サクラ大戦2外伝~ゆめまぼろしのごとくなり2~   作:ヤットキ 夕一

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─6─

 ──数日が経った。

 

 相変わらず梅里の記憶は戻らず、未だに公式には意識さえ戻っていないことになっている。

 そのため、一旦は日が当たる病室に移った梅里だったが、今は人目を避けるために再び窓のない地下の医療施設へと戻されてしまった。

 そこへ今日、見舞いへと向かっているのはいつも来ているかずらに加え、せりとしのぶだった。

 

◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 

「結局、しのぶさんも今まで行ってなかったの?」

「はい。せりさんに申し訳ないですから」

 

 せりの言葉にそう言って微笑むしのぶ。

 

「私は体調が悪かっただけなんだから、気にしなくてよかったのに……」

 

 せりが申し訳なさそうに言うと、しのぶも少し気まずそうに苦笑しながら真相を話した。

 

「──というのは建前で、実際のところは怖かったから一人では来られなかったのだと思います」

「え?」

 

 せりが思わずしのぶを見る。

 

「記憶がない梅里様に、見ず知らずの人のように見られることは、わたくしにとってはとても恐ろしゅうございます。でも──」

 

 隣で歩いているせりをチラッと見て再び微笑む。

 

「一人では耐えられなくとも、同じ境遇で傷を舐めあう相手がいれば、耐えられそうだと思いまして……」

 

 そんなしのぶの白状に、せりは驚いて彼女を見た後、少し呆れた様子でため息をついた。

 

「まったく……しのぶさんも意外と(したた)かよね。もっとも──」

 

 それからジロッともう一人の同行者を見た。

 

「一人で抜け駆けしようと先走って失敗する人よりは好感が持てるけど」

「せりさん。まだそのこと言い続けるんですか~?」

 

 ジト目で見られて、かずらが涙目で嘆く。

 

「当たり前よ。よくもまぁ、交際中の婚約者だなんてウソの記憶を刷り込もうとしたものだわ。もう少し反省してなさい」

 

 かずらにそう言い捨てるとせりは「ふん」とそっぽを向いて歩みを進めた。

 先頭立って花やしき支部の地下施設をズンズン進むせりに、しのぶとかずらは少し遅れ気味になる。

 それをいいことに、かずらはしのぶに小声で話しかけた。

 

「あの、しのぶさん……せりさんなんですけど、最近おかしくないですか?」

「確かに不安定なところはあると思いますけど、そのことでしょうか?」

「はい。なんだか怒りっぽいって言うか……でも、今みたいに普段通りの時もありますし……」

 

 心配そうなかずらに、しのぶは安心させようと微笑んで答える。

 

「それは仕方がないと思いますよ。せりさんは調査班頭ですから。他の班から梅里様を傷つけた者を探せ、と暗に言われているようなものですし、それは夢組内だけではなく、他の組からも注目されています。精神的な重圧はかなりのものと思いますよ」

「う~ん……それもそうだとは思うんですけど……」

 

 しのぶの返答はかずらにはどうにも釈然としなかった。

 せりと同じ調査班に所属しているからこそ、実感が少し違うというのもある。どちらかといえば期待よりも同情の方が強いようにかずらは感じていた。

 とはいえしのぶの考えは、宗次も釿哉も同じものであり、夢組幹部の共通認識でもある。

 

「せりさん、思い通りにならなくて焦ってピリピリしてるというよりも、なんというか……モヤモヤしてる感じなんですよね」

「モヤモヤ? どういう、ことでしょうか?」

 

 訝しがるようにしつつも、しのぶは興味深そうにかずらを見る。

 

「確かに、せりさんがおかしくなる時ってイライラしてますけど……それって、捜査に関する話の時は少ないですよね。この前もそうでしたけど、梅里さんの状態の話をしているときでした。そのとき、なにかせりさんからモヤモヤってしたものが──」

 

 かずらがそこまで言ったとき、いつの間にか少し離れて先を歩いていたせりが振り返った。

 

「ほら。二人とも、早く行くわよ!」

「あ、はい。今行きます」

 

 慌ててかずらは話を中断させてせりを追いかけ、しのぶもそれに続いた。

 

◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 

「こ、こんにちは……」

 

