東京イカちゃん【トーキョーガール】   作:放出系能力者

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 チキシャン! チキシャン! チキシャカ チキシャン!
 
ヒメ「やっほー! ハイカラニュースの時間だよー!」
 
イイダ「突然ですが、ここで速報です。本日正午ごろ、ハイカラシティ博物館において都内在住の【イカちゃん・フレぼしゅうちゅう!】さんが展示物のコールドスリープマシンに閉じ込められる事故が発生しました」
 
イイダ「現在、レスキュー隊による懸命な救助活動が行われていますが、装置は強固に密閉されており、救出は困難なもようです」
 
イイダ「この一件により博物館側の展示物のずさんな管理体制が明らかとなりました。これにはジャッジくんからも『に゛っ!』という遺憾の声が寄せられています」
 
イイダ「ハイカラスクエアではガールの身を案じる多くのイカたちが集まり、『マンメンミ』『ナイス!』と言った励ましと支援絵の提供が多数行われています。以上、速報をお伝えしました」
 
ヒメ「じゃあ、今日も元気に~」

ヒメ&イイダ「「ぬりたく~る! テンタクル!」」

 


成長イカちゃん

 

 喰種は人間を食らう。逆に言えば、それ以外のものは基本的に食べられない。体内の酵素の関係で消化不良を起こし体調を崩してしまう。栄養だけなら共食いでも補給できるが、喰種の味覚は人間を最もおいしく感じるようにできている。

 

 人間からすればたまったものではない。喰種は生態系の上位に立ち、人間を狩る立場にある。基礎的な戦闘能力からして別格の生物である。

 

 だが、人間は自然を克服する存在だ。生態系から外れた生物と言える。喰種から人間社会を守るため、あらゆる手段を講じてこれまで対抗してきた。ここ日本においては『喰種対策局(CCG)』と呼ばれる行政機関が存在する。

 

 対喰種戦のプロフェッショナルである捜査官たちは、ただ狩られるだけの存在ではない。個体としての力は及ばずとも、技術と、装備と、組織力によって逆に喰種を駆逐する。彼らは『白鳩(ハト)』の通称で喰種たちから恐れられている。

 

「第6班、ポイント17-Cに到着。異常なし。探索を続行する」

 

『了解』

  

 今宵、CCG本部から招集された多くの捜査官が『24区』の捜索に当たっていた。通称『モグラたたき』と呼ばれる定例調査である。

 

 東京は1区から23区に分けられ管轄されており、厳密に言えば24区という区画は存在しない。その実態は、地下に掘られた喰種の巣穴である。

 

 古くからこの地に棲みついてきた喰種たちは地下に巨大な巣穴を築き上げてきた。それは地上を追われ、行き場をなくした喰種たちの最後の砦だった。

 

 ただでさえ東京の地下は各種インフラのパイプラインや地下鉄道など複雑に入り組んでいる。喰種はその間を縫って、蟻のように巣を張り巡らせた。

 

 地盤沈下を起こさないのは『Rc細胞壁』という特殊な建材に支えられているからだ。それはまさに生きた壁であり、頑強かつ巧妙に周囲の風景に擬態して内部の構造を隠蔽している。

 

 これまでにCCGは幾度となくこの巣穴の調査を行っているが、いまだに全容を把握できてはいない。そのため定期的にこの地下道を“清掃”し、地道なルートの確認作業を重ねている。

 

「しっかし、もうかれこれ2時間近く潜ってるのに1匹も出てきませんね」

 

「そういうこともある」

 

 今回、臨時編成された6班のリーダーを務める久遠上等捜査官が答えた。班の人数は5人。上等2名、二等3名の編成である。

 

 喰種捜査官の階級は上から特等、準特等、上等、一等、二等、三等と分かれている。その指標は強さの違いと言い換えてもいい。例外もあるが、上の階級の人間ほど強いことは間違いない。

 

「連中にとってもここは住みにくい環境だ。ドブネズミみたいに群れているわけではない」

 

 他の班からも交戦したという情報は一件も入っておらず、いつもと比べれば静かな行軍だった。

 

「そんなもんスか」

 

 喰種は人間を食うこと以外、その暮らしぶりは人間とさほど変わらない生き物だ。多くの喰種たちはこの東京で、人間に成りすまして暮らしている。それが最も安全で楽だからだ。

 

