リンネ-少女は一人、哀れに歩む-   作:影斗朔

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ここに"あなた"という終点はない。

「ねぇセンセイ、今日は一段と暑いね」

 

 夕陽に照らされ始めた教室の中、私は記憶の中の私を見つめる。

 甘く蕩けて光を失いかけた瞳でセンセイをぼうっと眺めている、愚かな自分自身を。

 

 ……影少女の言ったことは何一つ間違ってなくて、悪いのは全て私の方だった。

 友達はおらず家族からも厳しく接されて愛情に飢えていた私は、センセイを独り占めしたいあまり、次第に手段を選ばなくなっていったのだから。

 

「こうして二人っきりなんだからさ、昔みたいに隣に座って教えてほしいなぁ」

 

 自分が発してるとは思えない、幼気で甘えん坊なふわふわの言葉。

 授業中にこんなことを口走っては注意されそうなものだけど、センセイは私を見向きもしない。

 

 ……最初は問題を一つ解くたびに正しいかどうか問いかけるかわいいものだった。

 ただ、自分で答えを見つけようとしなくなったのはきっとこれが原因だと思う。

 求めればセンセイは答えをくれる。なんとわかりやすい依存の関係性だろうか。まあ、私はそれを今の今まで気付けなったのだけど。

 

「もう、無視? センセイが来てくれないなら、私がセンセイの隣に行っちゃおっかなー」

 

 私は椅子をガタガタ揺らしてみせる。それはもう、センセイがかまってくれさえすればなんでもいいとばかりに。

 

 ……それから興に乗ってしまった私は、同じ場所を繰り返し質問する、わかる場所をわからないように振る舞うなどの手を使い始め、だんだんと自分のことを表立って話すようになり出した。

 きっと私の意図なんて早い段階で見破られていたんだろうけど、優しいセンセイは……ううん、大人だったセンセイは咎めることなく寛大に接してくれたんだと思う。

 相手はただの子供で、環境からして人の優しさに触れてこれなかったのだから、甘えてくるのは仕方のないことだって。

 けれどそれは次第にセンセイ自身の人生すら揺るがし始めるものとなっていく。

 

「ねーえー、無視しないでよー。今まで真面目に勉強してきたんだからさ、ちょっとくらい時間を作ってくれてもいいじゃん」

 

 不貞腐れ気味に私は声を張り上げる。

 机の上にあった勉強道具は夕方時だというのにまだ一文字も書かれていない。

 

 ……中学時代の私は相変わらず友人を作ろうともしなかったし、一人孤立したままだった。

 それを心配したのはセンセイではなく、私の両親。かといって自分たちでどうにかする気はなかったようで、忙しいセンセイを呼び出して解決しようとしていたと、最近になって母から伝えられた。

 その記憶すらすっかり消えていたんだから、ほんと私の頭って都合が良い。センセイはいつも私を気にかけてくれているんだ、って本気で思い込むくらいに。

 

「……私、ずっと寂しかったんだよ? センセイがどこか遠くに消えちゃいそうだったから」

 

 不満から一変、今度は悲しみに身を震わせて、チョークが黒板をなぞる音に消されそうなほどか細い声で語りかける。

 それでもやっぱり、センセイは私を気にも留めない。

 

 ……そんなこともあって、センセイの存在は近くにいて当たり前だと勘違いしていたから、教員免許を取得して遠く離れた高校へと配属されると聞いた時、話は裏切られたような気持ちになった。

 センセイ曰く、私は長らく勉強を教えてきた第一教え子らしいから、裏切るも何もないんだろうけど。

 ここで決まってしまったものは仕方がないと諦められたら、きっとこんなことにはならなかったんだろう。

 でも、この身全てを捧げてもいいと思うくらい、センセイから離れられなくなってしまった私に選択肢などはなくて。

 

「置いていかれたくない。離れたくなかったから、私、一生懸命頑張ったんだよ?」

 

 努力を認めてほしい、そして褒めてほしい。

 そんな気持ちに溢れた言葉を投げたところで、センセイは何一つ私の望む態度を返してくれない。

 

