マサルがダンデから貰ったヒトカゲは、あっと言う間に成長してリザードンになった。今ではチームのメインアタッカーだ。
(こいつの父親は、ダンデさんのリザードン、だよね……)
ついさっきバトルタワーで倒してきたところだ。つまりあれは、新旧チャンピオン対決にして、父子対決でもあったのだ。
(……え、もしかして、ひどいことさせた?)
ふとそんな気持ちがよぎったが、当のリザードンはどこか間の抜けた笑顔で、カレーが出来上がるのを待っている。頑張ったご褒美に彼の大好きなきのみをたくさん入れたから、いつもよりさらに機嫌が良さそうだ。鼻の穴が大きく膨らんでいるのがその証拠。
(考えすぎか……)
リザードンが『まだ?』とでも言いたげに、小さな唸り声を上げた。その鼻先をちょいと撫でる。
「もうちょっとで出来るからな、待ってろよ――」
「おっ、美味そうだな!」
「わぁっ?!」
マサルは跳び上がって頭上を振り仰いだ。
「ダンデさん……」
「やぁ」
ダンデが上から覆い被さるようにして、マサルの手元を覗き込んでいた。長い群青の髪の毛が無造作に垂れ下がって、カーテンみたいに揺れる。金色の瞳がにっこりと弧を描いた。
「バトルタワーの目の前でキャンプを始めるやつなんて君くらいのものだぞ、チャンピオン!」
「あ、まずかったですか?」
「俺をまぜてくれたら不問にしよう!」
「やったぁ。どうぞどうぞ」
「よーし、みんな出てこい!」
ダンデが放り投げたボールから、ポケモンたちが飛び出してくる。バトルを通して散々慣れ親しんでいる彼らは、さっそくマサルのポケモンたちとじゃれつき始めた。
「うん? ――ああ、いいよ。いってくるといい」
ダンデがリザードンに向かってそう言って、軽くその背を叩いた。どすどすと歩いてきた彼は、マサルのリザードンを誘うように空へ向かって鼻を向けた。
マサルの隣に寝そべって火の様子を見ていたリザードンが、パッと身を起こした。そしてこちらを見下ろして小首を傾げる。その仕草でマサルは察した。
「うん、いっておいで。出来上がったら呼ぶから」
リザードンは嬉しそうに一鳴きして、ばさりと翼を打った。
二匹揃って空中に舞い上がる。
「おわっ」
マサルの帽子が風圧で飛ばされた。ダンデがそれを見越していたように華麗にキャッチして、隣に座った。
「ん」
「すみません、ありがとうございます」
「本当、君ってバトルしてない時は普通の少年だよな」
「バトル中だって普通の少年ですよ」
「ははは、それは知らなかったぜ」
マサルは帽子を被りなおして、カレーをかき混ぜながら空を仰いだ。
二匹のリザードンがくるくると飛び回っている。嬉しそうな鳴き声がここまで届く。マサルのリザードンの方がわずかに声が高くて、よく喋っている。対するダンデのリザードンは、落ち着いた低音ボイスで、時折あいづちを打つように鳴いた。
父親に話すのが楽しくて仕方ない息子と、息子の話を聞くのが楽しくて仕方ない父親。
二匹の姿はそんな風に見えた――
「手を止めると焦げるぞ、マサル……――マサル?! ど、どうしたんだ?!」
「……え?」
肩を揺すられて、マサルははたと我に返った。そうして初めて、自分が涙を流していたことに気が付く。
「あれ? なんで僕、泣いて……えぇー? なんだろうこれ、あはははは」
マサルは誤魔化すように笑いながら、慌てて手の甲で涙を拭った。
しかしダンデは誤魔化されなかった。
「何かツラいことがあったのか? ホップと喧嘩したか? あいつ、へそを曲げると長いからなぁ。どうしようもなくなったら俺を呼ぶんだぜ、どうにかしてやるから。それとも、何か変なファンが付いたか? 悪口とかは日常茶飯事だから、あんまし気にしない方がいいぜ。適当に愚痴っていいからな、いつでも聞くぞ」
両手をわたわたと動かしながら気遣ってくれるダンデがじたばたするウソハチみたいに見えて、マサルは少しだけ笑った。
「違うんです、そういうんじゃなくて」
「じゃあ、どういうのなんだ?」
「んーと……何て言ったらいいんですかね……」
マサルはもう一度空に目をやった。
「……お父さん、ってどういう感じなんだろうなぁって思いまして」
「――」
「僕は、自分の父親のことを何にも知らないんです」
「何も?」
「はい」
マサルは片手でカレーを混ぜながら、もう一方の手でボストンバックを引き寄せた。
長くて過酷な旅を耐え抜いた、丈夫で便利なカバン。すなあらしの中にあっても、海に落ちても、まったくへこたれることなく中身を守り抜いてくれた陰の相棒。
「このカバンはお父さんの物だったらしいんですけど……それだけです。写真も何も無いし、話にも出てこない。何となく、聞いちゃいけないのかなぁって思って、母さんにも聞けないままで……」
「そうか……」
「だから、リザードンたちを見てたら、なんか――なんだろう――……微笑ましく……羨ましく? なっちゃって……」
そうだ、それで、マサルは思ったのだ。
