『Re:ゼロから始める異世界生活』web版の第六章79話以降である80~89話辺りのどこか、というのをコンセプトにした物語です。
二次創作の都合上、設定の矛盾や過剰な演出などが含まれています。

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第六章8■ 『とても斯くても、英雄は反転し、辿り着く。』

 何度目だったろうか。

 

 踏み抜いた白い床を蹴り付け、前屈みに駆けて行く。

 その頭上を風が通り過ぎる。風は髪の毛の先端を少しだけ持って行き、一直線に床を抉った。途端に空気の捩れる音がし、如何なる原理によるものかは不明だが、床が破損過程を逆再生しているかのように蠢く。それが完全に元の平坦さを取り戻した時、数メートル先ではまた新たな裂傷が出来ていた。今度はより深く、直後に生じる修復の捩れも同様に大きくなる。

 

 ぐいと引き寄せられた背後に汗を置き去りながら、ユリウスは敵の懐に潜り込んだ。

 

 刃先が見えない引力との甲高い摩擦音を乗せ、唸るように振り上げられる。大気の悲鳴だけが、空振りを教えてくれる。

 その時目は既に、横から迫り来るゾーリを捉えていた。思い切り伸ばした腕の勢いは殺さずに、そのまま身を反らせて回避。顎をゾーリの先が削り、僅かに散る血の向こうに嗤った敵を見据える。

 

 ──真紅の抜き身がそこに立っていた。

 

 剣に対する人々の感情は様々だ。

 憧れを背負い、聖なる剣を携えし国の守り人を『剣聖』と呼ぶ。

 剣しか持たず、人生全てを捧げた馬鹿者は『剣鬼』と呼ばれた。

 

 ならばこの男は、存在そのものが限りなく剣に近い戦闘の化身。その切っ先は天上に至ってなお無邪気に、そして獰猛に嗤う。

 もし剣が自我を持ったとしたら、きっとこの男と瓜二つだろう。

 そんな男が、今はたった一人の騎士に溢れ余る闘志をぶつけていた。

 

 何度目だったろうか。

 

 全身の筋肉に、ビリビリと鋭い電流が走る。

 衝動、闘志、高揚感。それら全てが血液に溶け込み、心臓を打ち付け、体内で繰り返し循環していた。息苦しさすらも今では心地良い。息継ぎは不要。死への一歩が戦意に薪をくべる。

 

 末端にまで流れ込んだ熱はそのまま指から剣へと伝い、温度を同じくする。

 今なら鋼も己の体の一部だ。ならばただ、手を伸ばすだけでいい。この手はまさしく、敵を斬る刃。遥か高みに届く鋼の意志。

 

「かっ!」

 

 その切っ先が一本の箸に弾かれ、胸中を襲ったのは絶望ではなかった。

 

 軋むほどに柄を握った手が震えた。

 口端が震えた。

 だが叩き落されてはいない。

 まだ、折れていない。

 

 一体、何度目、だったろうか。

 

 ユリウスは歯を剥き出し、喉に込み上がって来た熱を躊躇い無く漏らす。

 

「はっ」

「いい面してンじゃねえか、オメエ。いいぜ。笑え笑え。それが崩れたら、オメエ、二度と笑えなくなンぞ──」

 

 同じ顔をしたレイドの声は歓喜に濡れていた。そして、その語尾が伝播してユリウスの鼓膜を震わすより早く、骨を打ち合う反響音が白い空間に脈打つ。

 騎士の証でもある剣が、原始的な暴力の前に塞がれた。しかし、それに構わず頭を突き出したユリウスの奇襲に、レイドの額の皮膚が僅かだけ切れる。

 張り詰める熱気。温度の上昇に合わせて、二人の笑い声もまた高くなっていく。

 レイドは意趣返しだとばかりに頭突きをし、ユリウスは折れた歯を吐き捨てて迎え撃つ。

 

 そこに優雅や美しさのように洒落たものは存在しない。そこには礼儀や作法のように堅苦しいものも、尊厳や矜持のように無粋なものなど共在するはずが無かった。

 どこまでも果てしなく真っ白な部屋で繰り広げられるのは、血腥い男同士の、泥臭い喧嘩だった。

 

 「ユリウス──……」

 

 離れた場所で少女が名を呼ぶ。儚くも優しい声に不安の色は見えず、勝利の確信に満ちた顔で、同時にどこか呆れたような顔で見守っていた。

 二人の闘いに、自分の入る場所は無い。だが、彼の闘う理由の一つになれるのならそれでいい。自分は仮とはいえ彼の主であり、彼は自分を守る騎士なのだから。ならば彼の誇りを守るのは自分だろう。

 ユリウス・ユークリウスの在り方を、今はエキドナが──そしていずれは、元の主であるアナスタシア・ホーシンが代わりに背負えばいいだけの話。

 

 主従とは片方が守られてばかりの関係でないと、身近にいた二人のおかげで気付けたのだ。

 

「──エキドナ!」

 

 噂をすれば影がさす──厳密には思い浮かべただけだが──とでもいうべきか、ふと顔を上げた際に声がした。聞こえた方へ目を移すと、そこだけぽっかりと空いた階段の穴の中から見慣れた顔が出てきた。一目散に走って来たのか、はたまた戦闘の余韻か、額には汗の粒が引っ付いている。幸いなことに血の跡は無かった。

 何かと面倒ごとに巻き込まれ、高確率でその中心にいる男、ナツキ・スバル。ユリウスとは割と拗れた関係であり、エキドナとしても油断ならないライバルだ。だが、この状況にまでそんな意地を持ってくる訳にもいかない。今では頼もしい味方だ。

 そして彼の後ろを付いて来るのは、契約精霊であるベアトリスに魔獣使いのメィリィ。緊急戦線の一角を担っていたメンバーが見えた。

 

「やあ、ナツキくん。無事みたいで良かった。君たちがここに来たということは……」

「ああ。シャウラは何とか解決した。今は連れて来れないけど、多分大丈夫なはずだ」

「君が言うのなら、きっとそうなんだろうね」

 

 何の気無しにそう言うと、スバルは虚を突かれたように目を丸くした。不本意ながら、エキドナに対しては同名の別人物の印象が色濃く残っている彼だ。その心情もおおよその予想はつく。

 だから、あえてエキドナはそれを無視して続けた。

 

