ダイの大冒険異伝―竜の系譜―   作:シダレザクラ

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第02話 託宣の御子

 

 

 目覚めは快適なものだった。

 清潔で手入れの行き届いた寝台から身を起こし、周囲を見渡せば高級そうな調度品の数々。枕や寝台も柔らかでとても寝心地が良い、職人による会心の一品であることをうかがわせる良品だった。気絶している間に着替えさせられたのか、服もいつもの質素な布の服ではなく、装飾こそ地味ではあるが材質はとても感触の良い寝間着だった。

 ぼんやりとした目元が力なく瞬きを繰り返し、大きな空間をのろのろと定まらぬ視線で緩慢に見渡していく。

 馴染みのない部屋。馴染みのない調度。少なくとも親子三人で質素に暮らすありふれた家屋などではない、俺の倒れた前後の状況を省みるに、おそらくは王城かそれに準ずる屋敷のはずだと当たりをつける。

 

「起きたようだな」

 

 怪我の後遺症かそれとも気絶していた時間が思いのほか長かったせいか、未だ頭はぼんやりと霧がかっていた。そんな俺を急激に覚醒させた契機はドアの開く音ではなく、無造作に向けられた覇気に満ちた眼光である。

 この圧倒的な存在感を前に見間違えをするはずもない、竜の騎士バランが両開きの扉の前に立っていた。

 

 バランは当代の竜の騎士にして、現時点において間違いなく地上随一の実力者である。一年と少し前、魔界の二大勢力の片割れだという冥竜王ヴェルザーを打倒せしめた男でもある。そして今はまだ訪れていない、もしかしたらこの世界では永久にやってこない未来において、魔王軍が誇る六大軍団長の任を務め、地上侵略の一角を担う《竜騎将》として数多の国を陥落せしめたほどの戦果をあげた。

 バランは個で戦って無双、竜の軍勢を率いて苦戦知らず、種族すらばらばらな竜騎衆という忠義に厚い士も揃っていた。実際、戦に関しては完全無欠なんじゃなかろうか、この男。さすがは数千年に渡って闘争に明け暮れ、代々の経験を紋章に受け継がせてきた竜の騎士といったところだろう。

 

 そして、若き日のバランがじっと俺を睥睨する、そんな嫌な現実に直面しているのが現在の俺である。古今無双の騎士が起きぬけに目に入るのは非常に心臓によろしくない。だが、ここで「おやすみなさい」と言って狸寝入りと洒落込む、そんな勇気は残念ながら俺にあるはずがなかった。

 緊張がいやまし、心臓が早鐘を打ち始めた。寝起きにバランの登場は予想外もいいところである。

 俺の予想としてはまず城勤めの官吏あたりに処刑場の一幕を尋問され、それから運が良ければ王族やバランへの釈明ならびに説明の場が与えられるものだと考えていた。いきなり牢に入れられることはないだろうが、まずは徹底的に俺の背景や身元の確認が行われるだろうと。その際、両親に多大な迷惑をかけることになるのは避けられないと思っていた。

 

 寝起きが冷たい牢屋でなく貴人の住居らしき豪奢な部屋だったことに安堵してはいても、俺のやったことを考えればベッドの寝心地に頬を緩めてばかりもいられない。今の状況を省みるに厚遇されていることは間違いなさそうだが……さて?

 しかしここでまさかのバラン登場か、あんた罪人の身分はどうしたよ? 監視もなしに自由に歩きまわれる身分なのか? そのあたりどうなっているのかわからない俺としては戸惑うばかりである。別に奥座敷に閉じ込められてろとは言わんけど、真っ先に俺と顔を合わせるのがあんたってのは色々と手順をすっ飛ばしてる気がしてならなかった。どうやら俺の予想以上に事態は動いているようだ。

 

 いやさ、どうしたものかね?

 まずは地べたに頭を擦り付けることからだろうか。しかしバランの立場って今どうなってるんだ? 嫌疑は晴れたのか? ソアラとの関係は? というか好き勝手に動き回れる身分なのか? ぐるぐるとそんなことが浮かんでは消えていく。

 内心で次から次へと思索を巡らせるも答えが出るはずもなく、バランはバランでそんな俺を無言で観察しているだけだった。お互い話を切り出すタイミングを失い、奇妙な膠着がそこに生じていた。

 

「あなた、いつまでそうしているつもりですか?」

 

 そこに救いの女神の声が。当然だがソアラの声である。

 心底ほっとした。何が助かるって、この人さえいればバランを抑えておけるという最大の安心感が何より有り難い。今はソアラのいない場所でバランと会いたくない。なにせ俺は『何故か』バランの正体を知っていて、これまた『何故か』いきなりバランの擁護を始めた、不審極まる人間以外の何者でもないことは自覚している。バランにしてみればさぞ気味悪く映っているだろう。

 

「ごめんなさいね、ルベア。夫がどうしてもあなたと話すことがあるというから、私は席を外していたのだけど」

「しかしだな、ソアラ。この小僧、どうも得体が知れん。私が竜の騎士であることを看破したことといい、そこらの子供が持ちえるはずのない情報を持っていることは疑いない。だというのに、天界や魔界に連なる気配は欠片も見せず、さりとて立ち居振る舞いはまるで素人のそれだ。今こうして向き合っていてもまるで威勢を感じさせん」

 

 そらまあ小突けばくたばる一般人代表ですからね。竜の騎士(あんた)に警戒されるような力を身に着けるなんて、今から百年修行しても無理だと断じてみせましょう。闘気は今日まで操れる予兆もなし、魔法に至っては発現以前に初歩魔法の儀式契約すら出来なかったからな、根本的に才能がないのだろう。

 

「率直に言ってアンバランスに過ぎるのだ、そのせいかどうにもつかめなくてな、私としてはお前に極力近づけたくないのが本心だよ」

「あなたは心配性ね」

 

 くすりと上品に笑みを零すソアラの意見に俺も全面的に同意する。天下の竜の騎士様に警戒されるとか勘弁してください、ほんと。

 

「この子が私達に害なすというなら、あのような危険な真似はしないでしょう。私達の恩人なのですからあなたもそう邪険にしないであげてくださいね」

「仕方ないな、お前がそういうのなら」

「心配してくれるのは嬉しいわ。あんなことがあったのだもの、あなたにとってこの城は居心地の良いものではないでしょう?」

「……慣れるよう努力はする」

「ありがとう、バラン。でも、どうか父や皆を責めないであげて。あなたにどう対して良いのかわからず、態度を決めかねているのよ」

 

 穏やかに、それでいて芯の通った声でバランを宥める王女様だった。バランも惚れた弱みなのか、多少唸るだけでそれ以上の反論はしなかった。バランの覇気に当てられていた俺としてはようやく一息つける形が有り難い……のだが、怪我人の前で惚気始めないでもらいたいものである。

 そんな微笑ましい光景を前にして苦笑が浮かび、そこに至ってようやく自分の立場を思い出す。そういえばソアラという一国の王女相手に、寝台に座っているままの俺の態度は甚だまずいのではなかろうか?

