髪が肩に掛かるほど伸びていた。
身体は細く、肌は白く、まるで自分の体じゃないみたいだった。
慌てて背面台に駆け寄るも、その鏡は美少女を映し出していた。
夢じゃなく現実だと知った俺は、迷わずスマホのカメラで自撮りした。
「あれ、写ってない」
撮影したはずの自分の姿は、何故かどこにも写ってなかった。
……という短編。
怪奇現象とか、都市伝説とか、怪談とか、未解決事件とか。
そういうものに夢中になったことがある人間って割といると思う。俺もその一人だった。
「……これもダメか、映らん。物によっちゃぶっ壊れるし、気軽に試せんよなぁ……」
ある日突然自分の姿がカメラに映らなくなった、なんてその内の怪奇現象にぴったりと当てはまる。
怪奇現象に遭遇したい、怪談に登場してみたいなんて思ったことは一度や二度じゃないけども、実際にこの身に降りかかるとなると、嬉しいなんて感想は出てこなかった。
暫く使っていなかった古いビデオカメラを倉庫から掘り出し自身を撮影するも、撮影中はモニターが壊れたみたいにガビガビだし、録画再生しようとしてもデータが壊れていて確認すらできない。
スマホで撮った写真は一応見ることは出来たけど、そこに映っていたのは自分の向こう側の景色だけだった。
改めて、鏡を見る。カメラに映らない今の俺が唯一自分の顔を見る手段。
そこには女の子がいた。慣れ親しんだ俺のややだらしない男の体じゃない、テレビや雑誌の向こうで見るようなすらっとした体形の美少女の体が。
髪なんて肩にかかるほど伸ばしたことないし、目もこんなにぱっちりとしていない。ひたすら引きこもっていた時期だって、ここまで体が細く肌が白く美しかったことはない。
そもそも鏡を見てこんな体になったと気づいていなければ、証明写真以外で自分にカメラを向けるなんてあり得ない。
そうして気づいた事実、「カメラに映らない」。
そもそも美少女になったこと自体も怪奇現象と言える。どっちがより不気味なのか、正直分からない。
画像、動画が駄目ならと、録音も試してみた。
今の女の声だとヤバいことも色々と言ったような気がするも、いざ再生してみるとノイズが走るばかりで、女の声どころか人の声一つ入っていなかった。
手を叩く音は入った。ただ音声に類するものは機械が聞き取ってくれない。あるいはノイズのようなバリバリザーザーといった音になってしまう。
美少女になっているのは意味不明だけど不幸中の幸いというべきか、思わず写真を撮りたくなるくらいの可愛さなのだからまだマシだ。
これが目を背けたくなるような醜悪な怪物だったらとすると、カメラがおかしくなることも含めて完全にホラゲーの敵役だ。
朝起きたら妖怪とかクリーチャーとか呼ばれる部類になっていた、じゃなくて本当に良かった。
美少女の体は現状、とても心強かった。
あまりの意味不明さに耐えられそうになくなった時、胸を触りながら鏡を見ることが精神回復になる。性欲は馬鹿に出来ないという事を初めて知った。
胸はさほど大きくない。重力でやや垂れているかどうか、かといって手をおわん型にして触れると手に収まりきらない程度の大きさはある。美乳と言う奴だろうか。触り心地も良い。特に下から掬い上げるとき手にかかる重さが程よい加減だ。
そんなことを考えていると、パニックになりそうなのが落ち着く。我ながら気持ち悪いと思う。
写真を撮ったスマホは直後に再起動され、デジカメは充電コードを刺しても起動すらしない。
ビデオカメラは確認した限り問題なく電源が入り中のデータも無事だ。データそのものが壊れてはいるけど。
スマホの録音アプリも、何度試してもまともに音声は録音されなかった。ノイズが走るばかりで、全く音声録音の形を成していない。
全てが全く同じ挙動をしていないのが余計に不気味さを際立たせる。まるで記録に残さないという制約を無理やり機械側が守ろうとしているような、おかしさがある。
スマホで撮った写真は俺がそもそも存在しない形で記録には残り、その後極端に動作が重くなり再起動が入った。デジカメで撮った写真は俺が映る筈だった部分が黒く潰されていて、その後うんともすんとも言わなくなった。