 若干ひきつった笑みを浮かべたかずらが、病室に入るなり声をかける。

 声をかけられた相手──武相 梅里はまだ少し警戒しているのか、身構えるようにしており、すでに病室に来ていたかすみを頼るようにぴったりと寄り添っている。

 

「……かずら。あなた、いったいなにをしたの?」

 

 最警戒をしているような梅里の反応に、せりは思わずかずらを見る。

 苦笑いを浮かべて誤魔化すかずらだったが──

 

「最初の失敗を挽回しようとしているようなのですが、かえって逆効果になっているんですよ」

 

 気の毒そうに苦笑するかすみが説明すると、彼女につられてせりを見た梅里がやはり警戒していた。

 

「あの、梅里様。やはりわたくしのことは……」

 

 しのぶがスッと前に出る。彼に触れようとして思わず手を伸ばすと、やはり警戒して逃げるように一歩下がり、かすみの陰に隠れてしまう。

 

「あ……」

 

 浮いてしまったその手を泳がせたしのぶは、寂しげに手を握りしめて胸元へと戻す。

 しのぶはやはりショックを受けたようだった。覚悟はしてきたのだろうが、実際に目の当たりにして現実を突きつけられるのは違っていた。

 目を伏せてその場にとどまったしのぶの代わりに、今度はせりが前に出た。

 

「初めまして、になるのかしら。私は白繍せりと言います」

「──ッ」

 

 笑みを浮かべた彼女に、梅里は警戒しながら見ていた梅里は、つい、といった様子で頭を下げる。

 

「武相……梅里、です。初めまして……」

 

 恐る恐るといった様子で返事をした梅里に、かずらがショックを受けた様子で見る。

 

「なッ!? 梅里さんが、挨拶を……」

「あの、かずらさん。挨拶しないほどに警戒しているのは、あなたに対してだけですよ……」

 

 苦笑混じりにかすみが言う。

 今まで何度も訪れているかずらだったが、最初の接触で大失敗した彼女はなんとかその失敗を挽回しようと試みていたのだが、警戒する梅里に対してつい暴走し、余計に警戒を強めるということを繰り返していた。

 そんな彼女を何度も見ていたかすみは呆れつつも、それでもめげないかずらにある意味感心さえしていた。

 そんなかすみが同情と呆れ半々の感情を持ちながらかずらを見ているその横で、梅里はあることに気が付いてハッとしてせりを見た。

 

「あ……すみません。あなた、それにそちらのあなた……」

 

 一度、せりからしのぶに視線を向ける。

 

「お二人にとっては、初めまして、ではないんですよね。ごめんなさい」

 

 梅里はそう言って申し訳なさそうに頭を下げた。

 

「梅里様……」

 

 しのぶはそんな梅里の気遣いに感じ入っていた。彼女が知る梅里はマイペースなようでいて、意外と周囲に気を使っている人だ。誰かを不快にさせたと思えば躊躇無く謝ることができる人である。警戒心を最大にしている今の梅里を見て違和感しかなかったしのぶだったが、その片鱗を見て嬉しく思っていた。

 一方、そんな梅里の言葉に、せりは首を横に振った。

 

「無理をすることないわ。あなたにとって、私たちを見るのは初めてなんでしょう?」

「そ、それは……そうですけど」

 

 梅里がそれに躊躇いながらも頷くと、せりは再び笑みを向ける。

 

「なら、それでいいじゃない。よろしくね」

 

 せりが差し出した手を、梅里は恐る恐る掴んだ。

 その手の温もりを感じたせりは──思わず涙腺がゆるむ。

 

(当たり前だけど、手はまったく変わってないのね)

 

 それをおくびも出さずにほほえみ続けるせりに対し、そばにいたかすみは──

 

(やっぱり、あれを頼むのはせりさんが一番ね)

 

 そう結論づけて、かねてから考えていたある提案をした。

 

「あの、せりさん。一つお願いしたいことがあるのですが……」

「なんでしょうか?」

 

 かすみの方を振り向くせり。

 

「じつは……梅里くんに、知っている範囲で今までのことを教えてあげて欲しいんです」

 

 そのせりは、かすみが「梅里くん」と名前で呼んだことに──

 

(くん!? 今、梅里くんって呼んだ!?)