 ……正直なところ、高校に入学するのはそこまで困難ではなかった。

 割と名の通った有名高ってこともあって、両親は初めて快く承諾してくれたし、試験もセンセイの教えを活かしたらなんてことのないものだったのが大きい。

 センセイで頭がいっぱいだったわりに、得た知識を活かすことくらいならできたから、それはそれでよかったと思う。

 

 けどまあ、同じ学校に通えるようになったからと言っても、今までのような一対一になれる機会なんて学校内じゃほとんどない。

 昨今では教師による暴行問題がそこらで話題になっており、この学校でも教師と生徒が一対一になるような状況を避けている。

 

 これではセンセイと同じ学校に来た意味がない。

 何か良い手はないかと、得た知識を総動員して考えるうちに思いついたのは、成績不良者の夏季補習。

 これなら上手いこといけば現国の教員になったセンセイと二人きりになれる。

 正直、高校一年の現国なんて時間が半分でも満点を取れるくらいに簡単なもの。

 でも、私はあえて問題を間違えた。出題箇所の点数を計算して、ギリギリ赤点圏内に入るように。センセイと一対一になれる環境を作るためだけに。

 こうして私は見事、センセイと二人きりになれる時間を作り出した。

 

「……ねぇ、どうしたらセンセイは私のことを見てくれるのかな?」

 

 壁あてのように返す相手のいない虚しさに、私は遂に耐えきれなくなり椅子を倒して立ち上がる。

 

 ……夏休みに入る前日は興奮のあまり寝られなかった。

 明日はどんな話をしよう。どうしたらセンセイは私をもっと気にかけてくれるかな。なんて、脳みその隅々までお花畑にして。

 ────翌朝、私に対してセンセイは、他の生徒となんら変わりのない普遍的な態度で黙々と授業する、なんて夢にも思わずに。

 

「私のこと、嫌いになっちゃった? だとしたら、ごめん。悪い部分は言ってくれたらすぐに直すから……!」

 

 ……理解が追いつかなかった。もちろん、授業内容にではなく、センセイの態度に。

 久しぶりに二人きりで話せるようになったんだから、もっと色々と話したい。授業内容じゃなくて、私の方をずっと見てほしい。

 けれどセンセイは私の声に聞く耳を持たなかった。あの頃の二人ではなく、今はただの教師と生徒だと拒絶されたような気がした。

 

「それとも、もしかして私には魅力が感じられなくなっちゃったから、なのかな?」

 

 センセイに歩み寄りながら、私はスカーフを外してボタンを緩める。

 上履きは適当に脱ぎ捨てて、汗で蒸れた靴下のまま音を立てずに忍び寄る。

 

 ……いくら好きの気持ちであっても、行き場を失ってその場を滞ると、伝わらない辛さから嘆きや焦り、怒りに変化してしまう。

 センセイへの依存度が高かった私はなおのことその気持ちに引っ張られ、一方的な愛と同意したものだと決めつけ、あの時、最もやってはいけないことに手を出す。

 

「ねぇセンセイ。私、センセイにだったらなんだって捧げられるよ。だって私はセンセイが大好きだから。……だから、センセイも私を好きにしていいんだよ?」

 

 そう言ってブラのホックを外しスカートのベルトまでも緩めた私は、背中からセンセイに抱きついた。

 

 ────それは、誘惑。身も心も全て、センセイの所有物にしてほしいという、おこがましく傲慢な一時的快楽への誘いだった。

 

 確かに、教師と生徒の行き過ぎた関係は風紀を大きく乱し、校内の秩序を半壊させてしまうから行ってはならないという理由もある。

 だけどそれ以上に、考えなしの誘惑こそセンセイの逆鱗を踏む行為だった。

 だって、センセイには婚約者がいて近いうちに結婚するって既に知っていたんだから。

 

 それを初めて聞いた時は耳を疑った。

 嘘だと信じたかったし、根も葉もない噂話だろうとさえ思っていた。

 けれど、クラスメイトが見せてくれた隠し撮りの写真には、その証拠がまざまざと残されていた。

 

 複数枚の写真に写るのはセンセイと見知らぬ女性。

 楽しそうに談笑し、恥ずかしそうに手を繋ぎ、そして……抱き合ってキスをする姿。

 私が一つでさえ見たことのないセンセイの安らかな姿ばかりだった。

 

 悔しかった。

 なんでセンセイの隣にいるのは私じゃないのだろう。

 私の方がセンセイをよく知っているのに。

 私の方がセンセイに好かれているはずなのに……!