 

 和やかな空気に誤魔化されそうだが、二人の様子を見聞きする限り、ここは王城の一室で間違いないようだ。だとすれば、立場のわからないバランはともかく、ソアラ相手の不敬は流石に見過ごしてもらえないだろう。侍従の姿が見えないが礼は尽くすべきだ。そう考えて慌てて床に下り立とうと身体に力を入れ――全身に走った鋭い痛みによって顔を顰めることになった。

 両腕はもとより、身体の各所が痛覚を訴え、動きの一つ一つにひどく難儀する有様である。見た限り怪我が消えていたせいで油断した。回復呪文(ホイミ)とて万能の技術ではないことを遅まきながらに思い出す。外傷が消えていたせいで自身の身体を見誤っていたようだ。

 

「ソアラ様、バラン様。御前での無礼、まことに失礼しました」

「構いません。怪我を負った者に礼を強要する心積もりもありませんから、どうか顔をあげてくださいな。――ああ、それと今は公の場でなく、加えてここは私的な用向きの一室です。あなたの身柄も私預かりということで保護対象になっていますから、どうか気を楽にしてちょうだい」

「ありがとうございます」

「まだ怪我も完治していないのだし、今は養生に努めてね。と、言いたいところなのだけれど」

「何かありましたか?」

 

 そこでソアラの表情が曇り、どこか痛ましげな眼差しを向けられてしまった。その不吉な態度に嫌な予感を覚えつつも「気遣いは無用です」と先を促す。

 

「……不思議ね。あなたと話していると、まるで王城に勤める廷臣を相手にしているような気分になるわ。私の目の前にいるあなたは、とてもそんな年ではないのにね」

「勿体ないお言葉です」

「そういう如才ない物言いが年齢不相応なのよ。――そのアンバランスさも、あなたの秘密につながる一端なのかしら?」

 

 困ったように笑う事しか選べなかった王女様に、俺は返す言葉を持たなかった。己の異常性についてはもちろん自覚しているし、その不審さだって理解している。

 言葉の虚実を読もうとしているのか、ソアラの目には偽りを許さない光が宿っていた。優しげな風貌に穏やかな物腰、自然と相手の警戒を緩めるような暖かな雰囲気を保ちながら、なお威厳を失わない振る舞い。

 これほどの女性にさえ自身の出自を一時忘れさせたのだから、人の恋慕とは時に愚かしいほどに罪深いものへと変貌するのだと改めて実感した。俺はそこまでの情熱的な慕情は燃やせないだろうから、少し羨ましくもある。

 ソアラの口調は決して詰問している風ではなかったと思う。今この場で明らかにしなければならないことを、けれど踏み切れずにいるその優しさを俺は嫌いではない。

 

「はい。そう取っていただいて構いません」

「それはあなたが以前口にした、『竜の騎士』にまつわるお話、ということ?」

「御明察の通りでございます」

 

 そこで幾ばくかの沈黙が訪れた。一国の王女はその聡明な瞳を瞼の奥に閉ざし、何かに耐えるように唇を固く結んでいる。痛いほどの緊張感に喉の渇きを覚え、ふと台座に置かれた水差しに目が吸い寄せられていき――すぐに視線を引き戻されてしまう。

 

「それ以上は私ではなく、バランと話すべき事なのでしょうね」

 

 ちょっと歯がゆいけれど、とわずかの諦観を滲ませ、淡く笑う。その時、彼女の目には俺に対する申し訳なさと、それと同じくらいの強さを感じさせる、ある種の決意が同居しているように見えた。

 

「正直ね、迷っていたの。まだ万全じゃないあなたに、あまりに大きな負担を押し付けてしまうんじゃないかって」

 

 ……ああ、そういうことか。

 

「僭越ながら申し上げますと、それが王族の務めでございましょう。遠慮なくお申しつけください」

「ふふ、あなたはとても聡明ね。そして用心深くもある。……だからこそ不幸だと思うわ」

 

 その言葉通りにソアラのそれは憐憫の含まれた――憐れだと告げる眼差しだった。

 さて、この女性がどこまでバランの事情を聞いているのかわからないが、俺に関してはどうも誤解されているような気がする。……それはそれで構わないか。適度な罪悪感を持ってもらえるならやりやすくなるし、なにより次期女王様に気にかけてもらえれば、宮廷の連中にそうそう無体なこともされないだろう。

 

「あなたの目が覚め、過度の混乱もなく十分落ち着いている以上、我が身に預かっている通達を後回しにするわけにもいかないでしょう。――よく聞きなさい、ルベア・フェルキノ」

 

 本来は居住まいを正して畏まるべきなのだろうが、ここは好意に甘えさせてもらおうと首のわずかな動きで了解を伝える。

 

「此度わが父、アルキード王よりあなたに勅命が下りました。一週間後、私とバランはテランに赴きます。その際あなたは随行員の一人として同行し、私たちの補佐を務めるように、とのお言葉です」

「拝命致します」

 

 間髪入れず了承を返した俺に、やはり苦笑いを浮かべる王女様だった。バランは特に何を言うでもなく佇んだまま、静かに俺を観察している。

 

「驚かないのね」

「そんなことはありません、驚いていますよ。ですが……先日は少々やりすぎましたか?」

「そうね。先ほど言ったけれど、今の王城は混乱に満ちたままバランの去就を決めあぐねている状況なの。そして父は事態の可及的速やかな収束を望んでいる。……わかるでしょう? こんな有様でキーパーソンになりえる子を放り出すわけにはいかないの。私たちの未熟で苦労をかけます」

「過大評価も過ぎましょうが、概ね理解しました。つまり私は、畏れ多くもバラン様と一蓮托生の身の上になったわけですね」

「ご両親の元に返してあげられなくてごめんなさいね」

「お気になさらないでください」

 

 特に珍しいことでもない。事情に通じている人間はとりあえず囲い込んでおく、そんなところだろう。何故といって、俺が王宮側の人間だとしても同じことをするからだ。

 つまりソアラが気にする必要もないのである。加えてあんな大立ち回りをしておいて、即時身柄が開放されると考えられるほど、俺の頭はお花畑をしていなかった。そもそもの話、王命が下された時点で俺には首を縦に振る選択肢しか残されていないのだし。

 亡命紛いの駆け落ちをして求心力を落としたソアラが、現時点で王命に嘴を挟めるほどの強権を発揮できるはずがないことだって承知している。バランがこうして自由に城内を歩き回っていることや、ひどい火傷をしていた俺が手厚く看護されていた事実だけでも十分心強い材料だといえよう。悪くないどころか上々の成果だ。

 

「しかし一週間後にテランで会談ですか? たった一日でよくそこまで決まりましたね?」

「一日? ああ、ごめんなさい、最初に言っておくべきだったわね」

 

 瞬間移動呪文(ルーラ)があるとはいえ、二国間で調整せねばならないことがたった一日でまとまるのはいかにも早すぎる。そんな疑問で首を傾げた俺だったが、真相は意外な方向からもたらされた。どうも俺は根本的に勘違いしていたようで、今日はあの処刑の日から四日後だと説明を受けた。つまり俺は三日間昏睡していたらしい。……え、マジで?