「それじゃあ戦況は、あと三つか」

「……ラムはまだ戦ってるし、エミリアたんも『試験』が終わってねぇ。でも俺たちは上の階層に行けないからな」

「『暴食』は彼女一人に任せていいのかい?」言いながら、目線を横に向ける。「正直言って、ボクたちが加勢するならここよりは彼女の方だと思うが……」

「邪魔できねぇ、って意味ならラムも同じだろ。むしろ、さっさと終わらせろっつったユリウスの野郎が遅いから、ちょっといちゃもん付けに来たんだよ」

「はいはい。仲良し仲良し」

 

 速攻で否定するかと思いきや、スバルは静かに横顔を見せる。その黒瞳が向かう先は男と男のぶつかり合いだ。黙って二人の様子を眺める彼に、エキドナは口を噤んだ。

 迷いや焦りとは違う。信頼、落胆、憤慨、どれでもない。

 

 あれは、過去の自分を見る目だ。

 

「──そんなに熱心に観察しても、スバルのかっこよさはベティーにしか分からないかしら」

「ベアトリス」

 

 ふと彼の後ろから聞こえた声に視線を少し下ろすと、金髪の可憐な少女がぴんと背筋を張って出て来る。

 

「ベティーの背はお前とそこまで変わらないのよ。わざわざ首を動かすほどでもないかしら」

「いやなに、可愛い妹分を見ている気分でね。見下ろすつもりは無かったけど、そう感じたのなら謝るよ」

「ふん、なのよ」

 

 方向性は多少違えど、スバル同様エキドナに苦手意識のあるベアトリス。お揃いの反応に溜め息を吐き、エキドナは再びユリウスの方へと向き直る。

 先ほどは戦力としてどちらに加勢するかなどと話したが、彼女も胸の内では分かっていた。ユリウス・ユークリウスという男にとって、直接力を貸すより見守っている方がよほど力になるということを。

 幼い頃から、国と人とを守るため剣を振るう、それを是とする騎士として育てられた。

 人の期待を、良くも悪くも確固たる使命として背負い、成し遂げようとする男だ。信じて任せれば、彼は望んでいた以上の成果を持って帰る。

 

 だって、それはまさに──

 

「──英雄幻想」

 

 決して、大きい声ではなかったように思う。

 

 少なくとも、エキドナは隣で呟かれたスバルの言葉をそう捉えた。すぐ傍にくっつくベアトリスも、疲れた様子で彼女に手を掴まれているメィリィも、特にそれらしき反応をしなかった。

 だが一人だけ。

 一人だけ、大声で怒鳴られたかのように肩を震わせる者がいた。

 

「っ……スバル?」

「おう」

 

 数十分間、ひたすらに決闘に興じていたユリウスが初めてこちらを見やる。

 無論それも一瞬のことだ。初代『剣聖』レイド相手に一秒の油断は一生の終わりを意味する。だから、本当に瞬間的な顔合わせだった。

 それでも多くの言葉が交わされたのだろう。

 

 ユリウスにはまだ、彼が記憶を取り戻したという事実を伝えていない。おおよそ感づいてこそいただろうが、頭で考えるのと実際に見るのは段違いなはずだ。それがたとえ一言足らずの挨拶だったとしても。

 語らずとも伝わるものがある。人は言葉以外にも意思を分かり合う手段があるから。

 

「おいこらユリウスてめぇ! さっさと片付けて他の援護に回れっつっただろうが!」

 

 と、そう思っていたエキドナの鼓膜を甲高い声が震わせた。

 

「む、無茶を言うな! 大体、君こそついさっきまで記憶がどうだのと、どれだけ心配をかけたか分かっているのか!」

「うっせ。他の面子にはもう謝ったし、わざわざお前一人のために説明してやる暇がないんだよ。適当に都合よく分かっとけ」

「無責任な……」

「お前こそ、名前、まだ見つからねぇのかよ」

「……名前なら、もう名乗ったさ。……私はルグニカ王国、王選候補者、アナスタシア・ホーシン様の一の騎士」スバルの方を見ず、熱気と共に吐き出す。「ユリウス・ユークリウスだ」

「それだけか?」

「──? それだけとは、何を……」

 

 素っ気ない会話とはいえ戦闘中だ。レイドの豪腕とゾーリを避け、場合によっては受け止めながら、ある程度距離が離れたタイミングでしか返事が出来ないユリウスは歯切れが悪い。だが、理由はそれだけではないそうに感じた。

 そしてそれを綺麗に吹き飛ばすように、大声が白い空間に轟く。

 

「俺の名前はナツキ・スバル! ロズワール邸の下男にして、こちらにおわす王候補──エミリア様の一の騎士!」

 

 いつぞやにも聞いた台詞と、いつぞやにも見たポーズ。

 根拠の無い自信を踏み台に人差し指を高らかに掲げている。嫌でも注意を惹きつけられる口調に振り向けば、鋭い三白眼と目が合った。前と違う点は、肝心のエミリアが今はいないこと。そして、当時は腰に当てていた反対の手もベアトリスに掴まれている。心なしか彼女も浮ついた顔で口端を吊り上げていた。

 しばし呆気に取られてから、ああ、とそこでユリウスは思い出す。このところ記憶喪失だの『暴食』だの色々と騒がしかったせいで、すっかり忘れていたことがあった。

 

 ナツキ・スバルは、人の期待を蹴飛ばして思いもよらない方向から土足で上がり込んでくる男なのだ。

 それまでの流れも雰囲気も全て台無しにして、自分のペースに持っていく。一見それっぽい暴論と勢い任せの虚勢が面に張り付いた騒がせ者。

 良くも悪くも、影響を受けた者は多いだろう。

 

 それは、王城であった一幕のことだ。

 

『暴食』の権能によってユリウスの存在が消され、過去の一部が改変されたのでエキドナたちには分からないだろうが、騎士としてその場にいたユリウスもあの醜態を見逃さなかった。

 本来あるべき過去、その際二人の間に何があったのかは、それこそ二人だけが知っている。

 

「そん時は自称だったが今は違う。エミリアたん公認、本物の騎士だ。あとはベア子の一番の契約者で、姉様にとってタイミングが良いだけの男で、オットーからしたら一応ダチらしくて、ガーフィールには大将って呼ばれてるし、パトラッシュとかメィリィとかエキドナとか、もちろんアナスタシアさんとも他人じゃなくて……それで、お前のライバルだ」

 

