有馬貴将はイカとして生まれ変わり5歳を迎えた。その種族は少々ややこしく、元半人間のインクリングである。人間と喰種とイカの血がどの程度混ざっているのか本人にもわからない。
「有馬さんと休日に外出するなんて久しぶりですね」
ここは20区。有馬の隣を歩いている人間、いや『半喰種』の名は金木研と言う。元は人間でありながら、喰種の赫包を移植されてしまうという数奇な運命に巻き込まれた人物だった。
その経歴もあって彼は有馬に出会う以前から人と喰種の共栄を望んでいた。今では志を同じくする同胞である。こうしてたまの休日に肩を並べて(と言うには少し体格差があり過ぎるが)街を散策するくらいに仲は良かった。
有馬特等保安官ならびに金木一等保安官の両名は『東京保安員会(TSC)』に所属し、平和のために日々邁進している。
かつてこの街の安全を守っていた喰種対策局(CCG)は解体された。今から3年前のことである。人類の歴史の分岐点と言うべき大事件が起きた。
その当時、有馬たち『イカイカ団』は和修に支配されたこの国の闇を暴くべく暗躍していた。CCGの内部に丸手特等捜査官を始めとする多数の協力者を抱え込み、和修の実態を白日の下にさらそうとしていた。
いかに強大な和修とて一国そのものに逆らうことはできない。有馬らは世論を味方につけようとした。和修の息がかかった日本のマスコミや政府組織に働きかけても効果は薄いと考え、国際問題として大々的な提起を計画する。
対喰種政策において日本と親密な国際協定を結んでいたドイツはこの動きにいち早く反応し、CCGの実態究明を強く求める政府声明を発表した。和修常吉総議長はのらりくらりと答弁をかわしていたが、世論の逆風は確実に強まっていた。
それでも黒と明らかにならない限り灰色は灰色のままだ。しらを切り通されれば和修の治世はまだ続くだろうと長期戦を覚悟していた有馬たちは、そこで思わぬ一手を受けることになる。
「ここの街並みも随分変わりましたね……」
金木が目を向ける先には、高層ビルの間を縫うようにそり立つ肉壁があった。何かの合成映像としか思えないその光景が、今や東京の日常だった。
巨大なイソンギンチャクのような形状をしたその物体は『レヴィアタン』と命名されている。
地上に見えている部分は表層の一角にすぎず、張り巡らされた地下茎はどこまで続いているのか解明されていない。出現地は東京に集中しているが、地方でも同様の現象が確認されている。その規模は少しずつだが拡大傾向にあった。
この怪物は和修によって作り出された。和修の始祖『ナーガラジャ』と呼ばれた喰種の成れの果てだった。
その起源は大陸から渡ってきたとされ、歴史に断絶を生じさせるほどの被害をもたらした。その遺骸は今もなお24区の最深部に残されている。
和修は、その遥か昔に終わりを迎えたはずの“竜”を現代に蘇らせようとしたのだ。元CCG研究員嘉納明博の手により、太古の血統を色濃く発現した神代リゼの赫包と24区から採取されたインクリングの細胞を融合させる禁忌の実験が行われた。
彼らにとって現在の東京の惨状は、果たして成功だったのか失敗だったのか。逮捕されたVの構成員は支離滅裂な妄言を口にするばかりで実験の目的や経緯を知ることはできなかった。
ただ後に、この実験を主導した人物は当時の和修家のトップである和修常吉ではなく、分家筋の末子に過ぎない旧多二福という捜査官だったことが判明している。旧多を含め中心人物たちはレヴィアタンの暴走に巻き込まれて死亡してしまったものと思われた。
真相は闇の中に取り残されたまま、しかし人々は現実を受け止めて生きていくしなかい。
「ほにゃ~!」
有馬と金木が街を歩いていると、路地裏からほにゃらかした声が聞こえてきた。二人のイカボーイが『カグネシューター』を撃ち合いながら飛び出してくる。
「こら! ナワバリバトルは所定の場所でしなきゃ迷惑条例違反だよ!」