 

 ……そんな傲慢な嫉妬心と孤独による焦燥感から出た本能的行動……自分の身を省みない誘惑だったわけだけど、それこそがセンセイとの永遠なる決別を決定付ける行為だった。

 

「……君にはもう付き合いきれない」

「────え?」

「教員と生徒という関係だから今まで許してきたが、今からはその関係であっても許しはしない」

 

 記憶の中の私は泣き叫んで許しを乞いているが、当然、許されるはずもない。

 だってどう言い訳しても私は自分勝手だった。

 無自覚に縁を切っておけばよかったと後悔させるくらいにセンセイを追い詰めて、好きに……ううん、愛されたかっただなんて。

 

「何度も言わせないでくれ、恋愛ごっこはこれで終わりなんだ。なにせ君はもう────」

 

 無垢な心には無垢な愛が与えられる。

 けど、それを知って愛を打算的に得ようとしてしまったら愛は与えられなくなる。

 

 私は子供だった。純粋な好意しか持たなかった女の子だった。

 でも、今は違う。子供心を否定して、拒絶した。好意ではなくて愛を得るために。

 まさに恋は盲目。愛という単純な気持ちに最も容易く狂わされる。それが純粋さをかなぐり捨てた打算的なものだとしても、認知することすらかなわない。

 

「君はもう、十分に大人になったのだから」

 

 ……そう、子どもという夢から覚まされて、大人という現実を直視するまでは。

 

 子供心を捨てたくせして、純粋な愛に飢えるまま性愛を知り大人への道に踏み出した私は、そんな単純な事実すら認められず、この世界に迷い込んだ。

 センセイという終点のない、停滞を暗示するかのような環状線上でただぐるぐると回り続けていただけだった。

 

 

「────────」

 

 過ぎ去った記憶から意識を戻すと、世界の温度はもはや沸騰したお湯じゃないかと思うくらいに暑苦しくなっていた。

 言葉一つを出すことすらままならない私は、暑さに身を溶かされながら止め処なく流れ落ちる涙で滲む視界の中、行き先を探す。

 影少女が言っていた、私が迎えられるはずの終点を。

 

「なんて、あるはず、ないか……」

 

 涙のせいで物の境界すらあやふやになった私の目に写るのは適当に塗りつぶされた赤色。

 いつしかカンカンと鳴り響き出した耳鳴りと合わさって、まるで踏み切りのランプを覗き込んでいるようだった。

 これではもう、前も後ろもわからない。感覚さえも失ってしまえば、そのうち上下もわからなくなってしまうことだろう。

 

「まあ、それでも、いっか……」

 

 どうせ、私に助けは来ないし元の世界にも居場所はない。だとしたら、この世界に取り残されて然るべきだろう。

 私は全てを諦めて、まぶたを閉じ膝を抱いてうずくまる。

 その時だった。

 

「────何があっても必ず最後は前を向く。それがあなたの心情じゃなかった?」

「……誰?」

 

 どこかで聞いたことのある声が頭上から降り注ぐ。

 それは奇しくも再開した影少女と同じような状況だった。

 

「あなたならもうわたしが誰だかわかるはず。決別を思い出したシキミになら、ね」

 

 近寄ってくる声の方向にふと顔を上げると、遅れる形で一羽のカラスが私の前に着陸する。

 ただ、影少女ではない。彼女はあの時確かに消えた。それにこのカラスは彼女よりも老いているようだった。

 

「今度こそ完全に理解した? あの頃にはもう戻れないんだって」

 

 カラスはぼそりと言う。

 諦観を滲ませる嗄れた声で。

 

「シキミ、あなたはもう大人になってしまったんだよ」

 

 ────ここに来てすぐ嫌いになった、なりたくないと言い続けていた駅員の声で、私が目を背け続けていた現実を諭した。

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