 そこだけ意地でも友と認めない彼を咎める余裕は無かった。

 レイドの箸を紙一重でかわし、風圧に押される体を翻して放つのは回し蹴りだ。しかしあっさりと受け止められたと同時に足払いが来る。嘘みたいに両足が床から離れ、全身が宙に浮かんだ僅かな間。嗤う赤髪の化け物がその停滞を見逃す理由など、どこにあるだろうか。

 獲物を前にした鮫の如く喰らいついた拳骨が、鼻柱をへし折った。

 

「俺の名前は一つじゃねぇよ。俺が知ってる人、俺を知ってくれてる人、それぞれに数え切れないほどの恩と名前を貰った。菜月昴っていう最高にかっけぇ名前で生まれて、ここじゃナツキ・スバルでもあるし、騎士様でバルスでスバル君で、最後に俺だ」

「────」

 

 ユリウスの体が羽のように宙を舞う。

 顔の形が崩れた気がした。首が曲げられない。

 もはや鼻だか口だか分からないそこかしこから血が湧き出る。止め処なく命の容量が減っていく。

 頭がしんと冷え切った。昂っていた神経回路が遮断され、視界が熱と明るさを失う。果てしなく遠く白い天井に、何十回と見えかけた黒星。ここで起き上がることが出来なければそれは確定する。

 

 いつからか音のしない鼓動。

 不意に圧し掛かる眠気。

 激しく明滅する意識。

 

 そこに浮かび上がるのは夢──走馬灯。

 

 いつかの景色を見た。

 

 開けたばかりの目に強烈な赤が突き刺さる。

 それは血でも髪でもなかった。絨毯の色だ。見慣れた赤が敷かれた大広間。見慣れた服装に、見慣れた面々。

 数十から数百に及ぶ大勢の中で、一際目立つ人物がいた。

 

『この場で最優の騎士だなんて持ち上げられちゃいるが、巷じゃ騎士の中の騎士って称号は別の奴のもんになってるぜ。……そんな奴の言葉に、俺がビビるとでも』

『ナツキ・スバルと言ったかな。安易に他者を貶める言葉を口にすることは、己の価値だけでなく、君の周囲の人物の価値にすら傷を付けると知るべきだ』

 

 その人物に話しかける者がいた。

 誰だろう。見慣れた顔で、声で、言葉だった。王国近衛騎士団の制服を立派に着こなし、真っ直ぐ伸びた背と両肩には穢れ無き誇りが乗っている。

 それが自分の姿だと気付くのに、ユリウスは数秒を要した。

 

『ナツキ・スバル。――それは』

 

 夢の中で自分が言う。まだまともな騎士だった頃の自分だ。

 騎士の中の騎士、最も優れたとまで評されていた、過去のユリウス・ユークリウス。

 

『それは』

 

 言葉は続かない。

 言っているのは自分なのに、過去のことなのに、なぜか思い出せなくて言葉に詰まる。

 

『それは』

 

 誰もが忘れた光景だからか。

 人の思い出を踏み躙る、悪質この上ない権能に咀嚼された泡沫の夢だからか。

 

 いや、そうではないだろう。

 あの時の記憶は自分の中に残っている。彼の恥にも残っている。

 ならば、この先を拒んでいるのは自分だ。

 

「──なあ、お前のどこが騎士なんだ? 顔中血塗れで殴り合うなんて、そんなの……」

 

 ふっと、靄が晴れるように耳鳴りが止んだ。

 霞んだ目は見えず、潰れた鼻は利かず、けれど彼の声が聞こえた。

 突然のことに夢の景色が崩れ落ちる。意識が現実に引き戻され、状況を再認識した。聴覚以外はまだ鈍い。耳だけが健康なものに取り替えられたかのようだった。

 

 何度目かも分からない、満身創痍。

 自分の状態が、今しがた見ていた走馬灯の誰かとそっくりな気がして、ユリウスは笑った。

 

 こんなの、まるで──

 

「──『美しくない』。ああ、確かにその通りだ」

 

 優雅さを失って開かれた視界に、夢で見たものより強烈な赤が舞い落ちてきた。初めて王城を訪れた日から今日に至るまでの十数年間、剣と共に常に意識の片隅を支配していた一人の友と、全く同じ色合いをした髪筋。

 それが真逆の凶暴性を宿して襲い来る。倒れた相手にも嬉々として切り掛かるレイドは、ある種、戦闘への限りない純粋さの現れだ。どんな武術や名剣にも勝る一本の箸が、胸元に突きつけられている。

 

 痛みが、殺意の奔流に吹き飛ばされた。

 ユリウスは咄嗟に床を転がる。間髪を容れず突き刺さった箸がマントの端に絡み付き、既にボロボロだったそれを引き千切った。短い呼気と切れ端がふわりと舞う。

 

 「オイこら、逃げンなよ、オメエ。せっかく乗ってきた興が冷めちまうじゃねえか、あン? 冷めたらオメエ、終わりだかンな」

 

 何が、とは言わなかった。この決闘か、ユリウスの命か、はたまたもっと大局的な見地か。

 レイドの顔から笑みが絶えない。

 彼は箸を突き立った角度のまま横に滑らせ、床に一文字の線を引く。素早く間合いを脱したユリウスにまでは届かないが、真っ白の床に確かな爪痕を残した。

 

 破壊は即座に復元される。

 窓も扉も無い密閉空間に、不自然な風が吹いた。

 

 深い溝が閉ざされ、圧縮された空間は周囲を巻き添えにしていく。

 体の物理的な押し引きではなく、一定の指向性を持った座標のズレだ。ただの風とは訳が違う。

 踏ん張るという抵抗は意味を為さず、ユリウスは転がった姿勢のままレイドの間合いへと引きずり込まれる。それを容赦なく砕かんとばかりに迫る左拳。

 

 ユリウスの目に過るのは、再びの走馬灯ではなかった。レイドと同じく拳を握り、正面から迎え撃つ。

 確かに避けるのが困難な状況ではあった。だが、力勝負ならば尚更ユリウスに分が悪いはずだ。せめてギリギリまで身を反らす方がマシだったろう。

 少なくともスバルには、拳の角度が少しおかしいことしか見えなかった。あれはどちらかというと振り下ろす動きだ。

 

 激突した直後、血が飛び散る。

 レイドの拳と真っ向からぶつかったユリウスの左手首は折れ曲がり、それでも衰えない勢いのまま肩を粉砕された。腕の制御が外れて力無く垂れ下がる。手のひらも所々から流血していた。