 

「あなたが倒れた後、すぐに城に運び込んで宮廷医が回復魔法と薬草を併用した治療を開始したの。幸い傷は塞がったのだけど、火炎呪文を浴びたダメージと大火傷のショックが祟ったのか、あなたは高熱を発したまま長いこと苦しんでいたわ。バランが言うには相当危険だったらしいの」

「そこからは私が説明しよう。お前は刑場で瀕死のダメージを負ったまま傷を長く放置しすぎた。そのツケとして生命力が枯渇してしまい、身体が衰弱しきっていたのだ。回復呪文の体力回復効果は生命力の尽きかけた患者に対しては効き目が薄い。助かったのは幸運だと心得ておくのだな」

「昼も夜もなく苦しそうに(うな)されていてね、見かねたバランが定期的に睡眠呪文(ラリホー)をかけていたの。あなたの体感時間がずれてしまっているのはそのせいだと思うわ」

 

 立ち代わり説明してくれて非常にありがたいのだが……うん、全然覚えてない。もしかしなくても俺は死に掛けて、それから三日間ほとんど仮死状態だったみたいだな。実感がないのは良いことなのだろうか? 良いことなのだろうと無理やり納得しておく。自分が棺桶に片足突っ込んでいたとか愉快な想像じゃないしな。

 

「ところでバラン様。まさかとは思いますが、私に《竜の血》を?」

 

 ぴくりとバランの眉が持ち上がる。やばい、失言だったか?

 そんな風に内心慌てていると、バランが胡乱な眼差しを送りつけてきたのだった。

 

竜闘気(ドラゴニック・オーラ)を知っていた貴様だ、今更驚くに値せんか。他に竜の騎士の何を知っている?」

真魔剛竜剣(しんまごうりゅうけん)、魔法剣ギガブレイク、竜闘気砲呪文(ドルオーラ)。それから……竜魔人。まだ必要ですか?」

 

 竜魔人のくだりだけは声を潜め、ほとんど唇だけの動きでバランに伝える。ソアラの前で声高に喋ることでもないだろう。そんな俺の一応の気遣いを認めてくれたのか、若干だがバランの目元から険が薄れたように思う。

 ふう、と溜息を零されたあたり、単に諦めただけなのかもしれないけど。

 

「正直に語った心意気に免じて、先の質問に答えてやるとしよう。《竜の血》は心身共に鍛え上げ、強き意思を秘めた戦人にのみ作用する神通力だ。よってお前程度のレベルではどうあがいても蘇生できん。感謝するならソアラの手配した宮廷医にしておくことだな、放っておけば今頃は間違いなく棺桶の中だったのだから」

「承知しました。それでは安眠を助けてくれたバラン様に感謝を捧げさせていただきます。私のために骨折りしてくださり、ありがとうございました」

「……勝手にするがいい」

「はい、勝手にさせていただきます」

 

 バランの顔逸らしからの台詞は間違いなく照れ隠しだな。その証拠にソアラがくすくすと楽しそうに口元を綻ばせていた。……今は笑うな、我慢しろ俺。ソアラと一緒になってからかうとか、そんな命知らずの真似をするわけにはいかない。

 とはいえ、いつまでもそうされていては話が進まないし俺も居心地が悪い。機を見て発言を割り込ませてもらった。

 

「ソアラ様。一つお聞きしますが、私の父や母は無事――いえ、我が家に調査は入ったのでしょうか?」

「ええ。それからご迷惑かとも思ったのだけれど、今回のこと、これからのことで私がお礼とお詫びを直接ね」

「それは――光栄の至りです」

 

 顔が引きつるのを我慢するのが大変だった。ごめんなさい、お父様、お母様、と使い慣れない敬称を出してしまうくらいには申し訳ないことをしてしまったらしい。自国の王女様が訊ねてくるとか、絶対二人とも顔を青褪めさせていたのだろうなあ。

 しかしこの不安定な情勢の中、ソアラが直接城下に出向けたことに驚いた。駆け落ちに代表される一連の騒動があったというのに、ソアラは予想以上に行動の自由を許されているようだ。この分だと王様はバランを王室に受け入れようとしてるみたいだな。……父王の娘可愛さ込みだとしても嬉しい材料だ。

 

 ついでに俺への機嫌取りならぬ誠意も幾分かは含まれてるのかな? 俺はそこまで大層な人間じゃないのだが、家族に累が及ぶ心配がきれいさっぱり消えて安心した。あの二人には俺をここまで育ててくれた多大な恩があるからな。

 バランを取り巻くアルキード情勢も悪化していない。王の腹の内としては、今は調整に努めてテランでの会談を禊に一気に片をつけるってとこか? いずれにせよテランで下手を打たなければバランの地位はこのまま何とかなりそうだ。善哉善哉。

 

「私が直接出向いたのは、形だけでもあなたのテラン行きの許可をご両親からいただいておきたかった、という事情もあるのだけど」

「正直ですね」

 

 思わず苦笑が漏れてしまった。

 

「あなたにはこうしたほうが良いかと思って。身勝手な私たちを許してね」

「承りました。せいぜい暴虐なる権力者に翻弄される哀れな平民を楽しませてもらいますよ」

「あらひどい」

 

 ソアラがくすくすと楽しげに唇を綻ばせた。

 しかし上品に笑う人である。俺もそんな彼女に和み、幾分気持ちが軽くなったように思う。

 

「ですがソアラ様、その平民は少々強欲なようです。会談においてバラン様の補佐をせよと仰るのでしたら、叶う限りテランの情報を所望させていただきます。近年の人口推移、産業規模、現王の政策とその成果、アルキードを含めた周辺諸国との外交状況、殊にベンガーナとの関係は気になるところですね。開帳できる分だけでいいのでどうかよろしくお願いします」

