かる。それに、不思議と気持ちがいい。
音が合っているからとか、自分のものとは思えない綺麗な声が出ているからとか、そういうことではなくて、もっと単純に、頭の中がスッキリするような感覚。
「はい、オッケー」
一通り声を出し終わった。高い音は口をいっぱい開かないと出せなくて、ちょっと息苦しかったけれども、なんとか声を出すことができた。
「やは~小糸ちゃん上手~」
雛菜ちゃんの感想も先程とは正反対のものに変わっていた。
右を見れば、雛菜ちゃんは拍手までしてくれているし、真似するように透ちゃんも拍手を始めた。円香ちゃんは拍手はしないものの、笑ってくれている。
「うん、いいんじゃない」
トレーナーさんの言葉を受けて、その後ろにある大きな鏡に映る自分を見て、ようやく今どういう表情をしているか知る。
見慣れた顔は、とっても嬉しそうで、楽しそうで。
褒められたから。もちろんそれもあると思う。でもそれ以前に、楽しかった。
この感じで歌を歌ったらどんな気持ちになれるのだろうか。それが楽しみで、すぐにでも試してみたくて。ううん、楽しいに決まっている。
高校では音楽の授業がほとんどないことが残念だけれども、大丈夫。これから歌う機会はたくさん増えるのだから。
「歌うって、楽しいでしょ?」
きっとみんなについてこなかったら、知らなかったと思う。こんなに歌うことが楽しいなんて、体を動かすことが楽しいなんて。
それだけでも、アイドルを始めてよかったと思う。透ちゃんに、みんなについていくことを選んで良かったと思う。
この返事は、トレーナーさんだけじゃなくて、みんなに対して。
「はいっ!」
昔、音痴だったんです。音楽の先生に教えてもらうまでは