 喰種にとっても、隠者のような世俗を捨てた生活は苦痛である。動物のように森に身を隠しながら人里を襲うような暮らしには堪えられない。

 

 東京はいい街だった。数え切れないほどの人々が互いに無関心なまま、すれ違いながら暮らしている。多少の変死体や自殺者が出ても目立たない。そんな土壌があった。

 

 CCGという脅威さえ除けば喰種にとってこれほど住みやすい場所はない。だから、地上でへまをしでかした喰種たちは最後の逃げ場所としてこの地下道にやってくる。

 

 白鳩の捜査によって正体を暴かれ、地上では生きていけなくなった者たちだ。

 

「要するに、ただの間抜けの集まりってことですよね。だからオレら新人捜査官も任務に組み込まれてるわけですし」

 

 モグラたたきで討伐される喰種の多くは危険度を表すレートにしてB~C帯に属する。これは三等捜査官であっても一対一で十分に対処可能なレベルの強さである。

 

「慢心するな。本当に間抜けなら正体が発覚した段階で処分されている。奴らはこちらの動きに感づいて逃げおおせるだけの頭があるということだ」

 

 久遠は新人の荒牧をたしなめた。荒牧二等捜査官。第一CCGアカデミージュニア出身の有望株である。今回集められた新人の中ではトップクラスの成績優秀者だ。

 

 6班の他2名の二等捜査官についても若輩ながら申し分ない実績がある。このようにモグラたたきは優秀な新人を対象とした実戦教育の場という側面も持ち合わせていた。

 

 本当に危険な喰種が出現する可能性が高い未調査エリアの探索はさすがに特等捜査官を筆頭とした最高戦力のチームが投じられ、新人は既に過去の調査でマッピングし終えたエリアの清掃任務に充てられる。とはいえ、危険がないわけではない。

 

「浅層でも過去にはAレートを超える喰種の出現が報告されている。さらに深い階層では……最も凶悪な個体である『赫者(かくじゃ)』の出現も確認されたことがある」

 

「赫者……」

 

 喰種同士の共食いを日常的に繰り返し、大量のRc細胞を取り込んだ喰種の中には稀に突然変異のように赫子が強化される個体が現れるという。

 

 喰種であっても共食いに対する忌避感はあり、滅多なことで起きることではないが、食料を満足に確保しにくい環境下では共食いが発生しやすいことがわかっている。

 

 赫者と化した喰種は赫子に全身を覆われ、鎧のように隙のない防備を固める。常軌を逸した破壊力と凶暴性に満ちている。

 

 かつて24捜査においてF-124地点で確認された赫者個体『隻眼の梟』はCCGの長い歴史においても類を見ないほど強力な喰種だった。そのレートは後に危険度最高位SSSに指定されている。

 

 今回の任務でそんな大災害が現れるとは思えないが、釘を刺す意味も込めて久遠は警告する。

 

「わかってますよ。油断なんかしません。相手がどんなに弱かろうと強かろうと、必ず全力で対処してみせます」

 

「……」

 

 荒牧の目をみれば、その言葉に嘘はないとわかった。久遠はこれまでにそれと同じような目を何度も見てきた。喰種に対する憎悪に満ちた瞳である。

 

 CCGが管理する捜査官の養成学校には毎年のように親を喰種に殺された孤児たちが入学編入してくる。荒牧もその一人だった。

 

 復讐を果たすため死に物狂いで勉強し、戦闘技術を磨き、彼らの多くは喰種捜査官となる。その気持ちは久遠にも共感できた。

 

 しかし、その憎悪の炎が燃え盛る期間は大抵の場合、若いうちだけだ。実際に捜査官となり、喰種を殺していくうちに現実を理解していく。

 

 復讐は何も生まない。ただ空しいだけだ。他人から言われれば知ったような口をきくなと憤ることを、ようやく自分の頭で理解できるようになる。

 

 炎が消え去り燃えカスだけが残ったような人間は山ほどいた。未来を担う若者に、そうはなってほしくないと久遠は切に願っている。

 

「本部から『クインケ』を支給されているだろう」

 

「はい」

 

「お前たちが捜査官である証とは、輝かしい階級や勲功ではない。『クインケの所持を許可された』。それが捜査官たるゆえんだ」

 

