日常の変化は少なかった。
事務作業をし、トレーニングをやり、挑戦者がいれば試合を受ける。それだけだ。ムツキが元団員達のアフターフォローのために各地を飛び回っているので、スケジュール調整は多少面倒になったか。
数日前に、シルフカンパニーで会った少年が来た。オーキドの孫で、血筋に見合うだけの実力があり、あるいはワタルに届くかもしれないと思えた。刺激的な出来事はそれぐらいだったろう。
変化がないのはあくまでもサカキの周囲に限った話で、世間は天地をひっくり返したような大騒動になっていた。タマムシで壊滅したはずのマフィア組織がヤマブキに姿を現し、世界的企業であるシルフカンパニー本社を襲撃したのだから当然と言えば当然だった。
サカキはリモコンを操作し、テレビの電源を点けた。試合映像を見返す以外には使ってこなかったジムのテレビも、ここ数日はニュース番組ばかりを映している。
報道はひっきりなしに事件を取り上げ、事の全容や責任の所在、今後の見通しなどを侃々諤々に言い合っていた。新聞やワイドショーを流し見しながら、サカキは一つのことを探していた。ロケット団総帥についての報道だ。
老いぼれ犬はロケット団総帥の正体を完全に突き止めているはずだ。自分を逮捕しに来るとすれば、あの喰えない老警部だけだろう。
しかし今のところ、サカキの名が報道に挙がることはなかった。水面下で事が進んでいる気配もない。
自惚れでもなく、警察部隊の包囲なら軽く破れる自信があった。サカキを捕らえるならば、ジムリーダーか四天王を複数人招集しなければならないだろう。その動きを見落とすほどに落ちぶれてはいない。
警察内部で老いぼれ犬の発言力が低いというのはありそうなことだった。本当の意味で組織に馴染むことは決してない男だ。捜査本部の会議が紛糾する中で、サカキの逮捕を強引に推し進めることは難しいだろう。
捜査の手がサカキに伸びるまで、まだ時間があるかもしれない。
そこまで考えて、思考は停止した。
時間があったとして、何をするのか。逃げるべきなのはわかっている。しかしサカキは、ただ普段通りの日常を惰性のまま続けていた。状況は刻一刻と悪化していくにも関わらずの停滞は、思考が停止しているとしか思えなかった。
頭を振って、本棚へ目を向けた。一昨日、ジム別館にあった重要な書籍を全て本館へと移した。ジムトレーナーには整理のためだと言ったが、本当はいずれ警察が押収に来るのを防ぐためだった。別館ならば私物扱いされかねないが、本館の物品は全て協会及び各ジムの公的な持ち物となる。帳簿や目録も細かくつけてあり、サカキ個人への令状では持ち出すことは叶わないはずだ。
ここにあるのはロケット団に一切関係しない、純粋にトレーナーの成長の糧になるものだけだ。警察の押収を対策しておくのは、かろうじて残ったジムリーダーとしての責務だろう。
別館を空っぽにしておきたい自分がいる。そのことに気付かないフリをして、サカキは椅子から立ち上がった。
「リーダー、どちらに?」
「少々町を散策してこようかな」
「それはいい。ここ数日は籠りっきりでしたからね。トレーニング以外は机にかじりついて」
「ムツキ君がいない以上、私が事務作業をするしかあるまい。挑戦者の予定は入っていないね?」
「大丈夫です。ゆっくりしてきてください」
ジムトレーナーの言葉に頷いて、サカキは外へ出た。微かな冷気を伴う風の中で昼の陽光は暖かく、雲のない青空がどこまでも高かった。トキワの町。見慣れた田舎町だが、考えてみればもう見る機会はあまりないのかも知れない。
擦れ違う人々は、サカキを見かけると笑顔で会釈をした。暇を持て余した主婦やバトルに関心を持つ学生などは、立ち止まって言葉を投げ掛けてきたりする。サカキも立ち止まって雑談に応じ、質問や相談にはそれなりの答えを返した。見覚えのある顔が大半だったが、中には記憶にない人間も混じっていた。この田舎町でさえ、人も時間も流れ続けているのだ。見回すと、新しい住宅や店舗などもちらほらと目につく。
