「な、何それ。急に何を言い出すかと思ったら、そんな根も歯もないこと……」
「じゃあなんでわたしから目を逸らすの? やましいことじゃないなら、目を逸らす必要はないよね?」
「そんなの……あまりにも強く見つめられちゃ、誰だって目を逸らすでしょ。そもそも、わたしはセンセイに振られたなんて一度も言ってないし」
「振られたことなんてシキミの態度を見ただけでわかるよ。未練がましく彼の後ろを盲目的に追いかける、目に入った途端にそれ以外の全てを投げ出すくらいに。実に哀れだよね」
カラスは冷ややかな視線で私を見下してくる。隠し持っていた暗い嫌悪の色を前面に押し出すように。
でも、私はそこまで言われるようなことをしている覚えはない。
自分のことは自分の勝手、それをわざわざ非難してくるなんてどんな了見があってのことだろうか。
「むしろあなたは、そんなことを言うために戻ってきたってこと!?」
「そうだよ。わたしのやることってそれ以外に何もないから」
「ふ、ふざけるのも、いい加減に────!」
「真面目に話を聞かないのはシキミの方でしょ。そうやってすぐに話を遮って、自分の方が正しいって言い逃れするよね」
「っ……」
鋭い切り返しに言葉を紡げない。意思を表明しようとするたびにカラスの声がその邪魔をする。
そもそも、彼女は何がきっかけでこうも悪意に満ちた存在になったのだろう。
わからない。理解が追いつかない。
「シキミが認めたくないって思考を止めるから、無理やりにでも悟らせないといけなくなるんだよ。だから早いうちに言うのは嫌だったんだよね、どうせ聞く耳を持とうとしないもん」
「ふーん、肉体だけじゃなく精神を疲弊させた上で言いくるめようとしたわけ。上等じゃない!」
「ほら、聞く耳を持とうとしない」
あなただって勝手な推論で私を非難しているでしょ!
そう咄嗟に言い返しそうになるけど、どうにか堪える。
彼女の言う事にも一理はある。駅のホームにいた時、私は確かにセンセイを見つけてから盲目的にセンセイの後を追いかけると決めたから。
それに、ここで感情的に言い返したところで彼女には通用しない。今はぼろを出すまで言わせておくことにしよう。
「あなたも少しは私の言い分を聞いてくれたっていいじゃない。それとも何、人は皆自分勝手だから知らないとでも言う? だったら私も好きにさせてもらうけど」
「好きなこと? 逃避行の間違いでしょ。あんなことまでやったのに、まだ言い逃れしようとしてるんだから」
「またそれ、知ったかぶりで意味深風な言葉。そんなことで私が怯むとでも?」
「怯ませたいならもっと他の言葉を選ぶよ。わたしはただ、わたしからは言葉にできないシキミの事実を口にしてるだけ」
「意味がわからない」
少なくとも彼女の発言は理解してもらおうと思っている側が使うようなものではない。
正直、話を無視して進み続けるべきだと思う。お互いが譲り合わない以上、不毛で無意味な会話には違いないから。
けれど、私は聞いてしまう。この先の言葉なんて聞きたくないはずなのに、話を続けるように促してしまう。
「認めたくない気持ちはわかるよ、環境上の問題があったのは事実だから。けど、それを口実に彼へと依存して気持ちを蔑ろにしなかった? してたでしょ? いかにして彼から好かれるか、そればっかり」
「わかる? あなたに私の何が!」
「ほら、またそうやって答えが与えられるのを待ってる。考えたらわかることなのにどうして誰かに求めるの? そんなに自分から触れるのが怖い?」
「…………」
考えたらわかる、なんて言われても。
わからないからこうして聞いているのに、あなただってわかろうとしてくれないじゃない。
「いくらシキミのことを知ってるわたしでも、なかったことにしようとしてる記憶と感情までは話せない。人のことを求める前に、まずは自分が失ったもの、持っていないものを理解しなきゃ」
「私が失ったもの? ……そんなの現実世界での平穏に決まってるじゃない!」
こんなわけのわからない世界に放り出されて、一体一人でどうしろと言うの?
センセイのところにはまだたどり着けないし、あなたはずっと嫌がらせのように私を非難してばかりでしょ!
