「イカ子ーッ!」
「万丈さん、危ないっス!」
戦況は一変していた。誰がこんな事態を予測できただろうか。突如として出現した巨大なイカにより、アオギリの樹の幹部である霧島絢都は殺された。
羽赫全体から見てもトップレベルの能力を持つ霧島だったが、怪物イカの赫子から逃れることはできなかった。総数10本の巨大赫子は赫者クラスとしても異常な物量だった。
触手に捕まった霧島は捕食された。時間にしてわずか数秒の出来事である。残されたアオギリの構成員は蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。
敵はいなくなったが、イカちゃんの赫者化は解除されなかった。完全に正気を失って暴走している。万丈の声も届かない。滅茶苦茶に触手を振り回し、街を破壊し始めていた。
「アヤトきゅん食べられちゃったの!? またひとり貴重な美男子が失われてしまったのね……」
その様子を離れたビルの屋上から観察する者たちがいた。アオギリの樹の幹部たちだった。
タタラ、エト、ノロ、ヤモリ、ニコ、瓶兄弟。霧島を除く総勢7名の幹部は、捜査官からすれば絶望に打ちひしがれるしかない強さを持つ凶悪な個体の集まりだった。
「エト、お前はあれをどう見る?」
「うん……触らぬ神に祟りなしってところかな」
この事態は幹部連中からしても全くの想定外だった。この11区に攻め込んだ理由はリゼの足取りを追ってのことである。リゼが既にこの地を去ったことまでは把握しており、11区のリーダーが殺されていることも知っている。
新たなリーダーがいるにしても、まさかここまで強大な喰種が残っているとは思いもよらなかった。イカの赫者は片目だけが赤く色付いた『隻眼』だった。
その正体について今の段階で確かなことはわからないが、もしかすれば自分と同じような境遇の喰種なのかもしれないとエトは思った。
「撤退するぞ」
まとめ役のタタラが声をかける。ここでイカの赫者と対決するメリットはない。正面からぶつかれば、どれだけの被害が出るかわからない。ようやく旗揚げした矢先に戦力を落とすわけにはいかなかった。
たかが幹部一人のために弔い合戦を仕掛けるよりも、この状況をもっと有効に利用すべきだ。
「一雨、降りそうだな」
空には黒々とした厚い雲がかかっている。タタラは殺された霧島のことを思う。霧島は年若いが、古参の幹部だ。アオギリが水面下で兵を集めていた時代から在籍していた。
野良犬のように誰彼構わず吠えていた小僧でしかなかった霧島に教育を施したのはタタラだ。そんな仲間の死に感傷を抱く気持ちがないわけではない。だが、その感情を外に出すことはなかった。
彼が失った仲間は霧島だけではない。幾多の戦いを経験し、幾多の死を目に焼き付けてきた。そのたびに心は欠け、物のような精神に成り下がっていく。彼らの精神は戦いの中でとうに擦り切れてしまっていた。
喰種たちは人知れずその場を去っていく。今日という日をもって、この東京は新たな脅威の存在を知ることとなる。
* * *
レートSSS喰種『烏賊』出現。最初の発見から数か月、何の音沙汰もなかった怪物がついに動き出す。
きっかけは11区にて複数の喰種により同時多発的に起こされた襲撃事件だった。その一報を受けて間もなく、立て続けに烏賊の出現が確認された。
CCG本部は総力を挙げて対策チームを結成。烏賊駆逐作戦が展開されることとなる。だが、敵は彼らの想像を遥かに超えた怪物だった。
「『24区の王』……総議長殿は尋常ではなくこの喰種を警戒しておられたようだが、なるほど今となってはそれもうなずける」
特等捜査官、田中丸望丸はヘリから敵影を眺めていた。それは巨大な赫子の塊だった。全長は推定40メートル。地下で遭遇したときよりも2倍以上の大きさになっている。
これは狭い地下空間で行動しやすくするため、以前はあえて体を縮小していたものではないかと考えられている。つまり、今この状態が本来の大きさだったというわけだ。
これまでに確認された喰種とは規模が違いすぎた。いかに赫者とはいえ、通常その赫子の鎧は身に纏う程度の大きさである。
CCG総議長、和修常吉はかねてから烏賊の危険性を重く受け止め、自らの一存でレートを最高位のSSSに引き上げさせたほどだった。何としてでも駆逐せよと対策班は直々に厳命を受けている。