「あんなところに家があったかな」
「あれはついこの間建ったものですよ。サカキさんはお忙しいでしょうから知らなくとも無理はありませんわ。お店なんかも、新しくできたものもあれば潰れてしまったところもあって」
そう言って笑った主婦が、いくつかの店を教えてくれた。小料理屋、雑貨店、婦人向けの衣料品店に喫茶店。フレンドリィショップよりもバトルに特化した専門店もできているらしい。どれも個人経営で規模は小さいが、商品やサービスには意欲的な面が見られるようだ。
サカキは礼を言って別れ、しばらく散策してから一軒の店に入った。教えて貰ったばかりの喫茶店だ。
「これは、サカキさん。いらっしゃいませ」
ドアベルの音に反応して新聞から顔を上げた店主が、慌てて立ち上がって頭を下げた。細身の青年だ。顔見知りのトキワの住人で、一度はチャンピオンを目指し旅にも出たはずだ。サカキも片手を挙げて挨拶した。
木製のテーブル二つに椅子が二脚ずつ、テーブルと同じ材質でできたカウンターという小ぢんまりとした店内に客の姿はなかった。人の気配は残っているので、閑古鳥が鳴いているという訳でもなさそうだ。カウンターの端よりのスツールにサカキは腰を降ろした。店主は慣れた動作で軽くテーブルを拭くと、木の実の種子を荒く砕いたものを出した。匂いからして、恐らくオレンだろう。
「うちのコーヒーには合うんですよ、深みのある味でね。さて、どうしましょう?」
「おすすめを頼む。しかし、君の店だったとは」
「最近始めたんですよ。こんなに早くサカキさんをお迎えするとは思いませんでした」
「お父さんは元気かな。子ども達にポケモンの捕まえ方をよく教えてくれていた。本来はジムの人間がその辺りにも気を配るべきだったんだが」
「いつも通り、酒を飲んで酔っぱらってますよ」
店主は快活に笑って、コーヒーの準備に取りかかった。サカキはオレンの種子を一つ噛みながら、その背をなんとなく見やった。ドアベルが鳴った。
「コーヒーを貰えんかね。今作っているものと同じで構わんよ」
入ってきた男は、迷いなくサカキのすぐ隣のスツールに腰掛けた。店主が驚いた顔でオレンの種子を持ってくるのを尻目に、男はこちらを向いた。
「奇遇じゃのう、サカキ君」
サカキは苦笑いした。
「トキワにいらしているとは存じませんでしたよ、オーキド博士」
「マサラタウンはなにかと不便での。トキワのフレンドリィショップに色々便宜を図ってもらっておる。必要な機材を取り寄せて貰ったりとな」
「博士自ら受け取りに?」
「以前は孫に任せておったが、今は忙しいじゃろうからのう」
「グリーン君ですか。この間、私のジムにも来ましたよ。ワタル君に届き得る才ですね、あれは」
「身内贔屓かもしれんが、チャンピオンになれると思うておるよ。もっとも、短い天下じゃろうが」
オーキドがちょっと寂しそうに笑った。不意に芳ばしい香りが立ち昇り、コーヒカップを載せたお盆を持った店主が緊張した面持ちで後ろに立った。
「豆の表面や割れ目に残った薄皮を、ピンセットで一つ一つ取り除いてから挽いています。蒸らしにも工夫があって、雑味のないクリアな味わいに仕上げています」
説明とともに配膳されたコーヒーを手に取り、香りを味わい、口に含んだ。豊かな風味、という訳ではなかった。むしろさらりとした苦味が、仄かな酸味を携えているようなシンプルな味だ。一口飲み干してから、オレンの種子を齧る。こちらは豊かな味わいをしている。再びコーヒーを飲む。組み合わせが抜群に上手かった。
「旨いな、これは」
オーキドの呟きに、サカキも頷いた。店主は顔を綻ばせると、頭を下げてカウンターの向こうへ行き、サカキ達の対角に腰を降ろしてなにか機械をいじり始めた。しばらくすると店内に低い、穏やかな曲調の音楽が流れだした。ボリュームは抑えられていて、隣同士で話をする分にはちょうど良い。気を利かせたのだろう。サカキはカウンターに肘を付いて、曲に耳を澄ませる素振りをした。