「そうね……今のあなたの立場だとどうしても当たり障りのないことになってしまうけれど、それで構わないかしら?」

「十分です。何せほとんどが城下の噂話や商人の伝聞ばかりで、正確な数字も何もないので。無知を理由に他国の貴人へ失礼を働くわけにはいきません」

 

 どの程度まで期待されているのか、どこまで裁量権を与えられるのか、いずれにせよやれることはやれるだけやっておかないと。あとは、と考えていた俺を横目に、少し安心したわ、とソアラが笑う。その不思議な反応に首を傾げていると、すぐに続く言葉が彼女の口から紡がれた。

 

「あなたはこの世に知らないことなんてないように見えたから」

「冗談がお好きですね、ソアラ様」

「そうかしら?」

「ええ。パン屋の息子にあまり多くを期待されても困ります」

 

 小賢しさには多少の自負があるが、それだけである。

 それにしても、改めて肩書きだけ見るととんでもないことになってるな。パン屋の息子(ルベア)アルキード王族(ソアラ)竜の騎士(バラン)にくっついてテラン王国への使節一行に加わることになるわけだ。……カオスだな。明らかに異物である、俺が。

 

「そういえば、あなたのご実家で焼いてくれたパンは美味しかったわ。今度取り寄せてもらおうかしら」

「お城のお抱え職人に睨まれるので勘弁してください」

「そうね、ちょっと残念だわ」

 

 そんな穏やかに過ぎていく談笑は空気を軽くし、竜の騎士の眼光も幾分か緩める効果があったようだ。再度口を開いたバランの表情からも険が消えていた。正直助かる、この人の威圧は弱った身体には堪えるから。……ああ、いや、何時いかなる時もきついな、うん。

 

「さて、ルベアよ。以前にお前がはぐらかした問い――自身が何者であるかの答えは用意しているのか?」

「別にはぐらかしたわけでは――と、それはともかく、バラン様の問いに答える前にお聞かせください。あなた様は聖母竜マザードラゴンと接触することはできましょうか?」

「……いや、無理だな。次に私が聖母竜と相見えるとすれば、それは我が生涯を終えた時のみ。あれは竜の騎士といえど自由に交信ができる類の存在ではないのだ」

「然様ですか」

 

 よかった、それならどうにか言い包めることは出来そうだ。

 ほっとした内心を押し隠し、しれっと当然のような声音で口を開いた。ついでに神妙な顔つきで化粧して続ける。

 

「では、私の話を証明できるものは何もないことになりますね」

「どういうことだ?」

「現在過去未来、森羅万象に連なる数多の知見――便宜上私はそれを《竜の智慧(ちえ)》と名付けました。幼少の(みぎり)より私にもたらされた超常の夢、すなわち竜の騎士をとりまく様々な知識を私に与えたのは、マザードラゴン(クラス)の力を持つ何者かだと考えています。多分に天界の神々の悪戯……といいきれるほど私は天の事情に通じていませんので、あくまで推測でしか語れませんが」

「むぅ、それはつまり――」

「ええ、繰り返しますが、私にも正確なところはわからないのですよ」

 

 口から垂れ流しているのは適当な嘘八百でしかなかったが、実のところ三割くらいは正鵠を射ているのではないかと思っている。世界間を移動しうる手段やら魂の行方やら、そういった『いくら考えても答えの出ない』疑問はまとめて神様――形而上の何者かのせいにしている。そうせざるをえないのだ、わからないものはわからないのだから。

 

 俺は物心ついたころから『世界を俯瞰した異界の知識』を持ち合わせていた。そして困ったことに以前生きていた世界の最期を覚えていない。

 うーむ、健康に問題はなかったはずなのだが、激務が祟ったのかある日ぽっくり逝ってしまったのか? 官僚ってのはそこらのブラック企業など鼻で笑える激務を課せられるから急逝も十分ありえる、などと笑えない昔話はともかく。

 そのせいか俺はこの世界で物心がついても、前世の最期から今世への意識の連続性が確保できずに『ある日突然異世界で目覚めてしまった』感覚なのだ。どうにも気持ち悪いことこの上ない――俺にとっても、両親にとっても、この世界の誰にとっても。

 

「物心がついて幾ばくか経ったころ、私はその予知夢にも似た既知を自覚しました。それは子供心に暗く冷たい深遠を覗いてしまったような恐怖を味わい、何度も性質の悪い夢と言い聞かせて忘れようともしました。ですが、近年になってあまりに符号する事象が起こりすぎています。極めつけにバラン様――竜の騎士の実在まで確認してしまった。だからこそじっとしているには少々危機感が勝ってしまったのでしょう、気が付けばあなたの前に飛び出していました」

 

 自身のルーツなど、実のところ大したことはないのだ。

 

 『人は何処からきて何処にいくのか』。

 

 どんな世界にいようと、どんな境遇にあろうと、その命題に対する答えは誰だって人生をかけて探すことになる。俺は生きてここにいるのだから、精一杯生きれば良いだけなのである。俺自身の謎だのそんな大層な悩みは、暇があれば考えるくらいで丁度良い。そして毎度気にするだけ無駄だと笑い飛ばす、その程度のものだった。

 それにこの世界では魔法に限らず、メルルやナバラのように占いの範疇を全力で蹴っ飛ばす神秘に満ちた術の使い手だっているのだ。ここで俺が未来を知っているといっても、可哀想な子を見る目を向けられずに割かし普通に通じる気がする。単純に予知夢とでも嘯けばいけたかも、などなど思考の端で遊ばせておく。ファンタジー世界万歳。

 

「では、お前が私を救おうとしたのは神々の意思か?」

 

 おっと、今は真面目に、誠心誠意、真心を込めて適当な言い訳を並べなければ。

 

「いいえ、人の意思ですよ、バラン様。私は私のため、そしてアルキード王国のためにあなた様の助けになるべきだと考えました。もしや失望されましたか?」

「いや、そのようなことはない。だが竜の智慧か、確かに天界には私ですら全容を把握できぬ不思議な術を扱う種族もいるが」

「永久不滅の魂を持つ冥竜王をその神通力によって封じたように、ですね。そして私に起きた不可思議な啓示もまた、バラン様自身で確かめていただくほかはありません。残念ながら私には天の意志に関わる方策など思いつきませんから」

 

 ついでにいえば、そんなわけのわからない連中と係わり合いになりたいとも思わない。

 

「だからこそというのもおかしな話ですが、私に与えられた力も神が人に与えたもうた遺産の一つと割り切っています。甚だ器に見合わぬと嘆くばかりとはいえ、こればかりは致し方ありません」

