「あなたも私を貶しに来たの?」
「そんな気は少しもないよ。気に入らない相手にとことんまで嫌がらせをする子どもじゃあるまいし、今のシキミを貶したってどうしようもないからね」
カラスは毛繕いしながら興味がなさそうに答える。
話をするときは常に視線を向けて話してきた少女とはうってかわり、彼女は随分とサバサバしていた。
「なら、どうして来たの?」
「どうしてって言われてもね、大体の察しは付いているでしょう? それとも、まだ認めることができていなかったりする?」
「……」
駅員の言うように、確かに私はおそらくこうじゃないかと思える答えに手が届く範囲まできている。
赤色と環状線で形取られたこの世界がどのような物なのか、少女と駅員が何者なのか、そして元の世界への脱出方法も、おおよそ推測できた。
けれど、それがもし間違えていたら……取り返しのつかないものだったらと思うと、触れることができない。
「まあいいよ。その場でパッと頭を切り替えるなんてシキミにはまだ早いだろうし、答えを出すまでに時間がかかるのも無理はない」
「やっぱり貶してる」
「純然な事実だよ。それに時には間違うことも大切だ。……彼に対する暴走した行為は、まあ、よくないことではあるけれど」
「……うん、わかってる」
あれほどセンセイが怒っている姿を見るのは初めてで、だからこそ致命的な失敗をしてしまったんだとすぐに気付いた。
「私がやったことって、センセイが触れさせないようにしてきた大切なところを、良かれと思って土足で踏み荒らしたのとなんら変わりがないから」
ゆっくりと事実を噛み締めるように間違いを口にしながら、私は思い返す。
拒絶されたことを認められず、絶望していた私にセンセイがかけてくれた言葉と、耐えきれず教室から逃げ出した前のことを。
「泣き出した私にセンセイは言い過ぎたと謝ってくれた。それに、ちゃんと気持ちを教えてくれた」
センセイは私に家庭教師をしている時期から既に恋人がいた。その時には既に20代の半ばには結婚しようと将来を誓い合っていた相手が。
センセイの彼女は、センセイが誰かと不倫しようとも構わないという剛担な人だった。
けれど、センセイはその人に一途だったから一つだけ約束をしていた。
それこそ、教え子である私との関係。
『彼女が子供から大人に変わる時……超えてはならない一線を越えようとしてきた時、関係を解消する』と。
「だから、センセイは私に嫌われることを承知であんな突き放し方をしたんだと思う」
そもそも、センセイは私に愛を持って接してはいたけど、それは慈愛や親愛の意であって、決して恋愛や性愛の類ではない。
今までにないくらいの怒りっぷりも、好きな相手だからとはいえ自分の体を安売りする行動に出た私を思ってくれてのこと。
……でも、余裕を失って好きと嫌いの二極的な考えしか持てなかった私に、センセイの言葉は届かなかった。
「そんなセンセイに「大嫌い、死んじゃえばいい」なんて罵詈雑言を吐いて、荷物も持たずに逃げ出したんだから、ほんと、最低なのは私の方」
今頃、本物のセンセイは一体どうしているのだろう。
恋愛脳で聞き分けのない子供だと呆れているだろうか、それとも怒っているだろうか。
あるいは……ちょっとでも後悔してくれてたらいいな、なんて僅かに思ってしまうのが辛い。
駅員や少女よりも私の方がよっぽど捻くれてるし僻んでる。影少女に言われたことだって全て事実だし、これじゃなんと言われても仕方がない。
来るであろう罵詈雑言の言葉を甘んじて飲み込もうと身構える。けれど、
「なんだ、そこまで自覚したんだ。だったらなおのこと口出しの必要はなかったかな」
カラスは私に向けて罵詈雑言を言っては来なかった。
「怒らないの?」
「怒る意味ないからね。ちゃんと反省しているならそれでよし。そこからもう一度前を向いて歩けるならよりよし。人ってどうしても失敗する生き物だから、認めることができるだけでも凄いことなんだよ」
そっぽを向いてばかりいたカラスはいつのまにか私をしっかりと見つめていて、返事に対してカァと満足げに鳴いた。
「それに、暴走気味ではあったけどシキミが誰かに問いかけることなく行動したことに変わりはない。結果がどうであれ、自ら進んで道を選んだあなたをわたしは認める。絶対に拒絶なんかはしない」
