「古城君!」
不安を滲ませた呼びかけが、白昼夢を霧散させた。古城がいるのは赤色の大地ではなく、午後のファミレスの一角だった。
窓ガラスからは南国特有の熱光線が燦々と降り注いでいる。紫外線と熱を遮る絃神島産の高品質ガラスも、光の眩しさだけはどうしようもない。だからこそ、今の古城は眠くなってしまうのだが。
「平気?古城君」
「凪沙、か……」
古城の隣にいるのは、暁凪沙。古城の実の妹である。普段は快活で誰からも好かれる少女の顔には、憂慮の色が浮かんでいた。
今日は8月最後の月曜日。明日からは二人は進級し、凪沙は中学3年生、古城は高校1年生になる。テーブルの上に広がるのは、学生の厄介物にして宝物、夏休みの課題。とはいっても古城の分は既に3日前にやり終えてしまっている。今テーブルの上にあるのは、凪沙の分だけだ。凪沙に、わからないところ教えてついでに美味しいもの奢ってとねだられ、このファミレスに来たのが2時間前。殆ど終わりが見えてきたところで小休止を入れようと凪沙が言い出し、ドリンクバーへと歩いて行ったところで舟を漕ぎ始め――気が付けばあの夢を見ていた。
「ちょっと目を離したらぐっすり眠って、泣いたりなんかして……どうしたのかって思っちゃったよ」
目元をこすってみると、確かに自分が泣いていることに気付いた。光を受ける眼も、未だ濡れている感覚がある。
「そうか……心配かけたな」
「またイタチさんの夢を見たの?」
「……」
凪沙は、古城が転生者であることを知る数少ない人間の一人であり、それ故に苦しんでいたことを知っている人間の一人でもある。
「もう大丈夫さ。心配いらな――」
「古城君の大丈夫は信用できない。何かと一人で抱え込みがちなんだもん。ほら、何を見たのかはっきり言って。古城君のきょうだいは凪沙なんだから」
「わかったよ。だけどまずはお前の課題の消化が先だ。元々、その為に来たんだからな」
むー、と頬を膨らませて凪沙は向かいの席に移った。シャープペンの走る速さは、先ほどよりもずっと早い。どうやら、一刻も早く課題を終わらせ、兄へお節介を焼きたいらしい。その健気さは、陰惨な夢で沈んでいた古城の胸を暖かくしてくれた。
頬が緩みかけたところで、自分の感覚が「警戒しろ」と訴えかけているのに気が付いた。見られている--。不審に思われない程度に、視線の主を探す。
居た。道路を挟んだ反対側。日陰の中でも熱さが解れない真夏日に、喫茶店のテラス席に黒いギターケースを携えて一人で座っている少女。
射貫くような瞳で、彼女は古城をじっと見つめていた。
§§§§§§§§§§§§§
課題を終わらせ、料金も精算したところで、古城と凪沙は帰路についていた。無論、道すがら、古城は自分が見た夢の内容を粗方話しながら、だ。その辺りをはぐらかすと後が怖い。凪沙は、古城君を支えるのはあたしの役目と必要以上に気張っている節がある。
それも仕方がない。4歳の頃から見始めたイタチの記憶は、幼い古城の精神を頻繁に搔き乱してきた。それを一番近くで見てきたのは、凪沙だった。
今は精神的に安定しており、両親は共働きで滅多に家には帰ってこない。殆ど凪沙と2人暮らしだ。
「――てな感じで、夢で見たのは昔の記憶の再構成さ。特に目新しい記憶が見えたわけじゃない」
「うん、嘘は言ってないかな。よろしい。でも何かあったら言うんだよ。牙城君と深森ちゃんがいない分、古城君の事は凪沙が任されてるんだから」
「それは俺の台詞だ。お前の世話は父さんと母さんから任されてるんだ。大丈夫といったら、少しは信用してくれよ。兄貴の威厳を保たせてくれ」
苦笑交じりで返しつつも、古城はイタチの記憶に関してはなるべく凪沙に打ち明けるつもりだった。イタチの記憶とは別件で凪沙には隠し事がある分、健気な妹にこれ以上不義理は働きたくなかった。
古城は第四真祖と呼ばれる、伝説の吸血鬼だ。そして凪沙は魔族恐怖症を患っている。古城は、自身が吸血鬼であることを凪沙に話していない。話せば、凪沙との関係がそこで変節してしまうという恐れもあるが、それ以上に、暁古城が第四真祖であるために厄介事に巻き込んでしまうかもしれないという恐れがあるからだ。