 しかしそれはレイドも同様だった。指と手の甲の皮膚が破れ、箸に赤を塗る。不可解な出血の原因は、ユリウスの手から零れ落ちた銀色が物語っていた。

 

「あなたの折った剣だ。折れても、まだ闘える」

 

 手を押さえながらユリウスは明かした。

 数分前に砕かれた騎士剣の破片を隠し持ち、叩き付けたのだ。ぽろぽろと床に散る鋼は一部こそ粉々になってはいるものの、確かにレイドの手に傷を与えた。騎士剣の斬撃はことごとく塞がれていたのにもかかわらず。

 それは偶然や幸運などでなく、以前レイド自身の言っていた『一番いい角度に、一番いい速さで、一番いい感じに、一番うまく振り回せば、箸だろうと斬れないものはない』という言葉を再現して見せたものだ。

 

 事実としてユリウスの剣は、レイドの拳を斬った。

 剣の頂点に、己の血を見せるにまで至ったのだ。規格外のデタラメな存在が、今更になって人間だと確認できた。

『試験』は突破不可能の障害物ではない。たとえ針の穴を通すが如き難関であっても、クリア条件と報償という構造があるのならば必ず道筋が準備されていて──

 

「──それさえ掴めば手が届くかもしれない。まさかオメエ、そんな甘ったれたこと思ってンじゃあねえだろうな?」

「────」

「だとしたらがっかりだぜ、オメエ。いい顔してンだ。まともに笑えよ、オメエ。同じこと何度も言わせンな」

 

 ぽつりと、レイドが冷めた声で呟く。それから箸を放り投げ、無手になった。

 しかし、武器の放棄をこれ幸いと喜ぶ愚鈍な者はいない。

 

「大丈夫だ。まだ、絶望する時じゃない」

 

 代わりに、横合いから差し伸べられる手があった。

 

 「スバル……君は」

「あ? 今ちょっと耳の調子が悪くてよく聞こえねぇんだ。なんなら体中だるい。お前の言葉は読唇術でも使って適当に歪曲するから、嫌なら黙って俺の言い訳を聞いてろ」

 

 本気なのか冗談なのか判りにくい言葉に苦笑し、ユリウスがスバルの手を掴む。そのまま引き上げられる際に身体が軽くなった気がし、微かなマナの流れを辿って目を移すと、ベアトリスが「一度だけかしら」とばかりに顔を背けた。なんともそっくりな二人の態度に、つい苦笑が連続する。

 

「立ちなさいって、そう言われたんだ。全部救って下さいって、頼まれたんだよ。だからお前も救う」さっきまで天を指していた指をびしっとユリウスに向け、スバルは居丈高に言う。「勘違いすんなよ。アナスタシアさんのもとで金のあれこれとか教わっただろ? この世にタダはねぇ。エミリアたんとかは笑顔でプライスレスだが、お前だけは特別価格だ。俺がお前を救ってやるから、お前は俺を救え」

「……本当にすごいな、君は」

「なんたって俺はレムの英雄だからな。今じゃ皆を背負う小さな王でもある。だから、ちょっと俺の強欲に付き合えよ、ユリウス」

「ふっ」

 

 相変わらず、彼の言っていることはよく分からない。ユリウスの返事がまともに伝わっていたのかも微妙な所だ。ただ、この世で最も信頼できる言葉でもあった。

 思い返せば、スバルだけではない。ユリウスは皆の助けを得ながらここまで来た。砂丘を越えるまでの旅路、そして塔に着いてからもずっと。ならばユリウスが救い返すべき人は全員で、時は今だ。

 その全員の中に、ユリウス自身も勿論含まれていることを忘れてはならない。

 

「レイド・アストレア。無礼を承知で、今一度名乗らせてもらう。私はアナスタシア・ホーシン様の騎士で、ここにいる英雄の友……そして、彼ら全員を救う今日限りの英雄だ」

「かっ! 笑わせてくれンじゃねえか、オメエ。騎士の次は英雄の猿真似だあ? オメエ、『試験』はままごとじゃねえンだぞ。オメエに合わせてやる義理なんかねえからな」

「勿論だとも。生憎と、自称を事実に成し遂げた者がすぐそこにいるんでね」

 

 もはや布切れとなったマントを脱ぎ捨て、ユリウスは燃えるように佇む高みの刃へと向き直った。

 その一瞬、目を疑った。刃が二つあったためだ。咄嗟に瞬き、再認識し、見間違いでないことを確認して息を呑む。

 

 選定の剣。

 それが、ユリウスの目前の床に刺さっていた。

 エレクトラの『試験』開始の切っ掛けとして準備されていた、何かの象徴にも見える抜き身。それがユリウスを主と認めたかのように突き立っている。

 自然と、手はその柄へと伸びる。

 

「待てユリウス! ──それは、抜いちゃ駄目だ」

「スバル?」

 

 掴もうとした途端に後ろから否定があった。ふと振り向くと、スバルが確信を宿した眼差しで見つめ返している。

 その黒い瞳に、レイドの踏み込みが映った。

 この時、この瞬間になって、初めてユリウス・ユークリウスの『試験』は始まりの合図を奏でたのだ。

 

 

 †

 

 

 ずっと、気になっていたことがある。

 前人未踏の砂丘の奥地、かつて封印された『嫉妬の魔女』の祠を護るとされるプレアデス監視塔及びプレイアデス大図書館。そこに秘められた未知なる叡智にアクセスし、閲覧する資格を獲得するための認証『試験』。まさに今スバルが直面した障害物の一つについてだ。

 

 どこか『試練』とも通ずるものがあるそれは、なぜ果てしなく白い空間で行われるのか。

 

 最初見た時からおかしいとは思っていた。ただ、その規模や奇妙さに引っ張られ、自然と関心が逸れていた。

 三層タイゲタの試験は、星座を模したモノリスの中からリゲルを見つけ出すというのがクリア条件だった。数多の星が集まる空を再現するのに、広大な空間が必要であったことは納得できる。だから誰も疑問を呈さなかった。

 

 二層エレクトラの試験は、初代『剣聖』レイド・アストレアを打倒するということ。規格外なレイドの暴走により詳細は少しばかり変わってしまったようだが、主とする目標は同じ。レイドと剣を交え、認められればいい。

 ならば、二層の白い空間はレイドの馬鹿力に耐えられるように設計されたと考えるのが妥当だろう。

 

 シャウラが隠していた五つ目のルールを明かすまで、スバルもそう思い、特別に疑ってなどいなかった。

 

 ──『試験』の破壊を禁ぜず。

 

