「どこだよ、ここ……」
霧島絢都が目を覚ますと、そこには見覚えのない街並みが広がっていた。
自分がイカの怪物に食われたところまでは記憶がある。そこから先は意識が曖昧で、気がつけばこの場所に立っていた。
普通の都市部の街並みのようにも感じるが、よく見るとどこか変だった。店の看板などは見たこともない言語が書かれている。
電子看板に映し出された広告らしき映像は謎の生物が出演していた。最初はそういうCMなのだろうと思っていたが、人間は一切現れず、代わりにクラゲのような何かが頻繁に登場する。
何よりもおかしいのは人の姿が全く見当たらないことだ。しばらく歩き回ってみたが、建物が立ち並ぶばかりで誰とも出会うことはなかった。
ひとまず遠目からでも目立つ高い塔があったので、そこを目指して霧島は歩いた。やがて塔の入口にたどり着くと、そこでようやく人影を発見する。
店のテラス席に男が腰かけていた。とにかく情報を得るために話しかけようとした霧島だったが、近づいて行くにつれ、その男に見覚えがあることに気づく。
「お前は……!」
眼鏡をかけた白髪の男。出遭ったことはなくとも、喰種であればその顔を知る者は多い。最悪の捜査官だ。いったいどれだけの数の同胞がこの男の手によって葬られてきたことだろう。
有馬貴将、その名は死の象徴だった。狙われたが最後、助かる道はない。その姿を見ただけで心を折られ、自ら投降する喰種もいるほどだった。
しかし、霧島は逆に戦意を滾らせる。彼の母親は有馬に殺されていた。復讐心を抱くには十分すぎる理由がある。赤く目を血走らせた霧島は赫子を形成する。
いつもであれば息をするかのごとく赫子を出せるはずだったが、彼の両肩部から噴き出したのはどろどろの液体だった。
「くそっ、何が起きてやがる!?」
肩だけではない。赫眼を発現した両目からも液体がこぼれ出ていく。
「お前は、霧島、か?」
有馬は霧島絢都との面識はない。だが、彼が愛用するクインケ『ナルカミ』の元となった喰種である霧島ヒカリのことはよく覚えていた。アヤトの容姿にヒカリの面影を見る。
喰種の力がうまく使えない状態となった霧島だったが、それでも臆することなく有馬につかみかかる。有馬は全く抵抗しなかった。
戦意どころか生気もない。有馬は死人も同然の目をしていた。その反応を見た霧島は怒りに駆られるよりも先に冷静さを取り戻す。まずは殺すより尋問すべきだと判断した。
「ここはどこだ!」
有馬は素直に答えたが、それは霧島にとって信じられる内容ではなかった。ここは烏賊の腹の中だと言う。
やはり食われたことは事実だった。では、この光景は何なのか。まさか烏賊の胃袋の中が街になっているはずはない。
「食物を吸収する過程で肉体に浸透した烏賊の特殊なRc細胞液が何らかの幻覚を見せているのかもしれない」
もしかすると烏賊の記憶情報が逆に流れ込み、この光景を作り出しているのかもしれないと有馬は予想する。ヒトの記憶がニューロンを流れる電気信号によって表されるものと仮定すれば、Rc細胞の影響で自らの肉体が烏賊の脳神経とつながってしまったものと考えることもできる。
だが、それは自分の存在が烏賊の一部となりかけている証拠である。有馬はじきに、完全に吸収されて存在そのものが消滅するだろうと考えていた。
「なんだよそれ……」
にわかには信じがたい情報だったが、有馬が嘘を言っているようには見えなかった。全てを諦めた表情をしている。何もかもが終わったかのようだった。
「お前はそれでいいのかよ!」
こうして考えることができるということは、まだ何か打つ手があるのではないか。霧島はそう簡単に自分の命を諦めることはできなかった。
「俺はもうこれ以上、生きたいとは思わない」
有馬は目の前にいる霧島の存在が、実在するどこかの誰かであると確信を持てずにいた。もしかすると、この街のように幻覚によって作り出された虚像かもしれない。