ボーイたちは道路の上もお構いなしにインクで塗りたくっている。インクは数分で気化してなくなるとはいえ、通行の妨げになっていることは事実だ。保安官として見過ごすことはできなかった。
「んみゃ~!」
「んみっ! んみっ!」
だが、バトルに水を差されたボーイたちは悪びれるどころか苛立ちをあらわにしている。保安官の制服であるコートを着ていれば反応も違ったかもしれないが、今の金木たちは私服姿だった。
金木は仕方なく保安官手帳を取り出そうとしていたが、そこでボーイたちの視線が有馬の方へ釘付けになっていることに気づく。制服を着ていずとも、そのイカが何者であるか彼らには心当たりがあったのだ。
『東京ナワバリ大戦』を勝利に導いた伝説のチーム『イカイカ団』の活躍を知らないインクリングはいない。その一人、白い死神アリマがTSCの保安官となっていることも広く知られていた。
有馬は特に威圧するわけでもなく、いつもの何を考えているのかよくわからない魚のような目を向けているだけだったが、それだけでボーイたちは恐れをなして逃げ出してしまった。
「まあ、非番だし……このくらいは大目に見ますか」
インクリングの本能と言うべきか、このナワバリバトルはいくら取り締まってもきりがない状態だった。よほど悪質な場合でなければ違法性軽微として注意で済ますことが多い。
今や、当たり前のようにインクリングの存在は世間に認知されている。『インクリング』という呼称についても正式に種族名として使われるようになった。
これもレヴィアタンがもたらした被害の一つである。今でこそ活動が沈静化しているが、発生が確認された当初のレヴィアタンは活火山の噴火のように激しくインクをまき散らした。東京の空は、色とりどりのインクの濃霧で覆い尽くされていた。
このインクを浴びたまま洗浄を怠ったり、霧状のインクを多量に吸い込むと人間も喰種も肉体に変化を及ぼす。徐々にインクリング化し始めるのだ。
一度この症状が現れると治療する手立てはない。中途半端にインクリング化した状態は見るに堪えないおぞましい姿になってしまい多臓器不全などの合併症を引き起こすため、発症した者たちは自らインクを浴びて完全に種族を変えるしかなかった。
しかし、完全なインクリングとなってしまえば健康上の問題はなく、見た目の愛らしさもあってそれほど抵抗もなく受け入れられるようになった。元は人間ということもあり、インクリングの権利に関する法整備も進められている。
異種族だからという理由で排斥に力を入れるような余裕は、当時の情勢では考えられなかった。レヴィアタンという未知の怪物に、人間も喰種もインクリングも全ての種族が一丸となって対抗する必要を迫られていたのだ。
インクの放出を日に日に増大させていくレヴィアタンを制し、その活動を鎮静化させるに至った激戦は、後に『東京ナワバリ大戦』と呼ばれた。これを機に、人間を中心として動いていた社会は大きな転換を迎える。
全ての発端は和修という喰種の一族にあったが、その怪物を知らぬ間に育てていたのは盲目的に社会を信用していた人間たちでもあった。過去の遺恨を全て水に流すことはできずとも、本質を見ることなく喰種を否定するだけの悪しき慣習は変えていく必要がある。
これにより人間と喰種による史上初の権利協定が結ばれることとなった。この新たな思想は大きな波となり、世界の各国に影響を与え始めている。
皮肉にも人と喰種が手を取り合うきっかけとなったレヴィアタンは、今も活動を続けていた。定期的にインクを放出しているため、テレビや新聞では天気と一緒にインク予報まで伝えられるようなった。
またレヴィアタンは以前よりインクの放出量が減った代わりに、『落とし児』と呼ばれる新たな脅威を生み出すようになった。
その形はインクリングに似ているが、全身が鱗状の赫子で覆われた異質な姿をしている。知性はなく、攻撃的な行動を取り、動くものに襲い掛かり手あたり次第に捕食しようとする。