 それ単一ならともかく、一から四までのルールを加味した上ではやや違和感のある項目だ。

 試験を終わらせないまま去ってはならず、尚且つ決まり事にも反してはならず、しかし破壊を良しとする不可解な仕組み。どこか言葉遊びにも思えるルールは難解だと言わざるを得ない。

 へそが尋常でなくひん曲がっているらしい大賢人、フリューゲルのことだ。またぞろ性悪な攻略法を用意したものだなと、いい加減慣れてきた。慣れてしまっていた。

 

 それこそが落とし穴だったのだ。

 そもそもの話、二層の試験は既に破壊されている。

 

 レイド自らが明かしたことだ。先述した通り、本来ならば多数対一で攻略するはずだったのが、レイドの覚醒によって一対一の極悪難易度へと捻じ曲げられた。

 試験突破の方向性が違うのだ。クリア条件の強制的な変更は、破壊と言い換えても差し支えないだろう。

 ならば既に破壊されてしまった試験を更に破壊するべきなのか。だとしたら、ルールを変えられた状態で、これ以上何を壊せというのか。

 

「──要は、試験をまともに続行できなくすればいい」

 

 フリューゲルの遺したこのプレイアデス大図書館には、明らかに彼の設置しただろう悪質な仕掛けが多数見かけられる。

 魔獣の巣窟と理不尽な狙撃を掻い潜ってなお挑戦者を遮る砂時間から始まり、異世界の知識が不可欠な難題試験、罰則まで設けておきながら提示されない決め事、不親切極まりない隠し階段──他にも、物理的に塔の構造と合っていない段数、バルコニーへすり抜ける壁、人数制限のある緑部屋などがそうだ。機密事項の厳重なセキュリティーに必要だったというよりは、挑戦者の常識の裏を掻く意図があったように思える仕掛け。

 

 そしてそれらは総じて、空間への認識や直接的な干渉に対する手法を巧みに使っていた。

 

 それらを踏まえて、こう考えることは出来ないだろうか。

 白い空間もまた、常識を否定する悪戯が隠された仕掛けの一つだと。

 

 幸か不幸か、その違和感を曇らせる認識の慣れが、ちょうど記憶喪失によって薄らいでいた。頭の中を一度真っ白に整理することの出来たスバルは、これに対して三つの逆転を考えた。

 

 仮説──二層の白い空間は、レイドによって破壊されるのを防ぐためではない。

 勿論、単に試験自体の形式がそうだという可能性はある。試験内容の方向性は違えど、場所が同じなら統一感が生まれ、二層も三層と同一線上にあると伝えるつもりだったのかもしれない。

 だが、ふと目に付いたのは修復機能だった。周囲を歪めてまで元の姿に戻ろうとする床と壁はまるで、レイドと戦う挑戦者に、この空間が破壊不可能なものだと思わせるための演出に見えたのだ。

 

 距離感を狂わせる白一色、いつどのように抵触するか分からない不透明なルール、そして過剰演出の修復機能。

 それらがもしカモフラージュで、それらの隙に破壊できる抜け穴があるならば。

 白い空間は、壊せるのではないだろうか。

 

「記憶喪失からの復元といい発想といい、ここまでの流れが全部フリューゲルの手のひらの内だったらすげぇ癪だが……まあ、しょうがねぇ」

 

 思考するスバルの独り言が、静かに響く。そのすぐ傍にベアトリスが手を繋いで立っている。

 二人が見守る中、ユリウスは再びレイドとの激闘を繰り広げていた。出現した剣を掴む暇もなく、拳と拳、純粋な肉体を武器にしたぶつかり合い。騎士剣の破片もこれ以上は使えず、超近接戦闘を強いられている状況だ。

 原因を探るならば、剣を掴み損ねたのはスバルの声掛けがあったせいだ。だが、そのことをユリウスは咎めなかった。

 

「何か、君なりの考えがあるということで受け取っていいのだな?」

「毎度ながら、足元ぐらっぐらだけどな。一回試してもらいたいことがある」

 

 試験場を壊せる可能性が台頭したといえど、修復機能は事実として侮れない精度と速度で働いている。レイドの攻撃にも対処しているのだから生半可な威力では無理だろう。

 そもそもが歴史上の故人の人生を本に記したり、四百年前の偉人を召還している時点で、この塔は人智を超えたシステムを有する異境なのだ。スバルたちが振り回されるのは必至。設計の限界を上回る、などという力任せの方法は賢明と言い難い。

 

 狙うべきは無理押しでもルールの抜け道でもなく、単純に最初から用意されていたであろう攻略方法の一つ。レイドを倒すのとはまた違った、裏ルート。あるいはフリューゲル流の救済措置。

 エミリアが特殊な条件でクリアしたこと──レイドを言葉で出し抜くという策は、この際例外とする。頭の片隅にでも入れておけばいい。

 

 スバルは足元を見つめた。

 材質の不明な床には繋ぎ目が無い。同じ場所を傷付けても損傷は綺麗に初期化される。階段の周囲もそれは同様で、これといった弱点や印らしきものが見当たらなかった。

 試験場には最初から、唯一修復機能の働かない箇所があったにもかかわらず。

 

「ユリウス! 床に刺さった剣を押し込め!」

「──了解した」

 

 床に刺さった剣。

 どうして気付けなかったのだろう。何も見当たらないどころか、二層にはそれしか無かったのだ。損傷と看做されない唯一の穴を攻略要素として見逃していたのは、頭に浮かんだのが『抜く』か『押すか』という選択肢でなく、『抜ける』か『抜けないか』という懸念だったため。

 その前提が間違っていた。選定の剣よろしくこれ見よがしに突き刺さっていたそれを、スバルは何一つ疑わずに抜き放った。

 

 まさに常識の裏を掻くという、フリューゲル好みの悪質なやり方だ。

 おかげで、三層で決定的な大活躍を見せた異世界知識が今度は知らない内に足を引っ張ってしまった。二層の試験の中心はレイドの方で、剣がただ試験開始の鍵だと勘違いしていた。

 

 引き抜くのではなく押し込む。それが二つ目の逆転。

 

「あとは、剣を抜いた時に聞こえたルールが三つ目だ」

 

 スバルはかつての勘違いと共に、二層の試験内容を思い起こす。

 ──天剣に至りし愚者、彼の者の許しを得よ。

 