湧き上がった怒りに任せて更なる文句を付け加えようとしたところで、カラスは低く唸った。
後悔と辛苦を滲ませて、変わりようのない表情をどことなく暗くして。
「本当はわたしなんかが口を挟まなくったってシキミは大丈夫だと思ってた。なのにこうやって口にしなきゃいけないくらい、シキミは囚われてる。あの時の事をなかったことにしたがってる。……ねえ、いい加減にしてよ、シキミ。いつまで目を背けているつもりなの?」
「目なんて背けてない。私はずっと前しか見てない」
「嘘。それは単なる強がりでしょ? 枯れた花は二度と咲き誇らない。脚を閉じて地に落ちた蝉は二度と鳴き出さない。何にだって終わりが来るのにそれを認めないでどうするの? 停滞している状態で前に進めるわけないよね?」
彼女はまくし立てるように私へと迫る。
私の頭をすっぽりと覆い隠せるくらい大きな翼を広げて、害意しか持っていなさそうな瞳と鋭い嘴を開いて。
けれど、不気味だとか怖いだとかは微塵も感じない。
思うのは一つ、ただ煩わしい、それだけに過ぎなかった。
「もういい、どこかへ行って」
「わたしが邪魔ならシキミの方が早く立ち去ったらいいのに」
それができないからこうしてさ迷い歩いているのに。
ふっと気づくと私は激情に任せて、線路のすぐ横に置かれていた立ち入り禁止の看板を蹴り飛ばした。
この世界において初めて見たそれは、重そうな見た目からは想像がつかないくらいに軽々と吹き飛び、咲き乱れる向日葵をなぎ倒しながら赤い大地に転がっていく。
「うるさい! 好き勝手言うだけ言って理解してくれようとも思わないくせに! もう私に関わらないで! ここから消えてよ!!」
もう耐え切れない。最初こそいい人かと思っていたけど、ここまで心なく接してくるのなら、初めから心なさそうだった駅員の方が数倍マシだ。
もう手助けなんて頼まない。今すぐに消えて無くなってほしい。
────そんな強い願いが届いたのだろうか。
「うん。それじゃあ、消えるね」
「…………は?」
カラスはなぜか嬉しそうにそう口にすると、体を震わせ体勢を大きく乱す。
先ほどまでの力強さは一瞬にしてなくなり、叩けば落ちてしまいそうな弱々しさが白日の下に晒された。
「今度こそさよなら、シキミ。大切な、わたし、の────」
力なく羽ばたいていた彼女は最後まで言い残すことすらままならず線路上に墜落した。
受け身なんてとることなく、吊っていた糸が切れたのかと思うくらいに力なく。
「あのさ、ふざけてるの?」
おそるおそる右足を伸ばしてカラスの体をつつく。
どうせ死んだフリをしているのだろう。顔を近づけようものなら、地面に転がるセミのようにうるさく鳴きわめくに違いない。
罵詈雑言を口にするだけでなく、こうして精神的負荷のかかるような悪戯を仕掛けるなんて、なんて悪辣な。
────そう思っていたのに、
「……ねぇ、ふざけてるのも大概にしてよ。ねぇ!」
つつく力を強めてもいくら顔を近づけても彼女はぴくりとも動くことなく、開かれたままの瞳がただ虚空を見つめているだけ。
そうして、やっと自覚した。私の目の前に転がっているのはただの抜け殻で、兆しを見せるでもなく呆気ない生を終えた一つの命だと。
「ひっ……!」
気がついて私は恐怖する。
彼女は消えてなくなった。私が存在すらも拒絶したから。消えてなくなれと心の底から思ってしまったから。
「あ、あ……」
冷や水を浴びせられたかのように、背筋が凍る。
大気中の暑さが和らいだわけでもないのに、悪寒が止めどなく体の奥底から溢れ出す。
カラスは死んだ。誰として味方のいないまま、敵意だけを向けられた状態で一人寂しく。
彼女は私ではないけれど、同じ命には違いない。だから、私もいつかは消えてなくなるのだろう。
でも、これだけは……! こんな終わりを迎えるのだけは、嫌だ!