 クインケとは対喰種駆逐兵器である。全身が強固な耐久力を持つ喰種に通常の銃火器はほとんど通用しない。力で劣る人間が喰種と渡り合うためにはこの武器が要る。

 

 見た目はただのアタッシュケースにしか見えないが、Rc細胞技術の応用により生み出されたバイオテクノロジーの結晶である。

 

「それは都民を、同胞を、一人でも多くの命を守るために、我々が持つことの許された力だ。断じて私的な目的を果たすために与えられた力ではない」

 

「……はい」

 

 今はまだ、言葉で言って聞かせてもすんなりと飲み込むことは難しいだろう。失敗をしない人間はいない。経験を積むためには時間が必要だ。

 

 だから新人が一人前の捜査官となるその時まで、守ってやるのが上司の務めだ。

 

「はいはい、おしゃべりはそのくらいにしときなさいな。耳の良い喰種なら感づいて逃げられるかもしれないわよ」

 

 久遠のバディであるもう一人の上等捜査官が口を挟む。しかし、ここは既に探索済みエリアの行き止まりに位置していた。もし喰種がいたとすれば逃げ道はない。

 

 この先の一本道をまっすぐ進めば袋小路になっている。6班はそこを確認した後、引き返して別ルートの清掃に当たりながら本陣に戻る予定となっていた。

 

 荒牧たち新人三名は拍子抜けしていた。24(ニーヨン)捜査と言えば新人捜査官にとって功績を上げる格好の舞台であると同時に、高い殉職率で知られる過酷な任務である。

 

 だが、蓋を開けてみればどうということはなかった。指導教官たちは新人が気を抜かないように脅しをかけるため、任務の内容を過度に脚色していたのだろうと荒牧は内心で思っていた。

 

 喰種との戦闘が発生すれば死の危険が伴うことは捜査官にとって至極当然のことである。数字を恐れていては、この仕事は務まらない。辞退せずにこの任務を受けた時点で荒牧たちの覚悟は決まっていた。

 

 しかし、本当の覚悟とは。現実に死を目前としなければ、やすやすと固まるものではない。

 

「――!」

 

 それは一本道を進んでいた最中のことである。先頭を歩いていた久遠が立ち止まり、後続の班員を手で制した。

 

「アアアア――!」

 

 通路の奥から声が聞こえた。6班の全員に緊張が走る。喰種であることを疑う余地はなかった。すぐさま各々が手にしていたアタッシュケースを展開する。

 

 電気信号を受けて急速展開された兵器(クインケ)を構える。その材料は喰種から取り出された赫子だった。

 

 人間は喰種に対抗するための武器として、喰種が生来持つ武器である赫子を逆に利用したのである。

 

 喰種が個体によって千差万別の赫子を持つように、それから作り出されるクインケもまた多種多様である。荒牧が本部から支給されたクインケの銘は『ぼくさつ1号』だ。

 

 メイス状のBレート甲赫型クインケである。二等捜査官からはクインケの使用制限が大きく緩和されるため、これでも新人に与えられる武器としては優良な部類の性能である。

 

 しかし、不満がないわけではなかった。荒牧は久遠が持つクインケを見る。

 

 A+レート甲赫型『モチヅキ』。その形状は円錐形のヴァンプレイトが取り付けられた大型の騎槍である。

 

 甲赫型は最も優れた耐久性を誇るが、その代償として過大な重量を持つ。小型に設計された『ぼくさつ1号』はまだ扱いやすいが、久遠の騎槍状クインケは並の鍛え方ではまともに振るうこともできないだろう。

 

 上等捜査官の階級は伊達ではない。それに見合うだけの実力と装備だった。

 

「ハヒィイィイイイィ!」

 

 万全の戦闘態勢を整えた6班のもとに一匹の喰種が姿を見せた。何やら取り乱した様子で息を荒らげて走って来る。

 

「あっ、なんだオマエら……ハトオオオオオ!? ちくしょう! こんな時にふざけんなマジでサイアクだあああああ!!」

 

 喰種は待ち構える捜査官たちを見ても足を止めることはなかった。一本道の通路を全力疾走で駆けてくる。

 

 何か、様子がおかしい。久遠は警戒心を高めて隊列の先頭に立ち、槍を構える。それに合わせるように喰種の男は背中から赫子を形成した。

 

「この道は“直線”なんだああ! 直線はヤバイんだよおおお!! ジャマだどけええええ!!」

 