 

 ──そう思わず驚いていると、かすみはそれに気づいて苦笑を浮かべる。

 

「呼び方ですか? これは……主任とか隊長と呼ぶと本人が嫌がりまして……かといって、さん付けすると「おかしい」と言うものですから、それで梅里くんと……」

「な、なるほど……」

 

 理解はしたが納得してない、という苦笑いを浮かべたせり。ともかく、かすみは彼女がとりあえずその件は飲み込んだと判断して説明を続ける。

 

「私も華撃団員ですから彼が入隊して大まかなことは知っています。でも間近で見ていたあなた、それにしのぶさんやかずらさんから話を聞けば、より身近で真に迫った話が聞けるでしょうし、それがきっかけになって記憶が戻るかもしれません」

「それは構わないけど……ヨモギには相談したのかしら?」

 

 さすがに治療の邪魔になるようなことはしたくはない。

 せりの確認に、かすみはうなずいた。

 

「記憶がない部分の話をするのは、記憶を呼び戻すきっかけになるかもしれないから構わない、と。ただ……」

 

 言いよどんだかすみは苦笑を浮かべてかずらを見る。

 

「かずらさんにお願いしようとしたんですけど、それはホウライ先生に止められまして……」

「失礼な話ですよね。本当に」

 

 憮然とするかずらをジト目で他の3人──せり、しのぶ、それに珍しくかすみまで──が見つめるものの、当の本人はしれっとしている。

 

「でも、なんで私?」

 

 自分を指さしつつせりが訊くと、かすみは真剣な面もちになって答えた。

 

「せりさんが、今まで初対面で一番警戒されていません。たぶん、私の時よりも警戒されていないと思います」

 

 かすみの場合は、それ以上に警戒する相手がいたせいで相対的に警戒が緩んだ、という感じが強いが、せりは今までで一番良い関係を築けているようにかすみの目には見えた。

 そこまで話してから、かすみは梅里を見る。

 二人の目が合うと梅里は少し躊躇ったが、直後に大きく頷いた。

 

(──ッ)

 

 せりの胸の奥がわずかにざわめくが、それを押し殺し、けっして表に出さずに二人を見る。

 

「白繍さん、俺からもお願いします。俺も思い出したいんです。今の自分が、どういう立場なのか、どういう経緯でここにいるのか」

「わかったわ。それじゃあ私がわかる範囲──上京してきて入隊した直後の、隊長に指名されたところから……って、これはしのぶさんの方が詳しいから、よろしくね」

「あ、はい。わたくしにお任せくださいませ」

 

 せりに促されて、少し離れていたしのぶが近寄ってくる。

 

「わ、私も……」

 

 近づくかずらをジッと見て警戒する梅里だが──

 

「彼女も、私たちの大事な仲間の一人よ。そこは信用してあげて。それに何かあなたにとってイヤなことをしたら、私がきっちり叱ってあげるから、ね」

「……わ、わかりました」

 

 せりが仲裁すると、梅里は警戒を緩める。

 こうしてせりがその場を仕切って、梅里に今までのことを説明するのであった。

 

◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 

 そうして始まった過去の回想だったが、話す中心はやはりせりになった。

 風組で関わりが弱いかすみは梅里と共に聞く側にまわっていたし、なによりせりが話すのが上手かった、というのがある。

 しのぶがしたのでは説明的すぎて報告のようになってしまい、話としての面白みが欠けていただろうし、逆にかずらがしたのでは抽象的な話が多すぎて伝達力が不足して分かりづらかったと思える。

 また梅里が精神的に幼くなっており、子供の扱いに長けるせりにとっては心を掴みやすい相手になっていた、というのも大きかった。

 そして──

 

「──そんなごじゃっぺな運用されたら、造った側はたまらなかったでしょうね」

 

 せりが上級降魔・十丹が操った童子シリーズについて、考察した結果、支援機なのに単独で最前線に出てきて倒された、という説明をしたとき、梅里が苦笑混じりにそう感想を述べたのだ。

 

「そうねぇ。こっちとしては助かったんだけど──」

 

 そう言って苦笑を返すせり。

 その会話を聞いたかずらは、横にいたかすみに小声で尋ねた。

 

「かすみさん、今の“ごじゃっぺ”って……」

「ええ、茨城弁ですね」

 