自身が第四真祖であることなど、いつまでも隠し通せることではないと予感していた。この島でその事情を知るただ一人の人間も、「覚悟はしておけ」と忠告された。
だからこそ――ファミレスから出た時から一定距離を保って下手な尾行を続けている少女の正体を見極めなければならない。
綺麗な顔立ちをした、どこか野生の猫を思わせる美少女だ。彩海学園の制服を着ているが、本当に在校生か疑わしい。古城達が足を止めると立ち止まり、歩き出すとまたついて来る。
気付いていないのは凪沙と本人だけ。というか、凪沙には古城が気付かせなかった。うまく話を持たせ、凪沙の視線を背後に移させないようにした。
どうにも抜けた尾行だが油断できない。携えたギターケースの重心の揺れから、中に入っているのは槍だと古城は見抜いていた。
目的は古城か、凪沙か。はっきりさせたいところではあるが下手に二手に分かれたらそれはそれで危険だと思った。
――そろそろだな。
この状況を打開するための一手を、古城は既に打っている。もうじき、合流地点だ。
「あれ、凪沙ちゃん。と、古城じゃない」
「浅葱ちゃん!」
「人をおまけみたいに言うなよ」
いかにも偶然鉢合わせしました、という顔で、古城と凪沙の友人、藍羽浅葱はショッピングモールのドアから現れた。華やかな髪型、校則に挑戦状を叩きつけるような飾り立てた制服が美しい少女だ。全くけばけばしい印象が無いのは本人のセンスゆえか。
「どうしたのよ二人して。デート?」
「ち、違うよ!ただ単に勉強見てもらっただけだったら!」
「お前こそこんなところで何してる?今日はバイトだって言ってなかったか」
なぜかムキになって否定する凪沙を余所に、古城は淡々と訊ねる。当初の予定通りに。尾行している少女はさっと物陰に身を隠し、顔だけ覗かせて様子を窺っている。
「その帰りにウインドウショッピングをしてたとこ。でもやっぱ一人じゃ詰まんなくて帰るとこだったのよ。けどナイスタイミング。凪沙ちゃん、一緒に行こうよ。やっぱ友達と回ったほうが楽しいしね」
「え、でも……」
凪沙は古城が不安なのだろう。古城を一人にするような言い方に、返答しかねているようだった。
「オレはお呼びじゃねーのかよ」
「財布係兼荷物持ちなら歓迎」
「お断りだ」
舌を出して吐き捨てると、古城は背中を向けて歩き出した。
「あ、古城君!」
「凪沙、門限は7時までだぞ。それと、間食はほどほどにしとけよ。小遣いは使い過ぎないこと、それから――」
子どもに聞かせるような小言を矢継ぎ早に続けていく。妹の心配を察し、あえて無視して自尊心を煽るような物言いを重ねる。案の定、凪沙はあっさり乗せられた。
「解ってるよ!古城君のばかあほシスコン!行こ、浅葱ちゃん!」
浅葱の手を取って足音を荒げてショッピングモールに入っていく。去り際の一瞬、古城と浅葱は目で語り合う。
――任せた。
――OK。
これで凪沙は安心だ。ショッピングモールという状況なら荒っぽい真似はできないだろう。傍には浅葱もいる。
そっと背後を窺う。少女は変わらず古城のみを見つめている。
――目的は俺、と。
ならば取れる手段は幾らでもある。この辺りの地理は熟知している。有利なテリトリーは選び放題だ。
ショッピングモールから近すぎず遠すぎずの距離を取ったタイミングで路地裏に入る。少女は何の疑いも抱かずについてきた。逃げ道も物陰も限られる場所だというのに、足取りに迷いが無い。ここまでくるとかえって不安でさえある。むしろ彼女はダミーで、本命はやはり凪沙なのではないかと不安にも思ったが――。
『周囲に不審者は感じられないわ。気をつけなさいよ』
たった今送信されてきた浅葱からのメールはその憶測を否定するものだった。やはり、背後の素人尾行者から話を訊くしかないらしい。突き当りを右に曲がり、一瞬彼女の視界から姿を消す。
少女は慌てて後を追うが――既に古城の姿は無い。
「え!?」
「この程度で驚かれてもな。誰だお前」
背後からの誰何に驚愕を新たにしつつ、少女は振り返りつつ飛び退いて距離を取る。ギターケースを盾にして中の得物を取り出そうとするが、それでやっと気付いた。