 喰種は錯乱しているのか意味不明な言葉を発しながら赫子を打ち込んで来る。迎え撃つように久遠は踏み込んだ。

 

 赫子とクインケがぶつかり合う。摩擦によって火花が生じる。丸みを帯びた鍔を持つ久遠の槍はうまく赫子の一撃を受け流していた。

 

「ぐぶぅ!」

 

 槍先が喰種の腹に突き刺さる。だが、喰種は血を吐きながらも笑みを浮かべた。

 

「死ねぇ! クソハトがああ!」

 

 腹を貫かれた程度ではまだ致命傷には至らない。喰種は突き刺さった槍を両手で抱え込み、久遠の武器を封じた。

 

 喰種は両手が使えずとも赫子を持っている。生きた触手であるこの武器は一つの形状に固定されたクインケと違い、意のままに動かすことが可能である。

 

 槍によって軌道を逸らされた赫子が、久遠の背後から回り込むように動きを変えた。

 

 しかし、彼に焦りはなかった。久遠は槍の持ち手に取りつけられたスイッチを押した。その瞬間、槍の形状が変化する。

 

「げばっ……!」

 

 それは傘だった。円錐状のヴァンプレイトは傘の骨が開くように一気に広がり、突き刺さった敵の傷口を押し広げる。一瞬にして喰種は上半身と下半身に二分されてしまった。

 

 モチヅキは攻守を使い分ける可変ギミックが組み込まれたクインケである。槍状態の時は刺殺に適し、傘状態の時は敵の攻撃を防ぐ盾となる。

 

 いかに生命力の高い喰種とて、身体を上下に引き裂かれれば生きてはいられない。勝負は決した。

 

「ごほっ、げほっ……ふひゃっ、ひゃははははは!」

 

 だが、喰種はすぐに絶命することはなかった。間もなく死ぬことが確定した命だが、頭を潰されでもしない限り幾ばくかの猶予は残されている。

 

「おまえらはおわりだ。ここでしぬんだよおおお。ひゃははは」

 

「死ぬのはテメェだ」

 

 荒牧は自分が持つクインケを振り上げる。しかし、とどめを刺そうとした荒牧を久遠が止める。

 

「お前は何かから逃げて来たのか? この先に何がいる?」

 

 この喰種のこれまでの行動や発言から予想した久遠だったが、その答えは既にわかっているようなものだ。

 

 ここには喰種しかいない。同種同士の戦いがあったと考えるのが自然だろう。死にゆく喰種の男は残された命を絞り出すように最後の言葉を告げた。

 

「にじゅ、う……よんくの、お、う……」

 

 そこで男は事切れた。

 

「24区の、何?」

 

「おう……王ってことか?」

 

 一つ断っておくことがあるとすれば、地下道に逃げ込んで来る喰種たちもこの巨大な迷宮の全容を知っているわけではない。

 

 先人が掘り進んだ遺跡を利用しているだけである。24区は喰種たちにとっても、半分以上がおとぎ話のような存在だった。

 

 この迷宮の地下深く、誰も足を踏み入れたことのないような闇の底に本当の24区はある。その国は『隻眼の王』に支配されている。

 

 この王がいかなる存在であるかは言い伝えによって異なり、はっきりとしたことはわかっていない。

 

 ただ、もしそんな喰種がいるとすればとてつもなく強大で、彼らにとって畏怖の対象である『隻眼』を持っているのかもしれない。

 

「増援は?」

 

「5班と4班がこちらに向かってるわ。でも、しばらくはかかるわよ」

 

 この場所は探索予定域の末端に位置している。すぐに他の班と連携が取れるような距離ではなかった。

 

 敵の戦力は未知数だ。『24区の王』とは捜査官たちにとって聞いたこともない存在である。死に損ないの喰種が苦し紛れについた嘘かもしれない。

 

 どのように行動すべきか判断に悩んでいた久遠は、ふと妙な風の流れを感じ取った。

 

 行き止まりであるはずの通路の奥に向かってわずかに空気が流れたような気がした。それは産毛の先で辛うじて察したか否かというほど微細な変化である。

 

 

「――伏せろ!」

 

 

 そこから先の行動は、久遠本人にしても何か明確な根拠があってのものではなかった。強いて言えば熟練の捜査官が身体に染み込ませた戦闘勘である。

 