「……そうか」

「そも我が身の矮小さを理由に零れ落ちた知恵のほうがはるかに大きいでしょう。ただ、それでも最後に残った警告をあなた様に伝えるために私はここにきたのだと思います」

「警告?」

 

 はい、と重々しく頷く。俺の言葉にただならぬ不吉を覚えたのか、バランの双眸が鋭利な光を宿し、獲物を貫く覇気を纏う。この時ばかりは冗談抜きで冷や汗が出た。同時にこのまま跪いてバランに頭を垂れたくなってしまう。

 バランの前にいると問答無用で平伏したくなってしまうのは、俺の小市民根性がなせる業なのだろうか? 我が身が情けなくなるので深くは考えまい。

 

「この地上に危機が迫りつつあります。天地魔界の枠組みを完膚なきまでに破壊し、魔界に太陽をもたらさんとする巨悪が、数千年の雌伏を経てついに動き出そうとしています。今はバラン様の存在が地上侵略を阻む抑止となっているでしょうし、今日明日の侵攻とはならぬでしょうが……いずれ冥竜王ヴェルザーを超える脅威となることは間違いありません」

 

 竜の騎士であるバランが人類側についている以上、バーンの大戦略にも当然変化は生じるだろう。竜の騎士を無視できるほどバーンが傲慢だとは思わない。加えて神々の遺産を自身の手に握る悪趣味な稚気に魅力も感じよう、まずは勧誘してくる可能性が高い。史実に沿うならば魔王軍襲来までの猶予はあと十年そこそこだが、その通りにタイムテーブルが運ぶ可能性はとてつもなく低かった。

 魔王軍との開戦が早まるのか、あるいは期日が伸びるのか、それは俺にもわからない。だが、あの男が地上侵攻を諦めることだけはあるまい。……いやだなあ、できれば俺の生きているうちは来ないでほしいなあ、という偽りなき本音が俺の中で絶賛首をもたげてきたりもするけれど。

 望み薄だろうな、どう考えても。

 

「その者の名は?」

「魔界の神を自負する男――大魔王バーン」

 

 バランが問い、俺が答える。

 その一語を口にする時、俺は言い知れぬ怖気に寒気と圧迫感を覚え、知らず生唾を飲み込んでいた。

 

 

 

 

 

 アルキード王国は中央大陸の南端を領土とする半島国家だ。

 世界地図において最大の陸地面積を誇る中央大陸は竜が翼を広げたかのような勇壮な形状をしているのだが、ちょうどその尾にあたる位置にアルキード王国はある。東西と南を海に囲われ、直接隣接している国家は北に陸続きのベンガーナ王国のみ。そのベンガーナのさらに北にテラン王国がある。バランとソアラが一時期潜伏ならぬ隠遁先として選んだ地だ。

 

 バランに大魔王バーンの警鐘を発してから一週間。宮廷魔道士の瞬間移動呪文(ルーラ)を初体験した俺は、驚きと感動もそこそこに予定通りテランの地を踏んだ。

 美しさと静寂に満ちた森と湖の景色は心に郷愁を呼び起こす。そんな澄んだ、それでいて物寂しい気配が、テランを訪れる人間を最初に歓迎する異国情緒なのだろうと思う。そんな土地柄と、国民皆が朝に夕にと信仰深く祈りを捧げる毎日を送ることから、人の口端に乗る際は『神秘の国』との枕詞がつくこともしばしば。殊に現国王が率先して自然を愛し神を敬う姿勢を見せているためか、近年はそうしたイメージに一層拍車がかかっている。

 

 そんなテランという国で、俺はまずバランやソアラについて竜の神の魂が眠る《聖域》と称される湖を見てから、程なくテランの王城を訪れた。アルキードの城に比べて小規模な、どちらかといえば砦や館に近い印象を抱かせる建物だった。

 会談の席に用意されたのは謁見の間であり、テラン王が玉座に座している。

 現テラン国王のフォルケン様は既に七十近い高齢であり、長く伸ばした髪も真っ白に染まり、その老体を些か不自由そうに揺らしていた。それは気分が優れないのではなく、純粋に身体が弱っているように見える。ふむ、やはりテラン王が健康に不安を抱えているのは間違いなさそうだ。元々病弱な半生を送ってきた人であり、身内に不幸が重ならなければ玉座に座るはずのなかった方だ、難儀といえば難儀な運命に翻弄されてきた王様である。

 

 失礼にならぬようにと注意しながら視線を走らせれば、王の補佐なのか壮年の男性が二人侍り、部屋の隅には王の世話係らしき女官の姿が見えた。水差しと薬らしきものを乗せた盆を持っている、つまり王の健康に不安があることを隠そうともしていない。普通国家元首の健康不安のような、いわゆる『国の弱体化』を示すような材料は、易々と他国に知られないようにそれとなく隠すものだが……。

 これはテランが文化レベルの低い弱小国家である、という自覚故なのかもしれないな。侵略価値のない国家――それもテランについてまわる風聞だった。

 

「一同、面をあげられよ」

 

 この場に跪いた全ての人間が改めて姿勢を糺す。

 こちら側からはソアラが先頭を務め、傍らにはバランが控えていた。俺も特例として彼らの影のようについていくことを許されているのだが、これ、いいのだろうか? 背中に寄せられる怨嗟と嫉妬混じりの視線が痛い。

 筆頭はバラン処刑の音頭を取った大臣だが、実はこの人、アルキードの外交全般を担ってきたらしい。で、目出度く今回の表敬訪問という名の謝罪と頼みごとの場に抜擢されてきた。さらに隣にはやや神経質そうな雰囲気で、厳しく眉をひそめるのが常態と化した男が一人。色々不本意なのかもしれない。

 

 この二人は主にソアラ王女とフォルケン王の会談を補佐し、見届ける役だ。これは後に王への報告に偽りをなせぬようにするための目付けとしての人選でもある。そのせいかここまでの道中、雰囲気がぎすぎすしてた事実はあまり思い出したいことではなかった。

 特に大臣殿は俺やバランと確執がある。加えて役目柄仕方ないのだけど、特に複雑怪奇な立場を持つ弱者な俺としては胃の痛くなる時間でしかなかった。……この理不尽さはなんとはなしに昔を思い出すぜ。ほろり。

 

「アルキード王が名代、ソアラでございます。危急を要する我が国の求めに応じ、かように迅速な対応を設けていただき感謝いたします。また、先の騒動で礼を失した我が国がこれほどの厚遇を賜りましたこと、重ねて貴国に御礼申し上げます」

「そう堅苦しくせんでくれ、この老骨がそなたらのような若者の助けになれるのなら労苦は惜しまんよ。代わり映えせぬ日々によき刺激だろうて」

 