巧い手を考えたものだ。呟きは、心の中でのことだった。
サカキを捕らえるならば四天王かジムリーダーを動員する筈で、そちらの方には充分注意を払っていた。僅かな動きも見落とさないよう注視していたのだ。むざむざとトキワに接近されるなどありえなかっただろう。
オーキド・ユキナリを動かす手は正に盲点だった。
サカキの少年時代、オーキドのガルーラは最強の象徴だった。今なお四天王に君臨するキクコさえも、オーキドとガルーラのコンビには常に後手を踏まされていたものだ。
母親が攻撃する間にお腹の子どもが変化技を使う。海外をヒントに会得したというその反則染みた戦法は、特に接近戦で無類の強さを誇った。まともに受けきれたのはゴーストタイプの使い手であるキクコだけだ。
第一線を退いてから長い時が経っている。ニドキングが負けることはないだろうが、それも通常の位置関係での話だ。この距離ならばガルーラがサカキの躰を抑える方がずっと速いだろう。
ガルーラの初撃をサカキが躱せるか。分が悪い賭けだが、分が悪いだけでしかないとも言えた。不可能と思えるような賭けをしなければならないことも、勝負の世界には度々ある。
「どうやって儂に勝とうか、計算しておるなぁ」
眼を閉じて、音楽に聞き惚れているような緊張感のない表情のままオーキドが言った。
「これは失礼しました。どうにも、性のようなもので」
「トレーナーの性じゃな。外道に堕ちた者ならば、もっと違うことを考える」
「なんです、それは?」
「この老いぼれの首根っこを抑えるとかじゃな。誉められる手段ではないが、一番手っ取り早い。しかし君はそうせんかったのう。まだ、腐ってはいないようじゃ」
「なるほど。そういう手もありますか」
「君が外道に堕ちているのならば、儂のような年寄りが引導を渡さねばと思っておった。若者に任せるのは酷じゃからな。しかし、その必要もなさそうじゃのう」
「博士は警察の要請で来たのでは?」
「君は人を過大評価しすぎるな。こんな老いぼれなど、警察連中は思い出しもせんよ。儂は、儂の意思でここに来ただけじゃ」
「引導を渡しにですか」
「そうなるかもしれん、と思うておった。そうでなければ、懺悔にでも付き合って貰おうかと考えて来たが」
「懺悔?」
「秘密を墓場まで持っていくというのは中々難しいもんじゃ。誰かに聞いて欲しいという気持ちはどうしても出てくる。かといって、親しい者に言う訳にもいかん。神父という柄でもないしのう」
「それで私に、というのもどうかと思いますが」
「適任じゃろう。これから君はお尋ね者になり、全ての信用を失う。君の口からどんな内容が洩れても誰も信じまいよ」
オーキドが眼を開き、揶揄するようにサカキを流し見た。
「やはり、私のことはご存知でしたか」
「フジは古い友人でな。あれはバトルはからきしじゃが、見る目は肥えておる。フジから見ても相当な手練れのペルシアン使いがいると聞いて訝しんではおったのじゃ。あれほど気難しいポケモンを縦横に従えるトレーナーはそうはおらん。確信したのはレッドからシルフカンパニーでのことを聞いてからじゃが」
「そこまでわかっていて懺悔とは酔狂なことだ。まあ、私で良ければ聴きましょう」
コーヒーを飲み、オレンの種子を一つ口に放り込んだ。ムツキ辺りならば、細かい感想が出るのだろう。淹れ方なども推測できるかもしれない。サカキはただ、旨いと思うだけだった。
オーキドはなにかを噛み締めるように、数秒口を噤んだ。音楽がゆったりと流れている。それが途切れ、再び頭から流れ始めた。
「儂が今行っている研究は知っているかね」
「ポケモン図鑑でしょう。取り上げた記事を見ましたよ。記事は批判的な論調でしたが、ああいった事業を個人で行うというのは大変なことだと思いますよ」
「そのポケモン図鑑じゃが、一体何種類のポケモンを記録するかは?」
「それこそ批判の中心でしたよ。百五十一種類。少なすぎる、というのが世間の反応のようですね」
「儂は気にしておらん。というより、儂にとって必要なのがその程度の数だったというだけじゃ。なんなら、もう少し減らしても良かった」
