お題小説『フレンチ』ということで書いた短編です。
「あら、遅かったじゃない。待ちくたびれたわ」
「ありゃ、珍しいもんだな。いつも待ち合わせ時間にはいないから」
「なによそれ。喧嘩売ってるなら買うけど?」
「はは、冗談冗談」
日暮れから降り始めた雨は一層激しさを増して、傘を打つ音が耳にうるさい。バス停から三軒隣、路地の奥数十メートル先のマンション。そのエントランスに彼女は佇んでいる。
一つ小さなあくびをする。随分暇させてしまったようだ。
「……まあ、今回は許してあげる。ほら」
「恩に着るぜ」
寄りかかった壁に一人分の隙間を空けてくれる。ひんやりした石を背中で感じている間も、彼女は黙ったままだ。
……無言の静寂を雨音が埋めている。
「……で、なによ。あなたが改まって話をしたいなんて珍しいじゃない?」
しびれを切らしたらしい。切り出すタイミングを失った俺に救いの手が差し伸べられた。
「まあ、大した話じゃないんだけどな」
「それにしては随分ときまりが悪そうじゃない。てっきり告白でもされるものかと思っていたのだけど」
「まあ、ああも改まって言われりゃそう思えるか……実はな、今月末から仕事でフランスに行くことになったんだ」
少し話しておかないといけないことがある、なんて言われれば誤解を与えるのも今なら頷ける。それに比べればただの異動の話なんぞ大事には思えないかもしれないが……こいつにだけは、ちゃんと対面して伝えておきたかったんだ。
おそるおそる隣を見遣る。お人形のような端整な横顔はさして驚きも悲しみも怒りも見せず、「……そう」という短い返事だけが返ってくる。
「……驚いたりしないんだな」
「最近のあなたを見ていればわかるわよ。みんなで集まって話すたびに来年のことは……みたいなの、言ってたじゃない」
「マジか。完全に無意識だと思うが……」
とにかく、怒っていないことに胸をなでおろす。
「それで、月末ってことは出発は一週間後くらい?」
「いや三日後だ。わりい、言うのが遅くなっちまった……」
「そう。よかったわね。その日なら丸一日空いてるからお見送りくらいはしてあげるわ。あいつらにはもう話したの?」
「それもまだ。職場と家族を除けばお前が初めてさ」
「ふーん……初めて、もらっちゃったかしら」
「へっ、あげちゃったみてえだな」
ふふっ、と軽い微笑みをもらすのがわかる。重苦しい空気が晴れて、やっといつもの関係に戻ったみたいだ。
もともと俺たちは幼馴染で腐れ縁だ。学生の時も、大人になった今でもよくみんなで集まってバカみたいな話題でバカみたいなやりとりしている。
「それにしても、フランスかぁ……少し羨ましいわね」
「好きだもんな、フランス料理」
「それもあるわね。ただやっぱり、フランスっていったらバレエの本場でしょ? 憧れるじゃない」
ほぅとため息をつき、目をうっとりとさせる。生粋のバレリーナで小学校の頃からやってきた身としてはフランスそのものに憧れがあるんだろう。俺には未だにさっぱりなもんだが。
「まあ、休みでもできたら遊びに来いよ。……つっても、フランス旅行は気軽に行ける難易度じゃないとは思うが」
「なんならあなたが嫌っていっても押しかけるつもりだったけど。理由つけてフランス旅行を決行できるまたとないチャンスじゃない」
まるで純粋な子供のように目をキラキラとさせて、俺の方を見てくる。きっと今の彼女の頭の中はフランスというものでいっぱいなんだろう……と、その嬉し顔が曇る。
「といっても……そうね、これからしばらくあなたに会えなくなると思うとそれはそれで寂しいわ」
「お前がそんなこというとは……昨日の晩御飯はなんだ?」
「悪いものでも食べたんじゃないかって? 失礼ね……普通にポトフよ。照れ隠しにしては下手すぎるわ」
「おおっと、それ以上は言うんじゃねえ」
さすが腐れ縁。さながら以心伝心とばかりに俺の心の内を見抜きやがった。というかまあ、そもそも人の感情を察するのに長けているというのは知っているけど。
すこし恥ずかしくて目を合わせられず、ぼんやりと向かいの生け垣の紫陽花を眺める。
「そういえばあなた、いつぞや『日本の秘境を全制覇したい』とかいって家を飛び出してったわね。あのときもいつもの面子が一人減って、なんだかんだみんな寂しがってたのよ?」
「あー……そんなこともあったな。そいつは悪かったって」
「別に。今となっては昔のことだし、ね」
