──なぜ私が、私だけが、ここまで苦しまなければならないのか。
──なぜ他の人間は、私以外の人間は、あれほどまで輝かしい、健やかな日々を送ることができるのか。
──なぜ私の肉体は、
──……何故。何故。何故。
「何故なのだ……!」
自らの苦境を繰り返し嘆き、考える度に私の思考は黒い感情で塗りつぶされる。
とある家屋の一室。
縁側を隔てて庭を一望できるここで、時間をただただ浪費する。案山子のように一歩も動けず──いや、布団から起き上がることもできずに外の風景を眺めるだけの日々。病弱なため、陽の下にすらも出られない、陽の光を浴びることすら叶わないこの身体のなんと恨めしいことか。
時折やってくる医者の男も私を完全に治すことはできないのか、妙な薬を調合しては私に飲ませようとしてくる。治らない事をいいことに、この身を実験動物としか見ていないようなその瞳が、治すべき患者とはまるで思っていないようなその行動が、無性に私の心を苛立たせた。
医者に向けて振るった凶器は、いともたやすく彼の命を散らすことができた。私が彼の身に危害を加える可能性すら頭になかったのだろう。
……人としてすら見られていなかった。実験動物以下の扱い。犬畜生にも劣る存在。
その事実が、私の神経をさらに逆撫でする。
しかし、この怒りをぶつけるべき相手はもうこの世にはいない。すでに死んでいる。この私が殺した。まさか、こうも呆気なく死んでしまうとは思わなかった。ただ刃を当てるだけで肉を裂くことができるほどに、人間とは脆いものだったのか。
……いや、いま思えば。
医者を手にかけた時は、自分でも不思議なほど身体が軽かったように思える。普段ならば常に感じる全身の痛みや倦怠感が、その時は──否、今に至るまで不自然なまでに引いていた。
ふと疑問に思い、恐る恐る上体を起こす。
ゆっくりとその場で立ち上がる。腕を持ち上げ、手を握る。
……
「……クク、ハハハハ……! 良くやった。でかしたぞ、あのヤブ医者め……」
私の口からは、自然と笑いが込み上げてきた。
「ついに私は、病を克服した……ッ!!」
歓喜のあまり体が震え出し、半ば狂ったように叫び声を上げる。それは哄笑だった。
先ほどまでは、大声どころか呼吸をするだけで喀血する病弱な身体だった。それがどうだ。今ではいくら叫び声を上げても喉が枯れることはない。息苦しさすら感じない。
自然とあの日、荼毘に付される間際に上げた、歓喜の産声を思い出す。
母親の腹の中では何度も心臓が止まり、この世に生まれ落ちた時には既に脈もなく呼吸もなく。死産として棺に入れられた私の絶望は誰にも推し量れないだろう。この世に再び生まれ落ちたにも関わらず、文字どおり日の目を見ることは叶わずに。存在そのものが無価値だと言わんばかりに、生きることさえ認められない。
だが私は、自身に絡みつく死の運命の中で踠き続けた。踠いて踠いて、纏わりつく死を払いのけた。
供花に包まれながら産声を上げたあの日を、私は生涯忘れることはない。
──そうだ。私は今、この瞬間、本当の産声を上げたのだ。
二度目の生を受け十余年、前世では終ぞ叶わなかった悲願である病の克服を、ようやく成し遂げることができた。
自らを縛る死の運命を乗り越えたという喜び、そしてかつての怨嗟の日々が脳裏に去来し、気づけば涙が溢れていた。
ひとしきり声を上げた後、今度はゆっくりと深呼吸をしてみる。
頬を伝うそれを無視して、喜びを噛み締めるように息を吸い、肺を空気で満たす。酸素を味わいながらゆっくりと息を吐く。
文字通り生まれ変わったような、清々しい気分だ。
「……ああ、これほど気分がいいのは初めてだ」
常人はこのような晴れやかな気持ちで日々の安寧を享受していたのか。
普段ならばその思いによって、怒りと妬み、憎悪で身を震わせていただろう。しかし今の私はそのような些事など気にも留めない。自らの身体を自由に動かせる喜びで心が満たされていた。
「……ん?」
ふと、芳醇な香りが鼻をくすぐった。
それと同時に腹の虫が鳴り、強烈な空腹感が襲いかかった。口許からダラダラと涎がこぼれ落ちる。
「そうか、これが空腹というものか」
むせ返るほどに濃厚な香りが嗅覚を刺激する。自然と、それがどのような食べ物でどのような味なのか、という期待が湧いてくる。