 具体的な説明に欠けた文章だが、その中でも特に目立つのが『天剣』の二文字だ。天という単語にアクセントを置くとするならば、おおよそ『天下に名を轟かせるほど強力な剣』だろうか。もっと踏み込んで『天上の神々にまで届く、人智を超越した剣』でも良いかもしれない。

 造語や異世界用語である以上は推測でしかないが、星座の次に天が来るのはやはり意味深に思えて仕方ないものだ。そして、天といえば塔の構造とも無関係ではないだろう。

 

 プレイアデス星団から由来した名称はさておき、階層の数え方についてだ。

 この世界ではスバルの元いた異世界と同じく、地上を一階としてその上に二階、下に地下一階と数字を振り分けるのが一般的だ。いつだったかヨーロッパなどでは地上一階を0階と表記し、日本でいう二階を一階と数える国もあると聞いたことがある。ただ、どちらにしろ建物は上に行くほど階数が上がるものだ。

 その点、最上階から順に一層、二層と下降する形を取ったプレイアデス大図書館は、正直奇妙としか言いようがない。なぜ下に行くほど数字が上がるのか。なぜ地上に五階があるのか。

 

 考えられる可能性は、この塔が上下反対に突き刺さっていること。

 一見すれば荒唐無稽な話だが、逆さの建物自体はファンタジーとしてはさして珍しくもないだろう。設計当時は一層、またはゼロ層を最下層としていたものの、何らかの理由でそれがひっくり返った。あるいは最初から逆さに建てることを想定していたかもしれない。最も、意味深に階数だけ逆さに振り付けただけ、というのもあり得る話だ。

 

 真相は分からない。ただ、逆さの階数には恐らく訳がある。

 ここでいう天とは、客観的視点でいう上空でなく地下を指しているのだ。そうすれば、選定の剣を床下──塔にとっての天へと突き刺すという行為にも、それなりの意味が得られる。

 

 天剣に至りし愚者。

 ユリウスの剣はレイドに届き、スバルの覚悟は天に届く。

 そうして導き出した解答に、塔はどう応じるのか。ユリウスの手によって押し込まれる剣を、ひたすらに見守って──

 

「──どこ見てンだ、オメエ」

 

 その答え合わせを許すほど、レイドは甘くなかった。

 筋肉質の体が大きく弾かれ、白い空間に無数の罅を刻み込みながら飛びかかった。溢れ出る剣気はレイドが腕を振る度に、体を動かしただけでも空間に傷を付ける。蜘蛛の巣状に迸った亀裂は全方位、数十メートルにも及んだ。

 被害が大きければ、当然相応の反動がやって来る。至る場所で働いた修復機能により歪みの渦が発生し、舞台は重力を失ってまるで海の中──いや、天空の彼方に投げ飛ばされたかのように荒ぶる。

 

「あばばばばばばばばばばばば!?」

「し、しっかりするのよ、スバル──!?」

「試験官無視して試験やってンじゃねえよ、オメエ。違うだろ、オメエ。そうじゃねえだろうが、なあ、オメエよお」

 

 三層同様に頭脳での突破を試みた二層の試験場が、奇しくも三層と同じように無重力に支配される。あの時はムラクで星座を観察するために必要だったが、今度は逆効果だ。選定の剣は刺さったまま中途半端な位置で止まってしまった。

 そこに皮肉などあらず、レイドにとっては単純な自我の貫き方なのだろう。常識外れの馬鹿力が、掟破りの行動力が、今はただただ厄介な障害物として立ち塞がる。

 

「クソッ、あと一歩だってのに無茶苦茶しやがる……ベア子、ムラクで──」

「だだ、駄目かしら! これは空間の歪みだから、普通の魔法じゃ、意味が、無いのよ! マナの温存は、諦めるかしら! E・M・Mなのよ──!」

「くっ……レイドは私が相手をする。スバル、ベアトリス様、どうかエキドナを頼む!」

 

 理不尽の嵐が吹き荒れる空間で、体幹のバランスを頼りに戦闘を再開するユリウスの傍ら、ベアトリスが両手を広げる。小さい手のひらから広がるのは陰属性のマナだ。それが、近くにいたエキドナの手を引っ張って身を寄せ合った三人の肉体を薄く包み込む。

 E・M・M。通称『絶対防御魔法』は時間と空間に干渉し、外側からの影響を全て無効化するものだ。ベアトリスの言った通りに空間そのものが歪むことで引き起こされる嵐には、これくらいしか対処法が無い。嵐が止むまで耐えるだけでも精一杯だった。

 

 レイド本人もその影響から逃れることは出来ない。しかし、彼が自身の行動に足をすくわれるというのも望み薄な期待だ。

 事実、彼は動きが制限されるどころか、修復の反動を追い風に加速している。レイド・アストレアの身のこなしは『死に戻り』を繰り返している間に数十回と見て触れて殺されてきたが、その度に新しい理不尽を見せ付けられた。こと戦闘に関しては本当に底知れないセンスを持った男だ。

 

 空を駆けるかのようにして、凶悪な鮫の笑みが眼前に現れた。ユリウスは反射的に右腕を上げ、顔面へ迫った拳との間に滑り込ませる。

 だが片腕で衝撃が和らぐはずもない。思い切り床に叩きつけられ、吐血に鈍い音と呻き声を滲ませながらユリウスの体が沈む。息継ぎをする間も無く弾んだ上体に、レイドの反対側の拳が打ち込まれた。

 

「か、ぁ──っ!」

 

 勢いのまま前に大きく屈んだレイドは、振るった拳を止めずに耳元まで持ってくる。そうしてユリウスの胸板目掛け、直角に曲げた無骨な肘が振り下ろされた。

 対してユリウスの取った行動は反撃だ。回避を捨て、動かない左腕で重心を移しながら思い切って懐の中に潜り込んだ。右腕をレイドの肘に絡め、肩から全身を捻る形で攻撃の軸をずらす。非武装の肉体とは思えない威力で床が陥没するのを見届ける暇も無く、新たな嵐が二人を横殴りに吹き飛ばした。

 

 ユリウスは優れた体幹と器用なステップで嵐から逃れ、無理に抗わずたたらを踏んだ後──それら全てを凌駕して突っ込んできたレイドに、ゾーリで打ち据えられた。もんどりを打ち、床に転がる体を嵐に攫われ、四方八方に投げ飛ばされる。吐いた血が自分でも分からない方向に飛んで行く様を、更に肉薄した化け物の嘲笑越しに見ていた。

 