 そんな会話を皮切りに、会談は恙無く進行していく。

 ソアラを連れ戻した時にアルキード軍が展開した国境侵犯にまつわる事情の説明。無理やり形にした事後報告への謝罪と礼の口上、誠意としてアルキードからテランへの贈答目録やらなにやらが目の前で次々と消化されていく。……しかしお人好しというか無欲な王様である。ここまでほとんどがアルキード側の言い分で通ってしまっている。元々国力の差があるし、テランの国民性からかアルキードの横暴を騒ぎたてなかったのもあるのだろうが、それで良いのかと心配になってしまったほどだ。――俺はアルキード国民だから、わざわざ異議申し立てなんてしないけど。

 

 淡々と過ぎていく時間。適度な緊張感とわずかな弛緩。

 ここまで俺は何もしていないわけだが、では何故一週間前俺がソアラにテランの情報を求めたのか。それは当然ながら殊更真面目ちゃんを装うことが目的だったわけではない。

 大前提として俺が《竜の智慧》と嘯いた知識はあくまで未来の出来事であるし、そこに時間軸を加味した現在の推測など甚だ心許なく拙いものだ。大体元の知識からして断片的なものであるし、この世界で得た知識とて城下で子供の聞ける噂程度に過ぎない。現在と未来の齟齬を埋めるには精度が低すぎるのだった。

 だからこそある程度信頼できる情報源が必要だった。その点、ソアラを通した『この世界の支配層』が持つ膨大な知識や記録は望み得る最上級のものだ。今の俺にしてみれば喉から手が出るほど欲しい宝の山といえよう。

 

 ではその得た知識で俺が何をするかといえば――答えは『何もしない』。そもそもこの会談において俺はアルキード側から『この場にいること』以上の役割は期待されていなかった。

 弁解するならばこれは俺の怠慢だとかめんどくさがり、あるいは俺やバランを疎ましく思う勢力の妨害などでもなく、先の通り俺が何かをする『必要がない』。加えていえば『立場が足りない』、という当たり前の問題もある。

 

 アルキードからテランへの表敬使節の随行とはいえ、俺はソアラとバランの金魚の糞にすぎない。その二人にしたって未だ不安定な立場にあるくらいなのだ、俺がここで好き勝手できるはずもなかった。しかも今の俺は国に正式に取り立てられた役人ではなく、嘱託みたいなものなのだからなおさらである、扱いはソアラとバランの個人スタッフ同然だ。

 今回俺がアルキード王に言い含められた案件を思えば確かにこのほうが都合が良いのだが、いかにも中途半端な身の上だと思う。

 

 そして王家の主催する『政治劇』に木っ端役人未満の俺が手を出す意味があるはずもないだろう。こういう形式ばった外交は普通段取りから何まで事前に協議、通達されているものだ。今回も例に漏れず会談は楚々として進むだけで問題は起きえず、俺はその様を特等席から見つめているだけだし、それで何の問題もなかった。

 そんな中、予定調和の会談の流れに変化が起きたのはフォルケン王が口にした次の言葉からだ。

 

「さて、ソアラ姫よ。此度貴国が会談を望んだ本題にそろそろ触れようと思うが?」

「よしなに」

 

 ソアラが美しい所作で一礼し、一歩下がる。それを受けてバランが立ち上がると、不遜とも思える堂々とした佇まいでテランの王と相対した。じっと二つの視線が交差する。行き詰る緊張が否応なく部屋を満たし、沈黙に比例して我が身にじわりと汗が滲み出した。テラン王が口を開いてくれた時は心底ほっとしたものだ。

 

「とても澄んだ、この世に類を見ぬほど力強い光を宿されておる。バラン様、と申されましたな。あなたがアルキードに現れたという、かの竜の騎士さまであらせられましょうか?」

「貴殿の指すそれと同一であるかは保障できぬ。が、当代の竜の騎士が私であるという点においては是と応えよう」

「まずは平にご無礼をお許しください。無論、貴殿の言葉を疑っているわけではありませぬ。しかしこの場で竜の証を見せていただきたく存じます」

「……この国の湖深くに竜の神を祭る聖域があると聞いた。また、湖の畔で伝承に伝えられし竜の紋章が彫刻された柱も見た。森深き国の王よ、そなたの望む証は額に浮かぶ《竜の紋章》のみで不足はあろうか?」

「十分でございます」

 

 沈黙を守る俺とソアラをよそにかすかなどよめきが起きた。しかし場に少なくない感情の揺らぎが走ったのも致し方あるまい。

 二人の会話はまるで立場が逆だった。王がバランを敬し、バランがそれを当然のように受け取る。――あるいは、竜の騎士はそうした扱いを当たり前にされてきたのだと告げるかのように、その態度は堂に入ったものだったように思う。単にバランが傍若無人なだけだとか突っ込んでみたい気分にもなるが、色々な意味でそんな空気の読めない発言をするわけにはいかなかった。

 

 では、とバランが軽く息を吸い込み――物理的な突風がバランを中心に吹き荒れた。幸い力の加減は出来ているようで被害らしい被害は出ていなかったが、この場の誰もが理解しただろう。人の身に見通せぬ力の器と、畏れずして相対叶わぬ絶対強者の片鱗を。

 しばしの時を竜の紋章が奏でる音叉が支配し、やがて力の嵐が収まる。こちら側からは見えないが、バランが頃合とみて竜の紋章を消したのだろう。

 

 誰ともなく安堵の息が漏れる。中には喘ぐように空気を求める人間もいた、俺とて平静は装っているが冷や汗ものだったくらいだ。しかし、ちらと横目でソアラを伺うと彼女は涼しげな顔でバランの背を見つめているだけだった。……日に日にこの人の深みを感じさせられるな。恐ろしい女性だと背筋を寒くするばかりである。

 バランが軽く一礼し、無言で数歩引いて俺たちの列に戻る。テランの王が再度口を開いたのは、バランが何食わぬ顔で膝を折って礼を示してからのことだった。

 

「この歳になって伝説を目の当たりにするとは……」

 

 ぽつり、と。

 そこには興奮でもなく、諦観でもなく、ただ全てを受け入れる諸行無常の響きがあった。そして、そのつぶやきは竜の騎士の実在を一国家のトップが証明したのと同義でもあった。

 神秘の国の王は語る。朗々と、訥々と。

 

「――古来、我が国は竜の神を讃え、崇め奉ってきた。そして額に竜を象る紋章を持った者を《竜の騎士》と呼んできたのだ。神の力を宿す、神の使いとして」

 

 俺たちを見ず、どこか遠く、天に語りかけているような口調だった。遠く、厳かで、けれど落ち着く不思議な老人の声。

 