香りのもとを探して辺りを見回すと、あるひとつのものが目に止まった。
すなわち、
「……?」
疑問に思うが、他にこの部屋にあるものなど、私が横たわっていた寝具か医者が持ち運んできた医療器具ぐらいしかない。
どういうことだ。こいつは私を治療したのではなかったのか。
頭に血が上りそうになるが、再び鳴り響く腹の虫の音でその疑念は頭の隅に追いやられた。ボタボタと床に滴る涎など意に介さず、ゆっくりと死体に近づく。血溜まりに指を這わせて、それを口に運ぶ。
……
なんなのだ、これは。どういうことなのだ。
困惑しながらも、もう一度確かめるように血溜まりを掬い、飲み込んだ。
口に広がる鉄の味。鼻から抜ける、纏わりつくような生臭さ。
「……そうか。そういうことか」
初めはこの味覚に対して戸惑いこそあったが、すぐに納得できる理由に思い至った。
「死してなお、私の役に立とうとするとは。殊勝な心掛けだな」
つまりこの医者は、治療後に私が極度の空腹に襲われることを見越していたのだ。気に入らない人間は殺して食べればよいということを、自らの命で示したのだ。そのために、私を健康な肉体にすると同時に、人を食すことができる体質に変えたのだ。
そう思うと、この医者にも欠片ほどの感謝の念は抱いてやってもいいのではないか。私の糧として、細胞一つひとつに至るまで私の血肉となり変わる名誉を与えてやってもいいのではないか。そんな感情が湧いてくる。
「貴様のその穢らわしい屍肉を私が有効活用してやろう。光栄に思え」
医者の手首を掴み引き抜くように力を入れる。ブチブチと筋繊維のちぎれる音がして、その腕は呆気なく肩から外れた。
「フン」
その惚れ惚れする自らの力に思わず鼻を鳴らす。
食欲の赴くまま、傷の断面から溢れる血液ごと上腕の肉を頬張った。筋の食感からほぐれた肉の舌ざわりまで、目を閉じながら丹念に咀嚼し堪能する。その味を噛み締めながら、肉汁と共に飲み込む。そして再び肉を頬張る。咀嚼して、飲み込む。
「クク、フハハハハ……!」
なんという満足感、多幸感。
血や肉を摂り入れる度に全身が力で漲る。
栄養を摂ることがこんなにも素晴らしいものだったとは知らなかった。考えすらもしなかった。
老人をひとり喰っただけでこれなのだ。
若者を喰らえばどうなる?
より多くの人間を喰らえばさらなる力を得られるのか?
……この屋敷全ての──否、この国全ての人間を喰い尽くせば、どれほどの力が手に入るのか?
想像しただけで口許が緩んでしまう。
あらゆる生命は取るに足らない存在に成り下がった。食物連鎖の頂点に立つ人間さえも、今の私には届かない。
そうだ、私は力を手に入れた。
死の運命に打ち勝ち、前世から付き纏う病魔を払い除けた。強い意志の力があれば、どのような困難をも乗り越えられると証明した。
ならば私はあらゆる人間共を食い尽くし、あらゆる生き物を超越して、この世界の頂点に立ってやろう。
私にはそれが出来る。その資格があるのだから。
そんな高揚感に包まれながら、私は生まれて初めての食事を心ゆくまで楽しんだ。
* * *
ドタバタと屋敷内を駆け回る音が響き渡る。
初めこそ無視して食事を続けていたが、その音がだんだんと近づいていることに気づき、手を止める。
「騒がしいな」
襖が開かれる音が聞こえ、振り向いた。
「先程の叫び声は、一体なん──」
使用人が何かを言いかけるが、私の顔を見た途端にサッと顔が青くなる。まるでおぞましいものでも見ているかのように。
「その顔はなんだ? なぜそのような目を向ける」
「あ、ああ……」
「私に用があるのだろう、言ってみろ」
問いかけるが、相手は萎縮したような声を上げてその場にへたり込む。この者たちは何をそんなにも恐れているのか。何に対して怯えているのか。
やってきた使用人全てに目を遣るが、それらは一様にか細い悲鳴を漏らすか涙を浮かべてへたり込むだけ。返答を口にする者はいない。
私の問いにすらも満足に答えられないのか、こいつらは。
虫のように廊下から湧き出てはその場で狼狽する彼らの様子に、段々と不快感が募っていく。
「おい、さっさと答えろ。貴様等は何のためにここへ来た」
「ひっ」
「──ッ!」
ぷつん、と。
頭の中で何かが切れた音がした。
私の問いかけを二度も無視したのか? 使用人の分際で……!