「……あんな楽しそうに話す二人を、戦わせちゃって、良かったのかな……」
呟いたのは無意識のことだった。
「――それは駄目だぜ、マサル」
「え?」
ダンデがあまりにも真剣な声をしていたから、マサルはぱっと振り向いた。
ダンデは声音以上に真剣なまなざしで、マサルを見据えていた。
マサルは唾を飲み込んだ。肩書が変わろうとも、その威風はチャンピオンのまま、変わらない――
「マサルは俺がリザードンを出してくるって分かってて、リザードンをメンバーに入れたんだろう? だったら、それを後悔しちゃ駄目だ。それは、君の指示に全力で従ったリザードンに対する侮辱だぜ」
「っ……」
マサルはうつむいた。
その通りだ。分かっててメンバーにした。分かっててあえて挑んだ。そしてリザードンはマサルの指示に見事に応えて、急所にしっかりと技を当てて、ダンデのリザードンを倒したのだった。
マサルの頭を帽子越しに撫でて、ダンデは優しく続けた。
「それに、心配は無用だと思うぞ」
「――」
「何て言ったって、俺が育てたリザードンからな! 誰が相手だろうとバトルは全力で! 全力でやって、勝ったら“嬉しい”、負けたら“悔しい”、それ以外は何も思ってないぜ! あの様子を見れば分かるだろ?」
ダンデの言葉に導かれるようにして、三度空に目をやる。
相変わらず、二匹のリザードンは仲睦まじく飛び交っている。その二匹がふと、自分たちが見られていることに気が付いたらしい。ぴたりとその場に止まると、ボンッ、と揃って火の玉を空に吐き出した。
「楽しそうだなぁ!」
「……そうですね」
マサルはひょいと立ち上がると、「おーい、カレー、出来たよー!」と二匹に向かって大きく手を振った。
その声を聞きつけて、ばらばらに遊んでいたポケモンたちがぞろぞろと集まってくる。
二人と十二匹がずらりと並ぶと、なかなかに壮観だ。
「やっべ、足りるかなぁこれ……カビゴン、悪いけどちょっと遠慮してくれる? あとで別の何かあげるから」
「俺は大盛りで頼むぞ、マサル!」
「遠慮してください、飛び入りのダンデさん」
「俺はここのオーナーだぜ!」
「うわぁ、パワハラだぁ」
などと言ってはいるが、マサルはカレーが充分足りることを知っている。
(カビゴンのために常に三倍にして作ってて良かった……)
話しながら作ったカレーは少し焦げていた。
(でも、なんか特別な味がする、ような気がする)
取れた胸のつかえが入っているのかもしれない。隠し味とかスパイスとか言うにはなんとも苦みが強いけれど。
「おっ、すごく美味しいぞ、マサル! これはリザードンの好きな味だな!」
ポケモンたちに囲まれてカレーを頬張るこの瞬間が何よりの幸せだ、と大声で言っているかのようなダンデの満面の笑み。
良かったです、よく分かりましたね――と返しながら、マサルはぼんやりと想いを巡らせた。
(ダンデさん、さっきのバトルで僕に負けたこと、忘れたわけがないのに)
全力で悔しがる人だと知っている。握りしめた拳を震わせながら、健闘を讃えて『次は負けないぞ!』と笑う姿を、何度見たか知れない。
でも、
(バトルはバトル、カレーはカレー……ってことかな)
こういう人だから、周りの人たちに慕われているのだろう。チャンピオンでなくなっても、変わらず愛されているのはそういうわけに違いない。マサルだって懐いている人間の一人である。
(……リザードンも同じ。バトルはバトル。お父さんはお父さん。……お父さん、か)
――僕のお父さんは、どんな人なんだろう。
いつか分かる日が来るだろうか。来なかったらどうしようか。その内割り切れるものなのだろうか。好きなタイプじゃなかったらどうしよう。そもそも、どうしていないのだろう。どこかに行ってしまったのか、あるいはすでに死んでしまったのか――
「っ!」
ふいにリザードンが背中に鼻をこすりつけてきた。
まるで、マサルが形のない不安に包まれているのを察したかのように。
(そっか。みんながいれば大丈夫か……)
リザードンだけじゃない。一緒に旅をしてきた仲間たちが、父親よりも深く心に寄り添ってくれている。
マサルはリザードンの鼻先を撫でて、スプーンを握り直した。
「やっぱちょっと焦げくさいですね」
へらりと笑うと、ダンデは「でも美味いからヨシ、だぞ!」と笑い返した。
†
ダンデはカレーをかきこみながら、どうしたものかと頭を捻っていた。
マサルの父親の不在に関しては知っていた。もちろん、詳細は知らないが。ホップもなかなか聞けないとかなんとか言っていた。
『何て言うかなぁ、マサル……お父さんの話が出ると、すっごく……儚い? っていうか、弱そうな顔になるんだぞ。だから……聞いちゃいけないんだな、って思ってさ。だからさアニキ、もしマサルが、そんな話をし始めたらさ、上手い具合に励ましてやってくれよ。頼んだぞ!』
(上手い具合に、って言われてもな……それが一番難しいんだぞ、ホップ!)