「何を為すための使いなのでしょうか?」

 

 ソアラが静かに問いかける。

 

「さてな、伝承もそれ以上は語ってくれぬ。我々は人には量れぬ神々の意思と思うておるよ。天と地と海を味方にし、あらゆる呪文を操り、何者をも一太刀で切伏せる。其は天変地異を引き起こす力を備え、人の世の救世主とも破壊神ともなりえる、超常にして尊き御使い。それが竜の騎士さまなのだ、と」

 

 しん、と皆が押し黙る。各々明かされた真実をどのように消化すべきか迷っているのだろう。今なお平然としている人間は片手で数えられるほどしか残っていない。驚嘆と迷いがうずまき、消えぬさざめきとなって空気を張り詰めさせていく。

 

「何かお言葉はありましょうか、竜の騎士さま」

「……何もない。大層な伝わり方だとは思うが、概ね事実であろう。竜の騎士は古より三界の争いを制してきた故な」

 

 然様でございますか、とやはり低姿勢なテラン王の姿だった。

 

「ではアルキードの姫よ、そなたは私の話を聞いて――竜の騎士さまに何を思ったのか、この老体に聞かせてはもらえぬかな?」

 

 ソアラに逡巡はなかった。

 

「フォルケン様、私はバランの妻です。竜の騎士なる存在がいかに強大無比であろうと、敬を捧げ、力を讃える巫女にはなれません。なればこそ、今生の果てまで彼に殉じるのが我が道と心得ています」

 

 迷いのない真っ直ぐな眼差しで問答に挑むソアラに、テラン王もそれ以上は何も問わず深く瞑目し、納得したようだった。実際にこの女性はバランの為に一度命を投げ出している。輝かんばかりの清浄を宿す彼女の佇まいに、高潔さに彩られた魂はかくも美しく映えるものなのだろうかと圧倒される思いだった。……国家指導者としては困ったものなのだけどな、しかしこればっかりは変わることもないのだろう。そして、それで良いと苦笑混じりに肯定する程度には、俺もバランやソアラのことが好きになり始めているらしい。

 どうしたものやら、とそんな風に人知れず笑みを押し殺していると――。

 

「難しきものよな。……ならば最後にもう一人、この場で意見を聞かせてもらおう。ルベア・フェルキノ。そなたは竜の騎士さまといかに対峙するべきか、思うところを述べてみよ。――竜の託宣を受けし子よ」

 

 瞬間、目を見開いて驚きを露わにする。前触れなく、というには王の目は俺の後ろ、狼狽の中にある人々に向けられていたからそれを予兆とすることはできたのだろう。しかし俺にとっては突然に舞台へとあげられてしまった印象が強い。ついでに託宣云々も初耳である。

 ふむ、これは少しばかり段取りを無視してやいませんかね? 俺に要請されていた出番はまだ先のはずなのですが、と脳裏に幾ばくかの抗議が過ぎる。しかしこれ、どうも試されているような気がするな。なにを考えてるんだ、この爺さん?

 

 ともあれ王に尋ねられて無言を通すは不敬である。予定外だろうがなんだろうが口を開かなければと焦り気味に思考を巡らせ、整理する。何時の間に預言者みたいな通り名がついたのかとかの疑問は後回しにしておこう。たぶんというか絶対ソアラの仕業だろうけど。

 はっはっは、なかなかお茶目じゃないか王族の娘さん。嘘つき小僧の身としては文句も言いづらいぜ。……俺の立場を慮ってくれてるのだからなおさらだ。少しでも俺が動きやすいようにしてくれているのだろう。

 されば、脳内繰言で遊ぶのもここまで。どのみちここからは俺の戦場だ、気を引き締めてかからせてもらおう。

 

「畏れ多くも王の御前にて拙き進言を申し上げます。仮に《竜の騎士》が伝承に謳われる《審判者》の役割を帯びた超越せし者だというのならば、我らがすべき第一は《竜の騎士》を打倒しうる剣を持つことでございましょう。そう、刃を磨き、魔を探求し、戦の術を練ることによって」

 

 ざわり、と背中に伝わる再びの揺らぎにも反応せず、余裕綽々の風情で笑みを浮かべてみせる。

 

「……ほう。つまり、故あれば竜の騎士さまを討つ、と?」

「彼の者が人に仇なすならば討たねばなりますまい」

 

 場に立ち上る気色ばんだ気配を黙殺するように泰然と言い放った。アルキード王城内では俺はソアラに続くバランの擁護者という立場だからな、『バランを討て』との発言には驚きを隠せなかったようだ。

 その点バランとソアラはさすがである。打ち合わせなしに爆弾を落としたというのに些かの動揺もない。バランに睨まれなくてよかった、と内心胸を撫で下ろしつつ続ける。

 

「天上に侍り奉る神々には神々なりの意思があるように、地上に住まう我々にとて貫くべき都合があります。我ら人間が滅びに足る種族だと宣告されたとしても、それに抗うは人の業であり、等しく認められるべき権利でございましょう」

 

 決して目を逸らさず、声には確信を秘めて力強く。

 俺がテランの王とじっと目を合わせた時間はほんのわずかの間だけだった。先制はかましたことだしもういいだろう、そう思ってふっと目元を和らげ、口元にも無礼にならない程度に微笑を描く。

 

「そう難しく考える必要もないと思いますよ、つまるところ何も変わらないのですから。人が魔族と相争う長い歴史があるように、人がモンスターと生存権をかけて何時の時代も衝突を繰り返してきたように、戦うべきときに戦う以外の道はありえません。ここに加える一言があるならば、いかなる意味でも備えるが肝要かと」

「ふむ、そなたの物言いはまるで人の世の代弁よな。それは王の仕事だろうて?」

「申し訳ありません。些か差し出がましいことを申し上げました」

「よい」

 

 一礼し、緊張を解すように深く息を吐く。もう少し、もう少しだ。

 多少傲慢な物言いだろうと後ろの連中への配慮は必要だ。伝承に残された竜の騎士の実在が明らかにされた以上、アルキードに戻ってもバランが以前のようにソアラを理由に処刑される、ということはありえないだろう。もうそんな次元の話ではないのだ、バランという存在は一国どころか世界の軍事均衡(パワーバランス)すら左右する、極めて重大な案件になりえることが証明されたのだから。

 だからこそ――いずれは《竜の騎士(バラン)脅威論》が唱えられるようになる。玉座を巡る政治的事情からではなく、純粋な戦闘力を恐れた結果としての排斥だ。

 