同じ写真なんだから、同じ現象でもいいはずなのに、別のことが起こる。他にも何枚か取ってみたけど、データが壊れたり、写真全体がテレビの砂嵐みたいなモザイクになっていたり、俺だけがいないものとして写真が撮られていたりして、すげー怖い。
音声の方はまだ比較的同じ症状だけど、それでも自分の声がまともに録音されないことに冷や汗が浮かぶ。俺はきちんと喋っているつもりでも、もしかしたら本当に録音されたとおりに発音しているのかも。なんて考えてしまってこの上なく怖い。
スマホの透過写真は、初め見たとき俺が幽霊になったのかと錯覚してしまったくらいだ。そもそも物理的におかしいことがなぜ起こるのか。さっぱり分からない。
自撮りをしているだけでどんどんと正気度が下がっていく。
果たして何度胸を揉んだのやら。
デジカメの惨状に目を瞑り、スマホがきちんと使えることに安堵する。
もしデジカメと同じようにスマホが壊れていたりしたら、今後にどれほどの影響が出るか。考えただけで恐ろしい。
自分の姿を画像や動画にして記録することが出来ず、音声も残すことが出来ないという輝かしいとは到底言えない成果は得たけど、どうも時間を無駄にしてしまった感が否めない。
しかし、それ以上の害はなさそうだというのも成果と言えた。
L○NEを開き、友達一覧を素早くスクロールする。
高校の時はオタク道を突っ走っていたせいか、あまり友達はいない。2秒とかからずに一番下まで到達した。家族、部活関係、バイト先関係、友達諸々、あとは幼馴染。それくらいだ。「友達」の一覧のクセして、友達の割合がかなり少なかったりする。最下位ではないけど。
共働きの両親はいま家にいない。メッセージを送ったとして、今は昼間だからいつそれを見るか分からない。
でも仕事に疲れ帰宅してきたとき息子が美少女になっていても、意味不明すぎる。俺だって混乱しっぱなしだ、もう一つの異常事態の方に意識を持っていっていないと叫びだしそう。
やっぱり、送っておいた方が良い気がする。
『仕事中ゴメン
朝起きたら何か女になってました』
『原因不明で意味不明です
写真見せたいけどスマホの調子が悪いのか何故か撮れないです』
『多分通話も無理。帰ったらきちんと話したい』
すぐに返事が返ってきた。
『意味が分からないです。千切れたてことですか。
病院行ってください。写真撮らなくていいです』
『大丈夫か? 何処かにぶつけたのか?
完全に駄目になったという訳じゃないだろう?
病院行ってこい』
両親ともから同じような文面が返ってきた。
両親の反応は当然だ、突然男から送られてきたら俺だってそう思う。ちなみに母がナニが千切れたと、父親は金的を食らったと思ったらしい。
取り合えず怪我ではないとだけ送って、ひとまず両親も寝ぼけてるとでも思ったのか、軽い返事で終わった。
いやしかし、両親とのやり取りで意識が体の方に戻ってきてしまった。
美少女、女だ。カメラに収めることが出来ないせいで鏡を見ることでしか自分を確認することが出来ないけど、それは間違いないと思う。
ずいと鏡に顔を寄せると、くりくりとしたやや明るい色の目が映る。唇、鼻、まゆげ、どれをとっても美しい、ような気がする。鏡の枠を隠せば、目の前に美少女が迫っていると考えられなくもない。
小さい鼻に大きな目、やや童顔と言えそうなそれは妖艶と形容するには背伸びしすぎな気もする。可愛い、ちょっと大人っぽい、そんな感じだ。
男の中でも割と表情が乏しい方である自覚がある俺だ。表情のせいでやや大人っぽさが出ているだけで、笑えば普通に可愛い女の子に映るかもしれない。
……何か一瞬、人を殺してそうな危ない笑みを浮かべる少女が目の前に現れた気がしたけど、気のせいだろう。
しかし、しかしだ。俺の見ている鏡は鏡であって、姿見ではない。
顔を見るのには十分と機能しているし、禁断の布もまくり上げて二つの山の頂を見ることも出来た。
それでもこれは姿見ではなく、洗面台の鏡だ。