そう口では言うものの、先ほどのフランスのときとは打って変わって少し不機嫌なのが垣間見える。きっと、ちゃんと本気で心配してくれていたのだろう。あの時は……まあ、結局なんだかんだどんな絶景に浸るよりもみんなといるほうが心地いいことに気づいたんだっけか。
なんてのは恥ずかしくて知られたくないな、という気持ちを誤魔化すように作り笑いを返す。
「……まあ、今度はちゃんと帰ってくるからよ。どんくらい向こうに滞在するかは定かじゃねえけど、まあそう何年も長くいるわけじゃないだろ」
「そのときは本場のフランス料理を覚えて私たちに振る舞ってくれるのでしょうね」
「おいおい、俺に料理作らせたら焦げと生と食えたもんじゃねえ味が出てくるって知ってんだろ?」
「もちろん。本当に作り始めたらみんな総出で止めるわよ。でもまあ……一人暮らしするのなら少しくらい上達して帰ってきてほしいものだけど」
「ははは……まあ、気が向いたらな……」
これもまた痛いところを突かれて笑いで誤魔化すしかできない。なにせフランス語が話せなければ注文すら一苦労だから、嫌でも自炊ができるようにならないといけないって気づいてしまったから。
……紫陽花は綺麗だ。藍のような暗いものからもっと明るい青、薄紫も、赤紫も、どれも梅雨のどんよりした心に癒しと爽やかさをもたらしてくれる気がする。そして、今の心にも。
本当は、不安で胸がいっぱいなんだ。仕事でいかなきゃいけないにしても、フランス語もわからない、外国での作法もわからない俺に果たして何ができるんだろう。いや、なにより……誰も知らない土地に一人で投げ出されたら発狂してしまうまである。
「そうね……ねぇ、ちょっと顔貸してくれないかしら?」
急に視線が遮られる。彼女は俺を見つめながらそう言った。
「ん? いいけど……なんだ?」
「いいから」
せかされるままに近づく──と、
「っ!?」
いきなり唇が塞がれる。それも、彼女の唇で。
温かい──いや、そうじゃない。心地よい──とかいってる場合じゃない。
混乱する頭を正せるわけもなく、状況も呑み込めず、とにかくされるがままでいたら──その唇に温かいものが触れ、さらに割るように入り込んでくる。
それは絹のようになめらかで、でも少しざらついていて、嬲るように舐ってきて、絡みついた唾液がくちゅっと音を鳴らした。
ザァザァと降る雨の音だけが聞こえる。風が木々を揺らす音に時たま水音が混じる。彼女の吐息が鮮明に感じられて──
……ふっと口を塞いでいたものが離れる。彼女は一息ふぅとつくといつも通りの柔らかな笑みを浮かべた。
「ふふっ、どうかしら。
「どうって……いったい……」
いつも通りの口調。いつも通りの語調。きっと耳まで真っ赤な俺とは違って、恥ずかしがっている様も興奮している様も見受けられないけれど。
「小意気な洒落のつもりよ。それとも、お気に召さなかった?」
「……ははっ、なんだそれ。ベーゼかと思ったら意外にも情熱的なもんで」
すこしだけ満足気だった。
傘を開きながら振り返る。濃藍の長い髪がふわりと広がる。雨の向こうの紫陽花を眺めている。
「それじゃあ、せっかくだからフレンチでも食べに行きましょうか。どうせ晩ご飯、食べてないんでしょ?」
振り向きながらくすりと笑う。雨をバックに立った彼女がどうしてか麗しくみえる。
「そりゃまた突拍子もない……まあ、その通りだけどさ」
「もちろん、あなたのおごりでね」
「へっ!? ……まあ、しかたねえ。見送ってくれる礼ってことで手を打ってやる」
「そうなると私だけ得ってことね」
雨は変わらず降っている。けどなんだか弱くなったようにも思える。
くすくすと楽しそうな笑いを浮かべながら彼女は歩き出した。
「それにしてもあなたの初めて、もらっちゃったかしら」
「……さあな。ノーコメントってことにしとくよ」
夏のヨーロッパはよく晴れるらしい。そう思うとさっきまで梅雨のように暗かった気分も今はなんだか晴れ晴れしく感じてくる。
今年の夏も頑張れるような気がした。
お題『フレンチ』にて一本書かせていただきました。こういう数千字の短編とか、現代のワンシーンが舞台の小説とかあまり書いたことがなかったのでなかなか苦労しましたが、お気に召してくれたら幸いです。
よろしければコメントとか書いていただければ嬉しい限りです。では、また他の作品でお会いしましょう。(暁の情痴の後日談はまたいつか・・・)