現在は午後11時。ヘリから見下ろした地上の街並みは一切の明かりが消えた暗闇と化している。烏賊が吐き出した大量の墨によって周辺一帯が執拗に塗りつぶされていた。
この墨の領域は数キロ圏内にも及び、今もなお烏賊の移動に伴って拡大し続けている。また、この体液からは高濃度のRc細胞が検出されている。烏賊はこの液で塗りたくられた場所なら水深を無視して自由自在に泳ぎ回ることができる。
触れてもただちに人体に影響を及ぼすようなことはないが、粘着性があり足を取られる。ただ動きにくくなるだけだが、その一点が致命的に接近を困難にしていた。
「民間人の避難の進捗状況は?」
『現在、8割近くの避難誘導が完了しています』
最優先されるべきは民間人の安全である。CCGは捜査官を可能な限り招集して住民の避難にかかる時間を稼ぐべく、包囲網を作り上げていた。
捜査官が立ちはだかったところで烏賊の行く手を遮ることは無謀にも思えたが、この決死の作戦が功を奏し、烏賊の行動範囲を大きく制限することに成功していた。
事前にプロファイリングされていた通り、烏賊の性格は非常に憶病であると思われる。クインケを構えた捜査官が見えると自分から接近しようとはせず、進路を変える。
これにより人的な被害は驚くほど抑えられていた。また、被害地域の建造物は体液で塗りつぶされてしまったが、どういう原理か烏賊の巨体がその上を暴れ回ってもほとんど破壊は生じていなかった。そのため経済的な損失についても甚大と言えるほどの被害は発生していない。
「いったい何のために泳ぎまわっているのかね、このイカボーイは」
烏賊の目的は判然としない。体液で塗りつぶす領域を拡大しながら当てもなくさまよっているようだった。実際に確たる目的はなく、正気を失って暴走しているだけではないかと考えられている。
ひとまず作戦の第一段階である民間人の避難を終えるまでは下手に刺激せず、包囲網を維持して行動を制限し続ける予定だった。
『北部エリアにてトラブル発生! 局員捜査官がQバレットを使用。これに興奮したのか烏賊が包囲網を破りそうな勢いです!』
上空からその様子は確認できた。それまではおとなしく泳ぎ回っていた烏賊が触手を振り回して建物を破壊し始めている。このままでは避難が完了していないエリアに突き進まれる危険があった。
「ンン……世話の焼けるボーイだ」
田中丸は自身のクインケを展開した。その銘は『
その性能を一言で表すならビーム砲である。高威力かつ広範囲、そして長距離の攻撃を可能とするその威力はまさにSS級。
一発撃つだけでも莫大なエネルギーを消耗するため、Rc溶液を蓄えた補給機が外付けされている。機動力を犠牲にしてでも徹底的にパワーを追求したロマン兵器である。
田中丸はクインケを構えながら指揮官へ通信を入れた。今回、急遽現場指揮を任された対策Ⅱ課特等捜査官、丸手斎が応答する。
「丸手君、少々早いがフェイズ2へ移行しよう」
『確かに今の方向に進まれるのはまずい。よし、ハイパーマインドにて注意を引きつけ……』
「ハイアーーーーーー!!! マーーーーーーーーインド!!!」
田中丸は叫ぶ。クインケの銘は所有者に決定権があり、慣例的には素材となった喰種の名前からとられることが多い。しかし、彼の場合は明らかに自らのネーミングセンスに基づくものだとわかる。
それだけ思い入れのある武器なのだ。決してハイパーマインドなどと呼んでほしくはない。若干キレ気味で雄たけびをあげた田中丸のクインケが呼応するように火を噴いた。
『ピギャアアアアアア!!』
曇った夜空を切り裂く一条の閃光が走る。直撃した烏賊が甲高い悲鳴をあげた。香ばしい焼きイカの臭気を放ちながらのたうち回る。
「やったか!?」
確かに攻撃は届き、敵にダメージを与えることには成功した。だが、その傷は瞬く間に回復されてしまう。SSレートのクインケの一撃であっても単発では効果がない。
「一時退却だ、パイロットボーイ!」
田中丸が指示を出すよりも早くヘリを操縦する隊員は急旋回を始めていた。巨大な烏賊の姿が消える。否、水面に潜ったのだ。
インク中に潜ったまま10本の触手が伸びあがる。その先端に装備された10機のハイドラントが一斉にチャージタイムに入っていた。
田中丸は使い切った補充機のアタッシュケースを新しいものに手早く交換する。クインケのエネルギー補充が完了するのと、烏賊のフルチャージが終わるタイミングは同時だった。