確実に女になったとは理解しているし、触って確認もしている。けど、好奇心は抑えられない。
洗面台の淵に足を置き股を大きく広げ身を乗り出して、背徳感とかなりの羞恥心と引き換えに俺は股間のあれを見た。
見えない方が想像力が掻き立てられてエロい、という事がよく分かった。
それに俺が股間を見るために起こした行動の滑稽さが余計に際立って、好奇心の代わりにあふれ出る羞恥心にくるまるように俺は床を転げまわった。
「……美少女のと考えたら、まだ」
グロいと思ってしまったのは変わりはないけども。
改めて考える。
どっちがより気にすべき事柄なのか。ぶっちゃけてしまえば、より異常だと思うのは、この体質というべきか分からない異常現象だと思う。
自分の姿がカメラになかったことにされたスマホ写真の数枚が印象深い。
でも、学生生活……どころか、人として生活する以上この体の変化が一番影響するのも事実だ。
学校はどうしよう。
座席指定がされていないような講義なら潜りと同じように受けること自体出来そうだ。潜りが出来ない座席指定の講義、学生証を提示しないといけない試験については絶望的と言える。何せ学生情報の性別や顔写真と全く違うんだから。
バイトも続けられるだろうか。
事情を話して別の人間として雇い直してもらう、なんてのは虫が良すぎる気もする。そもそも今の俺(美少女)という人間は、突然現れたようなものだから色々なところに問題があるかもしれない。同じ人間として扱うにも無理がありそうだ。
何をするにしてもまず、親に体を見てもらって事情を話すしかないか。
果たして信じてもらえるだろうか。面影なんてないに等しいから、説得するしかないんだろうけど。L○NEの一覧の通り友達の少ない俺のコミュニケーション能力を考えると、色々とハードルが高すぎる。
今日は流れで大学をサボってしまったけど、座席指定されている語学の講義なんてこの体で行ったとしても「教室間違えてない? 頭大丈夫?」と聞かれるのが簡単に想像できる。
友達登録していた同じ講義受けている友達に風邪ひいたと嘘をつき、講義内容を教えてもらったけど、これが続くようなら流石に心が痛む。
考えるのが嫌になり県外の遠くの大学に行った幼馴染に連絡を取った。
『起きてる?』
『講義中。遅よう』
『俺もとっくに起きてる』
『草
何で聞いたし』
『何となく
でさ、同窓会とか俺ら行ってないじゃん』
『急にどうした。懐古ってやつ?』
『まあそんなもん』
『あの小学校結構グループで固まってたし
あんまりクラスみんなで遊ばなかったしな』
『もし行ってたとして
整形したりとかで面影全くない奴いたらどうする?』
『したのか?
するのか?』
『俺がしたところで何もならんでしょ
俺の場合全身整形しねーと』
そう送ってから、今の俺は全身整形したようなものだよな、と思った。面影ないし。
プラスアルファで性転換手術をしたと言えるかもしれない。
『おれは話しかけないな。誰か分からねーし
嫌いな奴だったら気まずいだろ』
『確かに
参考になったわ。サンキュー』
『おわり?』
『おわり』
『夏休み集まってあそぼーぜとかじゃねえの?』
指が止まる。
この不思議現象から夏休みまでに解放されるんだろうか。そもそも、元の姿に戻れるんだろうか。
最後に会ったのは去年の冬。まだ半年も経っていないけど、長期休暇や連休のタイミングくらいしかみんなの時間が合わせられない。
『じゃあそれも』
『じゃあって何だよ
すげー後付けっぽい』
『バレたか
バイトのシフト調整してみるわ。BBQ?』
『良いな、いつものメンバーも誘うか?』
『そだな。とりまみんなの予定聞くか』
嘘に嘘を重ねそうなことを送ってしまったけど、これで良かったのか。
最初こそ、絶対に飛んで来れるような距離じゃないからこそ全部洗いざらい話してしまおうかと思っていた。そしてそれを黙っていられる人間だと、俺はこの幼馴染を信頼している。
けど送信できなかった。
バーベキュー、行けるまでに何とか元に戻れたら良いな。
他の幼馴染連中にやり取りをしながら、服を着替える。