「はっ」

「ンだ、オメエ。やっと一丁前に笑えるようになったじゃねえか、オメエ。泣きじゃくって負けるより、笑って負ける方がマシだろ、オメエ」

「悪いが、それは両方とも頂けない話だ!」

 

 拳と拳を、激しく打ち合う。

 まるで地面を殴っているかのような手応えの無さに右手が痺れ、続く上段蹴りを咄嗟に反対の腕でいなす。しかし、力が入り過ぎたのか角度が僅かにずれ、いなし切れずに弾かれた。瞠目しているところにレイドが猛々しく突っ込んでくる。

 剣戟の火花さえ錯視しそうな激突から、スバルは一度目を離した。さほど遠くない場所に突き立ったままの選定の剣。激闘と嵐に曝されながらも、屹然たる威容を放ちその刃を保っていた。

 

「剣はまだ抜けてない。──まだ、やれる」

「やる気かしら、スバル」

「おうよ」

 

 ユリウスが作ってくれた機会を、無駄にしないために。死の連鎖を、これ以上生み出さないように。

 不規則なリズムと規模で発生する嵐。E・M・M発動中は動けないので、それを生身で潜り抜けるには、刹那のタイミングを掴まなければならない。針に糸を通すより狭い突破口。一秒読み間違えれば、一歩踏み間違えればどこまで吹き飛ばされるか分からないのだ。

 

 故にスバルは一度きりを覚悟する。

 レイドの踏み込みが止まる、一瞬を。

 

「──違うよ、ナツキくん。一世一度の機会に妥協が介入する余地なんて無い。ここは、持ち得る全ての手札を使うべきだ」

「……エキドナ?」

 

 不意に、運命の瞬間を見極めようと目を凝らしていたスバルへ近くから声が掛かった。

 ユリウスの戦いを静かに見守っていたエキドナだ。浅葱色の瞳は鋭く細められ、焦るスバルの黒瞳を貫いた。

 だが、彼女もこの嵐がいかに理不尽で容赦のないものかは知っているはずだ。抗いようのないものだと、彼女も──

 

「簡単なことさ。──壊される前に、こちらから壊してしまえばいいんだ。そうすれば嵐の時間と位置は予期できる」

「──。でも、それは……」

「ベティーはもうじきマナが尽きるのよ。つまり、その娘のオドを消費することになるかしら」

「いいかい、ナツキくん、ベアトリス。皆、君たちが頼りなんだ。勿論ボクもね。だからお願いだ。──ボクと、アナを救ってくれないか」

 

 卑怯な言い方だ。

 救われるために命を削るなど、どうかしている。矛盾している。しかし、反論は喉でつっかえた。スバルもベアトリスも、心の内ではそれが一番可能性の高い方法だと気付いてしまっていた。

 判断を急かすかのように、ベアトリスのマナの底が見え始める。派手な音を立てて風が吹き付ける。エキドナの淡い笑顔が、スバルに突き刺さる。

 

 何も言わずに彼女は頷いた。

 

「今だ! エル・ジワルドぉ!」

「スバル、今しかないのよ! E・M・M解除!」

 

 そして、無慈悲にも時が訪れた。

 唐突な迷いが背中に圧し掛かる。本当にこれでいいのか。また自分が失敗に導いたのではないか。何もかもこんがらかってもつれ合っている。

 ただ、言われたから走る。促されたから足を前に伸ばす。

 絶大な信頼に衝き動かされ、スバルは嵐の中を突っ切って行く。

 

 エキドナの放った熱光線が一直線に床を焼き焦がし、道とも言えない溝を掘った。それが修復される前に進めということだ。あらゆる方向から吹き荒ぶ嵐に触れないよう姿勢を低くしつつも、全速力で走らなければ修復に巻き込まれる。確認する暇など与えずに背後から歪みが現れ、恐怖で足が竦みそうになる心を叱咤し、スバルは形振り構わず走る。

 いつだったか。確か前にも、似たようなことがあった。

 

「スバル──!!!」

 

 耳鳴りと轟音に掻き消されて、その声は上手く聞き取れなかった。ユリウスの聴覚にかかっていた負担を、コル・レオニスで肩代わりした影響がまだ残っている。ラムの全身不調に至っては現在進行形だ。

 誰が名前を呼んだのだろう。ベアトリスだったような気がするけど、エキドナの声にも聞こえて、もしかしたらユリウスだったかもしれない。もしくは。

 

「ああ、悪い。ちょっと気ぃ抜けてた」はっと顔を上げたスバルが、目を見開いて得意げに笑う。「みんなの勇気、貰ってくぜ! 今度はビビんねぇよ……なんたって、俺は!」

 

 背中を押してくれた彼らに、今のスバルを支えている皆に謝罪を残した。

 立ち上がらせてくれた少女に、今はまだ傍にいない彼女に覚悟を告げる。

 

 今のスバルには、勇気が足りている。

 レイドとユリウス。死闘の最中に笑顔を浮かべている彼らよりも、今だけは。

 

「鬼がかってんだろうがぁぁぁ────!」

 

 着地を考えずに思い切りのダイブ。つま先が嵐に絡め取られながらも、限界まで伸ばした両手で剣の柄を握り、そのまま飛び込む形で下へと押し入れる。

 ガチャリと鍔が床にぶつかる大きな音と共に、盛大にコケたスバルの悲鳴が一つ。剣はさしたる抵抗もなく沈んだ。

 

 直後に、部屋全体の空気が脈動し、変化するのが肌で感じられた。相変わらず真っ白のままだが、認識を狂わせていた妙な緊張感が無い。そして何よりも、レイドがアクションを起こすたびに同伴していた嵐が嘘みたいに静まり返っていた。

 そこにピキッと小さな音が生まれる。鍔から伸びた罅は床と壁を伝って徐々に拡散し、数秒後には部屋全体に反響し始める。試験場の有していた無制限という特性が崩れたのだ。完全な崩壊を招いていないのは、レイドの存在が最後の楔としてかろうじて繋ぎ止めているのだろうか。

 もしや緑部屋と同じく、試験場自体が巨大な精霊のようなものだったのか──などとスバルが要らぬ罪悪感を抱いた所で、遠くから舌打ちが響く。

 