 例えばガラス細工職人が焼き入れしたガラスの色を見て加工に最適な温度をコンマ1の誤差内で見分けるように、久遠は場に流れる空気の違いを感じ取った。

 

 クインケの傘を開き、隊列の先頭に立つ。その直後、猛烈な勢いで黒い雨が地面と平行に降りしきった。

 

 瞬時に『羽赫』の攻撃であることを理解する。このタイプの喰種の赫子は極めて揮発性の高いガス状となり、弾丸のようにRc細胞を遠距離まで射出してくる。

 

 その弱点はガス欠のしやすさだ。圧倒的な速度とリーチの長さを誇るが、すぐに体力を消耗して満足に戦えなくなる。赫子の中でも最高硬度を持つ甲赫のクインケは羽赫を迎え撃つ上で相性がいい。

 

 敵の弾が尽きるまで盾を張り続け耐え忍ぶ。それが対羽赫戦のセオリーだ。その常識が通用しない。

 

 雨の弾丸は一粒食らえば膝が笑い出すほどの衝撃となり、傘を通して久遠の全身を駆け抜けた。

 

 そして雨とは、水滴の粒が空から無数に降り注ぐ現象を指す言葉だ。一発や二発で済むはずがない。

 

「おお、お、おおおおおおああああ!!」

 

 久遠は全力で傘の盾を前方に押していた。一切の余剰なき全身全霊を込めて傘を押し込む。そうでもしなければ逆に押し込まれてしまう。

 

 傘を直撃した雨は地面に滴り落ち、周辺を真っ黒に塗りつぶしていく。飛沫は壁や天井に飛び散り、一分の塗り残しも見当たらないほどに染め上げる。

 

 普通、羽赫が発する弾丸は直撃した時点で破壊の結果だけを残して霧散してしまうものだ。Rc細胞の高速結合サイクルによって瞬間的に非常に高いエネルギーを生み出せるが、その組成は不安定となる。

 

 まるで冠水した道路の如く黒い液体となったRc細胞が足元を流れていく。だが、久遠はもはやそんなことに気を取られている余裕はなかった。

 

 モチヅキは最初の数秒を耐えた時点で壊れていた。弾丸は甲赫の盾を貫通し、何の抵抗もなく久遠の体に穴を空けていく。

 

 もはや盾にすらなっていない。後方の班員たちの無事を振り返って確認する余裕も残されてはいなかった。

 

 それは確認するまでもなく明白だった。とてもではないが、この雨粒の全てをちっぽけな傘の盾で防ぎきれるものではない。確実に被害は後方の全域に及んでいる。

 

 この通路は直線だ。身を隠す遮蔽物も存在しない。

 

 肉体の感覚はとうに消え去っていた。痛みさえなく、まさに冷たい雨に打たれているかのように寒気だけが広がっていく。

 

 意識が働いているのかも定かではない。降りしきる雨音の中で、久遠は壊れた傘を手に立ち続けていた。

 

 どれだけの時間が過ぎ去ったことだろう。それは一時の驟雨に過ぎなかったが、それを受ける当人たちにしてみれば途方もなく長い雨だった。

 

「う、う……」  

 

 雨が止む。すぐに汚水の中から身を起こすことができたのは荒牧だけだった。全身を負傷しながらも何とか一命を取り留めた荒牧は、ただ一人逃げも隠れもせず敵の猛攻を凌ぎ続けた男の背中を視界に収める。

 

「久遠さん!」

 

 それはあり得ない光景だった。敵の攻撃もそうだが、それを受けきってなお堪え抜いた久遠の姿に荒牧は驚嘆する。

 

 これが上等捜査官。かつてないほどの尊敬の念が荒牧の胸にこみ上げてくる。

 

 敵は恐ろしい強さを持った喰種に違いない。だが、荒牧には希望があった。久遠上等と共に戦えば、敵を倒せずとも応援が来るまでは何とか持ちこたえられるはずだ。

 

 そんな希望は、荒牧の目の前で音を立てて崩れ落ちた。久遠は糸が切れた人形のように倒れ伏した。

 

「……久遠さん?」

 

 久遠は死んでいた。死んだまま、立ち続けていた。なぜそんなことができたのか。彼の信念がそうさせたとしか説明できない。

 

 後ろに控えた後輩たちを、苦楽を共にした相棒を守らなければならない。その一心が死してなお彼を二本の脚で立たせていた。

 