定期的に大量発生する落とし児を処理することもTSCの仕事の一つだ。またそれ以外にもTSCの敵は数多く存在する。
『アオギリの樹』や『ピエロマスク』など、人間に敵対する喰種の勢力は依然として存在していた。喰種至上主義者や復讐に駆られた者など、全ての喰種が人間との共存に賛同したわけではなかった。
喰種だけではない。最近ではインクリングによって構成された『スキルドレン』というチームが暴れ回っている。ラクガキをアートと称して広大な範囲を塗りたくり、時には殺人などの重犯罪にも手を染めていた。
そのためTSCは深刻な人員不足に陥っている。半喰種である金木が保安官になれたのもこのためだ。厳正な審査はあるが、TSCは人間に限らず保安官として多くの人材を受け入れていた。
また、CCG時代から計画が進められていた『クインクス』部隊についても正式に稼働することが決定した。手術によって赫包を埋め込まれた“赫子を使える人間”である。
今や“人間”“喰種”“インクリング”という言葉でひとくくりにする物の考え方はナンセンスと言われる時代となった。混血はそこかしこにあふれており、どこからどこまでが人間なのか定義すら曖昧になってきている。
まさに混沌である。この未来は果たして有馬が思い描いた夢に近づいていると言えるのだろうか。彼自身にも自信はない。一つの課題をクリアすれば別の課題が現れる。終わりはない。わかっていることはただ、道半ばにあるということだけだ。
「ちょっと有馬さん! どこ行くんですか」
物思いにふけりながら歩いていた有馬は目的地の前をうっかり通り過ぎようとしていた。貴重な休日を当てもない街歩きに費やしているわけではなく、ちゃんと行先は決まっていたのだ。
そこは一軒の喫茶店だった。店の前には『あんていく』と書かれた看板が置かれている。二人が店に入ると、カウンターに立つ老店主が柔和な笑顔で迎えた。
「いらっしゃい、カネキくん、アリマくん」
「こんにちわ、芳村さん」
店内にはそこそこの客足があり、繁盛しているようだった。マスターの芳村と、店員の古間が切り盛りしている。古間はセットに1時間かけた髪を撫でつけながら金木に声をかけた。
「せっかく来てくれたのに残念だったね。今日はトーカちゃんのシフトじゃないんだ」
「い、いや、別に残念では……」
「またまた。ところで、もうデートのお誘いくらいはしたのかい?」
「いや、だから別にそういう関係では……」
「まったくキミという奴は、しょうがないな。この20区の魔猿と呼ばれた古間円児が一肌脱ごうじゃないか。トーカちゃんには僕からよろしく伝えておくよ」
「やめてください……」
捜査官になる以前はこの店で喰種としてのいろはを教え込まれた金木にとって、ここの店員は皆顔見知りである。つまり、この店の関係者は全員喰種だった。
店長の芳村は見た目こそ優し気な老人だが、かつてはVに殺し屋として雇われていたほどの恐ろしい喰種である。この『あんていく』は長らく20区を取り仕切ってきた場所だった。今でもその立ち位置は変わらず、多くの喰種を取りまとめている。
現在では法律が改正されたことにより正体を明かして店を営むことができるようになっている。そのせいで人間の常連客がみんないなくなってしまったことは芳村にとって残念だったが、代わりに新たな出会いがたくさんあった。
「ありゃみゃ~!」
とてとてと店の奥から走ってきたイカガールが有馬に抱き着いた。いつも無表情の有馬だが、このときばかりは少しだけほっこりした顔になっていた。
駆け寄ってきたインクリングはイカちゃんだった。今では、あんていくで店員として働いている。ちゃんとイカちゃん用にあつらえられた喫茶店の制服を着ていた。
東京ナワバリ大戦の後、イカイカ団はその役目を終えた。チームは解散し、メンバーはそれぞれの道を歩み出している。