両親が仕事な以上、いつもどおり俺は外に出て夕飯の買い物に出かけねばならない。
正直今日に限っては、親に惣菜を買ってきてもらうと言う手段が適応されても良い気はするけど、この体の説得のため両親を不機嫌にさせるわけにはいかない。
女物の服、俺持ってないけど。
しかしながら人間、そんなに人のことを気にしていないように思う。すれ違った人間の服を覚えてるかと聞かれても俺には答えられない。
だから、よほど変な服装とか言動をしない限りは女の服じゃなくても問題ないのでは、と。
とか何とか考えながら胸の膨らみ、と言うよりは山頂部分が浮き出ないように重ね着をする。
「……今じゃなくて良いか」
胸が膨らんでいるせいか、それとも俺が女だからなのか、やや胸の先端に違和感はあるものの、上に重ねて着る予定だったシャツを脱いでそこら辺に放り投げた。
季節はもう夏といって差し支えがない。何で今すぐ出かけるわけでないのにこんなに重ね着をするんだろう。
そう結論づけて、だらしなくベッドに飛び込んだ。
布団に包まり女子の匂いを嗅ぎながら胸を触っていると、何だかおっぱじめそうな気分になってしまったのですぐ飛び起きたけど。
しかし本当にどうしよう。
コンビニか100均にでもいってせめて下着だけでも購入すべきだろうか。特に胸の先端が気になってしまう。
これが胸を揉みすぎたせいだ、なんて誰かに言われた日には羞恥心で死ねる自信がある。
俺に現状どうしろと。もう一度寝て起きたら治っているんだろうか。昨日に何かした覚えはないので、順当に行けば問題なく戻れてもおかしくない。
まあ、寝て起きただけでこんな怪奇現象が起きているんだ。順当に物が起こるというのは信用して良いはずがない。
なんて考えていたら、腹が鳴った。
そういえば体に夢中になっていて飯食ってなかったな。男子の性欲は凄いのだ、今の俺にその言葉が当てはまるかは難しいところだけど。
昼は弁当。家族全員分作るのが楽で安上がりらしい。夜中に両親が翌日の弁当の準備をしているのはいつもの光景だ。
「いただきます」普段は学校の食堂で食べているから、ちょっといつもと違う感じがして新鮮だった。
その後、バイト先にも家庭の事情で暫く休むという事を連絡したり。
順調に周りに嘘をつきまくっていることに罪悪感というか、悪人感を覚えてしまう。俺ってこんなに平然と嘘をつける人間だったのか、と自分の嫌な一面を知ってしまった。
ともあれ、このままではバイトも厳しい。力仕事もある職場だ、一応軽い仕事で済むパートもあるけど、女になったってことを受け入れられたとして、今まで通りには働けないよねじゃあバイバイなんて可能性もある訳だ。……それはそれで世間的にオッケーなんだろうか?
そんなこんなで買い物に行く時間になったんだけども。
家を出てきちんと鍵を閉めて、自転車にまたがって、暫く。
妙に視線を感じる。そんな変な格好をしている訳でもないのに、何故か見られる。
もしかしてそんなに今の俺はを引く姿なんだろうか。服を表裏逆に着ていることはないし、ズボンのチャックが開いているという事もない。胸も流石に立っているのが見えているという訳でもなさそうだ。
美少女だという自覚はあるけど、帽子をかぶっているしそこまで顔を見られている感じもしない。いったい何が目を引いているのか。
ガタンと乗っている自転車が段差に大きく揺れる。
その瞬間、胸に大きな重力が掛かった。
「……あっ」
いや待って。それはないでしょ。確かにすげー胸に段差とかの衝撃来るなとは思っていたけども。
思わず自転車とはいえ運転中という事も忘れ下を見る。すると見える見える、服の上からでも結構に揺れているのが分かる二つのアレが。
マジかよ。
まさか外から丸見えとは普通思わない。俺も男だしつい胸に視線が吸い寄せられてしまうこともあるにはあるけど、胸が外から見てもまるわかりなほど揺れるところなんて見たことないぞ。
え、ずっと俺は乳揺らしながら自転車に乗っていて、しかも俺のこと見てた人全員がそれに気づいていたってことか!?