「必要な数、ですか」
「内訳までは知らんじゃろう。カントー地方で頻繁に見られる百四十九種類に幻のポケモンであるミュウ、それからホウオウじゃよ」
思わず、サカキはオーキドに顔を向けた。
「ホウオウ?あれはジョウトの伝説では?」
「マサラタウンでは昔からホウオウの言い伝えがあってな。偉大なトレーナーが旅立つ日には、ホウオウが門出を祝いに来るというのじゃ。恥を恐れず言えば、儂も旅立ちの日にはそれらしい鳥ポケモンを見た。何十年も前の話じゃが」
「博士が見たというのであれば、あながちただの言い伝えという訳でもないのでしょう。それでホウオウを」
「しかし儂は、ホウオウが見つかるとは思っておらん。ミュウもな。片や他地方の伝説、片や幻とあっては出会うことすらままならんじゃろう」
「ではなぜその二匹を図鑑に?」
「そこが懺悔じゃよ。あるいは君ほどの知恵者ならば、推測できるのではないかな?」
「これはまた無理難題を」
「ミュウは見つからん。見つからんが、見つかる。そういうことじゃな。ホウオウの方はあくまでカモフラージュとして入れただけじゃ」
謎かけを残して、オーキドはコーヒーを呷った。答えを言う気はなさそうで、呑気に流れている曲に相槌などを打っている。
見つからないが、見つかる。それだけならば訳がわからなかっただろう。ただ一つ、サカキには引っ掛かっていることがあった。オーキドの孫であるグリーンがシルフカンパニーにいたことだ。
「フジ老人は古い友人だと言いましたね」
「歳は向こうがずいぶんと上じゃがな。儂が研究の道を志したのは、ナナカマドとフジという二人の影響じゃった。幾度も頼り、助けて貰ったものじゃ。友人であり、恩人でもある。考えようによっては師とも言えるかもしれん」
「そうですか」
スツールを回し、オーキドに向き直った。オーキドはちらりとサカキを横目に見て、それから天井を見上げた。音楽は続いている。赤を散りばめたステンドグラスの窓から射し込む光が、音に乗せられたように慎ましく乱反射している。
「ミュウツーを、ミュウにしてしまうつもりだったのですね、オーキド博士」
オーキドが喉をくつくつと鳴らしながら、お見事、と笑った。乱反射した光が、カウンターの上に手の形の影を落としていた。骨ばった手の甲の形が、赤に縁取られてくっきりとしている。
「それほどに、フジ老人はミュウツーの存在を気に病んでいたのですか」
「見ておられんかったよ。儂が若い時分にはあれこれと世話を焼いてくれたが、決して自分で研究に携わろうとはしなかった。どこかに、強烈な自己否定を抱えておった。その原因が戦時中に生み出された人工ポケモンにあると知ったのはずっと後のことじゃ」
「そこで、ミュウツーというフジ老人の汚点を消し去ろうと考えた。ミュウにしてしまうことで」
「ミュウの本当の姿など、現代では誰にもわからんよ。文献に残っている内容と差異があったとしてもそういう適応、進化があったと思うのが普通じゃろう。今ならば、ミュウツーはミュウとして世に出ることができる」
「それで、フジ老人の気は晴れるのでしょうか」
「晴れんじゃろう。だからこれは、儂の自己満足でしかないよ」
コーヒーの湯気がか細くなっていた。口をつける。温度が下がった分、味の透明度は更に増していた。頭の中で、色々なことが浮かんでは消えた。
「グリーン君がシルフカンパニーにいたのはやはり」
「君達と同じじゃよ。正確には、もっと前から君達と同じ動きをしておった」
「もっと前?」
「ハナダ北部でハナダの洞窟のデータを取り、シオンタウンでフジに確認して貰う。そしてシルフカンパニーへと向かい、新開発のボールをなんとか譲り受けミュウツーを捕獲する。それが儂の計画じゃった。大まかにじゃがな。ところが、ハナダとシオンで儂らよりも先に騒動を起こしている連中がいた。あの時は驚いたもんじゃ。ロケット団の狙いも、そこでなんとなく読めた」