「そうだ。この狭い路地裏じゃ、槍は十全に使いこなせない。しかしここまですんなり誘い込まれてくれるなんてな」
「第四真祖――!」
敵意と屈辱を滲ませて少女は呻く。尾行に気付かれ剰え不利な状況に追い込まれた少女の憤懣を、しかし古城は柳に風とばかりに受け流す。
「なんだ知ってるのか。でも正確じゃねえな。オレには暁古城って名前がある。どうせ知ってんだろ?呼ぶんだったらそっちで呼びな。『先輩』をつけてな。姫柊雪菜後輩?」
挑発するように見せたのは、彼女からくすねた二つ折りの財布と通信端末。財布の方に入っているのは現金とクレジットカード、そして学生証だ。
「姫柊雪菜。市立彩海学園中等部3年C組。出席番号23番。妹と同じ学年か。益々厄介――」
言葉はそれ以上続けられなかった。雪菜がギターケースの外ポケットから取り出した針のように丸めた護符が古城の顔に飛翔してきたからだ。
攻撃を予想してなかったわけではない。古城はすっと首を傾けて躱す。雪菜がそれにかまわず一足飛びで直進し、古城の懐に飛び込んできた。
「おいおい、少し話を――」
余裕はそこで途切れた。背後に気配が増えたからだ。そこにいたのは雪菜と寸分違わず同じ姿をした少女。
――分身、いや式神!今の護符は飛び道具じゃなくて式神を発動させるための媒介か!
式神の使用は、攻魔師にとってはポピュラーな術である。だが、人間と見紛う程の式神を瞬時に発動させるなど、この世界においては高等技術の筈だ。
――侮り過ぎたか。
「
一転して窮地に追い込まれた形となった古城の胴に目掛けて、雪菜と式神は前後から掌底を繰り出す。
本体の雪菜の掌に、確かに肉を打つ感覚が届いた。だが。
「な――」
雪菜の掌底が打ったのは雪菜の式神。自我の無い式神は苦悶の表情を浮かべることなく術が解けて唯の紙切れへと変わった。
――変わり身!?
そして式神の背後にいたのは古城。その瞳は赤く染まり、三つ巴の文様が浮かんでいる。それを視認した途端、雪菜は強烈な眠気に襲われた。
「それが、写輪、眼――」
悔しさを滲ませて雪菜は眠りについた。勝者は古城ということになるのだが――。
「さて……これからどうしたらいいんだ?」
不意を突かれて反射的に写輪眼を出してしまった。眠らせて無力化させたのは良いが、このまま放っておくわけにもいかない。
幾ら襲われたからといって、こんなところに女子中学生を放っておくというのは古城の感覚では有り得ない。差しさわりの無いところまで雪菜を運ぶしかないが――。
「影分身に――っ、畜生……」
チャクラ――否、第四真祖由来の膨大な魔力を練って術を発動させようとする。だが、それを遮るように自分の血が疼くのを古城は感じた。
――これ以上は許さぬ。
血の中に宿る獣達が、そう言っているようだった。
「……しょうがねえ。急ぐとするか」
雪菜の傍らのギターケースを肩に担ぐ。必然、雪菜の方は抱きかかえるしかない。雪菜は未だ眠っている。あと1時間は眠ったままの筈だ。
その寝顔をつい窺ってしまう。年頃の少女の寝顔などじろじろ見るものではないが、穏やかな寝息を立てているその顔はどこかのお姫様のようで、いつまでも見ていたくなる程だった。
そう意識した途端、視界が赤く染まり始める。吸血鬼特有の吸血主衝動だ。人の血を吸いたいという抗いがたい欲望が古城の精神を支配しかける。眼前にある、少女の首筋に牙を突き立て、その血を啜れと。
吸血衝動の原因は性欲。古城の精神を埋めようとする衝動の矛先は、雪菜に向いていた。だが、その衝動に身を任せるのは雪菜を放置する以上に有り得ない。
「くそ、勘弁してくれ――」
だが、所詮は性欲。血の味の恋しいというなら、他で代用すればよい。古城は自分の鼻から出た血を舐めて、吸血衝動を抑えた。
出自に由来するのか、古城は興奮すると鼻血が出る。これのお陰で正気に戻れるが、格好つかないことこの上ない。前世が前世なだけに余計に。
「イタチだったらこんな締まらねーことにならないんだろうな、と」