「あ、ありがとう……」
肯定的な言葉を連続して言われるものだから、ちょっとだけ調子が狂う。
最初にあった時の印象が最悪だったってこともあるけれど、まるで声が同じだけの別人と話しているような気持ちになる。
「というか、あなたってそんなにおしゃべりだったっけ……?」
「ああ、駅でのこと? あの時のシキミはあまりにも子供っぽかったからついイラッとして」
「ちょっと!?」
ただまあ、その気持ちはわからなくはない。
目に入った何者かが、自分よりあまりにも拙い行動をしている姿を見てイライラするのと同じなんだろう。
それを態度にしてしまうのはどうかと思うけど。
「はは、冗談だよ。あそこにいたわたしはシキミの想像していたわたしの姿。だからそれに合わせて行動してたってだけ」
「それって……」
「おっと、口が滑ってしまった。まあ、これで確信に至れるかはシキミ次第だけどね?」
駅員はしまったー、と態度に示すように両翼の先端部で頭を抱える。
カラスの姿だからかひょうきんで面白可愛い。というか、駅員といい影少女といい、私には真似できそうにないことを素でするから自信をなくしちゃうんだけど。
「ただ、わたしはいつだってシキミの答えを信じている。怒るとか貶すとかは単なる時間の無駄。そんなことに労力を使うくらいなら、失敗を繰り返さないように学習するもの。……間違いにツッコミは入れさせてもらうけれど」
「まあ、そうだよね……」
首を竦めるカラスに私は同意する。
間違いだとわかってないまま突っ走ったのが今の私だし、勉強と同じように落ち着いて考えたらちゃんと把握できるはずだから。
「……うん、私もだんだんとわかってきた。気付くのがどうしようもなく遅かったけど、やっと理解できてきた」
「うんうん、上出来上出来。遅くてもまずは知ることが大事だから」
カラスは嬉しそうに首を上下させて、すぐに目をスッと細めた。
「さて、それじゃあ聞かせてもらおうかな。シキミの答えを」
「……うん」
そうだ、私はセンセイを追ってばかりで答えを求めようとしなかった。……でも、今は違う。
この世界にいるセンセイはあくまで幻。私が答えの糸口を見つけるまでの目印だった。
鍵となったのは記憶。あのあと私が何を望み、何をしてこの世界に迷い込んだのかを知るにはふさわしいヒント。
そうして目印とヒントを頼りに私がたどり着いた真実は、至極荒唐無稽で到底信じられないものだった。
けれど、口にしなければいけない。たとえ間違いだとしても、先に進むために必要なものだから。
緊張で乱れる呼吸を整えて、私は答える。
「私は、センセイとの別れと自分が犯した罪、そして私が迷い込んだこの世界全てが私によって生まれたものだと認めます」
途端、電線に止まっていたカラスの群れが飛び立ち世界は暗転した。
足元から天上にかけて先の見えない黒。立っていた線路さえも消え失せて、暗闇の中たった一人でしゃがみ込んでいたわたしは立ち上がる。
────ここは私の心象風景。
暗く不気味で前や先が存在しない停滞した蟠りの世界。
そう考えると全ての辻褄が合う。
始まりの駅で出会った二人、影少女と駅員は私の心の一部が擬人化したものだった。
影少女は私の心にある子供のように純粋すぎる心。
反対に駅員は物事を割り切って冷徹な大人の心。
そして、ここにいる私はどちらにも転べなくなった中途半端な心の擬人化なんだろう。
自我が他の二人ではなくこの心の私に宿っているのは、現実の私の心情が一番近かったからだと思う。
あの時二人が一度消えたのは私がセンセイを追うと決めたから、「じきに死んでしまう」というのは二つの心を消してまで私が停滞を望んでいたから。
ただ、彼女たちは消えることを望んでいたんだと思う。
大事なのはあくまで自我の方であって、心は消えたり移り変わったりしていくものだから。
でも歩き続けるうちに不安が押し寄せてきた。自分のことが信じられなくなってきた。
きっと初めに子供心が蘇ったのはそれが原因だと思う。
ワガママで自分勝手、だけど自分のことはちゃんと理解していて、純粋すぎるあまり不安なんてなかったころの心だから。
そうして振られた記憶から立ち直った私は、肝心要の記憶を忘れていたせいで少女から叱られることになる。