自分の記憶の一部が抽出され、他の情報と混ざりあうことによって生まれた夢の中のゴーストかもしれない。その可能性の方が高いだろう。
ゆえに霧島の問いに答えることは、誰かとの会話というより自分の心を整理するための独白に近かった。
「この世界は見えない檻の中にある。本当の支配者が誰なのか、何も知らずに人々は生きている」
霧島は有馬に問うた。母を殺した捜査官がどんな人間なのか、少なからず思うところがあった。有馬の口から語られる真実に耳を傾ける。
CCGの実権を握る和修家が喰種の一族であること。有馬はその分家にあたり、喰種の血が混ざった『半人間』であること。
喰種を狩る喰種対策局は、和修という喰種の傀儡だった。有馬もまたその傀儡の一部だ。半人間は長く生きられない。短い余命を和修に捧げる、ただそれだけのために作り出された道具だった。
「けど、もう終わったんだ」
感情を排し、命令を遂行し続けてきた。おびだたしい数の命を摘み取ってきた。ようやくその作業から解放された有馬は安堵していた。
喰種を殺すことは苦痛だった。誰かの命を奪い続ける自分が嫌でたまらなかった。だが、彼の存在理由は殺すことでしか証明できない。
それを否定してしまえば今まで奪ってきた命は何だったのか。もはやただの過ちでは済まされない。積み上げられた命の山に何の意味もなくなってしまう気がした。
だからいつしか、自分を殺す喰種が現れることを待ち望んでいた。自分の存在理由と矛盾することなく解放されるには、自分を上回る強さを持つ喰種が必要だった。
そして彼は『アオギリの樹』を作った。この歪んだ世界をあるべき姿に戻したいと望むエトに協力し、彼は『隻眼の王』となる。いつか自分を殺す次の王、全ての喰種の希望が現れると信じていた。
ようやく彼の願いは叶ったのだ。エトと約束した形とは違ってしまったが、もうこれ以上、生きる理由はない。このまま死を迎えることが自分の定めだと思っていた。
「そうかい。よくわかったよ。お前が殺す価値もない野郎だってことは」
霧島は冷静に話を聞いていた。自分が所属していたアオギリの樹の創設者が目の前の男だという驚愕の事実に戸惑う気持ちもあった。
最初こそ思わず頭に血が上ってしまったところはあったが、何を差し置いてでも復讐を果たしたいわけではなかった。そんな生き方しかできない喰種の末路がいかに悲惨か、彼はよく知っている。悪鬼と化した父親の最期を。
許すつもりはないが、これから死ぬ人間を咎める気も起きない。興味が尽きた霧島は質問を変えた。
「お前が死ぬのは勝手だが、こっちはそれに付き合うつもりはない。生きてここから出る手段は、あるのか?」
「ある」
望み薄だろうと思っていた回答があっさり返ってきたことに拍子抜けする。意外なことに有馬は具体的な脱出法を提示した。
つまり、この状態からでも生き延びることができる可能性はまだ残されているのだ。
有馬率いるS3班は地下24区にて、烏賊の捜索任務を執拗なまでに続けていた。行方をくらませた烏賊の捜索も理由の一つではあったが、これにはもっと重要な任務が別に含まれていた。
S3班は24区の中層エリアにおいて烏賊と類似した別個体に遭遇する。すなわちインクリングの半喰種であった。
それは烏賊のような巨体を持たなかったが、赫子や肉体の性質は非常に類似していた。同じような個体が複数体存在し、そのいくつかは捕縛して聴取している。
驚くべきことにその正体は“元喰種”であることが判明する。もともと24区で暮らしていた喰種たちが烏賊に捕食された後の姿だった。
烏賊は遠距離から獲物を弱らせて捕食に及ぶ場合が多かったが、中には生きたまま丸のみにしてしまうこともあった。その場合、捕食された後も完全に吸収されるまで数時間は意識が残ることがわかった。
今、有馬が見ているものと同じ幻覚症状についても言及があった。彼らは皆、街の中央に位置するタワーに向かい、その内部へ足を踏み入れている。