気を引き締め直して思った以上に軽い雪菜を抱きかかえる。人目につかないように移動する当てはついている。それ以上にこの柔らかさと軽さを意識の外に置き続けるのが至難の技だと思った。
§§§§§§§§§§§§§
だむ、だむと球が地面を衝く音で雪菜は眼を醒ました。ここはどこだろうと、未だぼやけた頭で周りを見渡す。
自分が寝そべっていたのはベンチの上。頭上には陽の光を遮るように木の枝が伸びている。
だむ、と意識を引くように再び音が響く。フェンスを挟んだ向こう、ストリートバスケットコートの中心にボールを衝きながら一人の少年が立っている。
寝ぼけた眼が像を結び始めたのを見計らうかのように、少年は駆け出した。ドリブルをしながらだというのにその速さは光のようで、その足捌きが見せる軌道は雷のようだった。
ボールは舞うように彼の掌と地面を行き来する。あっという間にリングの下まで切り込むと、リングへ向かう推力を殺さず体を反転させ、両の手に抱えたボールを叩きこんだ。
素人の雪菜から見ても見事なリバースダンクだった。シュートを決める直前の足捌きにも目を見張るものがあった。バスケットボールの事など門外漢だが、武に覚えがある者として、今の足捌きは一流のそれであると感じられた。
スポーツアスリートというものに初めて感動を覚えたところで、ようやく雪菜は自分の状況を思い出した。
「だ、第四始祖!」
「古城先輩だ、雪菜」
さらりと下の名前を呼びつつ訂正を促す古城。敵意が込められた声に動じる様子は無く、寧ろ微笑さえ浮かべている。
年の近いに異性に気安く名前呼びなどされたことが無い雪菜は、その新鮮な体験に少しドキリとしてしまう。
「周囲に人はいないが、万一ってこともある。オレが第四真祖だってこと、無関係の人間に知られていいのか?」
「……そうですね、先輩」
雪菜の方は名前呼びまでする気は無いらしい。憮然とした表情は変わらないが、険が多少和らいだことを感じた古城は話を進めることにした。
「改めて自己紹介といかないか?お互い、知りたいことや聞きたいことがあるだろうしな」
「そうですね、なら」
ベンチの傍に置いてあったギターケースのポケットから札を――盗られた通信端末と財布が入っていたことを確認しつつ――取り出す。何をするつもりだろうと思うと、札は宙を舞い四方に飛んで行った。
「辺りに人払いの結界を張りました。これで、どんな会話をしても問題無いと思います」
「へえ。優秀な攻魔師なんだな……睨むなよ。嫌味じゃない、本心さ」
フェンスのゲートをくぐり、コートを後にする古城。フェンスの外に置かれた自販機で清涼飲料水を電子マネーで購入する。こういった外に設置されたコートの近くには、使用する人間が脱水症状にならないよう飲み物が買える設備が置かれていることが少なくない。
「オレはスポーツドリンクにしたけど、雪菜はどれがいい?」
「……お茶でお願いします」
了解だ、といって何でもないように自分のお金で麦茶を買う古城。どうにも調子が狂うなと、雪菜は思った。彼は第四真祖、世界最強の吸血鬼だというのに、面倒見のいい先輩という雰囲気しか感じられない。容易く背後を取った時に見せた余裕や、意識を失う直前に見せた鋭い視線の持ち主と同一人物とはいまいち思えない。
断ることもできた申し出をすんなり受け入れてしまったのは、その空気にあてられたからだろうか。それとも、わたしは未だ侮られているのだろうか――。
「ほら、雪菜の分。隣いいか?」
「……ええ、どうぞ」
思考を打ち切るようにペットボトルが差し出された。掌に伝わる冷たさが心地よい。腕一本分の距離を開けて古城は雪菜と同じベンチに座った。清涼飲料水を一口飲み、ふうと一息つく姿に緊張感は感じられない。一応対立関係にある筈なのに、この穏やかさはなんだろう。だが、不快ではなかった。
「言い出しっぺはオレだったな。暁古城。伝説だなんて言われてる第四真祖で、異世界人、『うちはイタチ』の異界記憶保持者だ」
「姫柊雪菜。国家公安委員会管轄、獅子王機関の剣巫です。」
その内容に古城は思案顔になるも、その表情に不可解の色は無い。どこかその答えを予期していたようでもある。