イカちゃんの案内で有馬たちは席に通された。いつものブレンドを二つ注文する傍ら、金木は少し離れた席に座っている客に目が留まっていた。
「高槻先生も来ていらしたんですね」
机に突っ伏していたイカガールが声をかけられて顔を上げた。手元に広げられた原稿用紙の上に、盛大によだれを垂らしている。
『おお、誰かと思えばカネキくんじゃないか。元王様も一緒かい』
彼女は元半喰種のインクリングだが、喉に埋め込んだ人工声帯により人間に近い発音が可能だった。これはある種、楽器のようなもので習熟しないとここまでうまく話すことはできない。
うすぼけた色をしていたガールの髪が虹色に発光し始める。
「うわ、何ですかそれ。目がチカチカします」
『ゲーミングエトちゃん』
彼女の名は芳村エト。イカイカ団の中心メンバーである四人組の最後の一人だった。今は高槻泉のペンネームで小説家をやっている。
「そういえば深く聞いたことありませんでしたけど、高槻先生と有馬さんって昔からの知り合いだったんですか?」
『まぁね。今の関係に落ちついたのは11区掃討戦からだけど』
イカイカ団が発足して間もない頃、11区を占拠していたアオギリの樹を駆逐すべくCCGは『11区掃討作戦』を決行した。当時、アオギリの幹部であるヤモリに拘束されていた金木にとってはあまり思い出したくない記憶だった。
万全を期して本局から一個大隊規模の捜査官が送り込まれた。苦戦を強いられながらも順調に拠点の制圧を進めていたCCGだったが、そこに思わぬ強敵が現れる。
トリプルSレート『隻眼の梟』だった。篠原、黒磐ら特等捜査官二名が対処に当たるも、このイレギュラーを相手にして圧倒されていた。
しかし、何とかこれを退散させるに至る。正確には見逃されたと言えた。なぜか梟は戦闘を切り上げて帰って行ったのだ。時間稼ぎでもしているかのような戦いぶりだった。
過去に梟との交戦経験を持つ篠原たちはその様子に違和感を覚える。果たして本当に10年前に戦ったフクロウと同一の個体だったのか、疑問が生まれていた。
その疑問の答えはすぐに裏付けられることとなった。11区の掃討が完了し、捜査官たちが撤収を始めた頃に『二体目の梟』が遅れて登場したのだ。
先ほどまで交戦していた個体とは二回り以上も体格が異なる怪物だった。10年の間に成長したのだ。この個体こそ篠原たちがかつて戦った本物の梟だった。
絶望と言うしかない。死を覚悟し、それでもなお戦うことを決意した捜査官たちだったが、そこで予想だにせぬ助けが入ることになる。
突如として現れたイカ三人組が篠原と黒磐の戦いに加勢した。戸惑いを隠せない捜査官たちだったが、窮地に立たされた彼らは藁にもすがる思いでこの共闘を受け入れた。
そして激戦の末に隻眼の梟は討ち取られた。公式の記録上は、これがCCGとイカイカ団の最初の邂逅となっている。
『まあ、要するに私をダシにして人間の勢力に敵じゃないよアピールをしたっていう、マッチポンプなんだけどね』
「それサラッと言っちゃっていいんですか……?」
隻眼の梟であるエトと有馬は最初から裏でつながっていたので、これは仕組まれた戦いだった。ただし、エトはわざと負けたわけではない。
アオギリを離れて勝手に行動し始めた有馬に対し、エトは少なからず反感を持っていた。アオギリの樹はエトと有馬が立ち上げた集団だったが、秩序の破壊を最優先に考えるエトに対して有馬の思想は微妙に彼女とは着地点がズレていたのだ。
操り人形だったはずの有馬はエトの手から放れてしまった。意思を持つオモチャなど必要ないと、エトは有馬たちを殺すつもりで11区におびき出した。
結果的に全力を出してもエトは負けてしまったわけだが、それはそれで良いとも思っていた。『力による支配』こそアオギリの理念だ。弱者は強者に従うのみ。その原則を曲げるつもりはなかった。
この時点で心のどこかでは有馬たちのやることに賭けてみたいと思ってはいたのだが、これまでにあまりにも多くのものを失いすぎていた彼女はその気持ちを素直に表すことができなかった。