 眉をひそめるかずらに、かすみは苦笑しながら答える。

 

「せりさん、茨城弁も分かるのかなぁ?」

「たぶん、分かっていませんよ。文脈から判断して、だいたいの意味は分かっていそうですけどね」

「……え?」

 

 かすみの冷静な分析に、かずらは思わず彼女を見る。

 それに微笑んで返したかすみはさらに解説した。

 

「でも、それで眉をひそめたり、ましてや方言であることを指摘したり意味を聞いて話の腰を折らないことが、せりさんの話の上手さだと思いますよ」

 

 それらを思わずやってしまったかずらが気まずそうな表情になる。

 

「かずらさんのように、都会生まれ都会育ちで方言を聞かない環境で育ったり、あとはしのぶさんみたいに“自分の方言こそこの国の中心で使われ続けた言葉”という人達と違って、東北や関東の訛りは帝都の人達には侮られる傾向があります」

 

 それは茨城県出身であるかすみの実体験でもあった。

 華撃団に入り、上京してきた当初、かすみはもっと訛っていた。寮で同じ部屋になった人と話し──「訛ってるね」と苦笑されたのは今でもよく覚えている。同時に「かすみっていつも怒ってない?」とまで言われた。

 もちろんそんなことはない。今の彼女を見ればそれは明らかだ。

 茨城弁は語気が強いので、知らない人が聞けば相手が怒っていたり、また普通の会話が喧嘩していると誤解されやすい方言である。

 それを言われたかすみはショックを受け──それを一生懸命に矯正し、イントネーションも標準語になるよう直したのである。

 その当時、かすみとしては標準語を喋っているつもりだったので、なおさら(たち)が悪かったのだ。地元ではなまじ帝都のある関東だけに「オレ、標準語喋ってっぺよ」と真顔でいう人がいるくらいであり、だからこそ「自分は訛っていないと思っていた。もちろん今ならそんな勘違いはしないが……

 今のかすみが仕事以外でも丁寧な言葉遣いなのは、「怒ってない?」と言われたことに対するコンプレックスの顕れでもあった。

 苦笑混じりに「訛っていると言われるのは田舎者と言われているのも同じこと」とかずらに言う。それは、そんな気持ちが無くともかすみの心にコンプレックスを残すほどに傷つけていた実感からくるものだった。

 

「せりさんの地元からの電話の会話を聞いたことありますか?」

「いえ、ありません」

 

 かすみの確認に、かずらは首を横に振る。

 

「私や梅里くん以上に、会話が分からないと思います。独自の単語や助詞、助動詞がたくさん出てきますから」

 

 かすみが帝劇宛にかかってきた電話を事務局で受け、彼女宛の電話をせりに渡したことがあった。

 受話器を受け取った彼女は聞いたことがないような助詞を使っていたのをよく覚えている。

 そして受話器を離して「ありがとうございました」とお礼を言ったら標準語に戻るのだ。

 

「──だからこそ、せりさんは帝都の人には地元の言葉で話せば奇異の目で見られたでしょうし、それが身に染みているから、そこを深く追求せずに流したんだと思います」

 

 かすみの推測になるが、おそらくさっきの茨城弁を指摘していたら、梅里は再び警戒心を強めていただろう。

 そのあたりを含めて、せりに相談してよかったと思えた。

 

◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 

 そうこうしているうちにせりの説明は佳境を過ぎ、黒之巣会との戦いから葵 叉丹との聖魔城での戦いも終えていた。

 

「──というわけで、今年になってまた別の組織が暗躍してきて、あなたの命が狙われたというわけ」

 

 この春までの説明を終えたせりに、梅里は頷いて「ありがとうございます」と礼を言う。

 そして──

 

「では、襲撃されたときのことも教えていただきたいのですが」

 

 ──という梅里の言葉に、凍り付いた。

 

「そ、それは……」

 

 絶句したせりは二の句が継げないでいる。

 

(襲撃って……梅里が、傷つくまでのこと? 射抜かれたことを、私の口から説明しろって言うの?)