ああも煽っていたのは、自分を否定した私の自意識が不甲斐なかったからだろう。
私は怒りのあまり彼女を再び消し、しばらく一人で歩き、立ち入り禁止の完売で再び立ち止まる。
純粋な子供心を消しても依然として盲目的だった私の心は、否定しようのない事実を思い出して完全に折れそうになった。
だから大人心である駅員が戻ってきた。酸いも甘いも呑んで冷静さを損なわない、ある意味諦めを体現した人物として。
それに、この世界が私の心象風景だと思ったのは二人の存在だけじゃない。
世界にあった物の数々はアンバランスだった私の心情を暗示するように、どれも変で不気味なものばかりだった。
加えて私が記憶を思い出した際の心内環境の悪化によって一層形を変えていた。
もしかしたら、暗く憂鬱で大人とも子供とも言えない中途半端な思考によって心象世界も形を変えたのかもしれない。
枝葉のように別れる路線から終わりのない環状線に。
────だから私は自分でこの世界にやってきた。
怒りと悲しみに溢れた心と記憶を消してしまいたいと、そう望んだから。
「おめでとう、正解だよ。文句のない100点満点の回答だ。これだと、帰り方ももうわかっているかな」
暗がりのどこかから嗄れた声が私に呼びかける。
とても嬉しそうでいて、どこか悲しさを感じさせるような声音で。
「うん。いつでも元の世界に戻れるよ」
声の主に私は静かに言葉を返す。
長かった逃避行もようやく最後を迎えられる。そんなほっとする気持ちの中にほんの少しだけ悲しみを込めながら。
元の世界に戻る方法、それは『心を一つだけにすること』。つまりは子供心のように、もう一度心の一つを否定しなければならない。
決して今生の別れではないけれど、そのうちに抱けなくなる可能性もある。
センセイへの恋慕が詰まったこの心だって例外ではない。
────だから、消す方は後悔しないうちに決めていた。
「それで、どうする? 嫌いなわたしを消して終わりにする?」
「意味がないでしょ、それじゃ。 この不気味極まりない世界が私が生み出した産物だとするなら、消えるべきは私の方」
この世界にいる私……子供を捨てたくせに大人になりきれない私がこの世界から消える……ここで歩みを止める、それが一番の答えだ。
正確には、自我を大人心の方に移すってのが正しい表現だけど。
もちろんセンセイへの恋慕の気持ちが消えてしまうかもしれないのは怖い。
けれど、これからも嫉妬の炎に身を晒し続けるなんて私には無理な話だ。
「そうは言ってるけど、元の世界へ戻っても生まれ変わるわけじゃないよ。失恋した事実は決して消え去らないし、気を緩めればまたこの世界に迷い込むかもしれない」
「そのためにも、だよ。少しは冷静な方が乗り越えやすいだろうからさ」
「そっか」
他者の手を借りず自分で答えを見つけること。
感情に流されず冷静さを保つこと。
本能に身を任せ過ぎず時に律すること。
無謀な願いに諦めをつけること。
後悔と失敗を噛み締めて次に生かすこと。
歩む道に目標を立て前向きに進み続けること。
それこそが、大人になるということだ。
「……介錯はいる?」
「いらない。一人でできる」
きっと手助けを求めたら私は一生依存性から逃れられなくなる。
だから感覚のない左手を掴み自分の首に当てがった。
「っ……!」
動かなせないはずの左手の力は強く、次第に息が苦しくなる。
正直、片時もそばに置いておきたい気持ちだったけれど、停滞を許容してしまう依存性がある心は私のためにも切り替えておいた方がいい。
ああ、でも────。
「セ……セン、セ…………」
またどうか、どうか私に愛を下さい。
センセイが渡してくれたそれが恋愛感情によるものではないとしても、愛だなんて呼べるものじゃなかったとしても、私にとってはそれこそが愛そのものだったから。
……なんて、全てを理解した上でも考えてしまう。
センセイがこの終わらない輪廻の世界をちぎって立ち入り禁止の路線と繋げてくれたら、と。
自分の心にも非力な私は、そんなことはできないんだと言い聞かせることしかできないけれど……。
立ち入り禁止を無視したら相応の報いが来ると知った以上、二度と同じ轍を踏まないように。
────私は大人になった。