「うそだ」

 

 その献身は決して無駄ではなかった。もし彼が早々に倒れてしまっていたなら荒牧の命はなかった。

 

 久遠は弾丸を防ぐ盾にはなれなかったが、弾の的にはなっていた。なかなか倒れない久遠を狙ってか、敵の照準(エイム)は久遠に集中していた。

 

「みんな、死んだ……?」

 

 その前提があった上で、荒牧はとても幸運だった。弾丸は彼の体に深い傷を残しているが、辛うじて致命傷には至っていない。

 

 他の捜査官は全員、流れ弾に当たって絶命していた。

 

「またお前たちは奪うのか……喰種(クズ)が……クズが、クズがクズがクズがああああ!!」

 

 憎悪を抑え込むことはできなかった。たとえ敵わない相手だろうと関係ない。戦闘など到底できるはずもない体で立ち上がり、クインケを手に咆哮する。

 

「あああああああ――あ?」

 

 怒りに燃え、天に向かって吠えた彼はしかし、そこで硬直した。

 

 天井に目があった。見間違うはずもない。その眼は直径が1メートルほどはあろうかという巨大さだった。

 

 いつからそこにあったのだろうか。そんな目玉が一対、黒墨の中に浮かび上がるようにして天井から生えていた。荒牧の胸中に渦巻いていた怒りは一瞬にして別の感情に置き換わる。

 

 これはなんだ。疑問で頭が埋め尽くされる。

 

 目玉の片方だけが出血しているかのように赤く染まっていた。それは荒牧もよく知っている。喰種が持つ『赫眼』だ。

 

 だが、自分が知っているそれと目の前のそれが結びつくことはない。あまりにもかけ離れ過ぎていた。無意識のうちに認めることを拒絶していた。

 

『ハニャ!』

 

 ソレは鳴き声のような音を発した。見た目に全くそぐわない、かわいらしい声だった。その直後、シャットダウンしかけていた荒牧の脳は、痛みによって強制的に再起動させられる。

 

「ぎいいいいいいいい!?」

 

 ずぶずぶと体が沈んでいく。まるで底なし沼だ。しかし床が沈下しているわけではなかった。床面全体に塗りたくられた墨の中に、身体が少しずつ溶かされている。

 

 足先からすりおろされるように地面に吸収されているとも言い換えられる。被弾した傷の痛みが吹き飛ぶほどの拷問だった。

 

 何よりも自分の肉体が徐々に消えていく恐怖に心が堪えられない。荒牧は、これがこの喰種の捕食スタイルであることに気づいた。

 

「たすけてくれえっ!!」

 

 それがわかったからと言って何の救いにもならない。反射的に口から飛び出た命乞いにも意味はない。無駄な抵抗を続けているのは荒牧だけで、他の死体は物言わぬまま静かにインクの中へ取り込まれていた。

 

 もうすぐ死ぬ。全身が溶かし食われるまでもなく、ある時点で生命活動に支障をきたすだけのダメージが発生するだろう。どうせなら痛みを感じる間もないくらい一瞬で殺してくれればいいものを。

 

 死んでおくべきだったと後悔する。運良く生き残ったことが最大の不幸だった。だが頭ではそう思っていても、言葉はいまだに助命を求めていた。

 

「だれか、たすけ……」

 

「はい、助けに来ました」

 

 誰かの声が聞こえた。それと同時に天井の目玉に数本の刃物が突き刺さる。

 

 死にかけの荒牧が目にしたのは一人の捜査官だ。増援が来たのかと思ったが、一人の姿しか見当たらない。

 

「おおっと、これは大物だ! バラしがいがあるぅー!」

 

 鈴屋辻造“三等”捜査官。その人物のことを荒牧は知っていた。嫌でも耳にする名だった。

 

 クインケのナイフが眼球に突き刺さった敵は、特に痛がる様子も見せなかった。潜水艦の浮上を思わせるように、ゆっくりとその全影があらわとなる。

 

 今まではインクの中から目玉だけを覗かせた状態だったのだ。厚さ数ミリの海から引き上げられた、その巨大な怪物の姿は。

 

 まさにイカだった。

 

「ありゃあ。ちょっとこれは、そうだね……お さ し み に しようかな!」

 

 対する人間は全く怯んでいなかった。

 

 

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