 十数年の後、ダイが人から向けられた畏怖の目のように。その過ぎた力ゆえに受けた迫害のように。

 それはもうどうしようもないのだ。脅威への恐れは誰だって持つものだし、誰も彼もがソアラのように博愛や寛容で納得できるはずもない。魔王に匹敵する個人武勇を誇る戦士を無邪気に受け入れるのは難しかろう。

 一方で人類がバランに(おもね)るだけの間柄が正しいはずもなく、また竜の騎士という絶対存在に媚びへつらって守ってもらうだけの関係が長続きするはずもないと俺は思っている。ならばひとまずは皆の心の均衡を保つ意味でもこれくらいの過激さは必要なのだ――実際に竜の騎士を誅する戦力を用意できるかどうかはともかくとして。

 

「しかしながら、まずは友好的に接することを第一義とすべきだと思います。また、一個人としてそうでありたいと願ってもいます。竜の騎士様が伝承に謳われるほどの脅威を持つ、その前提に立った上で国家安寧を期するのならば、浅慮を理由に無用な敵を作ることもありますまい」

「竜の騎士さまといえど、人と大きく変わることはない。そなたはそう主張するのか?」

「もちろん違いはありましょう。常識、習慣、使命、価値観。なにより竜の騎士様にしかできぬこともあります。我らに比すれば目もくらむような強大な力を内包していることも事実。ですが――」

 

 意識して一拍置き、言葉の浸透を待つ。気を落ち着かせるように唇を湿らせ、ゆっくりと言を滑らせた。

 

「手を携えることは出来ると信じます。バラン様はソアラ様との間に御子を得ました。それは天に住まう神々が遣わせし竜の騎士が、この地上で人の娘と心を交わし、愛を育んだ証左――少なくともバラン様は私たち人間という種族に親愛を示しました。ならばどうして我らが理解しあえぬ道理がありましょうか?」

 

 詭弁である。

 親愛もなにも、竜の騎士が生殖を必要としない種族だったから今まで子を作った前例がないだけで、当代の騎士であるバランがイレギュラーな存在だったというだけだ。バランとソアラの駆け落ちをここまで美談に仕立てあげるあたり、俺も大概扇動を好む男だと内心で苦笑いを浮かべるばかりだった。

 そういえばマザードラゴンの力が封じられつつある中、次代を生み出せなくなった竜の騎士システムの限界という問題もあったな。これはバランでさえ知りえぬ事実なのだろうけど、折を見て善後策を話し合う必要はあるのかもしれない。

 

「これよりは過分に無礼な物言いになること、王のご寛容に縋り、どうかお許し願いたく。――フォルケン様。信仰とは、理解から最も遠い場所にあるのだと断じさせていただきます」

 

 幾分の危機感を呑みこみ、奮然と挑むようにテランの信仰、はてはテランの国是へと踏み込む。

 

「誓って貴国の信仰――竜の神を崇め奉る神聖な習わしに異を唱えるつもりはありません。しかし、今、目の前に座するバラン様に人の言葉を届ける努力を諦めてほしくないのです。敬し崇めて遠ざけるはバラン様の、ひいては歴代の竜の騎士様方の望むところではありません。《竜の騎士》とは元来竜の力と魔の真理、人の心を併せ持つ、まさに奇跡のバランスを体現する存在なのですから。この意味、どうかご留意くださるよう、重ねてお願い申し上げます」

「――ふむ。本心か、それとも虚心か、竜の託宣とは言いえて妙だの。ソアラ姫の申した通り、不思議な智慧と縁を持つ子よな。この老王を相手に王の理を説きながら人の道で諌めるか……。アルキードには面白い若者が育っているようだ、ソアラ姫も竜の騎士さまもよき臣を持った」

 

 穏やかに笑むフォルケン王の眼差しを受けてソアラが嬉しそうに、そしてバランも口元に小さく笑みを浮かべて目礼を返す。ちょっとばかりこそばゆいな。

 フォルケン王は穏やかな眼差しのまま、張りのある良く通る声で続けた。

 

「テラン王フォルケンの名において、アルキード王国に竜の騎士が降り立ったことを正式に宣言させてもらおう。……以後はバラン殿と、そうお呼びして構いませぬかな?」

「フォルケン殿の御厚意ありがたく頂戴致す。そして――我らの友誼が末永く続かんと、竜の神に願い奉る次第でございます」

「バラン殿の御心、確かに受け取らせていただいた。この数奇な出会いに感謝を」

 

 へぇ、バランも粋なことをするじゃないか。思わず感心してしまった。竜の神の使いとされる竜の騎士(バラン)が、テランの奉じる竜の神に祈ってみせるとは……見事だ。

 これはバランのファインプレーかもしれない。おそらくはこの一言でバランは他国の王と個人的な友誼を結ぶと共に、フォルケン様の信をも勝ち取ってみせた。

 

 ほうっと。

 彼らの神聖な儀式を見届け、ようやっと安堵の息をつくことができた。予定外ではあったが得るものも小さくなかったと、そう思う。バランが武辺一辺倒の粗野な男との評が立ち上る可能性も消えたし、このままバランが理性的な為人をしているのだとアルキード上層部、ひいては各国首脳にまで浸透させていけば、バランの未来もそう悪いものにはなるまい。彼の手綱をソアラが握っているのだと思わせられればなおよしだな。

 

 実のところ俺が本当に言い聞かせたかったのは後ろの連中であり、この機を利用してアルキードのバランへの姿勢を強制的に決定してしまおうと目論んだ。俺はアルキード内で軽率に竜の騎士という異端を排除に向かわせたくないし、バランを政の中枢から体よく遠ざけ利用するだけの浅慮も認めたくない。

 そのためなら小細工だって弄す。バランの地位を保障する手段は何も内部から働きかけるだけではない、こうして外堀から埋めてしまうのだって有効に機能する手練手管なのである。この会談結果はこれからのバランやソアラにとって極めて重要な財産になるはずだ。

 

 そして俺にとっても朗報である。テラン王にこれだけ言わせておいて、この先アルキード国内で率先して竜の騎士を迫害しました、とか笑い話にもならんだろう? この会談の内容が伝わればアルキード王国上層部で、《竜の騎士》への対応にあたっての基本的なコンセンサスが取れるはずだと信じたいところだ。

 ……ほんと自重してくれよ、アルキードが誇る重臣のお歴々? どうせなら『上手くすれば竜の騎士の血脈をアルキードで抱え込める!』くらいの強かさを見せてくれ。ここまで来てバランが魔王軍に走るとか絶対ナシだからな。

 

 疲れた――が、心地よい疲れだ。

 

 こうして相応の手応えを俺に感じさせながら、以後は穏やかに会談の時間は過ぎていくのだった。

 

 


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