「獅子王機関か。特務機関だっけ。主な任務は大規模な魔導災害や魔導テロの阻止――」
「ご存知なんですね。獅子王機関の存在は一般には公表されていないんですけど」
「一般人のフリをしちゃいるが、オレの状況が一般的じゃないことは解っているつもりだよ。何かしらの組織が接触してくるとは思って、予めリサーチしてたんだ。いきなり掌底ぶちかまされることもあるかもってこともな」
「あ、あれは!路地裏に誘い込まれて先輩がいやらしい顔をしてたからです!」
「え、マジで!?そんなやべえ顔してたかオレ!?こう、不敵でクールな顔してたと思うんだけど!」
「自分で言いますか、それ……」
今日一番の衝撃を受けたという表情を古城は浮かべた。はあ、と呆れた溜め息を一つ零し、雪菜は問いかけた。
「幾つか訊いていいですか」
「おう。オレが応えられるものなら、何でも応えてやるよ」
「路地裏でわたしを眠らせた時のあの眼、あれが写輪眼ですよね。先輩の前世に由来するという瞳術……」
「ああ。写輪眼が有する能力の一つは、相手を催眠術にかけるもんだ。お前を眠らせた後、ここまで運んだんだ。お互い落ち着いて話をするためにな。今はあれから1時間ってところだ」
そこまで言った後、雪菜の目の温度が少し下がった。
「運んだ、ですか。それは先輩が手ずからですか?無防備なわたしを?」
「ぎくり」
何を訊きたいのか古城も察した。誤魔化すことも考えたが、雪菜の目が嘘は許さないと雄弁に語っていた。
「うん、まあ、な」
「いやらしいことを考えたり、したりしてませんよね?」
「……後ろめたいことはあんまりしていない!」
「考えはしたんですか!それに小さいけど聴こえましたよ、あんまりって!寝ているわたしに何をしたんですか!」
「本当に変なことはしていない!綺麗な顔だなーってここまで運んでくる途中に何度も見惚れてただけだ!」
「綺麗って、見惚れてたって……変なこと言わないでください、いやらしい!前世の時からそうなんですか!」
それは、異性からの褒め言葉に慌てて衝動的に出た言葉だったのだろう。決して、本心から古城の前世を詰るつもりで言ったものではない。
「え……?」
だが、古城にとってその言葉は聞き逃せなかった。先刻までの初々しい少年の雰囲気が霧散し、顔から感情がすとんと抜け落ちる。雪菜を見る眼は、再び写輪眼になっていた。
真夏日だというのに空気が冷たい。心臓が早鐘を打ち、危機感を訴えているのにギターケースに手が伸びない。路地裏で対峙した時と相手は変わらないのに、どうして。
「先、輩……」
怯えを含んだその声に、古城ははっとなった。バツが悪そうに、自分の髪をガシガシと掻き毟る。古城の顔に再び感情が浮かび、写輪眼はいつの間にか消えていた。
「あー、まあそうか、雪菜は知らないだろうからな。無理もないか。雪菜、お前は異界記憶保持者としてのオレについて、どこまで知ってる?」
「……先輩が、異界記憶保持者として認定されたのは5歳の頃。御両親の立会いの下で行われた医療検査と魔導検査の結果が、本土に残されていました。先輩の申告では、異世界の記憶を見るようになったのは4歳の頃から。そこでの名は『うちはイタチ』という忍者であると」
「そして今日に至るまで、オレはイタチの記憶を夢で見るようになった。当時は結構辛かったな。イタチは年齢離れして大人びていたけど、オレは右も左も解らないガキだ。そのギャップで、自分が誰なのか解らなくなりそうだった。家族はよく支えてくれたけど、同じ境遇の人間なんていなかったしな。みっともなく当たり散らしたこともあったよ」
自分で自分が解らないという恐怖。それを分かち合えないという孤独。それは雪菜には想像できない。なのに思わず、同情の視線を向けてしまう。
古城はそれに気づいたように、穏やかに微笑んだ。自分の浅はかな感情が見透かされたのが恥ずかしくて、視線を逸らしてしまう。後悔がより嵩んだ。古城は何も言わずにいてくれた。誤魔化すように、雪菜は以前から気になっていたことを口にした。
