祭りの日の昼間は序章だと思う。
遅く起きたわたしは身だしなみを整え、人里までひとっ飛びした。人里の奴らも浮足立って、ふと吹いた生暖かい風が夢のように感じる。涼しささえ感じて、帽子を深く被った。いくつかの店を冷かし、道中の地蔵にさっき買った甘酒を供える。信仰心はないというのに、意味もなく手を合わせるのは都合がいいだろうか。
博麗神社に向かう道で、既に出店があった。店を出すのも霊夢にいくらかの場所代を払う決まりになっているはずだが、こんなところまで店があるのをあいつは知っているのだろうか。知らないだろうな。あいつは爪が甘いから。いくらでも厭な場面に出くわしているのに、何も世の中の暗さを知らないような顔をすることが出来るのは、わたしはすこし怖い。もっと完璧さを求めてもいいのに。
そこでりんご飴を買い、納涼大会の参加者たちの波に乗る。参道に入ると、客は一気に溢れ出す。
「霊夢なら奥にいると思うよ」
藪から棒に横から声がした。「……萃香」
「霊夢に会いに来たんだろう?」
「わたしは祭りを楽しみに来たんだよ。あいつに会うのもいいけど、そんなの宴会でいい」
「宴会と祭りは違う。霊夢はさ、客として楽しむ目も知った方がいいと思うよ」
「本人に言ってやれよ。親切で言ってんならさ」
「親切う?」
萃香はおかしそうに笑った。萃香がいるのはただの立ち飲み屋で、奴は鬼であることを象徴する角を隠しもせずに堂々と居座っていた。なんとなく持っていたりんご飴を仕方なく舐め、辺りを見回した。誰かと連れ立った少女たちの姿がちらつく。
普通の女の子のように嬉しそうに笑うあいつの顔が思い浮かんだ。
「……霊夢はどこだって?」
萃香はやたらに嬉しそうにした。
「ほら……あっちだよ」
わざわざ、指をさした。指先の方向は祭りの喧騒とは離れている。わたしは怪訝に思って、萃香を振り返った。奴は予想していたように含み笑いをする。
「男だよ」
「男?」
「一緒にいるのはさ」
男だよ。
思わず、顔を顰めてしまう。何か言いたげな顔を無視してそうか、と頷く。萃香がわたしたちに何を期待しているのかはわからないが、ろくでもないことだ。そう、いつか、気づくという……何か。何かを期待して。
奥に進み、霊夢を探した。わたしは敷かれた道を歩くだけ。そうしたら、霊夢がいるだけ。そうだ。そうなんだ。
細い道を奥に見て、引き返せば良かったのだ。普段、わたしたちがお茶を飲んだり下らない話をする縁側が見えた。引き寄せられるようにあの、赤い実が目に入る。キイチゴ。あの一点を見て、確信めいたことを思った。
そうだ。これ以上進んだら、やめられなくなる。何を。きっと、口に出す言葉を選ぶ行為をやめられなくなる。そうして、齟齬のある言葉に裏を見て嘘を吐くのが上手くなる。好意と嫌悪を同時に感じながら、そのどちらかだけを声にして迫られる。ねえ、どっちも……見せてよ。
キイチゴを茎から千切り、半分に割る。中に虫が居ないのを確かめて口に含んだ。ろくに美味しいと感じないのに、次に手を伸ばしたくなるのは何故だろう。
呟く。
「……あまい」
既にあたりは暗くなっていた。ここ数日準備してきた灯りが人々を照らし出している。すこし喧騒から離れただけで蝉の出遅れた奴らの声がくぐもって聞こえた。わたしは進んだ。……良ければ、調査しますけど……いえ、お代は……お気持ちをいただくこともありますけど、それはご厚意です。正式なお祈りだとか、そういうんならきちんとした商売になりますから、きっちりいただきますけど……。いつもより高音。頭に映像が浮かぶ。一歩踏み出したその時、ちらつく。
霊夢が上目に男を見た。正面からあの黒目を見つめる。
前に出そうになった足をすんでのところで止めた。