途端に頭に血がのぼる。額に青筋を立てて、犬歯をむき出しにしながら怒りを顕にする。
怒りをぶつけるように壁を叩きつけようと、感情のままに腕を振るった。
「は……?」
思わず呆けた声が漏れた。
手を見ると、彼らのものと思われる血がべっとりと付いていた。
腕を振るっただけでこの威力。
全ての人間の上に立つと決意したが、私はすでに人間を遥かに超える力を持っているようだ。
「ははは……素晴らしいな」
返り血に濡れた腕を掲げて目を輝かせる。
手に入れた力を誇示するように。
もっとこの力を試してみたい。
そんな思いが心の底から湧き上がる。
頬が引き攣るほどに口許を歪めると、使用人たちがやってきた廊下に目を向ける。足に軽く力を込めて、その場から勢いよく飛び出した。
幼子に戻った気分だ。
買い与えられた玩具で遊び、家中をはしゃぎ回る子供を見たことがあるが、今ならその気持ちがよく分かる。
腕を振りながら駆け回り、溢れ出る喜びを抑えることなく表現する。子供と違う点と言えば、私が腕を振る度に人間が肉片へと姿を変えることくらいか。
蟻の行列を踏み潰して歩く子供のように、無邪気なまでに走り続ける。
ぷちぷちと人が潰れる感触に愉悦を覚えながら、屋敷中の部屋を虱潰しに駆け回る。
気がつけば腕が触手に変わっていた。この身体にかかれば、肉体の姿形さえも変幻自在というわけだ。
触腕を伸ばせば、距離の離れているものも一思いになぎ払える。わざわざ移動する手間が省けたな。
この新しい腕の力を試そうと、的になりそうな人間を探す。しかし、周囲に使用人たちの姿はなかった。辺りを見回しても、人どころか生き物の気配すら感じられない。屋敷内は鮮血に染まり、濃厚な血の香りが漂っていた。
どうやら屋敷にいた人間を皆殺しにしてしまったようだ。
「こんなものか」
腕を元の形に戻しながらひとりごちる。
ある程度ストレスを発散したからか、精神的な落ち着きを取り戻すことができた。体は熱を帯びたように感じられ、思考は今までにないほど研ぎ澄まされていた。
「……ふむ」
冷静になった頭で考える。
感情のまま、何も考えずに屋敷の人間を殺してしまった。思う存分力を振るったせいで、床だけでなく壁や天井にまで血液や肉片が染み付いている。痕跡を残さずにこれら全てを拭い去ることは出来ないだろう。
これでは私の行いが世に知れ渡るのも時間の問題だ。
今の私にかかれば、軍や陰陽師がいくら束になろうと問題はない。だが、奴らに羽虫の如く、四六時中付きまとわれるのはいささか面倒だ。
「さて、どうしたものか……」
これからやってくるだろう面倒事に頭を悩ませる。
物思いに耽り目線を下げると、あの医者だったものが目に入った。どうやら寝室に戻っていたようだ。
昨日までならいざ知らず、今の私は四六時中寝具に横たわることはない。薬を飲む必要すらない。私が健康な肉体を得て、この医者もあの世で感涙に咽び泣いているだろう。
そう思いながら顔を上げると、陽の光に照らされキラキラと輝く庭が目に止まる。砂と岩、最小限の植物によって演出されるそれは、日本庭園ならではの美しい世界観が成り立っていた。
──今ならば、陽光の下に出られるのではないか?