「羽ばたき、圧縮! 拡散!」
田中丸はハイアーマインドのモードを近接戦対応型へと切り替えていた。射程が短くなる代わりに広範囲に衝撃波を拡散させ、ヘリを守る盾とする。
そこへ烏賊の体液弾が殺到した。クインケによる衝撃波状の赫子は敵弾を打ち消すことに成功するも、それは瞬間的なものでしかなかった。
イカ一体の体力を100としたときハイドラントのフルチャージショットの威力は秒間火力600に達する。10機の砲門から掃射された弾幕を前にして空飛ぶヘリは光る的でしかなかった。
爆発し、空中分解するヘリ。その様子を眺めた田中丸はさすがに肝を冷やしていた。
最初からヘリを乗り捨てることも視野に入れた作戦だった。ハイアーマインドによる衝撃波の展開も敵の目をヘリに引きつけ、その隙に脱出するためのデコイである。
田中丸とパイロットの二人はパラシュートに揺られて地上へ降り立つ。漆黒の闇色に染め上げられた街並みは彼らのよく知る東京とはかけ離れた光景となっていた。
ここは烏賊が吐き出したインクの領域内である。無事に着地を果たした田中丸たちだったが、インクの強力な粘着力によってネズミ捕りにかかったかのように身動きが取れない状態になっていた。
自ら身をもって体験してなお、これが一匹の喰種によって作り出された光景だとはとても信じられない。しばらくの間その場に待機していた田中丸たちのもとに救援が到着した。
「すまんね、遅くなった」
駆け付けたのは篠原幸紀、黒磐巌たち2名の特等捜査官である。彼らがインクの海上において行動を可能にしている理由は装備しているクインケにあった。
対赫者戦対応型クインケ甲赫『アラタproto』である。赫者個体であった喰種『骸拾い』の赫包から作られた、これまでの常識を覆す“着るタイプ”のクインケだ。この日のためにCCGラボの尻を蹴り上げて急ごしらえさせ、なんとか2着を用意していた。
全身を赫子の鎧で覆い尽くすことにより、防御力だけでなく筋力も大幅に増強されている。そのおかげで粘液の拘束を振り切って歩行することができていた。
「もっとも、あの烏賊には手も足も出せんがね」
「接近戦であれをどうにかするのは困難を極める」
アラタを装着してなお、何とか歩行できる程度の機動力しか発揮できない。篠原と黒磐は超一級の実力と装備を持つ歴戦の捜査官だが、それでも質量の差が違いすぎた。近づけば触手の一振りで叩き潰されて終わるだろう。
「遠距離攻撃が可能な羽赫とて有効射程は限られている。まずその距離に近づくことが至難だな、ボーイ……ゴホッ!」
「望元さん、どこか負傷を!?」
「なに、かすり傷だ。しかし、我が愛機をもってしても全弾は防ぎきれなかった。これでは特等捜査官の名が泣くな……」
「いや、あの状況から生きて帰ってきただけで十分、人間辞めてますよ。まだまだ現役です」
かすり傷とは言うが、田中丸は複数箇所を被弾している様子だった。手当てするためにもすぐに全員で撤退を開始した。
「確かに絶望的な状況に変わりはないんですがね、私は『隻眼の梟』戦に比べればいくらか気が楽に感じますよ」
かつて出現した赫者個体である『梟』などは人間に対して明確な敵意を有し、その結果多くの捜査官が犠牲となった。殺し合いを前提とした戦いだった。
だが今回は敵側から殺意を感じない。こちらから攻撃を仕掛ければ場当たり的に防御反応を取るが、それ以上の殺戮に及ぶことはなかった。むしろ戦闘を極力回避しているように見える。
しかしだからと言ってこのまま放置しておくわけにはいかない。その存在自体が人間社会を脅かしている。和解する選択はあり得ないのだ。
ひとまず今は撤退し、態勢と作戦を立て直す必要があった。インクの領域外へと向かう彼らの足元には、ぽたぽたと血の滴が残されていた。
田中丸の傷から流れた血だった。その弾丸の威力により傷口は肉体を貫通している。止血処置を施したとはいえ、完全に出血を止めることはできなかった。
広大なインクの海に垂らされた血の一滴は取るに足らない染みの一つのようにも見える。しかし、彼らはインクリングの習性を真に理解していたわけではなかった。
隅々まで塗りつぶされた自らのナワバリに上書きされた、何者かの体液。イカちゃんは暴走状態にありながらも、その気配に本能レベルで気づきかけていた。