「先輩は、『うちはイタチ』の記憶の全てを見たというわけではないのですか?わたしは、先輩の事は『暁古城の姿をした異世界人・うちはイタチ』とばかり……」
「いっそそうだったら楽だったんだけどな。けど、夢で見るイタチの記憶は断片的だった。それもオレの年齢と同じ頃の記憶で、イタチの人生全部を体験できたことはない。4歳なら4歳の頃の、13歳なら13歳の頃の記憶の一部を体験できただけだった」
加えて、一度見た記憶は時間を置いてまた見たり、唯の夢として現れたりとまちまちだった。最近は寧ろそちらのほうが多くなっている気がする。
「イタチの記憶を見る度にできることは増えていった。同じ年頃の連中よりも、オレの運動神経は明らかに上だった。路地裏でやってみせた変わり身の術のような忍術や写輪眼も、そうして得た能力だ。でもイタチの思い出は、ほとんど霧がかかったままだ。イタチには両親と弟がいた。親友も恋人もいた。でも、その声も顔も思い出せたことはないんだ」
「どうして……」
「医者も魔導技師も原因は解らないってさ。前例なんて真贋の定かじゃない古文書に書いてあるようなものだけで、参考になんかなりゃしない。結局、オレの場合はそうだったからってのが結論だった」
小休止に自分で買った清涼飲料水を飲み、一息をつく。雪菜は視線を伏せたまま、古城の話を待った。
「イタチの大事な思い出を共有することが無かったから、オレはイタチのフリは出来ないと思った。イタチとオレは前世来世の関係だけど別人。結構時間がかかったけどそう割り切ることにした」
「ならなぜ、先程はあんなに怒っていたんですか?先輩は、うちはイタチという人を別人とは思っても他人とは思っていないように感じます」
雪菜は真っ直ぐ古城を見つめて問うた。理由も解らず怒りを向けられた逆恨みではない。無論、同情などでもない。彼の監視役として、効率的に任務を遂行するための情報収集として訊く必要があった。
……そんな顔が、できているはずだ。
その愚直さを知ってか知らずか、古城は答える。
「オレはイタチの記憶を4歳の頃から見始めた。最初に見た記憶は、見渡す限りの死体で埋め尽くされた大地だった」
凄惨な語り口に雪菜は絶句する。古城は木の葉に遮られた空を仰ぎ見ながら続けた。
「イタチの忍としての道、忍道とでもいうかな。そいつはその瞬間に決まったんだと思う。この世から争いをなくす忍になるってな。笑っちまうだろ?」
呆れたように語る古城の顔には、しかし誇らしさがあった。嘲笑や憐憫の色は全くない。雪菜は笑えなかった。
「そんな忍になるためにイタチは修行に明け暮れた。7歳で正式に一人前の忍になってからは様々な任務についた。その中で傷付けて傷付けられて、欺いて欺かれて、時に殺しもした。争いをなくして、平和な世界を作る為……オレは夢の中でイタチになって、その記憶と感情を体験してきた」
雪菜は今14歳。その半分にも満たない少年が、平和を夢見て命を懸け、その手を血に染めてきた。異世界にそのような人がいたという事実に、雪菜は言葉を失う。
剣巫も、人と社会を守ることが任務だ。だが果たして、イタチ程の覚悟を持って任務に臨めるだろうか。願いを持てるだろうか――。
「記憶は目が覚めれば殆ど虫食い状態だったけど、感情は覚えてる。悲しさ、苦しさ、それに優しさ……一言じゃ言い表せないたくさんの感情を抱えて、あいつは闘ってきた」
「……先輩は、イタチさんを尊敬しているんですね」
「全部に全部、共感できたわけじゃない。矛盾を感じない部分が無いと言えば嘘になる。でも、尊敬に値する人物だとは思ってる。だからさ――」
「いえ、先輩。わたしから言わせてください」
雪菜はベンチから立つと、古城の前で頭を下げた。
「先程の言葉は、根拠の無い誹謗中傷でした。本当に、ごめんなさい」
そんな雪菜の頭を、古城は労う様に撫でた。いやな顔をされるかなと思ったが、雪菜は拒まず、肩の力が少し抜けたように見えた。
「そんな神妙にならなくていいぜ。やらしーのはオレだけだって解ってくれればそれでいいんだ」
その言葉にも手にも、古城の気持ちが感じられた。夏の日にあって、春のような温かさを雪菜の胸に吹き込むようだった。