獣の目   作:ひとなつ

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 みーんみんみんみんみーんみんみん……。

 

 博麗神社への石段を登りながら、後ろを振り返る。ちらほらと納涼大会の幟が見えるようになっていた。手の甲で汗を拭い、唾を飲み込む。吸い込めば吸い込むほど苦しさを増していくのに、酸素を欲しがって口は塞がらない。

 

「まりさあー!」

「おーん」

「早く!」

「バカ!」

 

 上から元気な声を出しているのは勿論霊夢である。わたしを見つけて持っていた荷物を押し付けると、自分だけふらふらと飛んで行ってしまった。「ばかれいむ……」お頭と口の神経が繋がっていたなら、本当はこんな無駄なぼやきは出てこない。それでも出てくるんだから、わたしは口から生まれてきたのだ。

 ダンボール箱に入ったがらくたを抱え直し、もう一度足を上げた。まっくろくろすけが這って進んでいく。どろどろになった下着がもうなんなのか分からない。思い切ってスカートを持ち上げ、頭と腕を通して脱ぎ捨てる。フリルの白ワンピース一枚で、階段を駆け上がった。「それでね……あの子、なんて言ったと思う?」「死ね!」「ばか」最後の一段を上り切ったところで、頭がようやくすっとしてきた。同時に、わたしを振り向いた目がよっつなことに、思わずわたしはその場にダンボール箱を盾に座り込んだ。

 

「魔理沙?」

「おうおう涼しそうですねい……」

 

 ひんやりと、右肩が濡れた。首を後ろに回してみる。「わっ!」

 萃香の、顔だけが浮かんでいた。

 

「はしたないわよ、魔理沙」

「いいだろが、どんな格好しようとさ」

「ならなんで恥ずかしがってんのよ」

萃香(こいつ)がいるとは思わなんだな」

「えー、霊夢には見られていいわけ?」

 

 痛いところを突いてくる厭な鬼だ。誰もいないと思ってこんな格好をしたのは確かに悪かったが、これ以上何も言わないでほしい。渋々立ち上がり、ダンボール箱を持ち上げて建物に運んだ。荷物を下ろし、賽銭箱に寄りかかる。

 膝を立てて目を閉じ、視線が散るのを待つ。「無視だねえ、霊夢さん」「ほっときなさいよ」ちらと目を開けると、萃香は興味が失せたらしい。安心してもう一度目を閉じようとしたところで、熱っぽい視線に気が付く。自然と、首が動いてしまう。思ってもみなかった真っ直ぐな衝撃は、わたしをどぎまぎさせた。目が泳いで、顔を逸らした。同時に、汗が噴き出してくる。

 霊夢……。どうして、気が付いていないふりをしないといけないんだ。ただ、きっとあいつは自分があんな穿つ様な目をしていると気付いていない。だから、わたしは気づいていないふりをしなければならないのだ。

 

「昔さあ、あったよ」

 

 唐突に、萃香が口を開いた。

 

「ある日、気が付いてしまうんだよ」

 

 なんの話をしているのだろうか。フリルを握りしめ、萃香のだらけた顔を眺めた。お陰で、熱が引いてきた。霊夢を盗み見ると、奴も呆けた顔をしている。

 萃香は自前の酒を飲み、目を蕩けさせた。

 

「暴れ馬が通り過ぎるのを皆が待っている間、気が付いた奴がいるんだよ」

「何に?」どちらともなしに聞いた。

「さあね。あいつは死んだ」

「……」

「暴れ馬に轢かれて死んだんだよ。あいつは正気だった。狂ったと言ってもいいけど……」酒を飲む。「気が付かない方がいいこともあるぜ?」

 

 冗談らしく、萃香が言った。その目がほんの少し揺れた。「納涼大会、いつ?」わたしたちは顔を見合わせて、霊夢が「三日後」と短く教えた。「ふうん。楽しみだね」

 

「霊夢、客集めはやめといた方がいい。怒られちゃうよ」

「……わかってるわよ。どうもありがとう」

「じゃ、三日後また来るよ」

「ええ」

 