『それでまあ、負けちゃったしもうどうでもいいかと思って自分からイカちゃんに食われに行ったってわけ』
そこから吹っ切れたエトはインクリングに生まれ変わって第二の人生を歩き始める。以前の彼女であれば、こうして父親の店に顔を出すなんてことは到底考えられなかっただろう。
彼女に付き従う形でアオギリの幹部であったノロもイカイカ団に加わった。実は今もこの喫茶店に来ている。仮面をつけた不気味な大男が、エトと同じテーブル席でラージサイズの特製コーヒーをすすっていた。
アオギリの樹は多くの仲間を失った。有馬、エト、ノロ、アヤトと言った主要幹部の脱退、そして11区掃討戦で死亡したヤモリと数多くの構成員たち。
その一方、11区掃討戦の裏で別動隊を率いてコクリア破りを成功させたタタラは、収容されていたSSレートの凶悪な喰種たちを野に解き放ち、アオギリの勢力を増強させている。
タタラは有馬やエトとは袂を分かつ道を選んだ。現在もアオギリの樹は活動を続け、TSCと熾烈な抗争を繰り広げている。
『タタラっちの気持ちもわからないではないんだよ。なんだかんだ言って、あの頃の私はまだ引き返せるところにいた。タタラっちはそうではなかった。その差はほんの些細な違いでしかないけど、決定的な違いなんだ』
復讐を果たすその日まで、タタラの胸中で燃え続ける憎悪の炎が消えることはない。彼と似たような境遇を持つ喰種は数え切れないほどいる。
種族の壁を越えて協力し合う社会を作ろうと人々は努力しているが、その陰にはいまだに多くの遺恨が残されていた。差別、格差、排斥、迫害。種族平等の象徴たるTSCの内部においてでさえ軋轢は存在する。
劇的な変革が起きたとはいえまだ数年の出来事である。人々の意識を変えるには世代をまたぐほどの長い時間が必要となるだろう。それもまた今を生きる者たちに与えられた大きな課題の一つである。
「そ、そういえばアヤトくんは今なにをしてるんでしょうか?」
しんみりしてしまった空気をどうにかしようと金木が話題を変えた。有馬、エト、イカちゃんと往年のイカイカ団がそろい踏みだが、一人だけこの場にいないアヤトの動向が気になった。
「アヤトくんなら旅に出たよ」
古間が言うには、アヤトはバイク趣味に目覚めたらしく、インクリング仕様に改造した愛車を乗り回して全国走破の旅に出かけているらしい。
「写真もあるよ」
古間がスマホを見せた。アヤトはまめにツイッターを更新しているようだった。自慢の愛車や各地の絶景ポイント、ご当地グルメの画像がアップされている。
「そうなんだ、ふぅん、へぇ……」
いっそのことネタとしてイジればこの淀んだ雰囲気も変わったのかもしれないが、仮にも東京を救った英雄に対してそんな扱いをしていいものだろうかという気遣いから金木は曖昧な相槌しか打てずにいた。
一応、弁解しておくとアヤトの旅は地方への拡大を見せているレヴィアタンの生態調査も兼ねている。完全に遊び惚けているわけではない。
東京に比べればまだ被害は少ないが地方にも落とし児の出現が多数確認されており、TSCの情報部と連携して調査活動に貢献していた。インクリングには特殊なインク感知能力があり、優れたアヤトの嗅覚はレヴィアタンの赫子の位置特定に一役買っていた。
「おみゃたしぇ~」
金木が何とも言えない表情でツイッターを流し見ていると、イカちゃんがコーヒーを運んできた。そのままのテーブルの高さだと給仕しにくいので、専用の踏み台が用意されている。カップを並べ終えると一礼して戻って行った。
「……うん。やっぱりこの店のコーヒーが一番だ」
金木は太鼓判を押した。このあんていくの新たな名物となった『イカスミブレンド』は、マスターの芳村とイカちゃんによって共同開発されている。
コーヒーにイカちゃんのインクが混入しているのだ。実はこのインクを飲料として扱うという衝撃的発想が、今日における喰種の社会的地位確立の要となっていた。