脳内で弟に文句を言いながら、ダンデはちらちらとマサルの方を盗み見た。
バトル後、オフィスに戻って窓の下を見たら、マサルが何とも言えない暗い表情でカレーを作っているのが目に入って、思わず飛び出してきたのだ。飛び出してきたのは正解だったが、さて、ここからどうすればいいのだろう。
(バトルだったらなぁ……)
攻めるか、守るか、次に備えるか。究極を言えばその三択しかない。もちろんその先は無数に細分化されて、その分戦術も複雑になり、だからこそ面白いのだが。
残念なことにこれはバトルじゃない。
(……まだ、もやもやしてる、よな?)
マサルのスプーンは中途半端な位置で止まっている。
トレーナーの様子に触発されて、マサルのポケモンたちもどこか不安げな表情だ。
(ん……良くないな。良くないぞ、これは……)
ポケモンはトレーナーのコンディションに左右される。この状態のままでは、負ける未来もそう遠くない――
(良くないぞ! 全力でやれずに負けるなんて、そんなのは駄目だ!)
ひとつ喝を入れてやらなくては、と決意したダンデは、頬に詰め込んでいたカレーをほとんど噛まずに飲み込んだ。
その時だった。
マサルのリザードンがマサルの背中にひょいと鼻をこすりつけた。
それで我に返ったらしいマサルがびくりと肩を跳ね上げて、ちょっと停止して――それから、リザードンの鼻先を撫でた。
マサルの肩から力が抜けた。こわばっていた表情も和らいだ。
「やっぱちょっと焦げくさいですね」
――この間の抜けた笑顔がマサルの持ち味だ。
「でも美味いからヨシ、だぞ!」
と返しながら、ダンデはこっそり胸をなでおろした。
(さっすが、俺のリザードンの子どもで――マサルが育てたリザードンなんだぞ)
リザードンだけじゃない。マサルのメンバーはみんなマサルのことを想って、彼の心に寄り添おうとしている。
(そうだぜ、マサル。君にはポケモンたちがいる。そのことを忘れない限り、君は絶対に大丈夫なんだぞ。――どんな
ダンデは残りのカレーを一気に流し込んだ。
「美味しかったぞ! ごちそうさま、だ!」
「ふぁへるのふぁやいっすね――」マサルは口の中のものを飲み込んだ。「――ダンデさん」
「これでも今日はゆっくりだったぜ!」
「マジすか」
呆れた目で見てきたマサルを、ダンデは何とも言えない気持ちで見返す。
(こうしていれば、本当に普通の少年なんだけどな……)
バトル中の自分の目付きを知らないのだろう。冷徹に現状を見極め、勝利を貪欲に求める、パフォーマンス精神なんかほしのかけらほども持ち合わせていない戦闘スタイル。なのに、ぎりぎりのタイミングだろうが構わず技を繰り出して、それを見事に成功させては会場を沸かせるのだから、そういう特性なんだと言ってもいいかもしれない。
(俺とは正反対の、新チャンピオン。――うん、良いぞ!)
試合終了後に見せる間抜けな笑顔の虜になるファンも多いのだ。
(負けた方はちょっとムカつくんだけどな!)
次は絶対に負けない、という気分になるから、そう悪いものでもないけれど。
新入りのポケモンが食べ終わるのを待って、ダンデは立ち上がった。
「じゃあな、マサル。またいつでも挑戦しにくるといいぞ!」
「あ、しばらく来れないと思います」
「忙しいのか?」
「いえ、図鑑のために、ヨロイ島へ行くことになったので」
「へぇ! ヨロイ島へ!」
ダンデもポケモン修行のために行った場所だ。懐かしい。
「あそこは迷いやすいからな、気を付けるんだぞ!」
「ダンデさんじゃないんで平気です」
「言うようになったぜ、この!」
「いてててて、背ぇ縮んじゃう! 縮んじゃう!!」
マサルのニンフィアに睨まれたので、ダンデはぱっと手を離した。
「じゃあ、君がいない間にたくさん修行しておくぞ。次は絶対に俺が勝つからな!」
そう言うと、ずれた帽子を直していたマサルはにたりと笑った。チャンピオンに相応しい、不敵な笑み――
「はい、楽しみにしてます」
やっぱり、チャンピオンはこうでなければ。
ダンデは今すぐにでも戦いたくなるのを抑えて、にっこり笑うと、踵を返した。
まだまだ、楽しみはたくさん転がっている。
(……まずは仕事、だな!)
長めの昼休みの分を巻き返さなくては。
ダンデは大きく伸びをして、すり寄ってきたリザードンの首を撫でながら、タワーの中に戻っていった。
おしまい