 萃香が居なくなった後、しばらくその場は静かだった。太ももが汗で湿っている。霊夢は、わたしが運んできたダンボール箱を眺めた。

 

「準備、手伝ってくれる?」

 

 わたしは顔を上げた。「ああ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 幼い頃、わたしはよく勝手に親父の部屋に忍び込んでは本を読んだ。今に部屋の扉が開くかもしれないという焦燥感というのは、ある種の快感となって現れる。

 幼いわたしは締め切っていた窓を開け、部屋の隅にある床板をめくった。親父は明らかにそこに“隠す”という目的であるものを入れていた。わたしはそこから一つ掬い上げる。見た目にはなんの変哲もない本だったが、中身をすこし見れば幼いわたしでもわかる程在り来たりな春画だった。じりじりする。誰かが窓の外からわたしを覗くかもしれないし、いきなり扉が開くかもしれない。なのに、頁を捲る指先は驚くほどのろまだった。わたしはもがいている。早く。早くはやく。急かすたび、息が乱れた。紙面では女たちが下品な格好でこちらを上目に見ている。

 片手が着物に擦れる。わたしは思わぬ波に目を見張った。

 そこでわたしはハッとした。気配とともに、外から物音がしたのだ。

 

「ひっ……」

 

 おそるおそる窓の外に目を向けると、汚らしい男がわたしを見ていた。じっと乾いた眼をする。瞬きをした瞬間、男が近づいてきそうで、瞬きができない。なのに、焼き付いている……。瞬きした次の瞬間が。

 

「お嬢ちゃん、誰だって家じゃそういう猥褻物を見るよなあ」

 

 男は一々癪な言い方をした。幼いわたしはなにも言えないどころか、片手を不自然に突っ張らして動けなかった。頭の中で、ワイセツブツ……という言葉がおそろしい速さで駆け巡っていた。

 反応のないわたしに、男はつまらなそうに鼻を鳴らす。それから、着物をずらして粗末なものを取り出した。わたしは絶句した。黒くて、気味の悪い筋。男の一部であるのに、男が握っていないとろくに自由になれないようだった。

 

「便所に幼女を連れ込んでさ、見たことあるかって聞くんだよ。お父さんのなら、見たことある、って答える。俺はさ、言うんだよ……親父のと比べて、どんな感じ? 触ったことはある? ってな。ひひひいっ……どうだ、これ。お父さんのは見たことあるかな? ちょいと違うか、ほら、これ、親父のはいつもだらんとしてんだろう」

 

 男の息は臭い。当然、男はいくらか離れた場所でわたしを舐める様に見ている。だが、わたしは全身が気持ち悪くて仕方ないのだ。

 男はにやにやと笑った。こんなの、卑猥だ。破廉恥だ。わたしは何か言おうとしたが、言えなかった。汚らしい……変態だ、と頭に浮かぶ言葉が全部自分に返ってくるようだったのだ。言いたくなかった。言葉にすれば、口が汚れてしまう。

 

「お嬢ちゃん、こっちにおいでよ。もっと近くで見てごらん。そういえば、お嬢ちゃん、霧雨のとこの、女の子、だったかなあ」

 

 その話が出た途端、わたしの頭に激しく血が上った。我に返ったと言うべきか、とんでもない怒りがわいてその感情だけでわたしは走った。足を踏み鳴らし、今すぐにあの顔面を蹴りたくる。蹴るんだ。一目散に男のいる窓へ駆けつけ、持っていた春画を男に投げつけると、しかしなかなか声が出てこない。

 

「糞野郎がっ……!」

 

 窓を勢いよく閉め、息を切らす間に、磨りガラスの向こうから「へへへっ……」と声を聞いた。虫唾が走る。あんな奴と、おんなじなんて……最悪だ。

 

 男の猥褻物を見せつけられるという機会は、里を見回せばいくらか簡単に得られる。決して大人たちの前には現さないが、それが汚らしい男だったり、未成熟の男子だったり、幅広くいる。わたしが陥った事態も大して珍しくもないが、大抵の場合、二度目が訪れた時……嫌悪感が同族嫌悪に似ている。見ているのか、見せつけているのか分からなくなる瞬間がくるのである。

 

 

 

 

 

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