「試験場を壊しやがったか。厄介な稚魚だな、オイ」

「言ってろ。これで試験は確かに破壊した。見たとこ、試験自体の電源がオフになった感じだが……お前も、これ以上は続行が出来ないはずだ」

「ああン? 適当なこと抜かしてンじゃねえぞ、オメエ。まだなンも終わっちゃいねえだろうが、オメエ」

「あーはいはい。そんな意地張らずに、さっさと潔く認め……」

「スバル、悔しいけど事実かしら。何故かあの男だけ、何も変わってないのよ」

「あれっ!?」

 

 そんな馬鹿な、と目を瞬かせるスバルを他所に、レイドから距離を取ったユリウスが深呼吸する。

 

「試験の舞台を壊しても、続行可能なのか」

「ったりめえだろ、オメエ。オメエ、オレが壊したのは元々の突破法だけじゃねえンだよ。分かるだろ。分かンねえか、オメエ」

「……あなたが『暴食』の身体を乗っ取っている限り、試験官のしがらみには囚われないということだろう」

 

 応えは言葉でなく、獰猛に歯を剥き出した笑みと回し蹴りで返された。それは背後に宙返りしたユリウスの髪に掠り、恐ろしい鋭さを以て先端を刈り取る。

 試験官という立場は維持しつつ、そのデメリットとなる制限から逸脱しているレイド。そう考えると、彼がいかに型破りで性質の悪い人物なのかが窺い知れる。『死に戻り』のアドバンテージを最大限に活かしてもなお、一筋縄では行かせてくれない男だ。

 

「試験場が壊れたからなンだ。場所を変えればいいじゃねえか、オメエ。むしろ悪手だぜ、オメエ。今からはオレのいる所が試験場になる。オレが歩けばそこは全部オレの庭だ。つまり、世界中が試験場ってこった」

「ならばその身体、元の主に水門都市で着せられた汚名と共に返上させてもらおうか。場を移す必要もない。あなたは、今、ここで私が打ち倒す」

「かっ! ンなこと、オメエに出来ンのかよ」

「確かにここは、世界は、あなたにとって一振りの剣で支配できる庭も同然かもしれない。初代『剣聖』レイド・アストレア……あなたは剣士の象徴として永遠に語り継がれるだろう。だが、一つだけ例外がある」

「────」

「……どうやら蕾たちは、あなたの庭にいることを好ましく思っていないようだ。私も同じく、それを望まない」

 

 言いながらユリウスがそっと手を上げると、どこからか丸く小さなマナの塊がその光を以って現れた。それぞれ別の色を纏ったものが計六つ、手の周りを緩やかな動きで漂う。

 ユリウスと契約を結んだ準精霊だ。『暴食』の権能の影響を受けてその繋がりは半ば絶たれ、呼びかけても曖昧な反応しか返ってこなかった。現に、今も彼らはユリウスと長年を共に戦ってきた仲間とは認識できていない。

 だが一つ違う所があるとすれば、これまでのように行き場を見失って揺れ動くのではなく、ユリウスの手を止まり木に六体が集まっていたことだ。

 

「なンだ、やけにうるせえハエがいると思ったら、オメエの連れかよ。だがちっちぇえな。こンなナリで何ができンだあ、オメエ?」

「勝つさ。なぜなら彼女たちは、あなたの庭に新たな色を加える六輪の花だからだ。……そう、思ってもいいのだろう?」

 

 その言葉に呼応するように光がぴょんと飛び跳ね、腕を通過してユリウスの顔に近付く。やや不安げに問うた彼の目の前で、意思表示のつもりなのか淡く輝きを増す準精霊たち。

 白と黒の準精霊が一際強く輝き、次の瞬間にユリウスは堪え切れない笑みを零していた。

 

「まだ、名前は戻ってないはずだ。なのに、いつの間に、精霊と……?」

「なんてことはないさ、スバル。契約の状態が曖昧でも、私は彼女たちの前で私を証明した。ユリウス・ユークリウスという自称英雄に、自称契約精霊である彼女たちが力を貸すことには何の矛盾もあるまい?」

「お、お前なぁ……」

 

 軽口で応えるユリウスだが、その実、彼自身も驚愕を胸中に抱いていた。

 最初に気付いたのは、レイドに敗北を諭されて否定の言葉を投げた後。彼の放った蹴りに対し、つい怪我した方の左腕を使った時だ。

 妙に軽く、衝動的な反応だったせいで理想と違う角度になってしまい、攻撃をいなす事に失敗した。だが注目すべきはそこではない。数分前に捩れ、粉砕されたはずの怪我が何故かほとんど治っていたことだ。

 

 瞠目して見つめたその先に、六色の小さな光があった。彼女たちはユリウスから語り掛けなかったにもかかわらず、自身の意思で近寄り、治療を施した。

 ハリボテの繋がりが残っていたとはいえ、彼女たちがユリウスを英雄として認め、力を貸してくれる。そのことが、無性に嬉しかった。

 

「一度忘れられても、こうして再び私を選んでくれた。彼女たちに無様な姿はもう見せられない。女性の前で格好つけるのは、あなた好みじゃなかったかな?」

「そりゃあ、話が違うだろうが、オメエ。マブな顔も見えねえ、エロい身体も持ってねえ精霊になんざモテたいと思うかよ、オメエ。……だがまあ、オメエのその顔は悪くねえぜ。オレ好みだ。ああ、マジでぶっ潰したくなンじゃねえか」

 

 殺意と闘志が爆発的に膨れ上がる。嗜虐心に顔を歪ませたレイドが、壊れかけの床を踏み抜いた。

 龍の足跡もかくやという巨大な陥没が残り、天地鳴動の一歩から放たれる突撃は空気を焼く。太陽が如き大熱に蝕まれた肉体はその出力に耐え切れない。罅割れた足裏から火を吹き、手刀には血が滲んだ。音までもがレイドに突き破られ、追い付くことは敵わない。

 

 ゆえに、六色の光だけがレイドを捉えていた。

 鮮やかな極光は一束となってユリウスの手に収まり、馴染み深い形の剣を成す。それに照らされた二層が映し出すのは、殺風景だったレイドの白い庭を塗り潰す限りの優雅な花園だ。

 美しい花ほど強く、気高く、鋭く──そして折れない。

 

『自称英雄』ユリウス・ユークリウス。

 その名を貰ったから、その手は蕾たちに触れ、その剣が遥か高みまで届く。

 

「君の翼で、彼女たちの庭で、私が天を切り拓こう。──咲き満ちて、輝け。アル・クラリスタ!」

 

 天空より落とされる一振りの紅い剣へ、ユリウスは絶佳を背負って叫んだ。




英雄ユリウス、誕生日おめでとう。

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