建物の影に隠れ、耳を澄ましてみる。どうせなら、みんなの前で依頼してくれてもいいのよ、だって、その方が名前が売れるでしょう……なんて厭な奴。上がる息を抑えて、どうしようもなく笑ってしまう。
冗談よ、冗談。こういうことは秘密も守りましょう。それで、ご依頼?……そうですか。承りました。ぜひ納涼大会も楽しんでいってね。わたしはそろそろと顔を出した。
男は、霊夢の自分に向けられた手のひらをじっと見ていた。真っ白な肌、夜の片隅に立つ少女。首を傾げ、笑う。ああ、あいつは何も見てなんかいないのに。男は霊夢の目を見て、顔を赤くしたように見える。暗闇に紛れて、祭りの日の不思議な魔力が漂っているように思う。男は、霊夢の手を取った。
指を添わせ、重ねようとする。霊夢は戸惑って一歩下がる。男は一歩進む。下がる。やわらかな足が震える様にずれていく。霊夢は慣れていない押しに弱く、何度も瞬きを繰り返した。耳が赤く染まり、そこにかかった髪を払う。動揺して呂律がうまく回っていない。わたしは、薄く笑った。
「なあ……どっちも、見せてくれよ」
絡んだ指を離し、霊夢の手のひらに人差し指を滑らせた。ねえ……見せてよ。
――その時、けたたましい歓声が上がった。
気が付くと、わたしは壁にかじりつくようにして向こう側の二人を見ていたのだった。
二人も歓声に驚いて、明るい場所を眺めている。そうだ。わたしは……ただ、見ていた。男は霊夢の様子を窺って、強引に抱き寄せた。そうして、それは突如としてわたしの前に現れた。遥か自分の奥の方で、熱源を突き上げる。生々しい、女の、霊夢の、やわらかい感覚。熱さ。あいつの嫌がることをして、触れた肩に顔を寄せる感覚。男は、霊夢を懸命に見つめた。でも、こいつなんか見てない。わたしは、その目で霊夢を見る。霊夢は、奥に見える納涼大会の灯りを恨めし気に見つめる。わたしは見る。見る。見る。
霊夢の目が、こちらを見て、うろたえた。「ま……」
わたしは、激しく嫌悪したのだ。あの男の見ている物を、すべて見ているようで……それ以上に、見ているようで。頭の中で、地団駄を踏み、男を蹴り上げ、それで痛む足をひたすらに釘に刺す。嫌だ。嫌だ。何もかも、偽物であって欲しいのに、全部全部本物だ。霊夢を超えたい気持ちも、霊夢を好きな気持ちも、霊夢に酷いことをしたいと思う気持ちも、霊夢に最低な目で見られたい気持ちも、この気持ち全部最低だと思う気持ちも、それら全部を本当だと思う気持ちも、ぐちゃぐちゃになって、結局、全部偽物になる。
「霊夢!」
やけくそに、なんとか叫んだ。
この場合、なんて言うのが正解なんだ。本当は、男の方に何か言うのが正解なんだろうな。でも、わたしはただ気まずい顔で霊夢の名前を叫ぶので精一杯だったんだ。
男は、影から現れたわたしに驚いて咄嗟に走り出した。
霊夢が、赤くした顔でわたしを見た。その目が、獣の目に似ている。さっきまで怯えていたのに、未熟さを持って、手を伸ばしたくなる魅惑を引き寄せる。わたしの手を取り、腕を体に回した。きついほどに。「ああ……」
「魔理沙、わたし、わたし……」
「うん……」
「ねえ……」
霊夢が耳元で囁いた。
「最悪ね」
何がそうなのか、こいつは言わなかった。ただ、わたしは霊夢の目を見た。霊夢はわたしの答えに注目しているようだった。わたしは口を開きかけ、それから口を閉じた。そうして、こいつの唇を舐めてやった。霊夢は満足そうに舌を出す。もう、動揺なんて見せない。
嫌悪と、激しい好意。混ざり合って、それが焦りと似ている。快感と同じ。結局、わたしはどちらも口にしなかった。歩く度に、振り返ってわたしの姿を確認するこいつの後ろを、歩いていく。
振り返るたびに、わたしは、あいつの目を見る。