しかし、そこから先の証言は個人によって異なる。武器を与えられ戦わせられたとか、何者かの集団に襲われたなどと供述しているが、記憶に残っていない部分が多く本人たちもよく覚えていない様子だった。
だが、不思議とその現象を全員が一貫して『マッチング』という単語で表現していた。覚えてはいなくとも、二度と味わいたくないおぞましい体験だったと語っている。
そして、気がつけば変わり果てた姿となって地下道の片隅で意識を取り戻したらしい。肉体の変化後、烏賊の本体から生み落とされたものと考えられる。
和修家『V』はこの新種の喰種について現段階における公表を控えている。CCGの本局もS3班の活動については何も把握していない。
「まあ、出る方法があるんなら何でもいい。もうこんなところに用はねぇ」
烏賊に食われた喰種は生き延びる可能性はあっても、全く異なる生物に変貌させられてしまう。それでも霧島はその可能性に賭けることにした。
必要な情報は得たと判断し、塔へと向かう。その途中で一度立ち止まり、振り返ることなく有馬に声をかけた。
「お前、そんなに自分のやってることが嫌だったんなら、何で自分でやめようとしなかったんだよ」
有馬の生き様について、霧島はそこが疑問だった。小難しい理屈を並べて説明されたが、もっと簡潔に言える気がした。
「自分を殺す喰種を王として祀りあげることで世界に変革をもたらす、だっけ? まわりくど。やりたきゃ自分でやれよ」
「……俺にそんな資格は」
「『捜査官』だから? 『半人間』だから? 『空っぽ』だからできないってか?」
残された限りある命。生まれ持った種族。与えられた使命。有馬が歩んできた人生やその葛藤の全てを霧島は理解できないし、しようとも思わない。そんな気遣いを向けるような関係ではない。
「やろうと思えばいつでも行動できたはずだ。お前は自分で決めたくなかっただけだろ」
「ことはそれほど単純な話ではない」
「単純さ。お前は人間と敵対する道を選びたくなかったんだ。そりゃそうだ。人を殺すより喰種を殺し続けた方が気に病まなくて済む」
実際に有馬が隻眼の王としての地位を公にしてCCGやVと明確に対立していれば今よりも救いのある世の中になっていたかと言えば、まずそれはない。
それよりは正体を隠してCCGを欺き、機が熟すまで待った方が利口だった。だがその結果、彼が最後まで自分の生き方を変えることができなかったことは事実だ。
霧島は、そんな有馬の生き様を『ただ変化を望まなかっただけの選択』だと決めつける。人と喰種が殺し合うことのない世界を作りたいという有馬の願いも、霧島の目から見れば滑稽でしかなかった。
「そのくせよくもこれだけの数の喰種を殺しておいて、挙句の果てに『本当は殺したくなかった』だなんて泣き言を言えたもんだ」
どれだけ道具になり切ろうと、どれだけ空っぽの人間性を気取ろうと、有馬には消し去ることのできない『自分』があった。それに気づかないふりをして、誰かに選択を委ねていただけだ。
運命に抗うために作ったアオギリの樹さえも、エトがいなければ始まらなかった。いつも誰かが用意してくれた舞台の上で、彼は『有馬』という人間を演じ続けた。
与えられたものだけを選び取り、そうする以外に仕方なかったと思い込む方が楽だろう。たとえそれが最善の方法であったとしても。
「お前の人生って何だったんだろうな」
有馬は死を目前として霧島に本心を吐露した。侮蔑や罵倒を浴びせられることも覚悟していた。それだけのことをしてきた自覚はある。当然の報いだと思っている。だが、霧島の言葉は有馬にとって全く予想もしていないものだった。
「想像以上にくだらないヤツだったよ、有馬貴将」
霧島に侮辱するつもりはなく、思ったことをありのままに伝えた。そう言い残して立ち去っていく。有馬は投げかけられた言葉を反芻していた。
* * *
それからどれだけの時間が経っただろうか。座り込んでいた有馬はゆっくりと立ち上がった。