「うっ、うわああああああ!」
私は恐怖から彼女の死骸を避けるように駆け出した。
目の前の真実から目を逸らすように脇目も振らず、ただ見つめられる方向が前しかないから、前方を見据えて逃げ出した。
今度こそ彼女は消えた。私を残して過去のものになったんだ。
いなくなったとはいえ悲しくはない。むしろ賑やかしにもならない嫌らしい存在だったから、消えてせいせいしたくらい。
けれど、それでも確かに、胸の内に喪失感が生まれた。
彼女が埋めていた穴であり、今の私には埋められない大きな大きな心中の空洞が。
*
「……暑い」
影法師の少女が消え去ってからどれほど歩いただろうか。
永遠と言えるくらいに長い気がするし、ほんの一瞬だったようにも思えてくる。
依然として感覚のない左手は動かせる気配すらなく、駅の見当たらない線路も永遠に続いている。
天上を染め上げる夕色よりも濃く重い憂が口から漏れた。
あれから、暑さは一層増した。
不気味に空を裂く電線と、それを張った斜め立ちの電信柱はその数を増やし、電車など通しはしないとばかりに線路の低空を横断し始めていた。
向日葵はいつしか数が少なくなり、暑さにやられたのか乾涸びるように枯れている。
それでもなお、朽ちかけた体躯を健気に伸ばし天を仰いでいるものだから愚かしい。
いくら背を伸ばしても太陽に届くはずがないのに。
「……はぁ」
私の精神もいい加減限界に近い。
さっきから向日葵が風もないのに体を揺らしているように見える。
葉の擦れ合う音が人の囁き声に聞こえる。
途方もなく一人歩く私を見て、彼女ったら感情の行き場すらないのね、とクスクス嗤われているような気分だった。
こんな時にスマホがあったら気晴らしになにかできたかもしれない。
……そうだ、なんで忘れていたんだろう。私のポケットにはずっとスマホが入っていたじゃないか!
「ああもう、初めから電話か何かで助けを求めればよかったのに、ほんと何やってんだろ……」
この世界に迷い込んだ直後だったら、まだセンセイとも連絡がついたかもしれないのに、なんて悔やんでも仕方がない。
今はとにかく、電話で助けを求めるのが一番だ。
「というか、ちゃんと繋がるよね……?」
電波環境は良好そうだけど、ここは異世界、試す以外に繋がる当てはない。
だから、履歴の先頭から順に電話をかけていこうとして……手が止まった。
「あれ、なんでこんなに……」
履歴にはびっしりとセンセイの名前。そこまでは何もおかしくない。何かあったらすぐにセンセイへと電話をかけていたから。
だけど、頻度がおかしい。
どうして私は十秒に一度、センセイへと電話をかけ直しているんだろう。
その答えは、電話をかけた途端にわかった。
……否、思い出した。
『おかけになった電話番号は現在使われていません』
耳に伝わる機械質な女性の声、連絡先不通の音声ガイド。
センセイはスマホの電話番号を私に黙って変更していたんだった。
「は、はは……」
大好きだという気持ちは本物なのに、水に溶けていくようにだんだんと薄れていって、次第に疑問と怒りが満ちていく。
こんなはずじゃない。こんなはずじゃなかったのに。
帰り道はなくなって二度とは戻れないらしい。かといって行き先は真っ暗でどこが終わりなのかわからない。だから、
「前なんて、見えるわけないよ……っ!」
繋がりすら途切れたスマホを片手に私はさめざめと惨めに泣くことしかできない。
向日葵畑の幻聴の通り、抱え切れなくなった感情の行き先すらどこにもないまま、惨めに足を引きずりながら前へと歩み続けるしかない。
そうしてぼやけた視界の中、向日葵畑の一部を引き裂いているような場所を見つけて、
「あ────」
目に止まったのはひしゃげた立ち入り禁止の看板。
それは私が怒りに任せて蹴り飛ばしたものとまるっきり同じ形、同じ蹴り跡、同じ場所に転がっていた。
「ああ、そっか。そういう、ことだったんだ」
私はいつの間にか線路の上に座り込んでいた。
疲れたからとかもう歩けないとかそんな理由じゃなくて、歩き続けたって意味がないことに気付いてしまったから。
「ここは……環状線だ」
そして、立ち入り禁止の看板があるこの場所こそ、私とセンセイの分岐点。
二度と並走することすら叶わない変更された路線。
決定的で永遠なる決別の象徴だった。