 

 戸惑い。焦り。そして──これをせりの口から説明させるために、わざわざ出会いから説明させたのではないかという疑心暗鬼。それらがせりの心をかき乱し……

 

「それは、かすみさんやかずらさんから説明してもらってはいかがでしょうか?」

 

 助け船を出したのはしのぶだった。

 今の一言で落ち着きを取り戻したせりは、心の中でホッとため息を付きつつ──

 

「そ、そうね。私が説明するよりも、間違いないでしょ。一緒にいたんだから」

 

 無理に笑みを浮かべ、内心を取り繕いつつ言い、せりは腰を浮かせた。

 それに気が付いたしのぶが眉をひそめる。

 

「あら? せりさん、どうかしたんですか?」

「わ、私はこの辺りで戻ることにするわ。食堂を長く抜けているのも悪いし……」

 

 苦笑混じりに言って、完全に立ち上がる。

 

「それなら、わたくしも……」

 

 続こうとしたしのぶを、せりは慌てて止める。

 

「しのぶさんはせっかくですから、気にせずゆっくりどうぞ。それと、かすみさん……」

「はい、なんでしょうか?」

 

 呼ばれて首を傾げるかすみに、せりは笑みを浮かべつつ──

 

「“うちの”梅里のお世話をしていただいて、本当に申し訳ありません。風組(よそ)の所属なのにわざわざ面倒を見ていただいて……この埋め合わせは夢組の方から、必ずいたしますので」

 

 そう言ったが、とても笑顔とは思えないほどの重圧(プレッシャー)を出す。

 しかし一方で、かすみもかすみで──

 

「いえ、お気になさらないでください。夢組とか風組とかではなく、私が“好き”でしたことですから」

 

 負けじと笑顔でさらっと言ってのける。

 かすみが“好き”と言ったときにせりのこめかみが大きくヒクついて、端で見ているかずらとしのぶが肝を冷やしていた。

 

「それに命を助けていただいた方ですから、お世話をさせていただくのは当然です。むしろこの程度では恩は返しきれていませんよ」

 

 かすみはそう言って傍らにいる梅里を見つめる。

 

「ましてや、こうして同郷の人が困っているのですから、それを放っておくにはいきません」

 

 かすみが頭をなでると、梅里は気持ちよさそうに、そして安心したように目を細める。

 正直なところ、華撃団を取り巻く環境は決して油断できるような状況ではない。それでもこうして梅里の世話をしに来ているのは、もちろん事務局にも迷惑をかけていた。

 由里からは今朝、「主任さん、記憶喪失なんですって? お世話するのも大変ね」と言われた。彼女の性格やその時の口調から皮肉ということはないと分かっているものの、彼女に迷惑をかけているという自覚はある。

 それでも──かすみはここへ通うことをやめたくなかった。

 記憶を失った梅里からの信頼の目。病室に顔を出した時の安心したような、歓迎する笑顔は、増えた負担の疲労に対する十分すぎる癒しになっていた。

 

「こうして頼られるのも、まるで新たに弟ができたようで新鮮な気分でして……」

「弟、ですか?」

 

 梅里に微笑みかけたかすみが振り返ると、せりは訝しがるように彼女を見つめた。

 

「ええ。年下に頼られるのもまた、いいものです」

 

 かすみとせりの視線がぶつかり──火花を散らすと、息をのんだかずらとしのぶだったが、事態はそんな二人の思惑から外れていく。

 せりがあっさりと引いたのだ。

 

「じゃあ、かすみさん。あとはよろしくお願いしますね」

「え? あ……はい、承りました」

「それと、かずら。あなたは夏公演が近いんだから程々にしてきちんと練習しなさいね」

「は~い。もう、分かってますよぅ」

 

 返事しつつも膨れるかずら。

 そうしてせりは、かすみとかずら、それにしのぶに見送られて病室を後にした。

 それを見たかずらは──

 

(せりさん。やっぱり、おかしい)

 

 ──と、改めて思うのであった。

 




【よもやま話】
 そんな追いつめられた状態でも、子供の扱いはさすがに上手なせり。
 今の梅里は小学校上級生くらいの精神年齢になっていますので、せりには扱いやすい年頃でした。
 なお、このときの梅里は、知識は中学生~高校生くらいの年齢で、精神年齢が前述のとおりという、ちょっと変則的で不安定な状態になっています。それが彼が不安になってかすみを頼っている(甘えている)原因です。
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