自覚した直後のことだ。自転車に乗ってる小学生くらいの男子が明らかに俺の胸元を見ながらすれ違っていった。少し後ろの方でガシャンと自転車が倒れるような音がしたけど、きっと気のせいだ。そういう事にさせてくれ。
……死にたい。
ブラジャーの必要性を強く理解し、帰る前に何処かすぐ近くで買う事を誓いながらも、やっとこさスーパーに到着することが出来た。
ただ買い物に向かっただけなのに、羞恥心で心の中はとっくに半泣き状態だ。俺が女性の事情を全く知らなかったから、と言う他ないんだけど。せめてもう少し何かヒントが欲しかった。
前カゴからエコバッグを取り出し、ポケットに突っ込んだ財布と自転車のカギを確認しながらもスーパー入り口の自動ドアに向かう。
「こんなんだったら、お母さんたちに総菜買って帰ってもらった良かった……」
思わず心の声が漏れ出てしまう。
スマホを家に置いてきたことをこれほどまでに後悔した日は後にも先にも今日くらいだろう。
スーパーには流石にブラジャーは置かれてはいないだろう。しっかりと見た訳ではないけども、100均とかコンビニになら肌着っぽいのが置いてあるのは見たことがある。それまでこのノーブラは我慢という訳か。
耐えられるだろうか。いやもうぶっちゃけあの小学生には確実に揺れているのを見られたとハッキリとしている時点で、羞恥心が既に限界を突破している。
もう男の尊厳とか矜持とか言ってる場合じゃない。ブラジャーをしないと、社会的に、俺自身の羞恥心的にも死ぬということがよく分かった。
ないとは思うけども、町内の不審者とかと同レベルで扱われる可能性がある。男に戻れる可能性を捨てた訳じゃないけど、流石に自分が痴女の噂を広げられたくない。
歩くだけなら、多分外からはっきり分かるほど揺れることはないだろう。念には念を入れて揺れないよう歩くつもりだ。
ああ、どうしてこうなった。全部俺の軽率な行動のせいなんだけど。
心の中でさめざめと泣きながらも、体を大きく揺らさないよう小股の早歩きで自動ドアを潜る「くぃんっ」……ことは出来なかった。
小股で歩いていたせいか顔面と、胴体から突き出た胸が思いっきり自動ドアのガラスの部分に押しつぶされて変な声が出る。
衝撃で後ろによろめいて尻餅をついた。自動ドアは俺を拒んだ。自動のドアという名前の癖にドアはびくともせず閉じたままで、ドアの上にあるセンサーの明りは緑色のまま俺を見下ろしていた。
「……胸が痛い」
物理的に。何か脂肪を抓んだ時のとは全く違う、何か重要なものが思いっきり挟まれたような鈍い痛みだ。ズキズキと後を引く痛み。いや踏んだり蹴ったりで心も痛いけど。
絶対潰れた。絶対に胸が潰れた。これもブラジャーをしてないからだとでも言いたいのか、天の神よ。
盛大に自動ドアにぶつかって転んだ女の存在は周囲の注目を集めてしまったのか、物凄く見られている感じがする。慌てて起き上がって自動ドアを潜ろうとする。
でも開かない。まるで俺をセンサーが無視しているかのように、上の明りは緑色のまま。手を振っても開かない。自動ドアを触ったり目の前で飛び跳ねたりしても、全く反応しない。
もしかして、あの体質のような怪奇現象が原因か。
なんて考えてたら自動ドアが開いた。中から人が出てきた。
……という事は。奇麗さっぱり意識の外に追いやっていた事実を思い出した俺は、思わず出てきた人の方に視線を向ける。
出てきた男は明らかに俺の胸を見ていて。
「……っ」
突っ込んだ拍子で潰れた胸は、まさか店内からだと付けていないのがバレバレだったのか。少なくとも俺には何が真実なのかは分からなかった。男に声を掛けられるようなことがなかったおかげで、幸か不幸か真実を知らずに済んだ。
ただ、ただ一つ確実に分かることは、不気味だけど実害はないだろうと高を括っていた怪奇現象に一杯食わされた、という事だ。
その後、無心で買い物を済ませ、近くの100均でサイズが分からないけど適当に下着を買い、トイレで付けて帰った。正直思い出したくもない。ブラジャーをどこでどうつけたかも覚えてない。ただ母親に馬鹿にされたことだけは覚えている。
今日一日で唯一良かったことと言えば、割とすんなりと両親が信用してくれたというくらいだ。マイナスがゼロに近づいたようなものだけど。
あとコンビニには女性用下着が殆ど置かれていないと後日知った。
自動ドアの前で反応されようと手を振ったりぴょんぴょんするTS娘が書きたかっただけだったりします。
読了感謝です。