高濃度のRc細胞液であるインクは喰種の代替食糧として機能し得たのである。レヴィアタンのインクは肉体を作り替えてしまう特殊な毒素を含むため飲むことができないが、インクリングの出すインクであれば問題なく摂取できた。
このインクの存在により、捕食者と被捕食者の関係にあった人間と喰種は生物としての枠組みを越えて手を取り合うことが可能となった。喰種は人を喰う必要がなくなったのだ。
普通の喰種ではインクの原液を飲むと腹を壊してしまうため、1000倍希釈された飲料用Rc溶液が発売された。非常に安価で大量生産ができ、これにより食料問題は解決されたかに思われた。現に、この発明がなければ今の異種族混和社会が実現することはなかっただろう。
しかし、喰種側は全面的にこの飲み物を受け入れたわけではなかった。舌に合わなかったのだ。飲めないことはないが、人肉とは比べ物にならない。喰種の味覚は人肉を喰らうことを至上の快楽と感じるようにできている。
ひと月やふた月なら我慢できても、この先死ぬまで薄めたインクしか飲めないとなれば考えてしまう。人間も同じだが、栄養が足りれば食事が必要なくなるわけではない。
喰種にとっては人間以上に食事に対するプライオリティが高い。インクの長期摂取による安全性を疑問視する声もあり、これを受け入れられなかった喰種も多かった。
だが、TSCはいかなる事情があろうと人肉の違法所持を認めなかった。殺人を犯せば旧喰種対策法に基づき処罰される。裁判を挟む余地もなく、保安官の手により命をもって罪を償わされるのだ。
喰種の社会的地位はようやく崖の端に手をかけた状態だった。取り締まりの手を緩めれば、人間と喰種はあっけなく元の関係に戻ってしまうだろう。断じて見逃すわけにはいかなかった。
喰種が人権を認められるためにはインクを飲み続けるしかない。金木のように人を喰らうことに抵抗がある者にとってはありがたい話だったが、そのような喰種はごく少数だ。多くの喰種が食事にストレスを強いられる生活を送っている。
そこで芳村が考案した取り組みが『イカスミブレンド』だった。コーヒーは人と喰種が共通して味を楽しめる数少ない嗜好品である。これをインク飲料の品質向上に役立てることはできないかと考えていた。
当然ながら最初からうまくいったわけではない。ただ混ぜ合わせればいいというものではなかった。豆一つ取っても種類、産地、生産家など膨大な検証を重ね、焙煎の仕方、淹れ方、インク濃度や混合比を研究した。
インクの味も採取された個体によって大きく差があることがわかってきた。あんていくではイカちゃんの良質なインクが100%使用されている(隠しメニューでエトブレンドも存在する)。
こうして紆余曲折を経て新メニューが生み出された。どれだけ失敗を繰り返そうと少しも苦に感じなかった。まさに我が子のようにいつくしみ淹れた至極の一杯である。
「このコーヒーを淹れるたびにいつも思う。感謝しかないんだ」
芳村もまた、有馬や金木と同じ夢を望んでいた喰種だった。しかし、どこかでその夢を諦めた喰種だった。今のような世の中になることなど想像もできなかった。
その夢のような世界にあなたは生きている。その一杯は無量の感謝から作られた。
どうか感じてほしい。この
『うーん、ダメだなぁ。キャッチコピーって考えるの難しいね。ノロさんどう思う?』
「……」
『うんうん、やっぱり長文よりパッと目につきやすいフレーズがいいかな。シンプルイズベスト』
インクとコーヒー 奇跡のマッチング! 新登場イカスミブレンド!
喫茶『あんていく』
イカスミブレンドを飲んだ月山の感想
「トレ!! ビアンッ!!!」
イカイカ団、使用ブキ一覧
イカコ【ハイドラント】
アヤト【マニューバー・ラビット】
アリマ【スクイックリン・IXA】他多数
エト【ヴァリアブルローラー・イン・ザ・シティ】