私ははたと思い至り、縁側へと歩を進める。
じりじりと肌を焼く感覚をぼんやりと覚えながら、庭へと足を踏み入れる。
「は……?」
疑問を抱く暇もなく、歩み出した勢いのまま全身が庭に投げ出され──
「ぎ、ガアアアアアアアア!!!」
熱い! 熱い! 熱い!
何が起きたッ!?
全身が燃えるように熱い……否、
手の甲を見ると、皮膚全体が焼け爛れ、灰となり崩れかかっている。
両足の感覚は既にない。足が燃え尽きた後、肉体の炭化は下半身全てに及んでいたようだ。
「なんなのだ、これは……!!」
先程までは何の異常もなかったはずだ。
何が原因で私の体が灼かれている?
初めに体が燃えたのは、庭に足を踏み入れた時。
そして次に、庭に倒れ込んだ時。
屋敷から出ることでこの現象が起きたのか? それともこの庭園に仕掛けがあるのか?
分からんが、とにかくここから離れなくては……!
縁側まで戻るため、起き上がろうと腕に力を込める。が、その拍子に左腕と腰が崩れ落ちた。
「グ……何が起きているのだッ!?」
激昴するが、答える者はいなかった。当然だ。屋敷の人間は皆殺しにしたのだから。
この異常事態を打開しようと、地を這いつくばりながら辺りを見回すが、解決できそうなものは何処にもなかった。
これではまるで、手足を捥がれた虫のようだ。
自身の醜態に正気を失いそうになる。
視線を彷徨わせていると、ふと縁側の下に目が止まる。そこには焼け落ちたはずの左足が、
何故あれだけが灰になっていない。
足は燃えないのか?
──否。最初に燃え尽きたのは足だった。
左側の部位なら燃えないのか?
──否。先ほど左腕が崩れ落ちただろう。
縁側の下なら燃えないのか?
──否。残っているのは影に隠れた部分のみで……
……影?
「……陽の光に灼かれているのか!!」
そうだ。思い返せば、陽のあたる縁側に出た時には既に肌が灼ける感覚があった。あれは単なる日焼けではなかったのだ。
急いで日陰となっている場所へと向かおうとして、気づく。
「私の体が……」
もはや私の体は、首から上を残すのみとなっていた。日陰に向かおうにも、体が無ければ移動することはできない。這って動くこともできない。
今この瞬間にも、肉体の炭化は首から顎に進行している。
有り体に言えば、この状況は“詰み”だった。後は自らの死を待つのみ。
嫌だ。
死にたくない。
一体私が何をした。誰が何のためにこのような事をする。
ようやく健康な肉体を手に入れたのに、未来を夢想することも叶わないのか。
この世界は、死の運命を跳ね除け得ることができた束の間の安息さえ、私から奪い去ってゆくのか。
──何故だ。
──なぜ私が、私だけが、このような目に遭わなければならないのだ。
──なぜ他の人間は、私以外の人間は、あれほどまで妬ましい、安らかな日々を送ることができたのだ。
──なぜ私の肉体は、陽の光を浴びることすら叶わないのだ。
──……何故。何故。何故。
「何故なのだッ!!」
半ば無意識に寝室へと目を向ける。
憐れむような目をしたまま事切れた、医者の瞳と目が合った。
まさか、こいつが処方した薬のせいで、私は……!
「この……ヤブ医者がァァァァァァアア!!!」
今まで生きてきた中で抱いていた憎しみは、全て嘘偽りだったのではないかと錯覚するほどに、腹の底から湧き出た怨恨。
陽の光によって口が失われようとも、鼻が利かなくなろうとも、目が見えなくなろうとも。
細胞の一欠片が消えて無くなるまで、この世の全てのものに対して、私は憎悪を吐き出し続けた。
* * *
曇りなき晴天に、日輪にさえ届こうかという怨嗟の声が響き渡る。
何事かと声を潜める小鳥たち。
怯えるように周囲を伺うが、喧騒はすぐに収まった。
瞬く間に、辺りは木々のざわめきと鳥のさえずりで満たされる。
天に坐し、遍くを照らす陽の光。
“お天道様は全てを見ている”。つまりはそういう事なのだろう。
その空は、何処までもどこまでも、澄み渡っていた。