「我々は、意図せず先回りをしていたのですね。動いていたのはレッド君とグリーン君ですか?」
「グリーンだけじゃよ。こんなことは身内にしか頼めん。レッドは純粋に図鑑完成を目指して旅をしているだけじゃ。ロケット団を見かけたら蹴散らしておいて欲しい、とは頼んだがの」
「それでタマムシのアジトに」
「あれは儂にも想定外のことじゃった。レッドの向こう見ずな強さじゃな。あとはどうやら、タマムシの刑事が背後にいたようじゃが」
「タカギ警部。老いぼれ犬と呼ばれる、タマムシ警察の腕っこきですよ。曲者というのがぴったりな男です」
「その腕っこきには感謝せねばなるまいな。おかげで、グリーンは初めて君達に先んじて行動することができた。シルフカンパニーへたどり着き、そして」
「そこにはなにもなかった。少なくとも、博士や我々の希望に沿うものは」
オーキドがゆっくりと頷いた。
「あるいは儂が真に一途な探究心から図鑑を作っていたのであれば、交渉の余地もあったかもしれん。ボールがただ一つだけであり、量産に失敗していることを知ったグリーンは交渉を諦めたよ。会長に交渉するしかなかったが、儂の計画を知っているグリーンでは誠意を持って相対することはできんかった」
「シルフ会長は鋭い人でしたよ。邪念があればすぐ悟られたでしょう」
「じゃろうな」
曲は続いている。心の芯を弛めようとするような、生暖かく柔らかい音楽だ。低音が揺蕩い、時折主張する鍵盤楽器の音が空間を丸くしている。粘土のように間延びした弦楽器の震える音が、人を包み込もうとしてくる。優しい奏。不意にサカキは、その音楽を聴いているのが嫌になってきた。
「老いましたね、オーキド博士」
オーキドは一瞬口を結び、それからコーヒーを飲んだ。再び見えた口元は、苦く歪んでいた。刻まれた皺が数本深く走り、自嘲の影を色濃く落としていた。
「やはりそうかのう。これでは懺悔でなく傷の舐め合いではないか、と自分でも感じていたところじゃ。知らずに、慰めなんぞを欲しておったのか、儂は」
「いつからそんな計画を考えていたのですか?」
「わからん。ミュウツーの存在を知った時には、ぼんやりと頭の中にあったという気がする。二十年というところかな」
「二十年後ならば、まだ博士は生きているでしょう」
「酷なことを言うのう、君は。戦い続けろ、と言っているようなもんじゃぞ」
「そう言っているのですよ」
立ち上がり、サカキはレジへと向かった。店主が頭を下げ、恐縮しながらお金を受け取った。
「旨かったよ。ただ、もう少し明るい音楽も入れてくれると助かる」
再び頭を下げる店主に笑いかけて店を出ようとしたサカキを、オーキドが手招きした。表情から自嘲の色は消え去っている。好好爺というにはいささか若々しい笑みで、一瞬見えた弱さは拭い去られていた。サカキの知っているオーキドの顔だ。
「ジムに行ってみてくれんか。あの子が待っておる。儂の勝手な想像じゃが、君もあの子を待っていたのではないかと思っておるよ」
返答しようとして、一瞬サカキは言葉に詰まった。
待っていた。待つ理由などなにもなかったが、確かに自分はレッドを待っていた。オーキドの言葉を聞いた瞬間に、はっきりとそれがサカキにはわかった。あのシルフカンパニーで戦った少年ともう一度相見えることをどこかで心待ちにしていた。
奇妙なものだ。呟いた。因縁、ということだろうか。
頷いて背を向けたところで、一つお節介を思い付いて振り向いた。
「図鑑は修正した方が良い、と思いますよ。あの少年ならばあるいは、本当にミュウと出会うこともあるかもしれない」
そうなれば、ミュウツーをミュウにするなどどの道できなくなる。それにレッドがチャンピオンになれば、ミュウツーと会うこともあり得なくはない。ミュウとミュウツーが同時に記録されることも可能性としてはあるのだ。
オーキドは困ったように頷いた。
「君もそう思うか。実は、それがここしばらくの悩みの種じゃった」
嬉しい悩みじゃがの。そう笑うオーキドは、研究者の顔をしていた。